泣けないリリと笑えないロロは。
城下にはきらびやかな貴族の屋敷が立ち並ぶ区画がある。その区画の一番南端にあるのが、リリが一ヵ月ほど前からメイドとして勤め始めた屋敷だ。貴族の屋敷にしては飾り気も無い簡素な屋敷はその中ではある意味目立っていた。
この屋敷の主人はロロという名の騎士だ。戦功として男爵位を与えられた年若い彼は、この住宅街に屋敷を構えたものの、その後も戦場に赴くことが多くあまり家にいない。
だが、ロロの評判は働き始めてまもないリリの耳にも聞こえてくる。みな口をそろえて「彼は冷酷だ」「全く笑いもせず、敵を見るような目でこちらを睨みつけてくる」と語る。
だからリリはあえてこの屋敷にメイドの職を求めた。仕事にありつきやすいだろうと踏んだのだ。
「しかし、あんたも物好きだね。にこにこかわいい顔して見た目も良いんだから、メイドじゃなくて役者とか、人目につくところにいたらどこかのお貴族様のお気に入りにでもなれたかもしれないよ」
必要最小限の掃除道具しか置かれていない物置で、リリは先輩メイドのファシアに話しかけられた。ファシアの言葉にビクリと肩を震わせ、リリの動きが一瞬止まる。
彼女が言うようにリリの容姿は舞台役者をしていた亡き両親に良く似ている。父に似たすらりとした体形に金色の巻き毛、母に似た丸い瞳と小さな鼻。そして形の良い唇はいつも幸せそうに弧を描いている。容姿だけを見ればかわいらしい部類に入るだろう。そのせいか、少女時代には何度か嫌味を言われたことがある。
そういった経緯があるのだ。リリがまさか……、と思ってしまったのも仕方ないだろう。おそるおそるファシアを振り返ったリリの目は、彼女の心配そうな瞳をとらえた。その瞳にリリをからかおうとか、嫌がらせようという思いはなさそうだ。リリは密かに胸を撫で下ろした。
「もしそうなっても、私はきっとすぐに捨てられますよ。だって私には『これ』があるんですもの」
そう答え、リリは自分の顔に浮かぶ微笑みを指さした。満開の花が咲き誇るような笑顔だ。何も知らない人がリリを見れば、さぞかし喜ばしいことがあったのかと思うだろう。だがファシアはリリの笑顔を前に気づかわしげに眉を寄せるばかりだ。少しでも場を取り繕おうと、リリは身振りを交えて続けた。
「両親が亡くなる悲惨な事故を見たのに笑うことしかできなくなった薄情な娘なんて、誰も近くに置きたくありませんよ。私はここで雇ってもらえただけで、十分幸せです」
リリの両親は舞台装置の事故に巻き込まれて亡くなった。
当時は新聞に載るほどの大事故で、娘をかばって亡くなった両親の最期は美談として語られることが多かった。しかし残されたリリの姿に、多くの人々は眉をひそめた。
両親を失い、悲しみにくれているはずのリリの顔にはいつも笑顔が浮かんでいたのだから。
――両親が死んで喜ぶなんて、あの子には人の心はないのか。
――泣かないどころか、笑ったままなんて不気味すぎる。
リリを憐れんで寄って来た人々はあっという間に離れ、親戚でさえリリを不気味がった。そうしてリリは孤児院で十六歳になるまで過ごすことになったのだ。
親切な孤児院のシスターが医者に診せてくれたおかげで、今でこそリリの笑顔が事故を目撃したショックが原因だとわかっている。だが、リリが人と一線をおいて付き合うようになった理由としては余りある。
「まあ、あんたの良さに気づいてくれる人はきっといるさ。それに、うちのご主人様はあんたとは正反対で冷たい顔しか見せないからね、あたしはあんたと働けるのは嬉しく思ってるよ。なにより新入りが働き者なのはありがたいもんさ」
「ありがとうございます……。そう言えば、今日は三ヵ月ぶりにご主人様がご帰宅なさるし、いつもより丁寧にしなくてはならないんですよね? 急いでお掃除しないと!」
ファシアの率直な言葉に、リリは笑みを浮かべながらもあからさまに目をそらし、話を打ち切るべく掃除用具を手に取った。
同僚からの素直な評価は嬉しい。しかしリリにはそんな価値はないのだ。
この「笑顔」がある限り……。
「――お帰りなさいませ、ご主人様」
「お帰りなさいませ」
二重あごを揺らし声を上げた執事に合わせるように、エントランスホールに並んだ使用人たちの声が響く。一斉に頭を下げた使用人たちに倣い、リリも頭を下げた。
「ああ、留守の間よく勤めてくれたな。ご苦労だった」
自分のつま先に視線を落としたリリの耳に、落ち着いた低い声が届く。この家の主人、ロロの声だ。執事とロロが会話を交わしている間、リリたちは頭を下げ続けなければならない。主人がいる間に頭を上げるのは無作法なのだ。
普段からこの執事は礼儀作法に厳しい。メイドたちの立ち居振る舞いにも目を光らせ、もしマナー違反が見つかれば食事抜きという仕置きが待っている。リリもこれまで何度も食事抜きを経験している。空腹で眠れない夜の虚しさはできれば体験したくない。
(ご主人様は厳格な方というから、失礼がないようにしないと。こんなに働いたのに食事なしなんて、絶対に耐えられないわ)
リリは緊張感を持ってつま先を見つめ続けた。しかし、隣から囁きかける者がいた。
「……ねえ、リリ」
声をかけてきたのは、先ほどまで一緒に掃除をしていたファシアだ。ちらっと横目を向けると、ファシアのいたずらそうな視線とかち合う。
「あんた、ご主人様の出征中に雇われたから、ご主人様の顔見たことないだろ? 一瞬顔上げて、顔見ておきな。いつもムッとした顔だけど、かなりいい男だから目の保養になるよ」
「そんな……。見つかったらこっぴどく怒られますよ」
「大丈夫だって。執事様は大事なご主人様に夢中なんだから」
残念ながら、ファシアの促しを断れるほど図太い神経をリリは持っていなかった。この家で働くメイドはリリを入れて五人。その中でもっとも幅を利かせているのがファシアだ。彼女はリリをかわいがってくれているものの、リリはまだファシアの腹の内を探り切れていない。
(ファシアさんが良かれと思って促してくれたことを。ここで断るのは悪手よね……。生意気だと思われて、関係が拗れちゃうかもしれないわ。それにさっきの掃除の時は素っ気ない返事しちゃったし、少しだけ悪いことした気もする。ご主人様の顔を見たふりして、適当に話を合わせておけばいいかしら)
リリはそこまで考え、一瞬だけ顔をあげて見たふりをすることにした。
(一瞬よ……、一瞬顔を上げて――)
「……それと、ご主人様のご不在の間に新たなメイドが増えまして――」
――バチッ!
そんな音が聞こえたような気がした。
リリが上目遣いに視線を向けた向けた瞬間、執事の紹介で導かれたロロの視線とぶつかったのだ。
「――っ!」
「……彼女か」
一瞬見えたロロは精悍な青年だった。年の頃はリリよりも十歳ほど上だろうか。上背があり、騎士だけあってがっしりとしつつも無駄なく引き締まった体つきだ。くすんだ灰色の髪を戦場で整えることは難しかったのだろう。伸ばしたままになった髪の隙間から覗く瞳は鋭く、睨まれれば固まってしまうかもしれない。
(まずい、目が合っちゃった……!)
だがそこで固まらずに済んだリリは慌てて目を再び伏せたものの、時すでに遅し。ロロとリリの視線が交わったことに執事も気づいてしまった。
「リリ! ご主人様のお許しもないのに顔を上げるとは、なんという無礼! 失礼いたしました、ご主人様」
「申し訳ございませんっ!」
リリは自らのお腹を見る程に深く頭を下げた。しかし執事の怒りは収まらなかったようだ。ドスドスと音を立てて近づいて来るなり、リリの身体を強く押して地面に膝をつかせた。
「――っきゃ!?」
不意に加えられた力に耐えられず、リリは小さく悲鳴を上げて床に膝をついた。周りからも息を飲む音が聞こえてくる。
「ご主人様の前にも関わらず、礼儀がなっていないだろう! 今すぐ床に額をつけて詫びなさい」
「も、申し訳ございませんでした……」
言われるがまま床に額を擦りつけるように、リリは謝罪の言葉を口にした。執事はよくこの姿勢で謝らせる。何度経験してもこの恰好は屈辱的だ。しかも初対面のロロの前だということが、より一層羞恥心と屈辱感を際立たせる。リリが泣きそうな気持ちになっていると、思いもよらぬところから助け舟が出された。
「止めろ。今すぐ立つんだ。罪人でもないのに、そのように謝る必要はない」
割って入ったのはロロの声だ。先ほどの落ち着いた声にわずかに怒りが込められている。そうこうしているうちにグイっと腕が持ち上げられ、リリはされるがままに立ち上がった。
ふ、と顔を上げると、そこには髪の隙間から覗く暗く澱んだ沼の底のような深緑の瞳があった。そしてその瞳の中に映る自分の顔に気づき、リリは今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちに襲われた。ロロの瞳に映ったリリの顔は、心から楽しそうに笑っていたからだ。
「……なんだ、何がおかしい」
ロロの顔が歪む。案の定、リリの笑顔にロロが不快感を示した。リリの笑顔の理由を執事は彼に説明していないのだろう。
「あの、私……」
説明しようとすると、さらに口角が上がっていく。身体はガチガチに固まり、背中や脇の下にはびっしょり汗に濡れている。しかし顔だけは笑みを崩せなかった。
リリを見つめるロロの顔にに浮かんだ不快感は、徐々に嫌悪感に変わっていったようだ。突き放すようにリリの腕から手を離したロロは、吐き捨てるように言った。
「そうか、お前はそんなに私の顔が面白いか。笑顔を失った、私のこの顔が……!」
――――――
その夜、お腹を鳴らすリリの枕元にこっそりやって来たのはファシアだった。
「昼間は悪かったねぇ。ほら、夕飯のパンを少し取っておいたんだ。おあがりよ」
その言葉と共に、紙に包んだパンがリリに差し出された。リリは慌てて起き上がりながら、彼女に礼を告げた。まさかファシアがそこまでしてくれるとは……。予想外の出来事に驚いたリリの顔にはパッと笑顔が輝いた。
「いいんですか? ありがとうございます、実はお腹がすいて眠れなくて……」
「ああ。良かれと思ったことだったんだけど、私の考えが浅かったよ。本当にごめんよ」
「いいえ、見ようと思ったのは私が決めたことですもの。パン、ありがたくいただきますね」
結局、リリは執事によって食事抜きにされた。へとへとになるまでこき使われ、ようやくベッドにたどり着いたものの空腹で眠れずにいたのだ。すでに乾いてしまったパンは固かったが、今のリリにはごちそうである。
「しかし、ご主人様もあんなに怒ることないだろうに……。だけど『笑顔を失った』って、どういう意味なんだろうねぇ。あたしも初めて聞いたよ」
「……そうですね」
リリのベッドに腰掛けたファシアはそう呟き、不思議そうにしている。固いパンを噛み締めながらリリは頷いた。
(もうご主人様の前には極力顔を出さないようにしないと。初対面で理由も聞かずに批判するお方ですもの、何を言っても聞いてくれるわけないわ)
リリはパンを飲み下しながら、ロロの冷たい表情を思い出した。本当なら渋い木の実を食べた時のような表情になっていたはずだが、リリの顔には相変わらず楽しそうな笑顔が浮かんでいた。
帰還後のロロは、しばらく屋敷で過ごせるようだった。毎朝早くから中庭で鍛錬し、その後城の騎士団に顔を出す。夕方になれば帰宅し、たまに夜会に行く日以外は夜が更ける前に寝室に向かう。規則正しい、お手本のような生活だった。
リリはあの日以来、ロロと直接会話をすることはなかった。すれ違いざまに不快そうな視線を向けられることはあるが、リリは頭を下げているので気づかない振りをしていればいいだけだった。
ある夜の事だ。ふと目を覚ましたリリは、隣の部屋からうめき声が聞こえてくることに気が付いた。隣はファシアの部屋だ。耳をすませても、それはいびきなどではなかった。苦しそうにうめき、時折誰かに助けを求めるような声が聞こえてくるのだ。
「ファシアさん、失礼しますね。どうかしましたか?」
リリが何度ノックをしても返事がないので勝手に部屋のドアを開けた。するとリリの目に飛び込んできたのは、床にうずくまりうなっているファシアの姿だった。
「ファシアさん! どうしたんですか!」
「リ、リリかい……? 腹が、腹が痛くて……」
「待っていてください! 今、お医者様を呼んでもらえるように頼んできます!」
脂汗をにじませながら訴えるファシアをベッドに寝かせると、リリは他のメイドを起こしつつ、執事の元に飛んで行った。医者を呼ぶには執事に頼み、使いを出してもらう必要があるのだ。
だが後から聞いたことだが、その晩執事は酒を飲み、深く寝入ってしまっていたそうだ。リリがいくら部屋のドアを強く叩き、大声で呼びかけても何も返って来なかった。
(こうなったら、私がお医者様の元に走った方が早いかもしれないわ……)
明かりの無い夜道を女性一人で走るのは危険だ。だが苦しんでいるファシアをそのままにしてはおけない。リリが覚悟を決めたその時だった。
「こんな夜中に何を騒いでいる」
「……ご主人様」
リリの背後に少し掠れた低い声が投げかけられた。ロロだ。
寝間着にガウンを羽織った姿の彼は相変わらず冷たい眼差しをリリに向けているが、それでも今のリリには闇の中に差した一筋の光だった。
「――っ、ご主人様! お願いが……」
「止めろ。近づくんじゃない」
だがリリが思っていた以上に、彼の拒否感は大きなものだったらしい。厳しい声で制止され、リリは思わず口をつぐんだ。
「そんな寝間着姿のまま、いくら執事とあれど男の元を訪れるなど許されん。しかも主人の前でも態度を変えないとは、いい加減に恥を知れ」
「ちがうんです! ファシアさんが……」
確かに慌てて飛び出してきたリリは寝間着姿だった。確かにこんな姿で男性の元を訪ねるなど、非常識であり、誘惑していると思われかねない。だがリリも必死だ。少しでも早く医者を呼んでもらう必要がある。
しかし皮肉にもリリのその必死な姿が、ロロの頑なな態度をさらに強めることになってしまった。あまりにも焦っていたリリは、自分の厄介な症状をすっかり忘れてしまっていたのだ。
「何が違うんだ。そのように笑ってごまかそうとするなど、貴様の腐った性根が透けて見える。そんなメイドはこの家にはいらない。すぐに出て行ってもらおう」
「待ってください! 話をきいて――!」
そう、こんな緊急事態にも関わらず、リリの顔には相変わらず笑顔が浮かんでいたのだ。必死になればなるほど、リリの笑みも濃くなる。ロロは鼻で笑い、何の感情も籠らない声で淡々と告げた。
「そうやって誘惑しようとしても無駄だ。おい。このメイドをつまみ出せ」
「っ、ちが……! お願いします、お医者様を! ファシアさんが大変なの!」
「うるさい、嘘もいい加減にしろ! 大変だというなら、なぜお前は笑っているんだ!」
リリの訴えも空しく、従僕たちに抱えられたリリは屋敷の外に着の身着のままで追い出されてしまった。
「二度とその顔を見せるな!」
「ご主人様!」
悲痛な叫びを断ち切るように、リリの目の前で音を立てて扉が閉められた。ぽつんと寝間着のまま締め出されたリリを包むのは絶望だ。乱れた金色の髪が夜風に揺れる。
(どうしよう……このままじゃファシアさんが)
ファシアは医者を呼んでくると言ったリリを信じ、苦しみながら待っているだろう。他のメイドが戻って来ないリリに気づき、どうにかして医者を手配してくれるかもしれない。だけど……。
(それまで待っていたら、ファシアさんの体調が悪化するかもしれない。私に出来るのは……)
覚悟を決めると、リリの顔には満面の笑みが浮かんだ。ロロが言うように大事な時ほど笑顔になってしまう自分が悲しい。ここに来て、これほど笑顔が仇になってしまうとは思わなかった。
リリは目の前で閉まった扉をジッと見つめると、やがて寝間着のまま夜の町へと駆け出した。
――――
それから半月後、だんだんと太陽が強く差し込むようになっているものの、外で過ごすにはちょうど良い季節になっていた。リリの姿は小さな村の教会にあった。この教会は孤児院も兼ねており、両親を失ったリリの育った場所でもある。
あの夜、ロロの屋敷を追い出されたリリは医者の元へと走った。医者は寝間着姿のリリに驚き、外套を貸してくれただけでなく、リリの話を信じて男爵家へと走ってくれた。
だが、その後のことは知らない。リリは男爵家へ向かう医者を見送ると、そのまま教会に戻ったからだ。
「リリ姉ちゃん、髪結ってよ」
「待てってば! 俺が本を読んでもらうのが先だ!」
「あー、はいはい。順番は守りましょうね。まずは本読みが先よ」
喧嘩になりそうな子どもたちをリリはにこやかにいなし、日差しを避けるように木の下に座った。子どもたちもリリの隣を取り合うように、ぎゅうぎゅうと並んで座る。その光景がただただ微笑ましくて、リリは目を細めた。
(あの日、明るくなってから私を見つけたシスターは腰を抜かすほど驚いていたっけ。でも、シスターも子どもたちも、こんな風に温かく迎え入れてくれて良かった。ここではいくら笑顔でいても責められることないもの……)
教会に併設されているこの孤児院には、幼児から十代前半の八人が暮らしている。一か月半前まで一緒に暮らしていたリリの「笑顔」の理由を、子どもたちはよく知っている。そしてリリの本心は表情だけでは汲み取れないことも――。
育ての親ともいえるシスターも同様だ。どれだけリリが「笑顔」で苦しんできたかも知っているので、寝間着姿で追い出されたリリの事情を聞いて、怒りながらもリリの気持ちに寄り添ってくれた。
『リリはよくやったわ。だって私のように怒らず、冷静にお医者様を呼んだんだもの。それに確かに寝間着で人前に出るのはマナー違反だけど、男爵様はそれ以上にあなたの笑顔が気になったようね。あなたの笑顔にはきっと見る人の心を揺さぶる何かがあるのよ』
『気になるんじゃなくて、気に入らないの間違いよ、シスター』
笑顔にも関わらず不貞腐れた声で答えるリリの髪を柔らかく撫でながら、シスターはにっこりと微笑んだ。
『いいえ、リリ。きっと男爵様も何か心の中で動くものがあったから、それほど感情を露わにしたのだと思うわ。全ては神様の思し召し。いずれリリにも男爵様にも、今回の出来事が意味を持つ日が来るわ』
『……そうね。過ぎたこととして、また新しい勤め先を探すわ。いつまでも出戻り娘のままではいられないもの』
――と答えはしたものの、だ。ふとした瞬間にリリの胸によぎるのはファシアの容体、そしてロロのことだ。
(せめてファシアさんがどうなったのかだけでも聞いてから来ればよかった。それにご主人様もどうしてちゃんと話を聞いてくれなかったのかしら。まあ、勘違いされるような恰好だった私も悪いんだけど……)
しかし気になりはするものの、リリにそれを知る術はない。もしファシアに手紙を出しても、きっと執事が本人には渡さないだろう。
「まああれこれ考えても仕方ないわね。もう私にはどうしようもないんだもの」
「リリ姉ちゃん何ブツブツ言ってんの? ――あっ、シスターだ!」
「シスター、こっちこっち! 今リリ姉ちゃんに本を読んでもらっていたのよ」
すっかり考え込んでいたリリは、子ども達の声にハッと顔を上げた。そこには黒い修道服に身を包んだ戸惑い顔のシスター、そしてその後ろに見慣れぬ白い騎士服に身を包んだ男性が立っていた。
「リリ、あなたにお客様よ。子どもたちは男爵様に頂いたお菓子があるから、こちらへいらっしゃい」
「お菓子?! やったー!」
「あっ、みんな……!」
シスターの言葉を聞くなり、リリの周りに群がっていた子どもたちは歓声を上げながらあっという間に建物の中に走って行ってしまった。
その場に残されたのはリリと、「男爵様」と呼ばれた騎士服の男性――ロロだった。丈の長い白い騎士服は、王家直属の騎士が身につけるものだと聞いたことがある。くすんだ灰色の髪は顔を隠さないように中心でわけられており、リリは彼の整った顔立ちを半ば初めてまじまじ目にすることとなった。
「ご、主人様……?」
リリが戸惑い混じりに彼を呼ぶと、ロロは胸に手を当てて軽く頭を下げた。騎士の挨拶だ。相変わらず表情は硬いが、まさかそんな礼儀正しい態度を取られるとは……。あの夜、リリを追い出した時の彼とは全く異なる雰囲気にリリは混乱しつつも、にこやかに笑顔を返し、深々と頭を下げた。
「急にすまない」
「いいえ。わざわざこんなところまで、どうなさいましたか」
子どもたちが大騒ぎしていた先ほどまでとは打って変わり、静かになった庭にロロの静かな声が落ちた。だが穏やかな陽気には似つかわしくないロロの険しい表情に、リリは自分が何を求められているのか全く見当がつかなかった。
(もしかしたらあの晩の私の態度が気に入らなくて、しっかり罰そうと連れ戻しに来たとか……。いや、それ以外に何か、旦那様が私に用事があるとすれば……もしかして、ファシアさん――)
そこまで考えてハッと気づいたリリがロロの顔を見ると、暗い瞳がリリに向けられていた。
「今日は君に謝りに来たんだ」
「謝りに?」
「リリ嬢。あの日は大変申し訳ない事をした。許してもらおうとは思わないが、謝罪をさせてほしい。本当にすまなかった」
「えっ! や、止めてください。私、何も――」
予想外のロロの反応にリリは驚いた。あたふたするリリの顔には、まるで彼の謝罪を心から喜んでいるような笑顔が浮かんでいる。だがリリの満面の笑みを見ても、今日のロロが怒り出すことは無かった。頭を上げたロロは正面からリリの笑顔をとらえ、ゆっくりと誰でもない、自分に言い聞かせるよう語り始めた。
「あの晩……、君のおかげでファシアが一命を取り留めた。君が医者を呼んでくれず、朝まであのままだったらかなり危なかったと言われた」
話によれば、医者が男爵家を訪れた時、ちょうどロロが他のメイドからファシアの体調不良を知らされた所だったそうだ。リリが声をかけたメイドたちはリリが戻ってくるのを待っていたものの、あまりにもファシアが苦しそうなので、見かねて執事の元に行ったらしい。しかしまだ眠り込んでいた執事が出てくることはなく、リリの時と同じように不審がって顔を出したロロに出会ったということだ。
「医者によれば臓物の一部がねじれていたらしい。これほどならよほど苦しかっただろうと……。なぜ異変にすぐ気づかなかったのかと言われ、答えることが出来なかった……。雇い主として、心から反省している」
そう言ってロロは目を伏せた。執事もファシアの様子だけでなく、呼び声に気づけなかったことを深く反省し、それ以来酒を自ら禁じているそうだ。
だがロロが反省しようが、執事が禁酒しようが、そんなことリリにはどうでもよかった。ファシアの命が助かったことを知れただけで、心にのしかかっていた重しがスッと飛んでいったようだった。
「良かった……。ファシアさんは助かったんですね。本当に良かった」
そう呟くリリの顔に浮かぶのは心からの笑顔だ。あの晩、話を聞いてくれなかったロロへの疑問は残っているが、ファシアが助かったのなら心置きなく次に進める。
(それなら私も気持ちを切り替えて、新しい勤め先を探さないと。またメイドとして雇ってもらえるところはあるかしら。できれば孤児院のお手伝いをしながら勤められるといいんだけど……)
だが再就職先へと思いを馳せるリリに、戸惑い気味に声がかけられた。ロロだ。
「……一つ、教えてほしいのだが君はどうしていつも笑っているんだ。あの晩もそうだ。私は君が笑ってその場をやり過ごそうとしているのだと思ってしまった。あのような場面なら、もっと真剣な顔をすべきだろう……」
不意の質問に、思わず目を向けたロロの表情は真面目そのものだった。
(いまさらどうしたのかしら。屋敷の使用人なら知っている話だけど、誰にも聞かなかったのかしら……。でも馬鹿にしようと思っているわけではなさそうだし、別に減るものでもないし話してもいいかな)
リリの返事を待つロロの顔には緊張からから、怒っているような険しさが滲み始めた。しかしリリはそれを彼の真剣さと捉え、「笑顔」の理由を答えることにした。
リリが両親と巻き込まれた事故の話、そして両親亡き後の話を聞いたロロは、さらに難しい顔になってしまった。眉間の皺をさらに深くしながら、絞り出すようにリリに言葉を返す。
「そうか。答えづらい事を聞いてしまったな。ご両親に先立たれ、さぞ大変な思いをしただろう」
「ええ。でもこの孤児院に来て、シスターと出会えたから何とかなりました。変に親戚に引き取られていたら、もしかしたらもう少し大変だったかもしれませんし……」
そう考えれば両親が残してくれたこの「笑顔」が、リリを守ってくれていたのかもしれない。
(そうよ。親戚の人達が『気持ち悪い』と思ってくれなかったら、私はこの孤児院に来ることはなかったのよ。シスターが言った通り、私の「笑顔」にも意味があったのかもしれないわ)
リリが内心、納得する一方で、ロロは違うことを考えていたらしい。リリが気づいた時、ロロは険しい表情はそのままに、何か口にするのを躊躇っているようだった。だが意を決したように唇をなめると、掠れた声で語り始めた。
「私もそうなんだ。私の場合は『笑えない』だが……」
「まあ、それは……」
思わぬ告白にリリは驚いた。驚いた拍子にきゅっと持ち上がる口角を手で隠しながら、彼の次の言葉を待った。確かにロロの笑顔は見たことがない。いつも険しいしかめっ面か、無表情か、リリを疑わし気に見る表情しか記憶にない。
「医者には『戦場で悲惨な体験をしたことが原因』と言われている。だが、もうここは戦場ではない。心のままに笑えるようになってもいいはずなのに……」
ロロは苦しそうに話し続けた。そんな彼の姿にリリが記憶の奥底に封じている光景――両親の死に際の光景が呼び起こされそうになる。リリは無意識に軽く頭を振ることでやり過ごした。幸いにもロロはリリの様子に気づいていないようだった。綺麗な横顔がリリではなく孤児院に向けられていたからだ。
「私も親兄弟がいない。だから前までは笑えずとも誰に迷惑をかけることもなく、戦ってさえいればよかった。しかし今は違う。爵位を与えられ、貴族として扱われるようになると『笑えない』ことが途端に足を引っ張るようになった。だから君が笑っていることがとにかく不愉快だった。『私が失ったものをひけらかしている』と思っていたんだ」
「……そうでしたか」
吐き出すように一気に語ったロロに、リリは静かに相槌を打った。
ロロのおかれた状況は想像に難くない。貴族の戦場は社交場だと聞いたことがある。リリのようにニコニコしていれば、たとえ嫌味を言われてもやり過ごすことが出来るだろう。だがロロのように笑えずにいたとしたら……。
(旦那様は爵位をお持ちといえど、下の方に位置する男爵位……。いくら戦功をあげた有名な騎士でも、仏頂面ばかりしていたら孤立するばかりよね)
リリと状況は正反対とはいえ、ロロの境遇には共感を覚える。リリも笑顔ばかり浮かべているせいで、周囲から孤立したのだから。
リリは何か慰めの言葉でもかけようかと思った。しかしふと見上げたロロの難しい顔に、あの晩のロロの剣幕を思い出す。
(かわいそうかもなんて思ったらだめよ、リリ! 私は理不尽に追い出されたんですもの。謝られたけど許したわけじゃないわ!)
リリはキッとロロを睨みつけた。はたから見れば微笑みかけているようにしか見えないが、リリにとってはこれまでの鬱憤をぶつけるくらいの心持ちだった。
その気迫を感じ取ったのだろうか。一瞬リリに目を向けたロロはすぐに目をそらすと、困ったように眉を下げた。
「あの、それで君さえよければまた我が家で働いてくれないかと――」
「いいえ。そのようなお気遣いは結構です。ファシアさんが無事なら、もう心置きなく次の仕事を探せます」
一息にリリは告げた。身分違いのロロに失礼極まりない発言だが、これまでの彼の行いへのささやかな意趣返しのつもりだ。
(私への仕打ちをちゃんと反省しているなら、立派な騎士様がこれくらいで怒るはずないわよね。まあ、少しはムッとするかもしれないけど……)
そんなことを思いながら、リリは得意げな笑みを向けた。だがリリの目に飛び込んで来たのは、いつもの険しい表情ではなく、驚いたように目を見開くロロの姿だった。
予想外のロロの表情に息が止まる。リリはこの時自分がどんな顔をしていたのかわからない。ただ彼の深い緑色の瞳は角度によって青色にも見えることに、この時初めて気づいた。
「――それなら」
どれくらいそのままでいたのだろうか。沈黙を破ったのはロロだった。
「また……話しに来てもいいだろうか」
「え……?」
「君と話していると、頭の中が整理されるような気がする。先ほどの話も、話したのは君が初めてだ」
そう言いながらリリに向けるロロの顔は真面目そのものだった。
ロロが口にした「先ほどの話」というのは、きっと笑えない事で抱いた疎外感についての話だろう。似た境遇のリリに親近感を覚えたのかもしれない。
(無理よ、無理無理。いくらお貴族様の元ご主人様でもそんな深刻な話、聞けるわけないじゃない)
「そんな大事な話なら……」と断りかけたリリは、そこで一旦言葉を飲み込んだ。そして一度ため息をつくと、
「……私で良ければ」
と、これっぽっちも思ってもいなかった返事をしてしまったのだ。
断じてロロが不安な子どものように瞳を揺らしていたからではない。リリの返事を聞いて、あからさまにホッとした顔の彼を見たかったからではない。
その証拠に、ロロを見送り、孤児院に戻ったリリは子どもたちの前で胸を張って告げたのだ。
「みんな、聞いて! 男爵様にまたお菓子を持ってきてもらうようにお願いしておいたわよ」
「えー! リリ姉ちゃんすごいっ」
「やったー! ねえねえ、次はいつ来るの?」
子どもたちはリリの発言に喜び、リリは嬉しそうな子どもたちの笑顔をにこやかに見つめた。ただ一人、心配そうな視線を向けるシスターの顔だけは見ることが出来なかったが――。
その後、さほど間を開けずにロロはリリの元を訪れた。そのためお互いを名前で呼ぶようになるのにも時間はかからなかった。
さらに毎度お菓子や、時には玩具を抱えて訪れるロロを子どもたちは大歓迎した。意外にも子どもたちがじゃれついてもロロは嫌がらず、むしろ積極的に遊んでくれたのだった。特に動きたい盛りの男児と体を使って遊んでくれるのは、リリやシスターにとってはありがたい限りだ。
「笑えなくても、これほど子どもたちが受け入れてくれるとは思わなかったな。もちろん、菓子や玩具の力が強いだろうが」
「あら、お気づきでしたか? 皆、ロロ様がお見えになるのを楽しみにしているのですよ」
「……リリ、それはどういう意味だ」
「ふふふっ。ロロ様と会えるのが楽しみということです」
「まったく、君は……」
ロロは険しい顔つきに反して、基本的には穏やかな性格の男性だった。リリがこのように軽口を叩いても以前のように怒ることはなく、呆れたようにため息をつくだけだった。
もちろん、ゆっくりと語り合うこともあった。
シスターが気を利かせて子どもたちをおやつに誘うと、しばしの静寂が訪れる。その間、まるで天気の話のようにさり気なく、リリとロロは色々なことを話した。
「あの頃は目についた君に、どうにもならない自分のもどかしさをぶつけてしまったんだ。何度謝っても足りないほど後悔している……」
「正直傷つきました。けど、きっとロロ様が本当に怒りをぶつけたかったのは、笑えなくなるほど悲惨な争いなのでしょうね」
リリがそう返せば、ロロはぽつりぽつりと戦場での辛い体験を口にした。
「私の両親は舞台役者で、お客様を笑顔にしたいと常々話していました……。だからといって私までずっと笑顔のままでいさせなくてもいいのになぁ、と思うんです」
「ご両親は自分の仕事に誇りを持っていたのだな。それに君の子どもたちへの接し方を見ていると、ご両親は愛情深く君を育てていたのだろうと思う」
ロロにそう返されれば、リリは両親とのわずかな思い出を彼に語って聞かせた。
お互い、相手の話には口を挟まず、決して否定もしなかった。
そんなロロとの穏やかな語らいが、リリの中で楽しみになっていたある時、終わりは唐突にやって来た――。
「戦地へ……?」
「ああ。明朝発つこととなった」
その日、珍しく急いだ様子でやって来たロロは、いつもにもまして険しい表情だった。ロロから聞かされた事実に、リリの笑みが濃くなる。
「そんな急に……」
「争いはいつも急だ。俺がすぐに動くことで、救える命があるかもしれない」
国境付近の村や町が、隣国の騎馬民族に襲われ始めたとロロは淡々とした口調で教えてくれた。だが、それを聞くリリの口の中はカラカラだった。
(戦場に行けば、ロロ様は戦いが終わるまで帰って来ない。もう、しばらくは会えないということ……?)
いつの間にかロロとの語らいが楽しみになっていた自分に愕然としつつも、リリの顔にはいつものような満面の笑みが浮かんでいた。
一方でリリの笑顔を映すロロの深緑の瞳も、物言いたげに揺れる。だがロロも全てを語ることは選ばなかったようだ。
「帰ってこれたら、また話しに来てもいいだろうか……」
その代わり、ロロはリリに謝罪するために訪れたあの日のように、不安げな眼差しで問いかけてきた。
「……私で良ければ」
ロロの問いかけにリリに答えられたのはそれだけだった。まるで心からロロの旅立ちを祝っているような、満面の笑みとともに――。
――――
ロロが戦地に向かい、一ヵ月が経った。
風のうわさでは騎馬民族の抵抗が激しく、戦況が思わしくないという。
「――っ、あっつ!」
日が傾きかけた夕刻。湯気の上がる鍋から煮込み途中のシチューが一滴、ぼんやりと鍋をかき混ぜていたリリの手に飛び跳ねた。
リリは結局新しい勤め先を探すことはせず、孤児院の手伝いを続けている。何となく、ここを離れることに躊躇いが生まれたからだ。
うっすら赤くなった手をふーふー吹いているリリのそばに、近くで野菜を切っていたシスターが近づいてきた。
「リリ、男爵様が心配なのね?」
「えっ……?」
突然シスターからロロの名を出され、リリの肩が無意識にビクッと跳ねる。慌てて笑顔を浮かべ振り返ると、シスターがやりきれなさそうにリリを見つめていた。
「違うわ、シスター! どうして私がロロ様の事を――」
「リリ……」
シスターは優しくリリの名を呼ぶと、母親が娘にそうするように、優しく抱き寄せた。リリの唇はそれ以上否定の言葉を紡げず、シスターの抱擁を受け入れるがままになっていた。
「あなたの『笑顔』に心を動かされた人がいるなら、あなたの心を動かす人がいるのも当然。誰かのことが心配で不安で……笑顔が曇ったリリだって、私のかわいいリリであることに変わりはないわ」
「シスター……。私は――」
「大丈夫。全て神様が見ていてくださるわ」
「……わ、私――」
シスターはそれ以上語らず、リリを抱きしめたまま滑らかな巻き毛を撫で続けた。懐かしいシスターの匂いに包まれ、強張っていたリリの身体から力が抜けていく。お腹を空かせた子どもたちの声が聞こえて来るまで、リリはシスターの胸の中で笑顔を浮かべ続けていた。
それからさらに三ヵ月が経った。
いまだロロは戦地から戻って来ていない。争いが続いているのか、それとも終わっているのか、リリたちの耳に入ることはなかった。
「リリ姉ちゃん、本読んで~」
「ちょっと待てよ! 俺と木登り対決する約束だったんだぞ」
「木登りは一人ですればいいでしょ! リリ姉ちゃんはあたしと本を読むのよ!」
「なんだと! お前こそ一人で読めばいいだろ!」
子どもたちの小競り合いが大きくなりそうな気配を察し、リリはニコニコと割って入ることにした。
「はいはい、これ以上は喧嘩になるからおしまい。今日は最初に木登りする約束だったの。本はまた後でね」
そうリリが答えると、本を抱えた少女は頬を膨らませ、うつむいてしまった。
「男爵様がまた来てくれたらいいのに……」
「……そうね。いつかまた会えると良いわね」
「ねえ、リリ姉ちゃん。男爵様、帰ってくるよね?」
リリはだんだんと涙声になっていく少女の頭を撫でた。きっと少女が顔を上げた時、彼女の目に映る自分の顔は楽しそうに笑っているだろう。ロロが命を懸けて戦っているこの数ヵ月、リリの顔は今と同じように笑顔を浮かべ続けていた。
以前までなら、なんて薄情な人間なのだろうと思っただろう。だが今は笑顔を消せずによかったと思っている。
「……ええ、帰ってくるわ。だからまた会えた時に、笑顔でお迎えしましょう」
「……うん」
「――姉ちゃん! 馬だ。誰か馬に乗って、こっちに来る!」
少女の小さな返事が聞こえるのと同時に、木に登った少年の叫び声が同時に響く。弾かれるように顔を上げたリリの目に映ったのは、馬を駆って近づいてくる白い騎士服の男性の姿だった。
「あれは、まさか……」
リリがその人物の名を口にする前に、子どもたちがわっと騒ぎ出した。
「姉ちゃん、男爵様だ! 男爵様だよっ! シスター、男爵様が帰って来たよー!!」
「あ、待って! あたしもシスター呼んでくる!」
あっという間に木から降りた少年は教会に走り、少女も本を抱えたまま追いかけていく。その場に残されたリリには、近づいてくる来訪者を呆然と見つめ続けることしかできなかった。
教会の手前で馬を降りた騎士服の男性は、その手間すらもどかしそうに馬を柵に繋ぐと、身なりを直すこともせずリリの元へ駆け寄った。
くすんだ灰色の髪はこの数ヵ月で以前のように伸びてしまっている。しかし髪の隙間から覗く瞳は、以前のように沼の底のように暗くなかった。深緑の瞳は輝き、真っ直ぐリリの姿を捉えている。そして険しく厳しいはずの彼の顔は、今、喜びがあふれ出た笑顔に満ちていた。
まるで別人のようだ。しかし、彼はリリが帰りを待ち望んでいたロロ本人に間違いなかった。
「リリ!」
「そんな、嘘……」
ロロが帰って来た。嬉しさに心が破裂しそうだ。だがリリの唇が弧を描くことは無かった。
ボロボロと目からは涙が溢れ、震える唇からは嗚咽が漏れる。ようやくの思いで出した声は掠れ、リリははっきりと言葉になるまで何度も言い直した。
「ど、どうしよう……。嬉しくて笑いたいはずなのに、涙が――」
「じゃあ俺が代わりに笑ってやろう! 帰って来たぞ、リリ! 俺は君に会うために帰って来たんだ」
いつも冷たく睨みつけるだけだったロロの眼差しは、太陽のように温かくリリを包んでいる。
――ロロが笑えている。それだけでも嬉しいのに、リリは笑うことができなかった。顔をくしゃくしゃにしながら涙をこぼすことしかできなかった。
「良かった……。本当に良かった……」
「ああ。ずっと君の笑顔を思い出しながら過ごしていた。……とはいえ、泣かせてしまったがな」
ロロの大きな手がリリの頬を撫でた。涙を掬われ、そのことにもまた涙がこぼれる。まるでこれまで流せなかった涙が一気に溢れ出ていると思えるほど、リリは涙を止めることができなかった。
「ごめんなさい、本当は笑いたいのに……。あんなに消せなかったのに、今は笑えなくて。でも、私、本当に嬉しくて――」
リリの言葉は途中で遮られた。大きな胸の中に包まれ、驚くリリの目からさらに涙が溢れてくる。
「愛している、リリ。俺は君を心から愛している。君を思い出す度、それを伝えたくて仕方なかった」
低く落ち着いた声がロロの胸から響く。きっとロロの顔には、以前のリリのような満面の笑みが浮かんでいることだろう。
リリは腕を伸ばし、きつく抱きしめ返しながら顔を上げた。リリの想像通り、顔を上げた先には幸せそうに笑うロロの笑顔があった。
「私も、私も待っていました。ロロ様を、笑顔でお迎え出来る日を……」
リリの返事は再び遮られた。優しい口づけがリリの唇を塞いだからだ。
目を閉じる直前、リリはロロの瞳の中に映る自分の顔に気づいた。目にいっぱい涙を溜めたリリの顔には、これまで見たことのない幸せそうな笑みが浮かんでいたのだった。