38 炎天
「呆れた、少しはフェイントを警戒しなかったの?」
その声は、背後から。
できたのは首を後ろへと捻る事だけ。
直後、容赦のない斬撃が放たれる。
展開していた黄蘗色の識力が真っ二つに引き裂かれた。ドライアイスにも似た冷気が背中を抉る。やっとの思いでバランスを立て直したのは、数メートル以上も吹っ飛ばされた後だった。
場外で浮かぶ審判が白い旗を挙げた直後、得点を告げる甲高いブザー音が鳴り響く。
「(……迂闊だった)」
背面への有効打は二点。
僅か一分にも満たない逆転劇。
「(珀穂は、練習試合の記憶を利用して俺の動きを止めやがったんだ……あの時と同じく水面に叩き付けると思い込ませる事で)」
ギリリッ!! と湧き上がる後悔を歯軋りで潰す。
珀穂は審判の白旗を確認すると、冷徹な眼差しを陽明へ向けた。逆転の安堵も、策が嵌まった喜びも感じさせないポーカーフェイス。それでも逡巡するみたいに動きを止めてから、試合開始の位置へと戻っていく。
「(切り替えろ、今のは珀穂が一枚上手だった)」
陽明も開始位置へ向かいながら、何度も深呼吸を繰り返す。
状況は圧倒的に不利だ。
単独で裏象解放を許した事もそうだが、二点を奪い返された展開も苦しい。珀穂は正面からの攻撃だけではなく、場外や着水でも勝負を決められるのだから。精神的に有利に立っているのは間違いないだろう。
準備の合図である短いブザー音が鳴る。陽明は頬を流れ落ちる冷や汗を拭ってから、ラバーソードを正眼に構えた。
だが、珀穂は俯いたままだ。前髪で目許を隠したままだらりと両腕を垂らしている。無形を使うつもりかと思ったが、それにしては突き刺すような戦意を感じない。
疑問に感じた審判の青年が、躊躇い気味に開始のブザーを鳴らした。
「(一体、何をする気だ……?)」
警戒して動けない陽明に向けて、珀穂は緩慢な動きで氷刀の切っ先を突き付ける。
「抜きなよ、君の裏象を」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「使えるんだろ、慎也さんを倒したという君の話が本当なら」
「でも、それじゃ俺を……」
「勘違いしないでくれる? これは僕の個人的な欲求だよ。これから君は裏象を解放する為に、僕に隙を作ろうとするはずだ。恵まれた識力を活かして吹っ飛ばしでも狙うんだろう。だけど、そんな分かり切った展開は面白くない。わざわざ誘いに乗るのも面倒だ」
視線に困惑を乗せて問い掛けるも、黒縁眼鏡の奥にある瞳は微塵も揺るがない。爽やかに整った顔に真剣な色を浮べるその姿は、まるで差しでの立ち会いを所望する侍だ。
「それに、これが君と戦える最後になるなら、全力の君を叩き潰しておかないと後悔が残る。……やっと追い着けたってのに、中途半端な君を倒しても僕の気が収まらないんだよ」
僅かに両目を伏せると、責めるように声を低く震わせた。
「勝手に負けて、一人で絶望して、何も言わずに去って行って……それで、ようやく戻ってきたと思ったら腑抜けになってた。ふざけるな。僕の知っている君は、かつて空を支配するとまで言われた遠城陽明は、そんな小っぽけ存在じゃなかったはずだ」
氷川珀穂は勢いよく顔を上げると、眦を吊り上げて気炎を吐く。
「だから見せろよ、遠城陽明の全力を! 僕はずっと、君を超えられる瞬間を待っていたんだから!!」
「……そっか」
電光掲示板に表示された経過時間は、四分と少し。
タイミング的には少し早いが、識力は最後まで持つだろう。
陽明は短く息を吐き出すと、両手で握ったラバーソードを胸元へと引き寄せる。西洋の騎士を想起させる構え。込み上げる笑みを抑える事ができない。燃えるような興奮を両目に湛えて、全身から激しく識力を迸らせた。
「――死の欲動、解放」
轟ッ!! と。
ラバーソードを包み込む黄色の識力が陽明の死の欲動によって紅蓮の業火へ変化し、天を衝く勢いで舞い上がる。まるで緋い竜巻。盛大に撒き散らされた火の粉が、前髪やユニフォームの裾を揺らした。
そして、顕現する。
火焔の鞘を内側から弾き飛ばし、一振りの西洋剣が姿を現す。
裏象『太陽の剣』。
その刀身は夕焼けを鋳型に流し込んだみたいな緋色だった。
芸術品と見紛う装飾が施された柄や鍔に、粗悪な鎧なら一撃で粉砕できそうな重厚感。時代と世界観を完璧に無視したデザインは、そのまま西洋ファンタジーの物語に登場しても違和感がない。
「悪い、待たせたな」
陽明は西洋剣を軽く振るう。
刀身の湛える灼熱が、たった一振りで冷えた空気を吹き飛ばした。
「……本当に、待ちくたびれた」
涼しげな声に混じる確かな躍動。
珀穂は氷刀を右手で握り直し、スピードスケートを思わせる半身の構えを取る。いつも皮肉げに歪んだ口許にも、今ばかりは獰猛な笑みが刻まれていた。
「この一年間、ずっと待っていたよ……炎天の日輪!」
合図など必要なかった。
全力を解放した二人の第五階位が、小細工なしで正面から激突する。
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