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37 氷天

 試合開始の位置に移動した陽明は、再び十メートルの距離を開けて珀穂と対峙する。だが、凌ぐだけだったはずの序盤に先制点を得たにしては表情が険しかった。


「(さて、ここからが本番だな)」


 たらり、と冷や汗が頬を流れ落ちる。


 珀穂も手を抜いてる訳ではないが、まだ手札を全て開示していない。あの程度の宙曲技マニューバや飛行技術なら一年前でも実行可能なのだから。

 事実、黒いユニフォームに身を包んだ少年からは一切の焦燥を感じなかった。うれいを帯びた端正な顔は涼しげで、レンズ越しの鋭い眼差しは冷たさが増している。


「(あと、二点か)」


 背面への一撃が通れば勝利となるが、速度や識力シンシア制御で勝る珀穂の背後を取るのはほぼ不可能だろう。正面への攻撃か、火力パワー勝負による場外狙いで確実に一点ずつ奪っていくしかない。


 場外で浮かんでいる審判が短くブザーを鳴らす。準備セットの合図だ。

 剣道と同じく正眼に構える陽明に対し、珀穂はラバーソードを持った右手を引いて重心を落とす。スピードスケートにも似た半身の構え。それは二週間の特訓で嫌というほど見てきたそうきゅうじゅつと同じ姿だった。


 試合再開のブザー音と同時。

 珀穂が急発進スクランブルを発動して強く右足で宙を蹴る。レモンイエローの識力シンシアが水飛沫のように撒き散らされた。


 ――来る!


 陽明が身構えた瞬間、ヴヴンッ!! とハネを震わせるにも似た音が鼓膜を叩いた。


 左右に、ブレる。

 黒い少年の残像が連続して宙に刻まれた。


 シザーズ

 極短距離の急発進スクランブルも併用した高速の反復横跳びによって、まるで影分身でもしたみたいに珀穂の像が重複する。


 陽明は攻撃に備えて防御に集中した。

 だが、その気負いが仇となる。


「……は?」


 気付いた時には遅かった。

 加速アクセルによって背中から識力シンシアの噴射炎を炸裂させた珀穂が、猛烈な速度で真横の空間を引き裂いていったのだ。まるでラグビーやアメフトで守備ディフェンスを躱すような挙動。防御に全神経を注いでいた為、予想外の行動に微塵も反応できなかった。


「……まさか!」


 不可解な行動の意図を悟り、喉が干上がりそうになる。慌てて体を反転させて、すでに五メートル以上も離れた珀穂の背中を追い掛けた。


 だが、間に合わない。

 背筋を伸ばして飛行する少年は、無形ファントムによる僅かな識力シンシアを残して姿を消してしまう。


 陽明は咄嗟に識力シンシア制御でブレーキを掛けて、周囲へ視線を走らせた。


 遥か、頭上だった。

 宙域フィールドの上限ギリギリで体を反転させた珀穂は、まるで架空の鞘に収めるようにラバーソードの切っ先を左脇腹へと近づけた。居合斬りを喚起させる重心を前に傾けた構え。一切の躊躇なく、濡れた鉄よりも冷たい声音でことばを紡ぐ。


「――死の欲動(デストルドー)、解放」


 まさしく、そら

 内臓を締め付ていた圧が、莫大な冷気となって空を染め尽くした。ピキ、パキ、と凝結した空気がひずんで悲鳴を上げる。

 

 そして黒い少年が鋭く鞘走らせた瞬間、ラバーソードの表面を覆っていた識力シンシアが羽化するみたいに弾け飛んだ。


 氷の刀。

 裏象タナトスシラユキマイ』。


「(有り得ない……こんな序盤で、もう解放だと!?)」


 周囲が氷点下になったと錯覚する程の寒さに苛まれながら、陽明は奥歯を噛んだ。


 裏象タナトスの使用には莫大な識力シンシアを消費する。その為、終盤に体力スタミナを温存する意味でも、試合開始から三分も経過していないこの場面で解放するのは定石セオリーから外れていた。識力シンシアに恵まれていない珀穂なら尚更だ。


「(でも、その思い込みを利用された……ただ背を向けて逃げるよりも安全に距離を取って、裏象タナトス解放の時間を稼ぐ為に)」


 裏象タナトス

 第五階位(レベル5)に至った選手の死の欲動(デストルドー)によって識力シンシアを特殊な武器へと変化させる力。


 宙曲技マニューバ識力シンシア制御技術で戦うしかない第四階位(レベル4)と比べれば破格の力だ。それでも二年前に陽明が世界で初めて裏象タナトスを発現させた時、今回『ぞらあく』が第六階位(レベル6)に至って引き起こしたような問題に発展しなかったのは、幾つか明確な理由が存在する。


 その一つが、裏象タナトス解放時における隙。


 高速化が進んだ現代エバジェリーにおいて、その数秒は致命的な硬直となる。つまり宙曲技マニューバや飛行技術で相手を上回ってさえいれば、裏象タナトスの解放その物を防げるのだ。階位レベルによる識力シンシアの質で差は生まれるが、気転や努力で補う事が可能である。


 しかし、裏を返せば。

 裏象タナトスを解放された場合、抗いようのない理不尽と直面するのだが。


「くそっ!!」


 予想外の展開に毒突きつつも、陽明は全身に纏う識力シンシアの密度を高めた。識力シンシアを氷結させて効力を奪う『シラユキマイ』の能力に抵抗する為だ。

 今みたいに距離があれば氷結の効果は落ちるが、鍔迫り合いにでも持ち込まれたら話は変わる。全身全霊で識力シンシアの密度を高めなければ、ラバーソードくらいなら一瞬で凍り付てしまうだろう。


 凄然とした面持ちを浮かべる珀穂の周囲で、細かい粒子と化した識力シンシアがダイヤモンドダストみたいに舞い踊る。突如として訪れた真冬の明け方にも似た光景に、観客が歓声を忘れて感嘆の吐息を漏らした。


 静寂は刹那。


 黒い少年の足裏からレモンイエローの識力シンシアが迸った。

 急発進スクランブルに、体をライフル弾みたいに回転させる螺旋飛行エルロン・ロールを加えた高等宙曲技(マニューバ)錐揉み穿孔(スパイラル)』。純白のとうを従えた黒い怪物が、巨大な雪崩となって頭上から一直線に迫ってくる。


 脳裏を過ぎるのは、二週間前の練習試合。

 為す術なくプールへ叩き落とされたあの瞬間。


 ――間に合え!!


 陽明の背後で爆発的に識力シンシアが広がった。

 発動したのは、防御系の宙曲技マニューバ心柱制衝グランド・ピラー』。展開した識力シンシアの反発力を利用して水面への墜落だけは避ける。


 しかし。

 降り注いだのは、肺すら凍らせる猛吹雪ブリザードだけだった。


「呆れた、少しはフェイントを警戒しなかったの?」


 その声は、背後から。

 できたのは首を後ろへと捻る事だけ。


 直後、容赦のない斬撃が放たれる。

毎週月、木、土曜日18:00に最新話を更新します!

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