36 先制点
試合開始のブザーが鳴った瞬間。
陽明は足裏の識力を集めて急発進を発動した。赤いユニフォームを纏った体が凄まじい速度で宙を疾る。同時にラバーソードに識力を込めていき、炎のイラストが印刷された赤い剣を眩しく輝かせていった。
珀穂の対応はシンプルだった。
大量の識力を帯びた黒いラバーソードを両手で構える。回避でも、宙曲技による迎撃でもない。二週間前の練習試合と同じで、まるで実力を測ってやるとでも言わんばかりの態度だ。
「(上等!!)」
そして、激突する。
二人の第五階位が正面から斬り合い、黄色い光芒をスパークさせる。
「――ぐっ!?」
苦悶の声を漏らしたのは氷天の魔術師だった。彫りの浅い端正な顔を驚愕に染めて、暴風に揉まれた木の葉みたいに吹っ飛んでいく。
「正面からの火力勝負なら、識力に恵まれた俺の方が強い」
宙域の端近くで難なく体勢を立て直した珀穂は、空いた左手で黒縁眼鏡の位置を元に戻した。感情を抑えた色の薄い表情。しかし、眉間に刻まれた皺は少し深くなった気がする。
「品定めのつもりなら早めに切り上げた方がいいぞ。じゃないと、次はそのポーカーフェイスが剥がれ落ちる事になるからな!」
ぐっと膝を沈めた陽明が、接近戦を挑む為に宙を蹴った。
宙域端での攻防は火力系の選手が有利とされている。強烈な一撃で簡単に場外も狙えるし、十分な広さがないため宙曲技や速度で翻弄されにくいからだ。
「(このまま先制点を奪い取る!)」
猛烈な速度で突っ込んでくる陽明を見て、珀穂は小さく息を吐き出す。仄暗い眼光に宿る凄然な切れ味。だらりと両腕を垂らして、全身から力を抜いた。
消える。
氷川珀穂の姿が何の前触れもなく消失する。
「……、」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、陽明の思考に空白が訪れた。
視界に広がったのは二十メートル以上も先にある観客席の風景。識力制御でブレーキを掛けた直後、足下から強烈な悪寒が這い上がってくる。
瞳に突き刺さるレモンイエローの閃光。
プールの水面付近まで急降下した珀穂が、転換射出を発動して弾丸のような速度で翔け上がってきたのだ。
「くっ、そ……!!」
すれ違いざまの一撃を辛うじて受け流したが、体は錐揉み状に弾き飛ばされる。
「(これが、珀穂の無形……!!)」
予備動作をなくし、識力制御のみで超高速移動を実現させる高等宙曲技。現在における技の完成度は開発者である蒼穹の魔術師よりも高いだろう。
宙域の上限近くまで飛翔した珀穂が鮮やかな識力制御でターンを決める。見えない天井に足を付けるみたいに膝を折り、宙を蹴って加速した。
「(上を取られたままじゃ位置が悪い、一旦距離を取らないと……!)」
陽明は急発進を使って斜め下方へ疾り出すと同時に、後光輪に供給する識力を減らした。途端、重量を思い出す体。重力を利用する事で速度を稼ぎ、相手より劣速の状況からでも逃走を狙う。戦闘機のロー・ヨー・ヨーという飛行法に似た技術だ。
速度を増した陽明の頭上で後光輪が眩い光に包まれる。重力中和を再開した合図。識力を下方向へ炸裂させ、勢いそのまま振り子のような軌道を描いて上昇していく。
しかしすぐさま反応した珀穂が、加速を使って赤い少年の背中へ迫った。
「(追い付かれる……っ! やっぱり速度勝負じゃ分が悪いな!!)」
思ったよりも高度を上げられなかったが仕方ない。
プールの水面を気にしつつも、逃走から迎撃へ意識を切り替える。背面への攻撃で二点を奪われる事を避ける為、ラバーソードを構えつつ振り返った。
すでに黒い少年にはあと数メートルまで肉薄を許していた。
咄嗟に上段からの斬撃を凌いだが、体勢が悪くて衝撃までは殺し切れない。逃げ道を作ろうにも頭上は完全に防がれていた。
「(このままじゃ、水面に押し込まれる……っ!!)」
陽明の回避性能では、珀穂の速度を上回れない。
だから、全ての識力を反撃の為にラバーソードへ集中させた。
発動した宙曲技は光破剣。
一定時間内に生み出せる識力の量には限界がある。陽明は平均よりも遙かに識力に恵まれているが、光破剣は他の宙曲技と比べて識力の消費量が多いため流石に連発できない。その分だけ威力と使い勝手の良さは断トツだ。
ラバーソードを振り上げていた珀穂の顔に緊張が走った。いくら全国ベスト四とは言え、何の対策もなく陽明の光破剣に斬り掛かれば盛大に弾かれて隙を晒してしまうからだ。
黒縁眼鏡の奥に逡巡が走り、洗練されていた動きに僅かな戸惑いが滲む。
――この隙を、活かす!
強烈な眩耀に包まれたラバーソードを握り締め、今度はこちらから距離を詰める。
だが、頭上へと放った一閃は空を切った。
溶接光にも似た輝きが引き裂いたのは宙を灼いた識力の残滓。肝心の黒い少年はラバーソードを構えた姿勢のまま遥か十メートルも後方へ移動している。
「(また無形……っ!! 一瞬動きが遅れたように見えたのは脱力したから!)」
珀穂は水泳選手みたいに鮮やかなターンで体勢を立て直すと、背中からレモンイエローの識力を傘状に炸裂させた。加速を使って大気を穿つその姿はまさしく一条の矢。ただ一直線に光破剣を構える陽明へ接近していく。
「(焦るな、動きを見極めろ)」
識力で勝る陽明の光破剣を正面から破る方法は限られている。迂闊に斬り掛かっても困るのは珀穂の方だ。何か宙曲技を使われても火力で押し切れば問題ないし、速度や技術で翻弄する気ならカウンターで迎え撃つ。
余計な先入観は隙を生むだけ。
だから、迷わず斬れ。
鋭く息を吐き出すと同時、上段に掲げた光の剣を全力で振り下ろす。対する珀穂は黒いラバーソードを横に構え、斜め下から斬り上げた。
ピシィッ!! と、何かに亀裂が入るような音。
それは光破剣によって火力を底上げした陽明のラバーソードを、逆に珀穂の一撃が弾いた音だった。
「(珀穂の野郎、実戦で受け弾きを決めやがっただと……っ!?)」
唇を噛む陽明の上半身が、間違って鋼鉄の塊でも斬り付けたみたいに起き上がる。
受け弾きとは発動に高い技術を要する防御系の宙曲技だ。
多くの宙曲技がラバーソード全体に識力を纏わせるのに対し、受け弾きはインパクトの掛かる一点にのみ識力を集約させる。そうする事で瞬間火力で勝る相手の一撃を相殺し、ラバーソードを弾いて大きな隙を生み出すのだ。
だが、その難易度は途轍もなく高い。
少しでも識力の集約点を誤れば無防備な状態で高火力な宙曲技を受ける羽目になるし、中途半端な量の識力ではそもそも相殺ができない。
やっている事は、生死を賭けた実戦で真剣白刃取りを成功させるのと同じだ。使用には高い水準の識力制御技術と度胸が要求される為、実戦で狙う選手はほとんどいなかった。
とは言え、珀穂も完全には光破剣を相殺し切れなかったようだ。余波を吸収できず、体勢を大きく崩したまま後方へと吹っ飛んでいく。
先に体勢を立て直したのは、陽明だった。
数メートル開いた距離を急発進で埋めつつ、レイピアでも放つみたいにラバーソードを大きく後ろへ引き絞る。
チッ、と。
不機嫌そうに眉根を寄せた珀穂が舌打ちをした。
直後、圧が消える。
突如として日本刀のように研ぎ澄まされていた戦意に翳りが見えたのだ。
脱力。
無形の前兆。
「(この瞬間を、待っていた)」
反射的に加速を発動。背中で黄蘗色の噴射炎を炸裂させた元ジュニア王者が一気に珀穂へ肉薄する。反撃をされれば対処できない程の至近距離へ迷いなく踏み込んだ。
「っ!?」
明確に。
珀穂の顔が強張った。
だが、遅い。
胸筋を張って蓄積させたエネルギーを解放して、ラバーソードの剣尖を雷光と見紛う速度で突き出す。跳ね返ってきたのは骨まで痺れさせる凄まじい手応え。それは陽明の一閃が珀穂の左胸を穿った証拠だった。
場外で浮かんでいる審判が白い旗を挙げる。体の正面への有効打は一点。電光掲示板の時間経過が止まり、プール全体に甲高いブザー音が鳴り響いた。
「無形殺し」
左胸に視線を落としたまま呆然とする珀穂に向かって、陽明は静かに告げた。
「無形は発動する時、一切の力みをなくす為に体を弛緩させる必要がある。一秒にも満たない空白だ。普段なら隙とすら呼べない弱点だけど、発動タイミングを正確に予想できるなら話は変わってくる」
受け弾きで光破剣を相殺できずに飛ばされた珀穂は、満足な回避や迎撃ができる状態ではなかった。であれば、すでに攻撃動作に入っていた陽明から距離を取る為には、一切の予備動作を必要としない無形を使うしかない。
「高速戦闘の中で無形の発動タイミングを正確に予想するのは不可能だって顔をしてるな。勿論、本来はその通りさ」
剣呑に目を細める珀穂に対して、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「だけど俺はこの二週間、無形の生みの親である慎也さんと戦い続けた。それにお前とは過去に何度も対戦した経験がある。だから氷川珀穂に限った話であれば、タイミングを予測するのは不可能じゃないんだよ」
実際は分の悪い賭けだった。予測の精度が完璧ではない為、致命的な反撃を受ける可能性もあったのだから。
それでも一歩を踏み込んだのは、失敗して先制点を奪われるというリスクを負ってでも、無形が無敵ではないと脳裏に刻み込む為だ。珀穂に無形の使用を躊躇わせる事ができれば、後々の展開で優位に立てるのは間違いない。
わざとらしい種明かしまで含めて、無形殺し。
この試合の為に、陽明が用意した対策の一つだ。
「……たかが一点を取ったくらいで、いい気にならないでくれる?」
不機嫌そうな少年が低い声で告げる。
レンズの奥の瞳に、ぞっとする程の冷光を湛えながら。
「それが君の二週間の成果なら、僕はこの一年間を見せてあげるよ。君が地を這いつくばっていた間に開いた差を思い知れ」
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