35 静かな闘志
試合開始まであと五分を切った。
陽明は呼びに来た豊音と一緒に控え室を出て、狭い通路を歩いていく。
プールサイドに通じる扉を開いた瞬間、生放送のトークが聞こえてきた。司会を務めるのは恵美で、本日のゲストはエバジェリーの選手経験もあるお笑い芸人だ。マイクを通した軽快な会話と笑い声が、待機場所である特設ステージの裏側まで響いている。
薄暗い空間に満ちているのは、独特な緊張感だ。
黒いポロシャツを着たスタッフが走り回る慌ただしさや、生放送という失敗の許されない張り詰めた空気。意図的に照明を絞っている事も、息苦しさに拍車を掛けているのかもしれない。サンダルを脱いで裸足になった途端、いよいよ本番という実感が湧いてきた。
不思議と、心は落ち着いている。呼吸の乱れもなければ、思考は冬の空みたいに澄み渡っていた。
辺りを見渡してみても珀穂の姿はない。恐らく選手同士を近くに待機させないという運営の配慮だろう。放送機材のコードを何となく目で追ってから、赤いユニフォームを着た少年は正面を向いた。
ぎゅっ、と。
右手を握られる。
隣を見てみれば九高の夏服を着た豊音がこちらをじっと見詰めていた。淡く昂揚した頬に、熱を帯びた綺麗な瞳。言葉はなくても少女の想いは伝わってくる。力強く頷いてから、調律師の少女の柔らかい手を握り直した。
『それでは、選手に登場してもらいましょう! 昨年のジュニア王者であり、また公の場には一年振りの登場となります! 「炎天の日輪」――遠城陽明!!』
マイクを介した恵美の声が聞こえた。陽明は炎のイラストが印刷された赤いラバーソードを掴み取り、特設ステージの裏から歩み出る。
視界が明るくなった直後、万雷の拍手が全身を叩いた。
階段状になった観客席はほぼ全てが埋まっているだろうか。撮影カメラに追い掛けられながら白いセラミックタイルを歩き、50mプールの縁まで歩いていく。
『続いて、対戦相手に登場してもらいましょう! 先月行われた全国大会では、エキスパート部門最年少ながらベスト四に輝きました! 「氷天の魔術師」――氷川珀穂!!』
ステージ反対側から長身痩躯の少年が登場した瞬間、割れんばかりの拍手が轟き始めた。
氷天の魔術師は先月の大会と同じく黒を基調としたユニフォームを着て、黒いラバーソードを携えている。プールの対岸を歩いている為、表情までは分からない。ただ歓声を受けても全く動じない姿は、触れることを躊躇わせる氷の棘を想起させた。
黒い少年も位置に着き、ブザーの甲高い電子音が鳴り響く。
すると、壁や天井から強烈な赤いレーザー光が照射されて、プール上空に巨大な直方体を描き出した。さながら立体的なボクシングリング。横幅25m、奥行25m、高さ15mの宙域を示す境界線だ。
陽明は右手を赤いPACEへ近付けながら、ゆっくりと視線を動かしていく。
少しだけ湿った足元から、世界水泳やオリンピックの中継を想起させる広大なプール。拍手に揺れる観客席から、極太の梁が剥き出しになったドーム状の天井へ。照明の眩しさで目が眩んだ。塩素の匂いと一緒に湿った空気を吸い込み、勢い良くスイッチを弾く。
黄色の識力が溢れ出した直後、頭上に生まれた後光輪が体に掛かる重力を中和させた。
全身から重量が抜け落ちていく感覚。プールサイドを軽く蹴り、一定の速度で宙へ上がっていく。体に纏った識力を炸裂させて方向を調整し、宙域の中央へと赴いた。
先に到着していた黒縁眼鏡の少年が黒いラバーソードの切っ先を陽明へ向けてくる。陽明も同様にラバーソードを持ち上げて、軽く先端を斬り合った。
「約束通り、全力で叩き潰すから」
先端の跳ねた短髪の少年は硬い声音で言い放つ。こんな時でも眉間に皺の寄った気難しい表情は変わらなかった。
「ああ、本気で構わない。でも、二週間前の俺と同じだとは思わない方がいいぞ」
「どうして?」
「昨日までの特訓で、俺は本気の慎也さんを倒している。戦型を真似しているお前なら、この意味がよく分かるはずだ」
「へぇ」
珀穂は温度の低い瞳を黒縁眼鏡のレンズ越しに向けてから、識力制御で踵を返す。
「その言葉が、偽りでない事を祈ってるよ」
「……動揺なし、か」
肩透かしを食らった気分になりながら、陽明も背中を向けた。
試合の開始位置で浮かんだ二人は、十メートルの距離を開けて視線をぶつけ合う。
いつの間にか、会場は静寂に包まれていた。
空白は、数秒間。
張り詰めた空気を引き裂くように甲高いブザー音が鳴り響く。
莫大な歓声を伴って、戦いの幕が上がった。
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