33 心を、縛る
「と、豊音さん……?」
「んー?」
「いや……これは何かなぁ、と思いまして」
「何って、調律だよ。そう言ったじゃん」
「た、確かに俺に触れればいいんだから、この体勢でもできるだろうけどさ」
だとしても、この二人羽織みたいな格好は色々と刺激が強過ぎた。
肩の上から回された細い腕が胸の前で交差する。全身を包む込むのはアロマバスに浸かったような暖かさと甘い香り。背中に当たる二つの柔らかい物が、脳に直接電極を突き刺したみたいにパルスを送り込んできた。
「えーと、何故、このような事を……?」
「ご褒美、あげるって言ったでしょ? ハル君、私の為にずっと頑張ってくれてるから……」
「っ」
かあぁと顔を熱が駆け上がった。気を抜けば変な声が出そうだ。
「それに、偶には飴も与えておかないとね。鞭ばっかりだと躾けにならないでしょ……他の人に目移りされても嫌だし」
「だ、だけど豊音は」
「ダメ」
「いぎぃっ!?」
振り返ろうとした途端、物凄い力で豊音にこめかみを押さえられる。
「こっちを向くのは禁止。それと、必要以上に身じろぎするのも許さない」
「えー、そんなぁ」
「文句を言わないの……私だって、恥ずかしいんだから」
耳元で囁かれる言葉が熱を帯びた。背中を叩く鼓動がまた一段と速くなった気がする。
「……分かったよ、もう動かない」
「うん、ありがと」
豊音は頭から手を離し、再び胸の前で軽く交差させる。
調律が始まって、視界の端にリーフグリーンの光が映り込んだ。豊音が識力を使い、陽明の識力にとって最適な反応を示すように感応石の性質を変更させていく。調律師の少女の真剣な息遣いだけが、無音の室内に染み渡っていた。
「だけどさ」
心地よい重みを背中に感じながら、陽明はぽつりと漏らした。
「どうして皆は固有型を使わないんだろうな?」
「調律師の数が足りないから使えないんじゃないの?」
「かもしれないけど、仮に調律師が足りてても今みたいに汎用型が普及してた気がする。確かに汎用型は高性能で管理も簡単だけど、俺はどうしても好きになれないんだよなぁ」
汎用型は内蔵された人工知能が使用者に合わせて適宜調律を行う。PACEの性能を決める識力最適化の精度は、余計な感情を排除できない人間の遙か上をいくだろう。将棋やチェスの世界では、すでに人工知能が人間を上回っているのだから。
「汎用型って、なんかすごく冷たいんだよ。いざ飛ぼうとしても、人工知能の識力最適化のせいで感情が勝手に削ぎ落とされる気がしてさ……誰かの言いなりになってるみたいで気持ち悪かったんだ」
エバジェリーが対戦型のスポーツである以上、全くの無感情でプレーするなど不可能だ。
ペース配分を無視した識力消費だとしても、その一瞬に全てを出し切りたい。興奮、嫉妬、憤怒。識力の運用効率が落ちるとしても、そう言った余計な感情を込めて相手にぶつかりたい。冷静であろうとしても、想いは火花よりも鮮烈に閃いてしまう。
だが、汎用型はそれを否定する。
事前に人工知能が感応石に施した調律の通り、識力の出力や質に制限を掛けてしまうのだ。対戦ゲームで自分のキャラクターがコンピューターによって勝手に操作されるような感覚。それが最適な行動だったとしても、プレイヤーが満足できるとは限らない。
「でも固有型は融通が利くんだよ。俺が無茶をしたいって時だって、問答無用で否定するんじゃなくて議論してから答えを決められる。いつも豊音とやってるみたいにさ。その分、識力を使いすぎてガス欠になったり、逆に足りなくて力負けしたりするんだけどな」
二年前、陽明は世界で初めて第五階位に至って裏象を発現させた。それは固有型を使っていたからこそ実現したと考えている。第四階位が天井だと信じられていた当時、死の欲動で識力変化させるなんて発想を汎用型が受諾する訳ないからだ。
或いは。
汎用型の台頭こそ、エバジェリーの発展を妨げたのかもしれない。
限られた範囲内でなら無類の性能を発揮する叡智の怪物も、奇想天外な発想や直感と言った人間の可能性まで計算できる訳ではないのだから。そう考えれば、十五年以上も第五階位に至る選手が現れなかった疑問にも説明が付く。
「人間の短所とか欠点ってさ、人工知能にとっては削除するべき欠陥なのかもしれないな。でも、その弱さこそが人間味になって、個性になるんだ。人はさ、他人のそういう部分を好きになったり嫌いになったりするんだよ。完璧な人間なんて一人もいないんだから」
「それ、何となく分かる気がする」
陽明の肩に頬を付けた豊音が呟いた。
「手の掛かる子ほど可愛いって言うし、顔だけ良い駄目な男に引っ掛かる人って案外多いし」
「似たような事を前に会長が協会で言ってたな。誰かと深く繋がる為には、その人の長所も短所も受け入れる必要があるって」
「だったらハル君は、人の弱さは個性なんだから克服しなくてもいいって言いたいの?」
「いや、そうじゃない。きっと、大切なのは弱さとの向き合い方なんだ」
陽明はベッドに置かれた絵本に視線を落とした。
それは、自分の弱さを認識するきっかけになった存在。
「誰にだって弱さは必ず存在する。それがどれだけ醜くても、目を逸らしたくても、自分の本質である事には変わりない。だったら、まずは受け入れてあげなくちゃ。他の誰でもない自分自身が認めなくちゃ、話が始まらない、んだから……」
ちくり、と。
言葉にならない違和感が舌を痺れさせる。
ネガティブで、他人任せ。
不意に頭の中に響いた誰かの声。
いつの日か、誰かに自分の弱さを指摘された時にどう感じた? 図星だと理解しながらも、憤りを抑えられなかったのではないか? 目の前に立っていた存在を認めなくなかったから。
だったら、本当の意味で。
遠城陽明は、自分の弱さを受け入れていると言えるのか?
「何だよ、これ……」
手が、震え始める。
答えるべき質問に答えられていない焦燥感に胸を締め付けられた。まるで悪夢の内容を思い出してしまったような不快感。記憶にないはずの絶望が、鋭い痛みと共に蘇ってくる。
「ハル、君?」
「ごめん豊音……なんか変な事を思い出して、急に試合が怖くなってさ。負けた時の事を考えると、体の震えが止まらなっちまう。だって試合に負ければ、俺は豊音を失って、」
声を低くすると、目許に昏い翳を落とした。
「多分、識力を失うから」
それは、確信めいた予感。
根拠なんて思い出せないのに、何故か否定できない確定事項。
「ただ飛べなくなるだけじゃない……俺はきっと、大切な物を全て失ってしまう」
識力が枯れて飛べなくなれば、陽明は問答無用でエバジェリーを引退に追い込まれる。それでも豊音はエバジェリーに関わり続けるだろう。貴重な固有型の調律師として、指導員や普及活動に携わる人材として、協会にとって必要不可欠な存在になっているのだから。
だとすれば、この一年間と同様に豊音の隣にはいられなくなる。いつしか、胸を焦がすこの恋慕すら心の奥底で朽ち果てさせてしまうだろう。
「……やっぱり、失くしたく、ないな」
声が、濡れそうになる。
「負けたくない、絶対に負けたくないんだ……でも、どうしたって最悪の想像しかできなくて、気付いたら不安で俯いちまう。弱音なんか吐きたくないのに……駄目だ、やっぱり俺は弱くて、後ろ向きで、それで……」
「無理をしなくてもいいんだよ。私が、ハル君の弱さを受け入れてあげるから」
凍て付いた心を溶かすように、少女の腕が優しく陽明を包み込む。
「多分、ここで頑張ってとか、信じているよとか、月並みに励ましてもプレッシャーになるだけなの。それはハル君の欲している言葉じゃない」
豊音は耳殻に唇を近づけて、吐息混じりに囁く。
まるで迷える羊に救いの手を差し伸べる修道女のように。
「だから、私が心を縛ってあげる。もう迷わなくてもいいように」
その言葉には、魔力が宿っていた。
「私の為に戦って、私の為に勝ちなさい。他には何も考えなくていい。貴方はただひたすら私の為に空を飛びなさい。その為の『理由』はすでに胸に刻んであるでしょ?」
……ああ、と。
陽明は思わず微笑んでしまった。
やっぱり、篠竹豊音の事が好きだ。
この気持ちは、何があっても揺るがない。
だから、一つの決意をする。
もし。
三日後の試合に勝って、全ての問題が丸く収まったら、その時は――
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