28 デストルドー
これは、夢だ。
陽明はそう直感する。
周囲を見渡してみても、何もなかった。
神様が色を塗り忘れたのではないかと疑う程に辺りは白い。制作途中のゲームだってもう少し何かあるだろう。目印や比較対象がない為、じっと遠くを見詰めていると距離感が狂ってくる。ただ意識だけがここに在るという不思議な感覚が脳を支配していた。
「よお」
聞き覚えがあるのに、どこか鼓膜に引っ掛かる声。目をやると、数秒前までは何も無かった空間に映写機の焦点が合っていくように人影が浮かび上がっていく。
「一年ぶりだな。元気だったか、使徒」
「お前、は」
言葉に詰まる。
その姿をすんなりと受け入れられなかったから。
「……俺、なのか?」
「他の何に見える? お前だって毎日鏡くらい見ているだろ?」
嘲笑混じりに告げたのは九高の夏服を着た遠城陽明だった。
しかし、その見た目は……何というか安定していない。輪郭はぼやけているし、全体的な色合いも陰に沈んだみたいに暗かった。
「その反応……まさか、俺の事を覚えてない? 進化に来たんじゃないのか?」
「進化、だと!?」
死角から鈍器で殴られたような衝撃が脳を揺さぶった。
「変だな、いつもはこの場所に来たらすぐ思い出すのに。夢と同じで薄らとしか内容を覚えていられないとしても」
「やっぱり、ここは夢の中なのか?」
「少し違う。夢はあくまで媒体なんだ。古来から数多の心理学において、夢とは認識できない無意識を映し出す鏡だったからな」
スラックスのポケットに両手を入れた少年は、喧嘩でも売るような口調で続ける。
「俺はお前の死の欲動だ。無意識を構成する負の側面である以上、こうしてお前と会う為には夢を利用するしかなかったのさ」
「なら、俺は進化する為にこんな殺風景な場所に来たってのか?」
「ぶふっ!!」
色調補正に失敗したみたいな少年が唐突に吹き出した。
「……馬鹿にしてるのか?」
「悪い悪い。でも、自分の内面相手に喧嘩腰になるなよ。やってる事は自傷行為と同じだぜ?」
思わぬ角度からの反論を受けてしまい、陽明は咄嗟に言葉を返せない。言葉の端々に滲む嘲弄も、横柄な態度も、全てが神経に障った。
「俺が笑っちまったのは、お前がここを殺風景だって表現したからだ。ここは夢という扉から入ってきたお前の無意識。つまりお前は、自分の心の中が殺風景だって吐き捨てたんだぞ」
すぐには受け入れられなかった。
白色に埋め尽くされただだっ広い空間は、プラスチックで造られているみたいに無機質だ。どこまでも声が響いていきそうな程に空っぽで、薄寒さを覚えるくらいには物寂しい。
「お前にも、自覚くらいはあるんじゃねぇの?」
死の欲動の少年は、空間の広さを揶揄するように両腕を大きく開いて、
「大好きだったエバジェリーだって簡単に捨てられて、翼を取り戻す理由だって自分ひとりじゃ見つけられなかった。それってさ、心が空っぽだからなんだよ」
「心が、空っぽ……?」
「ああそうだ。目標とか、理由とか、生き方の軸になる物が何もねぇから意志を生み出せない。誰かに鎖で繋いでもらわなければ楽な方へ流されちまう。才能や環境に恵まれていたせいで、お前は餓えを知らないのさ。だから、リスクを負ってでも現実に抗おうと思えない」
確かに、そうなのかもしれない。
豊音に理由を貰わなければ翼を取り戻せなかったし、珀穂との練習試合で豊音の為だと考えなければ心が折れそうになったのは紛れもない事実だ。生放送での特別試合も協会が決めた事で、陽明はその流れに乗っただけである。
「口を開けば後ろ向きな発言ばかりで、他人事みたいに世界を俯瞰しようとしたがる。自分の気持ちにも、他人からの想いにも、見て見ぬ振りをし続ける。傷付くのが嫌だから。自分の責任で何かを変える事が怖いからだ」
「……、」
「ネガティブで、他人任せ。それがお前の弱さだ。こんな空っぽで寂しい心象風景を生み出した死の欲動の根源なんだよ、使徒」
反論は、できなかった。
否定したくても、ささくれ立った感情が論理的な言葉になってくれない。
だけど。
だとしても。
「……少し黙れよ、死の欲動」
陽明は低い声で告げた。
「お前は俺の負の側面だ。欠点、短所、嫌いな部分……そう言う普段は目を逸らしている弱さの寄せ集め。そんな奴に図星を突かれて、素直にハイそうですかって受け入れられる訳がないだろうが」
少年の容姿が己の生き写しである理由も察しが付く。
死の欲動とは社会生活を送る上で不要だと切り捨てた自分自身の成れの果て。認めたくない心の弱さ。自分の本質の一部であるのだから、別物として考えること自体が間違っている。
「そうかい。図星って自覚があるだけ救いはあるけど、それだけじゃ足りないな。二年前のお前はもっと物分かりが良かったのに、これじゃ昔に逆戻りだ。がっかりだよ、自分自身とも正面から向き合えなくなってるなんて」
落胆するように呟くと、憐憫の眼差しを向けてきた。
「だけど、意外な展開だよ。お前にはもう二度と会う事はないって思ってたのに」
「どうして?」
「簡単な話さ。一年前にお前から翼を奪ったのは、死の欲動である俺なんだから」
「っ」
鋭く息を飲んだ瞬間、視界が瞋恚の炎に包まれる。
「おいおい、俺に怒りを向けるのは筋違いだろ? 飛べなくなったのはお前の弱さが原因なんだから」
死の欲動の少年は非難するような口調で続けた。
「生きるとは、生の欲動と死の欲動の戦いである。『福木派』の基本的な理論だ」
「……それが?」
「識力とは二つの欲動の葛藤が生み出す心的エネルギー。夢や希望を失って、現実を受け入れれば自然と葛藤は弱くなる。最後には枯れ果てて、使徒たる資格を失うのさ」
一年前、陽明は『夜空の悪魔』に惨敗し、エバジェリーに向き合う理由を失ってしまった。その結果、活性化した死の欲動に対して生の欲動が抗えなくなり、無意識における葛藤が極端に減ってしまったのだ。
「お前の絶望はなかなかに強烈だったぜ。生の欲動を全て喰らい尽くせるって思ったんだけど、最後に残った核だけはどうしても傷付けられなかった」
「……核?」
「エバジェリーをやめる前も、やめた後も、ずっとお前が棄てられなかった感情だよ。まさか分からないなんて言わねぇよな、使徒」
「……さっきから気になってたんだけど、その使徒ってのは何だ?」
「おいおい、本気で訊いてるのか? お前達が空を飛ぶ時に創り出す後光輪が、何の形を模しているのか考えた事くらいあるだろ?」
「それは……」
天使の輪。
神の遣いとされる存在の象徴。
「人間の魂には、生まれながらにして『原罪』が刻まれている。神に造られた最初の人間、アダムとイブ。彼らがエデンの園で禁断の果実を口にして楽園を追放された時から、人類は神に逆らった罪を背負って生まれる事を強制されているんだ」
「『原罪』……?」
「だからこそ、使徒になる為の条件は識力による『原罪』の希釈。階位とはその段階を示している。そして、進化とは『原罪』の浄化だ。自分自身の感情や内面を深く識って、認め、否定し、赦した者だけが権利を得る神聖な儀式って訳さ」
つまり、力を得る為には。
今よりも『原罪』を浄化できるだけの強力な識力を手に入れる必要があるということ。
「『原罪』を希釈し、神の遣いと近しい存在に成ったお前達が、ヒトの住まう大地に縛られる訳がないだろ? 重力の中和という現象は、世界の理を物理法則に当て嵌めて解釈したに過ぎない。識力が反発する性質を持ってるのも現実世界の穢れを遠ざける為だよ」
「……一体、俺達は何に成ろうとしてるんだ?」
「進化を続ければいつかは分かるよ。お前の場合、その前に識力を失いそうだけどな」
「なっ……!?」
心臓に極太の杭でも打ち込まれた感覚に襲われた。
「考えてもみろ。虫の息だった生の欲動だって、調律師の女が『理由』になってくれたから回復したんだ。つまりさ、今度の試合でお前が負けて、見ず知らずの誰かに女を奪われれば、計り知れない絶望が死の欲動である俺に力を与えてくれるんだよ」
識力が枯れて、二度と飛べなくなる。
それは考えないようにしていた最悪の可能性。具体的な未来として提示されたせいで、大量の氷を飲み込んだみたいに胃が冷たくなっていく。
「裏象さえ取り戻せれば……お前はそうやって思っているんじゃないか?」
「っ」
「二年連続でお前を全国優勝へ導いた力なんだ、依存したくなる気持ちも分かるよ。あの武器は死の欲動の象徴化。俺の気分次第でまた使えるようになるだろうな」
「……どうすればいい?」
「何が?」
「だからっ!!」
大きく腕を振った陽明は、縋り付くような目で黒い少年を見詰める。
「裏象も、進化も、どうすれば……何をしたら、お前は納得してくれるんだよ?」
「死の欲動を認めて、否定しろ。お前自身の意志を示す事で。より強力な識力を手に入れる為には、弱さを打ち消すだけの生の欲動を手に入れるしかない。俺にできるのは、お前に問い掛け続けることだけさ」
仄昏い両目に狂気を宿し、死の欲動は静かに告げた。
「戦う理由もなく、ただ飛びたいだけの欠陥品に、空を望む資格はあるのか?」
その質問に。
「どうして、そんなに無理をする? 誰かの為なんてお前らしくもない。楽になりたいなら、今までみたいに逃げちまえよ」
遠城陽明は。
「誰かを理由にしないと立ち上がれないのか? お前の覚悟なんて所詮そんなもんだよ」
答えることが、できなかった。
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