24 泡沫の夢
「よかったじゃん、ハルはまた飛べるようになって。私は結局、飛べないままだったからさ」
紙コップをテーブルに置いた恵美は、羨望を含んだ声で言った。
現役時代の恵美は全国レベルの実力者でありながら、その恵まれた容姿と明るい性格でアイドル的な人気を獲得し、一躍して時の人となった有名選手だった。テレビCMに出演したり、スポーツバラエティ番組に呼ばれたりした。
現在は広報部として、過去の伝を利用しメディア方面からの普及活動に従事している。
「25歳を超えて識力を保てる人はほとんどいないですし、仕方ないですよ」
識力とは、生の欲動と死の欲動の葛藤で発生する心的エネルギーだ。
言い換えれば、理性と衝動による激突。目の前の現実を否定して、理想の世界を創り出したいという願望の発露。つまり、強烈な識力を発現する条件は、己の理想が退屈な現実に負けないと強く信じる事に他ならない。
だが、人間は成長する生き物だ。
子どもの頃は無邪気に信じられた夢や希望も、歳を重ねて社会を理解するにつれて色褪せていく。擦れて、熟れて、斜に構えて、いつしか存在すら忘れ去る。退屈な現実を受け入れる事が、賢くて正しい選択だと思い込むようになってしまう。
きっかけは失恋や挫折、願いの成就といった日常生活の出来事だったり、進学や就職といった人生の転機だったりと千差万別。
何かを成し遂げたい、どこかへ辿り着きたい。
そういう希望や憧れを実現させるには途轍もない労力を要する。だからこそ、夢を叶えて満足したり、万策が尽きて諦めたりすれば、もう世界には立ち向かえない。現実を受け入れた瞬間に心は歩みを止めてしまうのだ。
「私は就活中だったかな……自分の限界とか、社会の裏側とか、色々と知りたくなかった現実が見えてきちゃったんだよねぇ」
「俺だって豊音に助けてもらわなければ識力を失っていたと思いますし、またいつ飛べなくなっても不思議じゃないですよ」
選手としての寿命が短いというのは欠点だが、この事情のお陰で救われている面もある。
仮に、識力を保ち続けられるとしたら? まず間違いなく、飛行技術や感応石は産業や軍事に利用されているだろう。
過去にはその手の研究が国内だけではなく海外でも行われたらしい。だが、その結果は芳しくなかった。
そもそも識力を生まれ持った人が少なくて、該当する人間の大部分は未成年。加えて25歳になるまでに失ってしまう可能性が高く、またその時期も突然やってくる。そんな扱いにくい力を産業基盤に組み込めなかったのだ。
金にならない研究には、誰も出資しない。
識力という能力がスポーツという器に収まり続けている背景には、娯楽ぐらいでしか利用しにくいという事情があったりする。
「エバジェリーってさ、子どもの頃にしか見られない夢みたいな物なんだよ」
茶髪に御下げの協会職員は、幼かった頃に好きだった絵本を見るような顔になって、
「夢と同じでね、思い出だけが心に残るの。陽炎みたいに虚ろなくせに、真夏の太陽よりも眩しくて消えてくれない。もう一度見たいと思って瞼を閉じても、出迎えてくれるのは暗闇だけなのに」
「なんか、詩的ですね」
「何が言いたいかっていうと、悩める内に悩んどけって事だよ少年。豊音ちゃんの事も、エバジェリーの事も。目覚めた後じゃ何もかもが手遅れなんだからさ」
「でもエバジェリーが子どもの夢って言うなら、慎也さんはどうなるんですか? あの人、今年で30歳ですけど普通に飛んでますよ」
「シンは出会った頃から変わらずに子どものままだから。30歳にもなって識力が枯れないのは世界中を探してもシンくらいだよ。いつまでも夢を追い掛ける馬鹿な男。ま、そういう所が好きで結婚したんだけどさ」
恵美は左手の薬指を見て微笑む。精緻な銀細工の施された指輪が、穏やかな電灯の光を反射していた。
それからしばらくして、打ち合わせを終えた慎也と豊音が会議室に入ってきた。
「お待たせしたね、二人とも」
バーテンダーみたいな服装の慎也は、少し疲労の滲んだ顔で恵美の隣へ歩いていく。
「お疲れ、シン。それにトヨトヨも」
「お疲れ様です。でも恵美さん、その呼び方は練習に来てる子の前じゃ止めてくださいよ? 真似されるのも恥ずかしいですし」
「分かってますよ、豊音先生」
「本当かなぁ」
豊音は苦笑しつつ、スカートの裾を押さえつつ陽明の隣に腰を下ろす。
腰まで流れる長髪が揺れて、綺麗に整った横顔を隠した。髪を直そうと右手を持ち上げると、半袖から柔らかそうな二の腕が姿を見せる。その奥では大きな二つの膨らみがブラウスの生地を押し上げていた。
「どうしたのハル君、じっとこっちを見て」
長い睫毛がパチクリと瞬く。
「い、いや……慎也さんとの打ち合わせは、どうだったのかと思って」
「練習内容の確認だけだったし、いつも通りだったよ」
「そっか」
少ない演技力を総動員して平静を保ちつつ、やっとの想いで正面を向いた。
さっきまで豊音への想いを口にしていたせいか、早鐘を打つ鼓動が耳奥で反響して落ち着かない。対面に座った恵美がニマニマと見詰めてきたので、キッと鋭い視線を突き刺しておいた。
「そう言えば恵美さん、頼まれていた統計表を作ってきましたよ」
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