23 本音
話し合いが終わった後、陽明は一人で会議室に移動していた。指導員関連の打ち合わせで応接室に残った豊音を待つ為だ。
会議室の壁には、今までにエバジェリーの人気選手が起用された企業CMのポスターが掲載されている。
中でも印象に残っているのはスポーツウェアのモデルに起用された女性選手。半年前に放送されたテレビCMの独特なストレッチが話題となり、SNSで真似をする人が大量に現れたのだ。盛り上がる世間を死んだ目で眺めていたことを今でも覚えている。
「いやー、ハルも大変な事に巻き込まれたねぇ」
しばらくして。
紙コップに入ったアイスコーヒーを持ってきたのは、サバサバとした印象の女性だった。
緩くウェーブしたセミロングの茶髪は御下げに纏められ、両肩から前に垂れている。化粧品広告のモデルみたいにキメ細やかな肌に、愛嬌のある猫顔。やり手のキャリアウーマンみたいな見た目だが、仕草や言葉遣いが柔らかいお陰で親しみやすい雰囲気を醸し出していた。
長谷部恵美、28歳。
先ほどまで応接室で話していた長谷部慎也の奥さんだ。小学生の頃からの付き合いであり、陽明にとっては歳の離れた親戚のお姉さんといった感覚である。
「旦那から話は聞いてるよ。トヨトヨを守る為に陰険眼鏡と決闘するんでしょ? やるじゃん、この色男!」
「……まあ、そうなんですけど」
カラカラと笑う恵美の調子についていけずに白けた表情を浮かべた。だがビジネスカジュアルな服装のお姉さんは気にしていないのか、楽しそうな様子のまま対面に腰を下ろす。
「何さ、不安なの? 会長に向かって気持ち良く二つ返事をしてきたくせに?」
「そりゃ、あの場面じゃ頷く以外の選択肢はなかったですから」
「だったらシャキッとしなさい。ハルがそんな顔してたらトヨトヨまで不安になっちゃうよ」
「そう、ですね……気を付けます」
口許を緩めてみるも長続きはしなかった。気付けば震える右手に視線を落としてしまう。
氷天の魔術師――氷川珀穂との生放送での特別試合。
正直な話、全く勝てる気がしていなかった。具体的な対策を考えようとするだけで、真っ黒な泥沼に沈んでいくような絶望に苛まれてしまう。
「すっごく深刻な顔ね。やっぱり、豊音ちゃんを見ず知らずの誰かに寝取られるのは嫌?」
「言い方に語弊がありますけど……まあ、包み隠さず言えば」
「それは、どうして?」
「好きだから、ですよ……恵美さんには前に言ってると思いますけど」
そう言葉にした瞬間、口の中に微弱な電流が走った。
「俺は豊音の事が好きです。だから他の誰にも渡したくない。要するに、今の心地良い関係を崩されたくないんだけなんですよ」
「そんなに卑下する事じゃないと思うけどね、好きな女の子を奪われたくないって普通の感情だし。ま、ハルはちょっとばっかし奥手な気がするけどー」
恵美の視線から逃げる為に紙コップを傾ける。氷に当たった前歯がツンと染みて、ブラックコーヒーの苦味が舌の上に広がった。
「やっぱり、ハルにとって翼をくれた恩人ってのは特別なのかな?」
「それは、そうですね」
照れを隠すように笑みを浮かべる。
九歳でエバジェリーを始めた当初、陽明は才能に恵まれた選手ではなかった。汎用型PACEが肌に合わず、満足に飛行する事すらままならなかったのだ。
途方に暮れていた陽明の前に現れたのが、別の用事で九天大学を訪れて何となく体験会に参加した豊音だった。
エバジェリー初体験にも関わらず、豊音は陽明に汎用型が合っていない事を看破する。体験会の幹事をしていた慎也の勧めで固有型を調律してみた結果、陽明の能力は目を瞠る程に向上した。
そのまま正式に豊音に調律師を任せて数年後、14歳と15歳でジュニア部門の二連覇を達成する程の実力者へと至ったのだ。
篠竹豊音と出会わなければ、思うように空を飛べなかった。
それだけは間違いない。
「豊音は俺が無理やり巻き込んだエバジェリーを大好きになってくれました。何よりも皆の羨む一つ歳上の美少女が、俺だけの調律師になって献身的に支えてくれるんです。これで好きになるなって方が無理な話でしょ」
「だったら、そろそろ真剣に考えるべきさ。『私が理由になる』ってトヨトヨの言葉、もう告白みたいなモンじゃん」
「……そう、ですかね?」
「そうです、何とも思ってない相手にそんな事を言う訳がありません。ハルだけを特別扱いしてるのだって防衛機制の一種だろうし」
防衛機制? と首を傾げると、歳上の女性はからかうような表情で頷く。
「精神的に苦痛を感じる状況に陥った時、それに伴う不安や不利益を軽減させようと無意識に働く心理的なメカニズム。『福木派』では死の欲動を抑え込む為に働く生の欲動って定義されてるけどね。退行、合理化、昇華とか、保健体育の授業で習わなかった?」
恵美はアイスコーヒーで唇を湿らせた。
「ハルは誰に対しても明け透けで平等に接するし、トヨトヨからすれば不安なんさ。あの子は自己評価が低いからね。だから、どこまで自分を受け入れてくれるのか、許してくれるのか、ギリギリのラインを試す事で安心感を得てるんだよ」
「そんな可愛い理由ですかね……俺には、個人的な趣味って気がしますけど」
「そう感じるって事は、それだけハルに心を開いてるって証拠だね。さっさと覚悟を決めちゃいなよ。据え膳食わぬは何とやらさ」
「……何にせよ、今の問題を解決するのが先です。豊音が俺以外の調律師になるなんて、絶対に嫌ですから」
陽明は長く息を吐くと、椅子に深く座り直した。
思い出すのは、豊音から意図的に距離を取ってきたこの一年間。エバジェリーから逃げる為という理由もあったが、それ以上に今までと同じように接する事ができなかったのだ。
豊音は自分からエバジェリーに関わろうとしているし、協会にとっても必要不可欠な人間になった。であれば、エバジェリーをやめた自分に一緒にいる資格はない。そんな後ろめたさにずっと心を縛り続けられてきた。
だけど、諦めようとしても無理だった。
忘れようとする度に、捨てようとする度に、胸を締め付ける想いは強くなっていく。遠城陽明にとって篠竹豊音という少女がどれだけ大きな存在なのか改めて自覚した。
だからこそ、失くしたくない。
奇跡的に取り戻せたこの繋がりを、絶対に手放したくないのだ。
「まあ、でも」
紙コップをテーブルに置いた恵美は、羨望を含んだ声で言った。
「よかったじゃん、ハルはまた飛べるようになって。私は結局、飛べないままだったからさ」
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