21 落とし穴
9月6日(月)
放課後。
陽明は豊音と一般社団法人日本エバジェリー協会の関東支部へ向かった。調律師の件で相談があると慎也に呼び出されたのだ。
日本エバジェリー協会は埼玉県熊谷市に置かれた本部の他に、大阪、名古屋、博多、仙台にそれぞれ支部を持っている。地方における練習や大会運営はそれぞれ近い支部が担当していた。
本部の場所は熊谷駅東口のロータリーから歩いてすぐのオフィスビル三階。
陽明は幼い頃から慎也に師事していたし、豊音は中学生で正式や指導員になっている為、二人とも昔から何度も協会に足を運んでいた。顔見知りの職員も多く、いつもだったら自宅と同じくらいの気軽さで扉を開けられる。
だが、今日ばかりは違った。
緊張した面持ちで事務所に入り、応接室へと通される。硬い表情で待っていたのは日本エバジェリー協会の長である福木弥勒と、かつての師匠である長谷部慎也だった。
「結論から言わせてもらうぞ。このままでは、豊音ちゃんに陽明の調律師をやめてもらう事になる」
子どもが見たら泣き出しそうな強面の老翁は厳格な声で告げる。
濃いめにサングラスに、派手な服装。裏社会の重鎮にも見えるその容姿も相まって、張りのある低い声は陽明の心を大きく揺らした。
「……会長、それは協会としての意見ですか?」
「その通りだ、テメェらには申し訳ねぇがな」
弥勒は椅子の黒い合皮をギュッと鳴らして頭を下げた。
紳士的な態度に、和太鼓みたいに重厚感のある声。知り合いの高校生ではなく一人の交渉相手として見られている。そう察した瞬間、陽明は身が引き締まる想いになった。隣に座った豊音も同様らしく、慌てて居住まいを正している。
「詳しい説明は僕からしよう。二人とも、選手と調律師を繋げる紹介制度は知っているね?」
バーテンダーみたいな服装をした慎也は、タブレットを操作して硝子製の座卓に置いた。画面には協会のホームページが表示されている。
「協会に登録された調律師、あるいは固有型PACEを持った選手で相方がいない場合、お互いに指名し合う事ができる。大多数の選手が汎用型を使用するようになった現在はすっかり埃を被っているけど、固有型しかなかった昔は頻繁に利用されていた制度だよ」
エバジェリーでは大会などの公式行事に参加する場合、選手か調律師の登録が必須となる。競技人口推移や年齢層の統計を取ったり、PACEのレンタルに個人情報を用いるからだ。
継続にはシーズンごとの更新が必要であり、全国大会が八月に終わる関係で九月をシーズンの始まりとしている。
「だが、今更になってこの制度が問題になった。実は三日前の報告会の後から、豊音ちゃんに調律師を任せたいという指名が九件も協会に届いているんだよ」
「……は?」
「豊音ちゃんは人気者だ。元ジュニア王者の調律師で腕は確かだし、マンエバに出てもらっているから知名度も高い。チャンスがあるなら、有名人である彼女に調律師をお願いしたいという気持ちは十分に理解できる」
「いや、ちょっと待ってくださいよ慎也さん!」
渋面を作った陽明は、身を乗り出して詰問する。
「おかしいでしょ、豊音は俺の調律師なんですよ。紹介制度と言っても、すでに確定している関係は上書きできないはずです!」
「本来ならハルの言う通りだ。豊音ちゃんが複数人の調律師にならないと言っている以上、こんな指名は協会が責任を持ってお断りする。だけど、今回ばかりは事情が違った」
「事情?」
棘のある声で聞き返した高校生に対して、武人みたいに凛とした協会職員は冷静に告げた。
「ハル、君は昨シーズンの選手登録を行なっていたかい?」
「っ」
さあぁ、と。
顔から潮のように血の気が引いていく。
「……そん、な」
思い出すのは、先週の報告会で貰った冊子。
協会に登録された選手のハンドルネームや『二つ名』が羅列されたページ。
その一覧に、かつて協会から貰った遠城陽明の異名はあったか?
「君は今年の大会に参加していない。協会が公開している選手一覧にも名前が載ってなくて、世間的には原因不明の活動休止中。それに報告会の最後、表彰式で豊音ちゃんは言ったよね。ハルの事をいつまでも待ち続けるって」
この二つの情報が、最悪な形で繋がってしまったのだ。
調律師を探していた選手からすれば紹介制度を利用しない手はないだろう。結果はどうあれ、意志を示しておけば声が掛かるかもしれないのだから。
「登録がなければ、協会だってハルを選手だったと認識できない。連鎖的に豊音ちゃんも相方のいない調律師として登録されてしまう。となれば、優先されるのは紹介制度。一度はエバジェリーをやめた君が九件もの指名を上書きするのは虫が良すぎる話だからね」
顔を真っ青にした陽明は、何も言えずに俯いた。
紹介制度に文句を言うつもりはない。それよりも自分自身に対して激しい怒りを覚えた。エバジェリーから逃げ出した弱さが、この最悪の事態を招いてしまったのだから。
「(豊音が、俺以外の誰かの調律師になる……)」
そう実感した瞬間、床や調度品まで含めて応接室が崩壊していく錯覚に苛まれた。魂を構成する最も大切な部分を汚されたような気分。ガタガタと寒くもないのに体が震え始める。
「……でも、少し変です」
気丈を装った声で訊ねたのは、陽明の隣で体を硬くする豊音だった。
「紹介制度については理解しましたけど、たった三日で九件も依頼が集まるなんて……」
「SNSだよ」
慎也はタブレットを操作してSNSのタイムラインを表示させた。検索機能を使ってエバジェリー関連の内容に絞っていく。
『豊音ちゃんがフリーってマジ!? 今なら俺の調律師にもなってくれる感じ!?』
『これってもう何人も立候補してるんでしょ? 強い選手の調律師になれば「悪魔」だって倒せるじゃん! うわーっ、盛り上がってきたあああああああっ!!』
『紹介制度を利用しました。俺こそが豊音ちゃんのパートナーにふさわしいと思うので、協会の人はよく考えて俺を選んでください笑』
何も、言葉が出てこなかった。
ただ呆然と、ネットの世界に刻まれた匿名の意見を眺める事しかできない。
「きっかけは紹介制度を利用した一人の発言だった」
険しい顔になった慎也は、タブレットの画面をスクロールさせながら、
「念願の調律師ができたらいいなという普通の内容。でも、目立ちたいだけの連中が面白おかしく煽った結果、この話題はたった三日で燎原の火の如く盛り上がってしまったんだ」
紹介制度は固有型を所持していれば誰でも利用できる。調律師が不足しているせいで、固有型を持て余している選手は意外と多い。引退した選手から譲り受けたけど調律師がいなくて汎用型を使っているなんて話もよく聞いたりする。
「人気美少女調律師のパートナーに選ばれるのは誰か……すでに世間では、そんな低俗な見世物として認識されつつある。マスコミにも目を付けられていてね、今日だけで何社からも問い合わせを受けたよ」
「……やっぱり、納得できません」
九高の夏服を着た少女が苦々しい口調で言った。
「そもそも、私は選手の紹介なんて望んでいないんですよ。仮に私が相方のいない調律師として登録されているとしても、協会からの紹介を断れるはずです」
「ああ、その通りだ」
「だったら!」
「だけど、九人の依頼を全て断った上でハルの調律師に戻るなんて話は認められない。制度利用者だって納得してくれないだろう。ハルの活動休止の理由が公表されているのなら交渉しようもあったけど、それが曖昧な現状では説得力のある事情を提示できない」
制度利用者からすれば、陽明も自分達も立場は同じだと考えているはずだ。いくら元相棒とは言え、一度は理由も公表せずにエバジェリーから姿を消しているのだから。
急に戻って来たとしても、何か権利を持っている訳ではない。制度を無視して豊音を陽明の調律師に戻せば文句が出てくるのは自然な流れ。協会職員と個人的な繋がりのある選手が優遇されたと知られれば、世間から非難を浴びるのは火を見るよりも明らかだ。
「正式な手続きを踏んで制度が利用されている以上、協会としても無視する訳にはいかない。世間様を納得させる為にも、エバジェリーのイメージを守る為にも、然るべき対応を早急に取る必要があるんだ。たとえそれが、君達や僕にとって納得できない方法だとしても」
豊音は反論できずに唇を噛む。長髪がさらりと流れて、横顔に悄然とした翳を落とした。
「……ハル、君」
撓垂れ掛かるみたいに顔を上げる。前髪に透けた瞳が潤んでいると気付いた瞬間、陽明の全身を電流よりも激烈な感覚が走り抜けた。
助けて、と。
そんな声が聞こえた気がしたから。
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