19 嫉妬
時刻は12時20分。
陽明はプールのロビーに置かれたベンチに座っていた。
エバジェリーの練習に参加していた人達はすでに帰路へ就いている。
珀穂とは練習試合について話したかったのだが、イヤホン装着による話しかけるなオーラには抗えなかった。御波ともすでに別れているが、次のエバジェリー協会への取材に同行して欲しいと言われている。月末に九高新聞が完成するまでは何かと顔を合わせそうだ。
「ハル君、お待たせ」
受付の方から豊音が駆け足で近づいてくる。
ピンクのスポーツジャージを着た少女は協会から派遣された正式な指導員だ。練習後には施設返却の手続きをしたり、備品として貸し出したPACEを保管庫に片付けたりする必要がある。陽明はそれを待っていたのだ。
「ごめんね、受付の人がなかなか帰してくれなくってさ」
「構わないよ。こっちこそ悪いな、任せっ放しで」
「気にしないで、指導員は私の好きでやってるんだし」
「物好きだなぁ。まあ小学生の時に無理やりこの世界に巻き込んだ身としては、そう言ってもらえると気が楽になるんだけどさ」
「子どもの頃のハル君は強引だったからねー」
ふふっと口許を綻ばした豊音は、大人びた顔に郷愁を浮かべる。
陽明は九歳でエバジェリーを始めたが、豊音と出会ったのは11歳の春だった。当時から調律師を任せていた事もあり、自分と同じくらいエバジェリーを好きになって欲しかった陽明は小学生の豊音を試合や体験会などのイベントに連れ回したのだ。
今になって思えば、一つ歳上の上級生女子を相手によくできたなと我ながら感心してしまう。ただ豊音の方も満更ではなかったらしく、中学二年生の秋に自ら指導員になると言い出した。驚きもあったが、それ以上に嬉しかったのを覚えている。
「で、久しぶりの練習はどうだった?」
「すっっっごく、楽しかった」
一年間分の想いを込めて、陽明は快活に笑った。
「思った以上に飛べたし、皆も快く受け入れてくれたからな。ただ体の方は限界だ、あちこち筋肉痛でズキズキしてる」
特に張っているのが背筋と肩周りの筋肉だ。正しい飛行姿勢を維持する為に酷使したからだろう。
「それと珀穂の野郎には驚かされたよ。アイツが不機嫌なのは昔から変わらないけど、今日は輪を掛けて苛々してなかったか?」
「うーん、何となく理由は想像できるけどね」
言葉に迷った豊音は、曖昧な笑みを浮かべて、
「ほら、ハル君も聞いた事あるでしょ? 珀穂君がエバジェリーを始めた理由」
「ああ、選手時代の慎也さんに憧れたって話だろ?」
長谷部慎也。
日本エバジェリー協会の一員として、様々な業務を担当する優秀なスタッフ。
シーズンになると毎週のように日本全国へ出張する三十歳の優男だが、現役時代は三度もエキスパート部門の全国大会で優勝した最強の選手だったのだ。『蒼穹の魔術師』と呼ばれた識力制御の天才。今でも実戦で使われる宙曲技の幾つかは慎也が開発したものだったりする。
「珀穂君本人の希望もあったし、何よりも実力が評価されて、慎也さんから直接教えてもらえる事になった。ハル君が慎也さんの生徒になったのも同じ時だったよね?」
「懐かしいな、小六の秋だったよ」
当時の慎也は協会職員になったばかりで今ほど忙しくなく、週二回の練習以外でも特訓に付き合う余裕があったのだ。練習試合だって組んでくれたし、公式戦で遠征する時は運転手を買って出てくれた。進路や友人関係などエバジェリーとは関係ない内容で頼った事もある。
師匠と弟子。
慎也との関係性はこの言葉が最もしっくりくる。珀穂だって同じように感じているはずだし、エバジェリーを始めるキッカケになった事を考えれば陽明よりも思い入れは強いはずだ。
「この一年間、慎也さんはずっとハル君の事を考えていたんだよ。何とかしてハル君を連れ戻す為にね。珀穂君からすれば、それが面白くなかったんじゃないかな? 今も最前線で頑張っているのは自分なのに、憧れの師匠は逃げ出した弱虫の事ばっかり気に掛けているから」
「ちょ、ちょっと待て、じゃあ何か? 珀穂の野郎は俺に嫉妬してたってのか?」
「うん」
当然でしょ? と言わんばかりに小学生の頃から付き合いのある少女は首肯した。
「例えば、私ってハル君の調律師だよね? だけど仮に珀穂君のPACEも調律しているとしようか。二人の調律師なのに、私が珀穂君ばっかり気に掛けてたらどう? 練習をサボってる珀穂君を連れ戻そうとするし、ハル君の調律をしてる時も珀穂君の話ばっかりしてるの」
「それは……、」
想像してみた。
その途端、靄みたいな紗が目の前の空間を覆い始める。何だか無性に腹が立ったし、同時に大切な物を奪われたような淋しさで胸が詰まった。言葉にできない……と言うよりも、言葉にしたくない感情で喉の奥がイガイガしてくる。
「……って、何だよ豊音、そのしてやったりみたいな顔は」
「べっつにー」
ふふんっと機嫌良さそうに鼻を鳴らした歳上の少女は、腰を折って座ったままの陽明に顔を近づける。明るい色の長髪が揺れて、甘い香りが押し寄せた。
「ハル君、今、妬いたでしょ?」
「っ」
くすぐるような、挑発するような、勝ち誇った表情。艶のある瞳に覗き込まれた瞬間、かあぁと顔が猛烈に熱くなった。
「……豊音の言いたい事はよく分かった、だからこれ以上は虐めないでください」
「うん、素直でよろしい。それにあんな恥ずかしい事、ハル君としかしないよ」
豊音は唇に小さな笑みを咲かせると、満足した様子で顔を離していく。
調律の方法は、調律師によって千差万別だ。
豊音の場合は『相手に触れながら会話をすること』。始めの頃は手を繋ぐだけだったが、効率的だからという理由でいつしか額をくっ付けるようになった。恥ずかしいから元に戻して欲しいと言っても、豊音は頑として受け入れてくれないのだ。
「でも実際、豊音って一人の選手しか調律できないの? 汎用型が量産される前は、一人の調律師が何人も選手を担当してたんだろ?」
「うーん……できないことはないだろうけど、やりたくないってのが本音かな。精度が落ちて中途半端な出来になりそうだし。調律で感応石を最適な性質に変化させる為には、相手の内面を深く識る必要があるから」
識力を生み出す生の欲動と死の欲動は、感情の元となる因子だ。人間は感情を完璧に制御などできない。外部に制御を任せないと識力をすぐに使い尽くすか、逆に識力が足りず出力が上がらないなんて事になってしまう。
よってPACEの役割とは、発生させる識力の最適化。
チョーカー型の装置に内蔵された感応石が制御弁となり、選手の感情や意志に対して最も適した量や質の識力を発生させる。調律とは感応石の性質を変化させ、選手の内面に応じた反応を示すようにする行為なのだ。
だからこそ。
固有型の調律は、選手と調律師が互いに深く信頼し合っていなければ成立しない。
選手はPACEに内蔵された感応石に識力を流し込む事で、心に秘めた感情を洗い浚い曝け出す。そして、調律師は濁流にも似た想いの丈を受け止めて咀嚼する。識力を生み出す感情の正体を知らなければ、感応石に制限や増幅の基準を設定できないからだ。
胸の裡を見せるのは恥ずかしいし、理解するのはすごく難しい。全国大会に出場できるレベルの調律を施す為には、生半可な付き合いでは不可能だと分かるだろう。
「それに、よく知りもしない人の胸の裡なんて気持ち悪いよ。生の欲動や死の欲動って剥き出しの欲望だから、綺麗な物だけとは限らないし……ハル君だって、赤の他人が書いた妄想日記なんか読みたくないでしょ?」
「……なあ、俺ってヤバくないよな? 変な願望とか見てない?」
「大丈夫だよー、まだ受け止められる物しか見てないから」
「って事は何か見てんのかよ……うわー、すっげぇ不安」
ニマニマした調律師の顔を見ていると、心の奥に隠したあれやこれやが浮き彫りになってくる。健全な男子高校生の脳内が何色に染まっているかは敢えて言うまでもない。
汎用型の場合は、内蔵された人工知能が調律師の代わりになる。使用前に簡単な設定を済ませれば、後は自動的に選手の識力を使って感応石の性質を変化させてくれるのだ。
増え続ける競技人口に対して調律師を確保できないという事情もあり、現在ではほとんどの選手が汎用型を使用している。固有型を持っていても、調律師に出会えない場合が大多数。その為、陽明のように専任で調律師のいる選手は非常に珍しいと言えるだろう。
「そう言えばさ」
豊音はスポーツバッグを肩に掛けながら訊ねる。
「練習試合の最後、珀穂君に何て言われたの?」
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