18 タナトス
珀穂が鋭く鞘走らせたラバーソードは、もはや白い発泡素材で覆われたゴム棒ではなかった。
刀身が透明な氷で造られた日本刀。
たった一刺しでプールをスケートリンクに変貌させそうな冷気を湛えた氷天の魔術師の切り札。
白い吐息を漏らした陽明が、震える声でその名を告げる。
「裏象『白雪ノ舞』!!」
第五階位に到達した選手だけに発現する特殊な武器。
そして、遠城陽明を二年連続でジュニア王者に輝かせた最大の要因。
それが、裏象。
無意識における負の側面『死の欲動』の象徴化だ。
当たり前だが、あの刀は本物の氷で創られている訳ではない。
識力とは生の欲動と死の欲動の葛藤が生み出す心的エネルギー。PACEを使って心の外へ放出しても、普通なら反発する性質を帯びた光にしかならない。だが、第五階位に至った氷川珀穂の死の欲動に影響を受けた結果、氷の刀へと変化してしまったのだ。
つまりは、目の錯覚。
氷刀に肉体を切断できる切れ味はないし、仮に誰かを斬ったとしても架空の衝撃を脳に錯覚させるだけだ。識力を持つ人間なら珀穂の死の欲動に呼応して冷気を感じ取ってしまうが、一般人にはラバーソードの形状が変化したようにしか見えていないはずである。
「(……っ、識力が凍り付く!)」
陽明の体から漏れ出した識力の輪郭が硬くなり、後光輪の輝きが不安定になる。裏象『白雪ノ舞』の能力。識力を氷の刀に変えるという珀穂の死の欲動の応用である。
裏象の能力は、使用者の死の欲動に由来して決まる。成長する過程で心に刻まれた挫折や諦め。理想と現実のギャップを象徴する経験や出来事が、識力の性質に影響を与えるからだ。
「僕にはさ、理解できないんだよ……いつまでも、いつまでも、君にばかり執着する慎也さんの気持ちが」
錆びた歯車を無理やり回したような声だった。鈍くぎらつく眼光は、殺意にも似た瞋恚で塗り潰されている。
「かつての君ならまだ理解はできた。だけど、この一年間は我慢できなかった! 無責任に逃げ出して、無様に地を這い蹲っているとしても、『悪魔』を倒すには君の力が必要? ふざけるな、僕はそう思わないっ!!」
裂帛を放った氷天の魔術師は、静かに氷刀の柄を握り締める。
「僕が倒したかったのは、こんな腑抜けた君じゃない」
くるりと体を上下反転させて、僅かに膝を沈ませた。
「だからさっさと墜ちろよ、敗北者。まだその無様な姿を晒し続けるなら、僕が何度でも力の差を分らせてやる!」
鮮やかなレモンイエローの光を噴射炎みたいに撒き散らした珀穂の体が、ライフル弾みたいに回転しながら飛翔する。急発進と螺旋飛行を複合した宙曲技『錐揉み穿孔』。景色を白く染めるブリザードを翼に変えて、第五階位が一直線に宙を穿った。
対応など、できる訳なかった。
咄嗟に識力で覆ったラバーソードを掲げるだけで精一杯。桁違いの運動エネルギーは余す事なく破壊力に変換され、陽明の体を勢い良くプールへ叩き付ける。ドッッッ!! と爆発でもしたみたいに派手な水飛沫が上がった。
「着水により反則一点。これで十五対ゼロ」
放心状態になった陽明は、無慈悲な宣告を水面付近で漂いながら聞いていた。纏っている識力が水を反発するお陰でスポーツウェアは濡れていないが、体はプールに溺れてしまったと錯覚する程に重たく冷たい。
「(駄目だ……何をしても、勝てない)」
単純な地力も、使える技術も、識力の質も、全てが劣っていた。一年間というブランクの代償はこんなにも大きいのかと絶望する。
思い出すのは、一年前の夏。
突如として現れた『悪魔』に惨敗して、為す術なく蹂躙された苦い記憶。
視界が、霞んでいく。
救いのない暗闇が目の前を覆って、折れかけた戦意を容赦なく蝕んでいく。
「――ハル君!」
声が、聞こえた。
ゆっくりと、視線を向けてみる。
ピンクのスポーツジャージを着た豊音が、胸の前できゅっと両手を握り締めながらこちらを見詰めていた。薄らと濡れた瞳は、覚悟が結晶化したような力強い輝きを放っている。
「(……ああ、そうか)」
不意に、口許に笑みが刻まれた。
「(やっぱり違う。あの時とは……『悪魔』の野郎に蹂躙された一年前とは何もかもが違う!)」
自然と体に力が戻ってくる。
識力制御で上体を起こした陽明は、珀穂の裏象を受け止めて凍り付いたラバーソードを強く握り締めた。
「助かったよ豊音、お前から貰った『理由』はちゃんとこの胸に刻まれている」
調律師の少女を一瞥してから、遙か上空で静かに浮かんでいる珀穂を見上げる。握手でも求めるみたいに笑顔を浮かべてやると、眉間の皺が次第に深くなっていった。その仏頂面が何だか無性に懐かしくて思わず吹き出しそうになる。
「……せめて、一点くらいは取りたいよな」
正眼にラバーソードを構えた陽明は、肘を折って両手を胸へと引き寄せる。西洋の騎士を思わせる構え。瞼を閉じると、集中した様子で長く息を吐き出していった。
「っ、まさか君は!?」
目を剥いた珀穂が焦燥感を露わに唇を噛んだ。慌てて識力を迸らせて、プールの水面付近に浮かぶ陽明へ疾り出す。
だが、遅い。
陽明の体から溢れ出した莫大な識力が竜巻と化した。深々と抉れる水面や、旗のように揺れるスポーツウェアの裾。押し出された大量の水が津波となり、白いプールサイドを濡らしていく。
陽明を覆う識力に明確な変化があった。輪郭が薄れて激しさを増していったのだ。
まるで、燃え盛る火焔のように。
「――死の欲動、解
ばずんっ!! と。
高圧電流が炸裂するような高音と共に、陽明の全身から一斉に識力が弾け飛ぶ。
「……は?」
拒絶、された?
胸に突き刺さっているのは、伸ばした手を誰かによって乱暴に弾かれたみたいな不快感。
「(裏象が、発動できない……そんな、どうして!?)」
ラバーソードを見詰めたまま狼狽する陽明へ、上空から珀穂が一直線に距離を詰めていく。そして、絶対に回避できないタイミングで鋭い一閃が放たれ――
ビーーーッ、と。
甲高い電子音がプール全体に響き渡ったのは、まさしくその時だった。
試合終了の合図。
「チッ」
舌打ちした珀穂は呆然とする陽明の隣を猛烈な速度で駆け抜ける。足裏から放出した識力の反発力を使い、スキー選手が雪を掻き分けるように水飛沫を上げて速度を殺していった。
「――、」
「え?」
何か、珀穂に言われた気がした。
聞き返そうと顔を向けても、すでに気難しそうな少年はこちらに背を向けていた。そのまま水面を滑るような挙動でプールサイドへ直行してしまう。
置き去りにされた陽明は思わず空を仰いだ。
すっかり高くなった太陽が、天窓からプール内を明るく照らしていた。
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