17 実力の差
「はぁ……っ、はァっ……」
顎先から垂れそうになる汗を拭いながら、陽明はラバーソードを握り直した。
「くそっ……こんなに、差があるのかよ」
長距離走を終えたみたいに肩で息をする陽明に対し、珀穂は涼しい顔のまま水面から十メートル上空に浮かんでいる。黒縁眼鏡の奥で鈍い光を放っているのは、道端に転がった紙クズに向けるような眼差しだった。
「十三対ゼロ」
ざくり、と。
止めを刺すにも似た鋭い言葉が、的確に陽明の心を抉る。
「この試合のスコアだよ。本来なら僕が三点を取った時点でゲームセットなのに、君がどうしてもと言うから続けたんだ。……何、この結果は? 全く話にならない。時間の無駄とは思わないの?」
黒いスポーツジャージを着た少年は不機嫌そうに顔を顰めて、電光掲示板に目を向けた。表示されていた経過時間は八分と数秒。エバジェリーの試合時間は十分であり、残り二分弱で終了となる。
「で、続ける?」
「当たり、前だろ……!」
「そう」
気怠げに溜息を吐いた珀穂の全身から、針のようなレモンイエローの輝きが迸る。
「だったら少しは食い下がってみせてよ、これ以上もう僕を失望させない為にさ!!」
珀穂の体が残像となって掻き消えた。一瞬で数メートルを詰める凄まじい急発進。陽明は慌ててラバーソードを正眼に構えて、全神経を目の前の敵に集中させる。
だが、次の瞬間。
ブレる。
珀穂の姿が、分身でもしたように左右に震える。
「(鋏!?)」
驚愕によって喉が干上がった。
鋏とは飛行しながら高速で左右に動き、相手の意識を撹乱させる宙曲技。バスケやサッカーのドリブルに近いイメージだ。
普通の選手が鋏を使っても、中途半端な速度で二、三度体を左右に揺らすだけが関の山。多少は駆け引きを優位に運べる程度の小技でしかない。
だが、氷天の魔術師ならば話は別。
元々持っていた勢いを維持したまま、残像すら生み出す速さで反復横跳びを繰り返す。莫大な慣性すら飼い慣らす驚異の識力制御に加え、横方向へ極短距離の急発進も併用した複合技。このレベルで鋏を扱える選手は数える程しかいない。
「(……左っ!!)」
根拠のない、勘。
だが、腐ってもかつては天才と呼ばれていた少年の感覚だ。
周囲に撒き散らされた識力の微妙な揺らぎから攻撃方向を予測する。防御の為に掲げたラバーソードに途轍もなく重たい衝撃が走った。
足裏に集めた識力の反発力を利用してその場に留まり、鋭い剣戟を紙一重で凌いでいく。火花の代わりに識力の光芒が飛び散り、強烈な残像を視界に焼き付けた。
珀穂の頭上では激しく後光輪が明滅を繰り返している。ラバーソードで斬り掛かる瞬間や姿勢制御時には重力を利用した方が効率的な場合もある為、常に識力の量を調整して重力の中和段階を変更しているのだ。
一歩間違えればバランスを崩して墜落の可能性もある極限の綱渡り。高速戦闘において必須の技術となるが、その精度は他の選手と比べて桁違いに高い。
唇を噛んだ陽明は、右半身に纏った識力を炸裂させて、ぐりんっ!! とその場で独楽のように回転した。
発動したのは風車と呼ばれる宙曲技だ。遠心力を乗せたラバーソードで反撃を狙う。
だが、当たらない。
涼しい顔で躱した珀穂が返す刀でラバーソードを振るう。高密度の識力を纏った一撃を辛うじて防御したが、今度ばかりは反発する性質を打ち消し切れずに吹っ飛ばされた。
「(体が、流れる……っ!)」
矢のような速度で宙を滑っていく体。
陽明は全力で識力を足裏に集中させた。スパイク付きの靴底で架空の地面を抉るイメージ。体を吹っ飛ばそうとする勢いに識力の反発力を噛ませてブレーキを掛けていく。
しかし、派手に光芒が飛び散るだけで思ったように慣性や体勢を制御できない。推進装置でも使うみたいに背中から識力を放出しても速度は落ちてくれなかった。
何とか静止できたのは、想定よりも大きく外れた地点。
次の行動に移る為に、一呼吸を入れる。
一秒にも満たない、ほんの僅かな予備動作。
「それが命取りだって、まだ気付かないの?」
目と鼻の先。
音もなくピタリと張り付いていた全国ベスト四が、ラバーソードを下段に構える。
反応など、できなかった。
甲高い炸裂音がドーム状の天井で反響する。レモンイエローの識力を滴らせた一閃が宙に半弧を描き、陽明の胸部を斬り裂いたのだ。
「十四点」
溜まった苛立ちを吐き出すみたいな声だった。
「動作の間に接ぎ穂を作っている内は素人だ。そうやって慎也さんに教わったはずだよ。君、同じ失敗で五点も失ってるって気付いてる? 一年前の君は、少なくともそんな低レベルなミスをする三下じゃなかった。宙曲技も、識力制御も、重力中和も、もっとレベルが高かった」
元ジュニア王者がスケートの初心者みたいに腕を振って体勢を立て直す様を、珀穂は呆れた眼差しで眺める。愁いを帯びた爽やかな顔立ちは、明確な失望の色で昏く染まっていた。
確かに、陽明の識力制御技術は一年前と比べて著しく低下している。
後光輪で重力を中和している為、エバジェリーの飛行や戦闘の感覚は無重力空間で行っているのと等しい。つまり何もしなければ、ラバーソードを軽く振り上げたり、少し重心を移動させたりしただけでも、体は回転を始めてしまうのだ。
それでも問題なく動けているのは、体に纏った識力を炸裂させたり、後光輪で重力中和の段階を操作したりしているから。識力制御技術とは、自然な飛行や戦闘を成立させる全ての要素を含んでいる。慣れるまでは空中でまともにラバーソードを振るう事すら難しいだろう。
地上での動作とは根本から考え方が異なる為、体に感覚を染み込ませる為には膨大な時間を訓練に費やす必要があった。一年間のブランクによる影響があって然るべきなのだ。
「力の差は歴然、逆転の目は皆無。それでもまだ、君は諦めないつもり?」
「ああっ!」
「……分かった」
眉間に深い谷を作った珀穂は、切れ長の両目を敵愾心で研いでいく。
「だったら、僕も少し本気を出してあげる」
正式な試合なら宙域の中央に戻ってから仕切り直しとなるが、点数が七点を超えた頃から二人はそのままの位置から再開するようになっていた。
珀穂の頭上から後光輪の輝きが薄くなる。重力の中和が弱くなり、プールの水面へ落下していった。
だが、水面から三メートル付近で大量の識力を生み出して急制動を掛ける。慣性に押し潰されそうになりながらも両膝を折り曲げた。ぐぐぐぅ、と弓でも引くように蓄えられる膨大な反発力。落下の勢いが消失した直後、珀穂の体は一条の閃光となって大気に放たれる。
転換射出。
識力の反発力をバネみたいに使う事から名付けられた宙曲技によって、珀穂は一瞬で宙域の上空ギリギリ十五メートルまで到達した。
体を反転させ、ラバーソードを右手で持ち直すと、透明な鞘にでも入れるように剣尖を腰付近へ近づけていく。左手は架空の鞘に軽く添えるだけ。重心を下げて、若干前のめりになったその格好はまさしく居合斬りを想起させた。
「――死の欲動、解放」
ッッッゾン!! と。
喉元を刃が滑るにも似た威圧感によって、陽明の胃が一気に収縮する。
「(あの、構えは……っ)」
ピキ、パキ……、と。
冷凍庫で液体の体積が変わって容器を歪ませるみたいな音だった。木枯らしを思い出させる猛烈な凍風。真冬の雪空すら軽く凌駕する氷天によって、空間全体が軋んでいく錯覚に苛まれる。
「そんなに驚く事はないだろ? 二年前に君が世界で初めて手に入れて、当時の戦術や技術を根本から否定した力なんだから。――まるで、どこかの『悪魔』みたいに」
珀穂が鋭く鞘走らせたラバーソードは、もはや白い発泡素材に覆われたゴム棒ではなかった。
刀身が透明な氷で造られた日本刀。
たった一刺しで足下のプールをスケートリンクに変貌させそうな冷気を湛えた氷天の魔術師の切り札。
白い吐息を漏らした陽明が、震える声でその名を告げる。
「裏象『白雪ノ舞』!!」
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