16 氷天の魔術師
「氷天の魔術師』は来ないんですか? 確か、九天大学を拠点にしてるんですよね?」
御波は練習中に思い出した事を口にした。
氷天の魔術師。
今年のエキスパート部門において、最年少の高校一年生ながらベスト四に入った強豪だ。他の人気選手に比べると知名度はまだ低いが、実力は申し分ないため世間からは期待の新星として注目を集めている。新聞部としては、是非とも取材してみたいと思っていた。
「珀穂君?」
プラスチック製のベンチから立ち上がった豊音は、手首に付けたデジタルの腕時計に視線を落とす。
「今日はマンエバの打ち合わせって聞いてるよ」
「マンエバ?」
「『マンスリー・エバジェリー』、協会が制作する公式番組だよ。豊音が出演してる番組で、報告会でも少し流れただろ?」
ペットボトルに残っていたスポーツ飲料を一気に呷った陽明が代わりに答えた。
「動画配信サービスと提携したコアなファン向けのチャンネルさ。他のスポーツでも公式戦全試合を放送する有料チャンネルがあるけど、あんなイメージだな。テレビじゃ放送しない大会中継とか、有名人をゲストに呼んだトークとか、月一で色々やってるよ」
「珀穂君、今月の放送に出るみたいだね。打ち合わせが終わったら練習に来るって言ってたし、そろそろだと……あ、噂をすれば」
プールの入口を見てみると、まさしく黒いスポーツジャージを着た少年が現れた所だった。
気難しくて、近寄りがたい識者。
漆黒の夜闇を孤高な輝きで遠ざける月。
それが『氷天の魔術師』こと氷川珀穂の第一印象だった。
爽やかさの中に、愁いにも似た翳を含んだ顔立ちだ。どんな服でも着こなしそうな長身痩躯なのだが、鍛えているため軟弱な感じはしない。先端が跳ねた短髪に、聡明さを放つ黒縁眼鏡。刃物みたいな切れ長の両目は、氷の棘にも似た彼の冷たい印象を象徴しているようだった。
「……っ」
陽明の存在に気付いた珀穂が、プールサイドで息を飲んで固まる。だが、両目を見開いていたのも束の間。まるで仮面でも嵌めるみたいに冷徹な表情になると、イヤホンを外して近づいて来る。突き放すような眼差しは、春を拒絶する吹雪を想起させた。
「君、復帰したって本当だったんだ」
「……久しぶりだな、珀穂」
どろり、と。
短く言葉を交わした刹那、二人の間にぎこちない空気が横たわる。
険悪とか、一触即発とか、そう言う類の緊張感ではなかった。粘着質で、濁っていて、重たい。多分、二人の関わってきた長い年月が限界まで感情を煮詰めてしまったのだ。
「大会は見てた、遅くなったけどベスト四おめでとう」
「思ってもない事を言うのはやめてくれる? 僕が『悪魔』に惨敗する場面、君も見ていたんでしょ?」
棘のある声音で告げると、珀穂はニヒルに口許を歪めた。
「だけど君、どうして復帰する気になった訳? もう二度と帰ってこないって思ってたのに」
「飛ぶ理由を貰ったから、かな」
「何それ、意味分かんないんだけど」
「俺にも色々あったんだよ。それに、慎也さんからも頼まれたし」
「慎也さんから?」
「ああ、『悪魔』を倒す祓魔師になって欲しいってさ。エバジェリーの未来を守る為に」
「……へぇ」
ぞっっっ!! と。
御波は総毛立つ想いに体を強張らせた。まるで、細身の少年が炎に化けたような錯覚に苛まれたのだ。
「(な、なに……今の)」
珀穂から迸った感情の正体だが、今回ばかりは容易に理解できる。
怒り。
それも煮えたぎる溶岩のような尋常ならざる憤懣。
「ならさ、一つ提案があるんだけど」
得体の知れない闇を笑顔で隠して、氷天の魔術師は告げる。
毒々しく、爽やかに。
「僕と練習試合、やってみない?」
× × ×
陽明と珀穂の試合は、練習の最後に行われる事になった。
時刻は午前11時40分。プールサイドで練習の参加者達が見守る中、二人は白いラバーソードを片手にゆっくり空へ上がっていく。
「豊音先輩」
御波は声を潜めると、心配そうに陽明を見守る豊音に声を掛けた。
「あの二人って、仲が悪いんですか? 練習中も一切喋ってなかったですけど」
「うーん、そうでもないと思うよ」
言葉を選ぶような間を空けると、豊音は少し困った表情を浮かべる。
「ただ、お互いにどうしても意識しちゃうんだろうね。同じような時期にエバジェリーを始めて、ずっと一緒に練習してきて、似たような結果を出して競ってるんだから」
「ライバルって感じですか?」
「端的に言えばね。ただ二人とも、そんな簡単な言葉で括るなって言いそう。特に珀穂君は拗らせてるし」
陽明が緊張で顔を固くする一方で、珀穂は不気味な程にポーカーフェイスを貫いていた。鋭い眼光は冬の雨に濡れたみたいに冷たい。
「二人とも識力の色が黄色なんですね。他の人は緑とか青なのに」
「識力の色は階位によって変化するの。ハル君も珀穂君も第五階位だから黄色なんだよ」
「つまり、基本性能は互角って事ですか。実際はどうだったんです?」
「実力の差はほとんどないと思う。でも、去年の全国大会で珀穂君はハル君に負けて敗退しているの。ジュニア部門に参加できる最後の年だったし、珀穂君も思い入れがあったみたいで凄く悔しがってた。……そっか、二人が戦うのはそれ以来ってことになるんだ」
「因縁の対決って訳ですね」
珀穂の練習を見てみたが、その実力が桁違いに凄まじい事は一目瞭然だった。他の選手を圧倒してきた陽明だが、今回ばかりは楽な戦いにならないだろう。
「陽明、大丈夫ですよね? 相手が今年の全国ベスト四だとしても、アイツは去年のジュニア王者なんですし」
「……そうだと、いいけど」
しかし、豊音の顔から不安の色が消える事はなかった。
審判を務める大学生の男が、水面から七メートル上空に浮かんでいる二人の間に割って入る。
エバジェリーは決められた宙域を飛び回り、ラバーソードで攻撃して点数を取り合うスポーツだ。
宙域は横幅25m×奥行25m×高さ15mの直方体。公式戦なら特殊な光線で空間を区切る為、さながら立体的なボクシングリングのようになるが、突発的な練習試合である今回は水面にブイを浮かべているだけだった。
有効な攻撃範囲は腕を除いた上半身。正面なら一点、背後からなら二点が加算される。プールに落ちたり場外に出たりすると反則で相手に一点が入る。試合時間は十分で、先に三点を獲得した選手の勝利だ。
しん、と。
呼吸すら躊躇う程の静寂が、プールの水面に凪を訪れさせた。微かな布擦れの音。誰もが固唾を飲んで見守る中、審判の大学生が片手を挙げた合図だ。
そして。
戦いの火蓋が切って落とされる。
最初に動いたのは元ジュニア王者だった。全身から黄蘗色の識力を迸らせると、目にも留まらぬ速度で宙を蹴る。
発動した宙曲技は急発進。雷光じみた鋭さで一気に距離を詰めた。
対する全国ベスト四は緩慢な動作でラバーソードを持ち上げて、横に振るう。
たった。
それだけだった。
直後、轟音が炸裂する。
陽明の体が砲弾のように吹っ飛んで、プールサイドに突き刺さったのだ。
「ハル君っ!!」
豊音の悲鳴じみた声が炸裂する。
自動車の衝突実験を想起させる勢いで硬いプールサイドに激突したが、そのまま病院送りになる事はなかった。ぼむんっ!! とトランポリンみたいな柔らかい何かに弾かれて、無重力空間で漂う水のようにふわふわと浮いているのだ。
「(び、びっくりした……識力の反発力が激突の衝撃を打ち消したのか。でも、ダメージがゼロって訳には……)」
空中で体勢を立て直した陽明だったが、その顔は痛みを堪えるように顰められている。ヘルメットも被らずに空を飛べる理由は分かったが、肉体に掛かる負担はかなり大きそうだ。
「……一体、何が起きたんですか?」
「珀穂君が識力の反発を利用したんだと思う。本来なら識力を纏っている物同士なら触れ合えるんだけど、それは識力の密度が同じような場合だけなの。桁違いに高密度の識力の前には薄氷程度の意味も為さない」
「つ、つまり、ただ識力を纏ったラバーソードで叩いただけって事ですか!? だけど、それって……」
陽明の基礎能力が珀穂の足元にも及ばないという事になる。実力の差を示すには、これ以上なく明白な方法だ。
「……似てる」
「え?」
「そっくりなの、あの日に……ハル君が、『悪魔』に敗北した一年前に! このままじゃ、また……っ!!」
豊音は顔を真っ青に染めたまま、口許を両手で覆い隠す。
「君がどんな理由を貰ったのかは知らない。興味もない。だけど練習を見てても思ったけど、その様は何? そんな実力で大口を叩くなら話は別だ」
呆然と空を見上げる陽明に向けて、氷天の魔術師は無情にもラバーソードの剣尖を突き付ける。
「来なよ敗北者、地に墜ちた君がどれだけ腑抜けになったか教えてあげる」
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