12 翼の理論
「そもそもだけど、御波ちゃんはエバジェリーで人が生身のまま空を飛ぶ理屈って知ってる?」
首を横に振ると、豊音は脳内を整理するように視線を上向けてから話し始めた。
「エバジェリーはね、精神医学の治療法から発展したスポーツなの。元になっている理論は『福木派』と呼ばれる深層心理学。エバジェリーの生みの親で、日本エバジェリー協会の長でもある福木弥勒が九天大学で研究していた理論だよ」
「心理学、ですか?」
「うん。福木派ではね、人間の意志や欲求は全て無意識に存在する『情動』から生まれるの。情動とは、感情を創り出す心の働き。それを私達は『生の欲動』と『死の欲動』の二つに分けて考えているんだ」
美人な先輩は立石に水といった様子で説明を続ける。
「生の欲動は夢や目標を叶えたいって願う心の活力。死の欲動は理想と現実のギャップに絶望して生まれる心の毒。感情を生み出す正と負の因子って感じかな」
「頑張ろうって思う気持ちの元が生の欲動で、もうダメだって諦めたくなる気持ちの元が死の欲動ってことですか?」
「そうそう、そんな感じ。人間は何か行動を起こす時、必ず生の欲動と死の欲動を戦わせるの。テスト勉強をしなくちゃいけないけど遊びたいなぁとか、甘い物を食べたいけどダイエット中だからなぁとか、そんな風にね」
「あー、それは何となく分かります。脳内会議の天使と悪魔ですね」
「うんうん。そして、二つの欲動の葛藤によって生まれるのが識力なの」
「識、力……?」
「御波ちゃん、飛んでいる選手を見てみて。淡い光を纏っているでしょ?」
「はい」
光の色には個人差があった。プールの水面付近で練習しているグループは紫色と青色で、十メートル上空で編隊飛行している人達は水色と緑色。だが、どうしてか陽明だけが黄色である。
「あの光が識力だよ。強い情動によって生み出される心的エネルギー。それがPACEによって現実世界に放出されているの。エバジェリーにおける飛行や戦闘は、全て識力を使って行われているんだ」
「すごく綺麗な光ですね」
語弊はあるかもしれないが、心の働きで生み出される『魔力』みたいな物なのだろう。
「説明だけじゃ分からないだろうし、実際に体験してもらおうか」
豊音はベンチに置かれたプラスチックのケースから白いチョーカーみたいな機械を取り出した。長い髪を掻き上げてPACEをうなじへ装着する。立ち上がり、右手で機械側面のスイッチを弾いた。
その途端。
蕾が開花するように、豊音の全身から淡いリーフグリーンの光が溢れ出す。
「じゃあ御波ちゃん、ラバーソードで私を叩いてみて」
「……え?」
思わず見蕩れていた御波は慌てて立ち上がる。
「い、いいんですか?」
「うん、思いっ切りどうぞ」
そう笑顔で言われても、学校の先輩に全力で斬り掛かろうとは思えない。迷った末に軽く白いゴム製の剣を持ち上げて、豊音の左肩から袈裟懸け気味に優しく振り下ろしてみた。
しかし、当たらない。
リーフグリーンの光に触れた瞬間、ぐぐぅ……っと猛烈な反発を感じたのだ。磁石の同じ極同士を近づけるにも似た抵抗。力を込めても剣尖が表面を滑るだけで豊音には届かない。
「これ、は……?」
「識力の反発する性質。密度が一定以上になると外部から物理的な干渉を受け付けなくなるんだ。識力を纏っている物同士なら問題なく触れ合えるんだけどね。実際のエバジェリーでは、識力を圧縮して……」
表に返した豊音の手の平に輝きが吸い込まれていき、小さな光の珠となった。
「破裂させる」
ゴガッ!! と。
手の平が押し返される程の衝撃が放たれる。圧縮する事で反発する性質を高め、それを一気に解放したのだろう。圧縮の方法を工夫して識力を放出させ続ければジェットエンジンみたいに使えそうだ。
「こんな風にして、推進力や姿勢制御で使ったりもするんだよ。それから……」
数歩だけ御波から距離を取ると、豊音は瞼を閉じて息を吐き出した。
周囲に浮かんでいた大量の光が渦を巻いて舞い上がる。まるで映像の逆再生。針よりも鋭い輝きが豊音の頭上へと収束して何かを形作っていく。
そう。
それは、まるで――
「(天使の、輪……?)」
プールサイドを軽く蹴った直後だった。
すぅ、と。
豊音の体が一定の速度で空へ浮かび上がっていく。
五メートル程で右手を掲げ、纏っていた識力を上方向へ炸裂させた。上昇の勢いを相殺したのだろう。何度か体から揺曳している識力を炸裂させてバランスを取る。そのまま、慣れた様子で宙に静止してみせた。
「その頭上の光は、一体……?」
「後光輪だよ。識力を頭上に集めると自然とこの形になるの。使用者に掛かる重力の中和が役割。識力の量を調整すれば、中和の段階だって変えられるんだ」
プールサイドの水滴や近くにあった備品は浮かなかった事から、使用者の周囲に力場のような物を発生させているのではないのだろう。適用範囲は身に付けている物か。
全身から漂わせる識力を適宜炸裂させて移動する様子は、宇宙飛行士が空気を使って無重力空間を移動する光景を喚起させた。飛行時に長髪やジャージの裾が揺れているため、慣性や空気抵抗などは普通に機能しているように見える。
滑らかな挙動でプールサイドに降りてきた豊音の頭上から後光輪が薄れていく。重力を思い出したみたいに垂れ落ちてくる長髪。そのままPACEの電源を切って、全身に纏っていた識力を霧散させた。
「わ、わわわあっ!?」
短い悲鳴。
慌てて目を向けてみると、水面付近でゆっくり飛行していた女子小学生がぐるぐると勢いよく宙で回っていた。
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