10 礼拝堂と老翁
9月5日(日)
午前八時。
先月よりも少しだけ和らいだ朝陽を浴びながら、陽明は自転車を漕いでいた。
目的地は自宅から五キロほど離れた九天大学。寝癖で跳ねた髪を揺らしながら、田んぼに挟まれた細い車道を進んでいく。
無事に夏を乗り切った稲穂は、緑色の中にほんのり黄金色を混じらせていた。まだ日中は車のボンネットで目玉焼きができそうなくらい暑いが、確実に季節は巡っているのだろう。
「(この感じ、久しぶりだな)」
本日はエバジェリーの練習日だ。
九天大学のプールでは毎週水曜日と日曜日に練習が行われる。現役の頃は練習日以外でもトレーニングをしたり、長期休暇には遠征に行ったりしていた為、そこそこ忙しい日々を過ごしていた。それを懐かしいと感じてしまう辺り、一年間のブランクは想像以上に大きいらしい。
タンスの匂いがするスポーツウェアの裾で額の汗を拭きつつ、正門から熊谷キャンパスに入った。
日曜日の早朝という事もあって、博物館や美術館めいた敷地内に人通りはほとんどない。一直線にプールへ向かおうとした途中、結婚式も行える礼拝堂の前で予想外の人物を見かけて思わずブレーキを掛けてしまった。
子どもが見たら泣き出しそうな強面の老翁だ。
年齢を感じさせないガタイの良さに、白髪が混じってグレーに見える角刈り。濃いめのサングラスも相まって非常に威圧的な風貌である。胸元で揺れているのは十字架のネックレスか。葉巻でも咥えさせれば、すぐにでも裏社会の重鎮として溶け込めそうだった。
「テメェ、まさかハルか……?」
老人も陽明に気が付いたようだ。
幽霊でも見たように両目を見開いたのも束の間、にぃと唇の端を吊り上げて快活な笑みを浮かべる。深くなっていく目許の皺。大股で近づいてくると、無骨な手で陽明の肩をバシバシと何度も叩いた。
「久しぶりじゃねぇか、ハル! 元気にしてやがったかよおい!!」
福木弥勒、七四歳。
一般社団法人日本エバジェリー協会の長。識力を使った飛行理論を確立させた心理学者であり、空識道を生み出した人物だ。
「慎也から聞いたぜ、エバジェリーに復帰したんだって? どうして俺に報告しに来ねぇんだ水臭ぇな!」
「ひ、久しぶりです、会長」
曖昧に笑って誤魔化しながら、身を捩って弥勒の手から逃れようとする。跨がったままの自転車がギシギシと悲鳴を上げるみたいに軋んだ。
「会長こそ、どうして日曜日に大学に?」
「俺はこの礼拝堂に用事があって来たんだよ」
弥勒は神妙な顔付きで礼拝堂へ顔を向けた。
苔むした煉瓦造りで、先端に十字架を掲げた尖塔が空へと伸びている。決して大きくはないが、西洋の風を感じる建築様式は見る者に神聖な気持ちを抱かせた。
「俺だって洗礼を受けた神の子の一人だからな。大学で働いていた頃の名残で、今も管理を手伝わせてもらってるんだよ」
「珍しいですよね、大学内に礼拝堂があるなんて」
「そうでもねぇさ。ミッションスクールじゃなくても、教育の一部に宗教的な価値観を取り入れる大学は結構あるぜ。九天大学だってそうだ。一般教養科目には聖書の授業もあったぞ」
「詳しいですね」
「九天大学で臨時講師をやってた事もあるからな。エバジェリー協会を設立してからはそっちに掛かり切りになっちまったけど。心理学と宗教の関係とか、そこそこ学生に人気のある講義だったんだぜ?」
言いながら軽く胸元の十字架に触れる。朝陽を反射して、金色の輝きが視界に残像を映した。
「……会長も、俺を怒らないんですね」
「怒る? エバジェリーをサボってた事をか?」
陽明はぎこちなく頷く。
「慎也さんも僕の事を怒りませんでした。だから、心の中から罪悪感が消えてくれなくて、何だか申し訳なくて……」
「人間は誰もが弱さを持ってる。エデンの園でアダムとイブが神の言い付けを破って禁断の果実を口にしたのだってそうだ。人の弱さってのはな、創世の時代に人類が魂に『原罪』を刻まれた時から存在しているんだよ」
楽園追放。
数多の宗教画のモチーフにもなった有名な聖書のエピソード。
「だから俺は人の弱さに怒ったりはしない。大切なのは、弱さを知ってどうするかだ。実際にハルはこうして戻ってきたじゃねぇか。それだけで十分なんだよ」
弥勒は柔らかく破顔する。暖かく包み込むような声音は、まさしく教育者を想起させた。
「さて、本当ならこのまま久闊を叙したいところだが、俺はもう行かなくちゃいけない。ハルもこれからプールに行くんだろ?」
「はい」
「存分に楽しんでこいよ。それと、復帰したなら偶には協会に顔を出せ。小学生の時みたいに豊音ちゃんと二人でな。お前達は孫みてぇなモンなんだ。俺に菓子くらいご馳走させてくれ」
嬉しそうに微笑むと、派手な格好をした老翁は軽く手を掲げながら去って行った。昔と変わらない大きな背中をしばらく眺めてから、陽明も自転車を漕いでプールへと向かう。
駐輪場はガラガラに空いていた。久しぶりの練習参加なのにギリギリに顔を出すのもばつが悪いと思い、開始時間のかなり前に着くよう自宅を出発したのだ。
「さて、と……」
だが、いざ入ろうとすると足が鈍ってしまい、思わず建物を見上げた。
焼き立ての食パンみたいに膨らんだ屋根や、朝陽を反射する壁一面の窓ガラス。白いコンクリートで造られた現代的なデザインの建物は、九高の体育館よりも遙かに大きい。
一年前までは自宅に帰ってきたみたいな安心感があった。だけど今は見知らぬ土地に迷い込んだみたいな疎外感が針となって胸に刺さっている。
「アンタ、そんな所で何してんの?」
「え?」
背後からの声に反応して振り返る。駐輪場の方から歩いてきたのは、休日なのに九高の夏服を着た小柄な女子生徒だった。
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