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BMI/C

作者: 滝神淡

【1】


 電子機器が立ち並ぶ中の一角にある会議用テーブル。

 昼白色に照らされた室内。

 採光用の窓は無く、天井には換気口。

 落ち着いた空調、これといった臭いの無い空間。

 良く言えば保たれた、悪く言えば無機質な場所だ。

 テーブルに対面で座る二人の男。

 一人は僕。もう一人は……

「ゲームを始めよう」

 落ち着いた壮年の声。

 M字型でグレーの頭部。目が大きくラグビーボール型の顔。

 満実浩司みつみこうじ、経済産業大臣。

 僕は口を引き結び、テーブルの下で手をグーパーと動かす。首の裏が強張っている。

 目の前の男は左腕をテーブルに載せ、企業の採用面接でもするような調子だ。

「ルールは分かるね?」

 傍にあるディスプレイには10月28日19時05分が映し出されている。

「ええ」

 猛獣の檻に入るような激しい緊張。

 最初のお題が発表された。

「Aさんから読み出した情報とBさんから読み出した情報をミックスしてCさんを作り出した……これは出産と言えるか?」

 冷気が肌をさわさわと這い回るのを感じた。産毛が一本一本逆立っていく。

 これは……猛獣の檻すら生ぬるい。


 ゲームのルールその1、いいかげんな回答をしてはならない。

 同僚の調塑拓斗ちょうそたくとからそう言われた時、僕は凄く嫌そうな顔をしたと記憶している。

 10月21日、新千歳空港。

 ステンドグラスの時計は13時08分を示していた。

 行き交う人はぽつぽつ。

 多くの人が北海道の味覚を堪能中なのかもしれない。

 昼食を意識した途端、スーツケースの取っ手の感触が気になり始めた。

「これは絶対だ。情報を得たいのなら」

 調塑は彫りが深く、鼻頭が長い。表情は硬く、声はクールだ。

 僕が担当する案件の前任者である。

「そんなのさ、普通にお喋りするんじゃ駄目なの?」

 僕らは刑事のように専門家ではないが、犯人の口を割らせる話術は一通り学んでいる。それだけでは足りないのだろうか。

「本人はどうか知らんが、満実の方は見分けてくる。上っ面では駄目だ」

 この話はまだ信じ難く靄が巻いている。空港に着き調塑から案件の引継ぎを受けたが、それはUFOの乗船談を聞かされた気分だった。

 犯人は遠藤空羅えんどうくうら26歳男、先週殺人事件を起こし現行犯逮捕。被害者の国昌伸一くなまさしんいちを白昼堂々鋭利な刃物で刺殺。これだけでも充分イカレているが、本当にイカレているのはここからだ。警察の取調べで『私は満実浩司だ』なんて言い始めた。警察は発表を控え、僕達に案件を投げた。担当になったのが調塑で、遠藤から聴取し満実との関係を調べた。

 通常、こんな案件は結論欄に『満実との関係性は認められず』と書き上司に提出して終了だ。

 仮に関係があったとしても現役の大臣相手に下手なことは書けない。

 それなのに、調塑の結論は『逮捕相当』だった。

 調塑は寡黙に業務をこなすタイプで、普段奇抜なことは全然言わない。

 その彼からさきほど聞かされたのは……

 遠藤と満実に面識は無い。しかし遠藤は満実でもある。

 遠藤はBMIによって満実に上書きされた。

 満実の記憶に従い遠藤は犯行に及んだ。

 国昌はBMI研究者の一人で、満実と確執があった。遠藤と面識は無し。

 もう最初の一行目から僕は混乱を極めたものだ。

『遠藤は満実でもある』……

 BMIとはBrain-machine Interfaceの略である。

 脳とコンピュータで情報のやり取りをする技術だ。

 次世代型サポートマシン法が今年施行され、全国民にマイクロマシン手術が施された。

 アニメの世界では脳を機械に置換するSFがあるが、現実がその領域に近付いてきたのだ。

 ただ、現段階では記憶の補助くらいしかできない。

 この、記憶の補助しかできないはずのBMIで、遠藤は脳を上書きされ、満実になった。

 脳の上書きは満実が秘密裏に進めた研究で、国昌はそれに参加した内の一人。

 国昌は途中で研究に恐怖を覚え、うちの子だけはBMI手術の対象から外してくれと満実に懇願。

 満実は例外を認めないとしたところ国昌はメディアに告発すると迫った。そして……

 さて。

 これを遠藤から聴取しましたとだけ言われたら誰にも相手にされないだろう。

 確証が取れないだけでなく変人扱いされて終わりだ。

 問題はここからだ。

 全然別の事件が宮崎県で起きていたのだが、調塑はこれも聴取に行った。

 犯人は兼咲美和かねさきみわ33歳女、先週殺人事件を起こし現行犯逮捕。被害者の田北正次たきたまさじを白昼堂々鋭利な刃物で刺殺。警察の事情聴取で『私は満実浩司だ』と主張し始める。後は遠藤の話と全く一緒。

 遠藤と兼咲に面識は無い。

 警察は二人に面識があると見てネット上で接点が無いか徹底的に洗った。

 しかし全く接触の痕跡が見付けられなかった。

 もう完全にホラーの域に達している。

 空港の出口へ向かう。

 スーツケースのガラガラ音。

 時々聴こえるアナウンス。

「まだ隠していることはありそう?」

「奴は謎をエサにお喋りを楽しむ。それが奴にとってのゲームなんだそうだ」

 念のため調塑の横顔を確認したが、異常性は見られない。

 知能犯に操られている風でも、与太話を信じ切っている風でもない。

 苦渋を奥底に押し込めている感じだった。

 それから空港を出るまで無言だった。

 外では雪が舞っていた。

 きちんと裏取りして確信を持ったのだろう。

 別れ際に差し出された手帳を見て、そう思った。

 紙が波打ち膨らんだ手帳。

 何か食べたいと思ったが一緒に食べる仲ではない。

 かといって、無関係でもない……

 調塑の右腕には包帯が巻かれている。

 それは僕の娘を庇って負った傷。

 遠藤の犯行を目撃した僕の娘がその場で襲われた。それを助けたのが彼なのだ。

 調塑は怪我の大事を取るという理由で案件を解任された。

 僕は彼の怪我の分は義理を返さないといけない、と思う。

 でも……

 手帳の黒革を次々と雪粒が滑っていく。少しずつ欠片が溜まっていく。

 頬が冷たくなってくる。

 雪は雨と違い、静かだ。

 静かに寒さが体の奥へ浸透していく。

 受け取った手帳はまるで形見だ。そっと扱わざるをえない。

『逮捕相当』……そう書けば僕も解任されることになる。

 どうすれば良いのだろう。

 せっかく北海道まで来たのに厄介な知恵の輪を渡されてしまった。

 互いに片手を上げ、別々の方向へ。

 まだ10月だというのに雪の降り方が強い。初雪くらいの時期なのに。

 実家へ向かい荷物を置き、娘の無事を確認したら、その足で警察署へ向かった。

 拘留中の遠藤に会うためだ。

 地元の警察はかなり神経を尖らせていた。マスコミに見付かりたくないとの理由で巡回中のパトカーに拾ってもらい、職員専用口から入った。満実の名前はマスコミに流れてないから大丈夫だと思うんだけど。ずいぶん厳重ですねと言ったら、パトカーで送ってくれた巡査が「なんせ田舎ですから!」と自虐ネタをかましてくれた。同郷ネタで懐に入ろうとしていたのに、これでは言い出せない……

 実際に遠藤に会ってみた感想は『似合わなすぎ』。

 取調室で対面した男は目が細くしもぶくれで、顔の両サイドから口元まで髭が繁茂している。失礼だがこの見た目で知性がある人にはお目にかかったことが無い。

 しかし喋り出すとこれがまた仰天もので。

「担当が変わったのかね? 前の担当は割と気に入っていたんだが」

「前の担当は怪我の具合が芳しくないため休養になりました。あなたが負わせた怪我で」

「そうなのか。それは悪いことをした…………いや、おかしいな……彼は私に怪我をさせられたために担当になったと言っていたぞ?」

 要らないことに気付く。しかも速攻で。

「君は飛行機に乗ってきた。知っているか? 時速1千キロメートルのジェット機に乗っていると時間の遅れは1秒あたり1兆分の1秒。羽田から新千歳空港だろう? 1時間半くらいか? すると……100億分の54秒くらい、君の時間は遅れたことになる。まだまだ1秒にはほど遠い時間だがね。君は相対性理論に興味はあるかね?」

 聞いただけで頭痛がするようなことを楽しそうに話す。

 遠藤の家宅捜索結果を見ると、志向性はヒップホップ、スケボー、風俗、アイドル……科学のかの字も無い。

「まさか取調室で東大の問題をやることになるとは思わなかったよ。今はもう昔みたいにはできない。当時は随分頑張ったものだがね」

 調塑は東大入試の問題を抜粋して解かせてみたらしい。

 結果を見ると、本人が言うようにそこそこの点数でしかなかったが、問題用紙を読んでみたら僕はその点数すら取れる自信が無かった。

 遠藤の履歴にはマンモス校の、楽に入れる大学名が書かれていた。

 満実の経歴は東大卒で経産省入省、それから渡米し軍需関連企業に五年在籍した後帰国、衆院議員に。長年与党で活動し、去年経産大臣になった。遠藤は満実の小学校からの全ての経歴を諳んじ、満実の妻子の名前、満実の学生時代からの友人の名前まで言い当てた。

 遠藤の交友関係の調査結果では、今の総理の名前を答えられる友人が一人もいないし選挙も行ったことがないと口を揃えている。これでは満実に興味を持ちようが無い。

 僕は資料を雑に置いた。

 データと現物が違い過ぎる。

 なんなんだこれ。

『遠藤は満実でもある』…………

 隣でメモと睨めっこしている相棒と顔を見合わせる。

 相棒はオリヴァーというCIA職員だ。

 何故彼がこの案件に付けられたのか上司は説明してくれていない。

 調塑も何故かは知らないと言っていた。

 まあ僕達はやれと言われればやるし、上層部の詮索はタブーだ。

 オリヴァーがそれとなくメモを見せてきた。

『嘘だとすれば簡単に破れる嘘ではない』

 そうだよなあ。

 僕も疑ってかかってはいるものの、疑う余地が一つ一つ潰れていく感触しか得られない。

 あれ、ここおかしいな? みたいなちょっとした違和感すら出てこないのだ。

 あー知恵の輪、知恵の輪。

 まあこの辺のやり取りは警察も調塑もやったはずだ。

 これ以上のことを知りたければ相手の土俵に上がるしかない。

 半信半疑だが、僕はゲームとやらに挑むことにした。

「ゲームは単純だよ。私はお題を出す。君は可能な限り考えて回答を出す。私が満足できれば君の知りたいことを教える」

 本当に単純だ。

 ゲームとも言えないくらい。

 では軽く探るところから……

「あなたが刺殺したのは何人ですか?」

 細かな動きも見逃さないよう目の前の男を観察する。これにはプレッシャーの意味もある。

「そうだなぁ……」

 遠藤はしばし顎を弄って、それからお題を出した。

「吸血鬼は何のために創作されたと思う?」

 取調室を漂うのは和やかな空気。

 しかしその中に紛れ、冷たく攻撃的な空気がヒュッと頬を掠めた。

 僕はしばらくお地蔵さんになるしかなかった。

 遠藤の観察どころではない。

 一問目から、何だよおい……、ちょっとアイマスク着けて国道を横切ってみてくれない? みたいな。そんなレベル。

「クリアできれば何人かを答えよう。ルールを言っておくが……」

 ルールその1は事前に聞いていた通り、いいかげんに答えてはならないというものだった。

 その2以降もあったがその1とさして変わらない。

 ネット検索はダメ。

 質問可だけど丸ごと訊くのはダメ。

 一言で言えば真面目にやれよってこと。

 僕は僕に優しいゲームが好きなんだけどなあ。

 何も考えず、楽にできて、それなりに気持ちよくなれるやつ。

 無言の時間。

 遠藤は言葉に詰まる僕をじっと観察している。

 やられた。

 観察するのは僕の方だったはずなのに。

 焦りといらつきを握り締める。

 くそっ……

 僕はこの案件をなめていたようだ。

 ネクタイの結び目を整える。

 仕切り直しだ……!

 意気込み新たに頭をフル回転。

 すらすらと回答が。

 回答が……

 出ない。

 だいたい問題が難し過ぎるんだよ。

 吸血鬼なんてのはいつ頃発祥なのか知らないし、当時の人々はどんな暮らしをしていたとか、当時の世界情勢はどうだったとか、などなど、歴史や考古学の観点が求められる。日本の例だと天岩戸のお話は皆既日食を表したものなんじゃないかっていう話とかね。

 回答を出すまで僕は七転八倒する羽目になった。

 5分。

 10分。

 ひたすら重苦しい時間が流れた。

 話を組み立てては直し、組み立てては直し、ぐちゃぐちゃになったのでいったん壊して一から作り上げる。

 そんなことを何回もやった。

 そうして出来上がった回答も自信はまるで無かった。

 しかしこれ以上はもう耐えられないため回答に踏み切った。

「僕は昔の人が鉄分不足で貧血になりやすかったんじゃないかと仮定しました。貴族が奴隷から血を集めて飲んでいたんじゃないですかね? そんな光景が、民衆からは化物に見えたとか、で、……どうでしょうか……」

 いやはっきり言えば、詳しい人が聞けば何言ってんだってなると思う。

 自分だって何言ってんだって思うくらいだし。

 でも分からないものは分からないのだ。

 分からないなりに知恵を絞って何か言うしかなかった。

 これじゃあ一問目は落としてしまっただろうな……

 しかし意外にも、奴は気に入ったようだった。

「面白いじゃないか。吸血鬼に貴族のイメージが付与されるきっかけが何かしらあったんじゃないかと着眼した所が良い」

 こちらはそんなこと意識していなかったけれど、漠然とイメージから想像を膨らませたらそうなった。まさかそれをお気に召すとは……何たるラッキー。

「君の問いに答えよう。二人だ。この遠藤という者に限って言えば一人だが」

 ちゃんと報酬も支払われた。

 あっけないくらいに。

 僕は頭を使い過ぎたことと安堵で、深い息を吐いた。

 このハードな脳トレは滝汗で溺れさせたかと思えば、次は跨いで通れるほど低いハードルを差し出してくる……そんな落差の激しいゲームだった。

「気配とは何だ?」

「君の考える最高のお茶漬けは?」

「君の右目は人格形成にどう影響した?」

 お題は多岐に渡り、全く予想していない角度から仕掛けてくる。

 暗中模索。

 僕は必死に手がかりを探し彷徨った。

 しかし鈍足であっても進み続けた。

 訊きたいことは山ほどあった。

 満実しか知りえない情報。

 遠藤が満実だと仮定した場合のあれこれ。

 調塑が既に聞いた内容の再確認。

 話してみて分かったのは、正解を求めているわけではないこと。

 というか、完全な答えが出るようなお題は出されなかった。

 あくまでも思考の過程を見て楽しんでいるようだった。

 もう一つ、これだけは試しておこうと思っていたものがあった。

 途中で、いいかげんな回答をしてみたのだ。

 いったいどんな反応を見せるのか、確認しておきたかった。

『残念だよ』

 そう言ってその時出されていたお題は終了。

 もっと厳しい罰則、例えばその日はもう口をきいてくれないとか、そういうレベルのを想像していたんだけど。

 あっけなかった。

 四十分も話したらくたくたになってしまった。

 それでも食らいついていけたのは、義務と意地が燃えたからだ、特に後者の方。僕は大したことない人間だが、大したことない人間だと他人に思われるのは嫌だ、そういう性格だ。

 終わり際。

 僕が帰り支度をしているところへ遠藤が話かけてきた。

「随分楽しめたよ。食らいついてくるのが大変そうだったがね」

「もう少しお手柔らかにお願いしたいものですが」

 とはいえ、黙秘を貫こうとする奴やすぐキレて会話にならない奴よりは全然良かったかもしれない。

 話が通じるって素晴らしい。

 コートも持ったし鞄も持った。忘れ物無し。

 さてこの後どう動くか……そんなことを考えながら出口に向かう。

「子供は小さいか?」

 ドアノブを捻ったところで呼び止められたため、僕は振り向く格好になった。

 僕が出ていくその瞬間までお喋りが止まらないとは、本当にお喋り好きな奴だ。

「ああ、はい」

「じゃあ、急いだ方が良いぞ」

「え、何でですか……?」

「子供もこの体みたいになる」

 ドクン、と内側の深い所から大きな音が聴こえた。

 何かの種が発芽したのだ、と思う。


【2】


 傍にあるディスプレイは10月28日18時05分を表示している。

「Aさんから読み出した情報とBさんから読み出した情報をミックスしてCさんを作り出した……これは出産と言えるか?」

 鰐と対峙しているような時間が流れる。ルールを破らなければ咬まないから手を出せと言われている状況だと思えばいい。

 遠藤の、あの言葉が忘れられない。

『子供もこの体みたいになる』

 自分の娘が目の前のオヤジの情報で上書きされ、ある日突然『君の右目は人格形成にどう影響した?』などとお題を出してくるようになるのである。

 おぞましい。

 周囲に立ち並ぶ機械たちを見回す。

 Aさんの情報とBさんの情報からCさんを作り出し、その情報で僕の娘が上書きされたとしよう。

 ある日突然性格が別人になる。

 おぞましい。

 それとも、僕の娘の情報が抜き出され見知らぬ誰かの情報と混ぜられCさんが作られて……クソおぞましい!

 狂っている……

『私にはこれができる』

 言葉の裏にそんな示威が潜んでいる。

 そして満実にはそれが可能であることを僕は知っている。

 遠藤も兼咲も、この男に上書きされたのだ。

 それまでの数十年積み上げてきた人生を、あっという間に書き換えられた。

 それは、

 …………死んだ?

 死んだことになるのか、遠藤と兼咲は?

 口内が急速に乾いていく。

 気付いちゃいけないことに気付いてしまった。

 遠藤と兼咲を形作っていた情報は、調査結果にしか残っていない。

 情報。

 情報は……アイデンティティなのか?

 いや、待て待て違う、アイデンティティを情報化したんだ。

 でも情報だったら複製できるじゃないか。

 複製、

 ……え?

 …………え!?

 アイデンティティが……複製できる……?

 何かの境界を超えた。

 馴染みの風景が突如消え去り、見たことの無い風景に足を踏み入れてしまった。

 これは今までに無い概念だ。

 扱いに困る未知の何か。

 黒電話の世代の人がいきなりスマートフォンを渡され四苦八苦する感じ。

 新しい時代。

 そう、新しい時代だ。

 BMIは時代を変えたのだ。

 静かに、一気に。

 コンピュータの中での新しい人格の生成。

 それは新しい概念だとすれば『出産』と言えるのかもしれない。

 セックスをして子供を作るのも遺伝子を混ぜ合わせるものだ。

 それをコンピュータ上でやるだけ。

 仕組みは同じ。

 セックスと呼ぶ儀式を省いただけ。

 急速に『言えると思う』に傾いていく。

 でも心の声がブレーキをかける。

 それを認めちゃいけないと叫ぶ。

 これは論理のどこかに穴があるのか、それとも新しい時代を恐れているだけなのか。

 地に足が付かない。

 満実が興味深そうにこちらを眺めている。

 僕の苦しみを見透かしているのではないか。

 否定する糸口はあるのか?

 性行為が無い。

 これは論外だ。

 人工授精が既に存在している。

 肉体を持たない。

 これはどうだろう?

 肉体が無いから出産とは言えない。

 ……………………だけ?

 不安だ。

 否定する理由として充分?

『言えると思う』に傾いた針を戻すのにはパンチが足りない。

 そもそもどうして戻したい?

 それは、それは……

 あやふやな心の声の言語化を試みる。

 出産にまつわる情報を整理する。

 一つの記憶が掘り起こされる。

 出産に立ち会った時の記憶。産まれた瞬間の喜び。ひとしきり喜んだ後に気付いた全身の痛みで、ずっと緊張していたことにも気付いた。一緒に産んだ気がした。大変さを分かち合った。

 それだ……!

 袋小路で脱出口を見付けた感覚。

 そうだ、僕はこれを大切にしたいんだ。

 だが焦ってはいけない。

 感情的にならず、しかし訴えたいことを整理するんだ。

 僕の目つきが変わったのを奴は察知した。

 回答が出たならどうぞ、という顔をした。

 呼吸を整える。

 唾を飲み込む。

 咳払いする。

 本体の満実に回答するのは初だ、緊張する……出してきたお題のえげつなさからして本体の方が遥かにタチが悪い気がする。

「私が思うに、出産には2つの側面があります。1つ目は事象的側面。『誰々が子供を産んだ』と文章にしたような。AさんとBさんからCさんを作り出した、なるほどこれは原理的には出産と言えるかもしれません」

 滑り出しは順調。

 ここから前半を無難に固めに行く。

「リアルでもAさんの遺伝子とBさんの遺伝子を混ぜ合わせてCさんが作られます。そこからランダムに突然変異が起こり遺伝子の多様性が広がっていくそうですが。コンピュータ上でも乱数を用いれば突然変異を起こせます。コンピュータ上で作り出したCさんも、原理的にはリアルと変わりが無い。しかしですね……」

 ここからだ。

 ここから流れを変える。

「そこで2つ目の側面です。私は出産に立ち会いましたが…………出産には儀式の意味合いが強いのです」

 まず惹き文句を提示。

 それは何だ、と思わせる。

 満実が興味を持ったような目をした。

 ここから攻めに移行。

「出てくるまでが非常に大変です。それより前はどうしたら良いか分からなくて不安があって。で、始まると凄く力みます。見てる方もです。これは……物凄く重い扉に肩を付けてぐーっと押していくようなものです。なかなか開かない。ほんの少しずつ動いていく。妻の容態も重要です。ずっと押せるわけじゃない。逐一様子を見て、行ける時に一緒に踏ん張るんです。まあ男が『一緒に』って言うとおこがましいかもしれません。でも気持ちはそうなんです。そしてせーので扉を押す、休む、またせーので押す。扉が開いた時はもう抱き合って喜ぶようなものです。扉の先は新しい世界です。新しい命を迎えるわけですから。生まれてきてくれてありがとうっていう。まさにドラマの詰まった儀式です」

 攻めは一気に、波濤のように。

 ドラマを凝縮してぶつけた。

 実際の経験に基づいているので気持ちも乗った。

 ここまで来たら、締めに入るだけだ。

 締めで最も効果的だと思ったものを、そっと押し出す。

「肉体を持たないデータにそれがありますか?」

 僕の言葉が、明かしたドラマが、静かに空気に染み込んでいく。

 目の前の男がふーむと唸り、小刻みに頷く。

 手応えあり。

 言葉の戦いには流れがある。

 たぶんスポーツでも同じ。

 流れを支配し、相手を頷かせるか黙らせるかすれば良い。

 満実の場合ただ屁理屈を並べるだけでは駄目という条件が付いているが、基本は同じだ。

 満実はじっくり咀嚼していた。

 僕の喋り出しから回想でもしているのかもしれない。

 頭から尻尾まで全部咀嚼し、いいかげんでないかチェックし、更に内容の良し悪しも判断している。

 待ち時間。

 長い。

 お眼鏡にかなったのか。

 さあこい……!

 ずいぶん黙考した後、ようやく目の前の男が口を開いた。

「2つの側面を考えたのは理性と感情というところか。なるほど、良いと思う。データとして新たな人格を生み出した時それは人間と言えるか。この問題に直面しただろう。これはBMIの時代で初めて出てくる問題だ。人間がそのままデータ化できた瞬間から時代は変わったのだと気付かされたはずだ」

 どうやら満実も時代が変わったと感じていたようだ。

「私も途中までは何の気なしに計画を進めてきたが、データの読み出しに成功した時に気付いたよ。そういえば私の脳を駆け巡っているのも、私の体中の筋肉を動かしているのも、電気信号だ。錐体細胞から送られてくる外の景色もデジタル化された信号だ。そう考えるとデジタルはバーチャルでなくなった。この概念は地層の一つに刻まれたと感じたね」

 きっと遅かれ早かれみんな気付く。

 個性を大事にしましょう、みんな違うがそれで良い、そんな美辞麗句で大切にされてきたアイデンティティが複製できると知った瞬間、地面が消える。

 奈落に落とされる。

 自分達の時代は未来の人達に掘り起こされる地層になる。

「出産というと君が言うように肉体を持つ赤子が大きな意味を占めるのかもしれない。肉体があるからこそ産むのに難儀し、その体験が強く記憶に刻まれる。儀式とは言い得て妙だ。生まれた後も儀式だ。お七夜、お食い初め、初節句など」

 そうでしょう、そうでしょう。

 僕は頷く。

「ならCさんの情報で胎児を上書きしたらどうだ?」

「なっ……?!」

 絶句である。

 目と鼻の先でギロチンが落下し、間一髪助かったような感覚。

 全身の毛穴から冷や汗が吹き出してくる。

「どうした? これなら肉体が得られるし、儀式も経験できる。次の子の時に試してみるかね?」

「いや、そ……れは……」

 口が震える。

 想像してしまう。僕はきっと次の子の時も立ち会う。ハラハラしながらその時が来るのを待ち、始まったらまた一緒に頑張り、新たな命を迎える。しかし生まれてきた子は異形の化物……

「まあいい。お題の回答としてはまずまずだった。タイムリミットを教えよう。今日だ。今日が終われば全員が上書きされる」

 僕は腰を浮かした。

 ディスプレイを見直す。

 まだ19時台。

 0時までまだ余裕はある。

 でもギリギリじゃないか。

 もし僕が満実の逮捕を明日に回していたら……

 絶対にクリアしなければならない。

 次の子を安心して産めるようにしないといけない。

 闘志で精神の立て直しを図る。

 平常心でなければ考えられない。

 乱されるな。

 でもかなり精神が揺さぶられていてきつい。

 疲弊している。

 まだ一問終わっただけなのに。

 満実がそうだなぁ、と考えながら顎を弄る。

 口の左側が持ち上がっている。

「…………では、これはどうだ? 納豆は好きな人にとっては発酵食品だが嫌いな人にとっては腐敗品であるという。発酵と腐敗は明確な線引きが無いそうだ。君にとって離婚は発酵か腐敗か、どちらかね?」

 次のお題が来た。

 頭が真っ白になった。

 平常心は空へ飛んでいってしまった。

 冗談抜きで一瞬意識が飛んだ。


 それは不倫ではないのかね。

 そんな刺さる投げかけは、ボールペンの音が耳障りに感じる取調室で放たれた。

 汚れが目立つ年代物の壁。

 時代に追い付けていない古い事務机。

 採光の足りない窓。

 お茶の湯気と微かな香り。

 周囲と調和の取れていないタブレット端末が10月22日15時32分を示している。

「事件現場に君の妻子と前の担当者が一緒にいたんだろう? 不自然じゃないか」

 そう喋っているのは30代の女。

 僕は北海道の聴取が終わった翌日、今度は宮崎県に飛んでいた。

 相棒のオリヴァーと共に迎えのパトカーに乗り、もう一人の犯人、兼咲に会いに来た。

 会ってみての感想は『気味が悪い』に尽きる。

 遠藤とは顔も声も性別すらも違うのに、喋り始めたら同じだったのだ。

 目の前にいるのは紛れもなく兼咲なのに、遠藤と続きを話しているように感じられてしまう。

 オリヴァーのメモには『別人と決定付ける証拠を探す方が難しい』の文章。

 確か調塑の手帳にも書いてあった。

 兼咲に会ってから満実逮捕へ傾き始めた、と。

「偶然……だと思いますよ」

 何でもないという風に装ったものの、僕は内心穏やかでなかった。

 遠藤の事件現場に何故妻と調塑が同時にいたのか。

 偶然っていったいその確率はどれくらい?

 しかも、妻も調塑も自分からはそのことを言ってこなかった。

 僕は同僚にからかわれて初めてその事実を知ったのだ……

「…………これ以上は控えよう。私のゲームは平常心を保てないとクリアが難しいぞ、大丈夫かね?」

「大丈夫も何も、大丈夫に決まってるじゃないですか!」

 北海道で妻と再会した時のギクシャクぶりはいたたまれなかった。

 娘の無事さえ確認すれば良かったので逃げるように家を出たものである。

 いや、僕が過剰に疑っているだけだと思う。

 信じるべきだ。

 信じたい。

 …………僕は妻に飽きられているのだろうか……

 周囲が気遣うような目を向けてきたので、僕は流れをブツッと切って本題に入った。

「僕が遠藤と話した分は共有されてたりします?」

 ここで重点的に確認したかったのは遠藤と兼咲の違いだ。

 二人とも、何かのお手本を見て模倣していると仮定し、演技のミスを炙り出せるかどうか。

 苦しいゲームをして少しずつ情報を引き出していく。

「共有は無い。この体と遠藤という男は『保存された時までの満実浩司』で上書きされただけだ。保存された後の本体のことは知らないし、遠藤という男がどうしているかも知らない。いずれこの体と遠藤という男も生活環境の違いで差が出てくるだろう」

「同じ満実浩司なのに?」

「クローン人間が全く同じに育つかどうか既に解が出ている」

「予備校関係者から100万受け取った音声が週刊誌に出ていましたが、あれは?」

「色々なルートで計2億くらいはもらっている」

「……何故、そんなことを話すんです?」

「全員を操った後に醜聞が何の意味を持つのかね?」

「仮にですよ? BMIで全員を操ったとしましょう。それは何の目的で、ですか?」

「本体でなければ話さない、というのが満実浩司の強い意向だ。会いに行けば良い」

「裏が取れない情報で本人に聴取なんてできませんよ」

「前の担当は私が提供した情報を持って私の友人に会いに行ったぞ? 裏は自分で取るものだ。まったく、前の担当はもう少し見込みがあったのだが」

 くそーっ腹立つううっ!

 僕は微笑の下に怒りを押し込めた。

 人と比較されるのは一番傷つく。

 しかも妻の一件があったから調塑の方が優秀と言われると血圧が上がる。

「まあいい、これはゲームだ。この兼咲という者や遠藤という者に色々喋らせたのは、止められる者が出ればそれもまた良しという本体の意向だ。本来なら何の障害もなくBMIの目的が完遂されるが、何かしら障害があった方が良いと考えたようだな。今のところ君しか障害になれる者がいない、だから私は案内している。直通の電話番号も居場所も教えてある、他に何が必要だというのかね?」

 いつの間にか、僕は唯一の希望にされてしまっていたらしい。

 僕が行かなければ、みんなが操られてしまう?

 遠藤や兼咲みたいに?

 僕も、妻も、娘も……?!

 いやいやいや、そんな、ちょ、いや駄目だろう、呑み込まれるな!

 しかし目の前の兼咲を見てみると、与太話と切って捨てることができない。兼咲は小さな子供の育児をしていたのに、突然子供を放置して家を出ていき、犯行に及んだのだ。兼咲の様子を警察が夫に見せたところ、夫は『僕の知ってる妻じゃない』と取り乱したと記録にある。

 満実の犯行……その可能性を排除できない……!

 僕はどんどん追い詰められていることに気付いた。

 状況は満実の所へ行けと道が一本だけ残される。

 でも無理だ。

 いったい何の理由で満実の聴取に踏み切るんだ?

 調塑は解任されたんだぞ……!

「煮え切らないな……ん、待てよ? そうか、前の担当は本体の聴取を上司に打診して解任されたのか! ハハッこれは誤算だったな! 本体はせっかく魔王になって待っているというのに、勇者が『魔王を倒しに行く』と国王に告げると解任されてしまうのか!」

 兼咲が余計なことに気付いてしまった。

 そうだよ、国王が魔王に媚びて昇進しようとする組織だからな。

 僕の道は一本道だけどスパッと途中で切られてしまう運命にある。

 どうせいっちゅうの……

 兼咲はひとしきり笑った後、真顔になった。

「使えないな。前任者が正攻法で駄目だったのなら迂回しろ。頭を使いたまえ。頭を使わない者に価値は無い」

 僕は机の下で拳を握り締めた。

 公安に入ったことで僕は割とできる子だと若干のエリート意識を持っていた。

 だがこいつは、満実はっ……それとは比べ物にならないくらいのエリート意識を持ってやがる!

 この時はっきり、兼咲と遠藤は満実であると、僕の中で確定した。

 もう『満実でない証拠』を探すのはやめだ。

 上司のゴーサインを勝ち取るための方策を考えるべきだ。

 僕は机に手をつき勢いよく立ち上がった。

「人が人を見下す時、周りがよく見えていないものです。特に自分の足元とか、ね。やってみせますよ。必ず、会いに行きます」

「そうこなくっちゃ! 面白くなってきた」

 兼咲は満足そうにし、僕は踵を返した。

 調塑の手帳は読み込んである。

 はっきり言えばもうアタリはついている。

 満実のやろうとしていることも、動機も。

 ただ……

 警察署を出たところで思い切り溜息を吐いた。

 大見得切ったものの、上司を何とかする自信もプランも全くない。

 僕の出した書類を上司が全く見ずに承認してくれる奇蹟を期待するくらいしか。

 遅れてやってきたオリヴァーに目を向ける。

 こいつは役に立つのだろうか?

 遠藤の時も今回も質問せずメモをとっているだけだったが。CIAってそんなものなの?

 オリヴァーはメモ帳をパラパラ捲って見せたい所を指で示した。

『人を使えるかどうかで判断する傾向あり』

 心でも読んだのか?

 ……いや、満実のことか。

 僕も若干、人を使えるかどうかで判断してしまうらしい。

 だが僕のは良いが、満実のは駄目だ。

 自分に甘く人には厳しく。

 僕はその後、上司を騙す方法を必死に考えた。

 県内の拠点はマンションを四戸借り上げていて、そこでノートPCや手帳と睨めっこした。

 腕組みして石像になり考え続ける。

 報告書の結論欄に何と書くか、結論に繋げるためのロジックをどうするか。

 結論欄にふわっとしたことを書いて顛末の方に分かりにくく事情聴取するとでも書こうか。

 でもなあ、調塑のことがあった後だから上司も神経質になってるだろうし、顛末もがっつり見るかも。

 だったら『諸般』でも使うか。

 政局に配慮する場合、諸般の事情を見て云々、と書く。

 与党にお伺いを立て、OKが出れば動く。

 でもOKが出るのは末端議員の時くらいだ。

 また、大抵のケースでは地検特捜部が受け持つので僕らがお伺いを立てること自体少ない。

 満実を聴取していいかお伺いを立てたら、与党は激怒するだろうなあ……僕を含め何人かは出世の道が断たれる。

 あーあ……

 駄目だな、分かり辛く書いても見付かったらアウトだし、書いてなければ聴取の権利が得られない。

 白抜き文字で書いてしまおうかな。

 フォントサイズを4にするとかどうだろう。

 ヘッダーやフッターに忍ばせるとかも良いんじゃないか?

 だんだん公文書に細工することばかり考えるようになってしまった。

 そうして夜も更けていく。

 重い時間が延々と続く。

 報告書提出の朝を迎える。

 僕は虚ろな表情で本部へ向かった。


【3』


「君にとって離婚は発酵か腐敗か、どちらかね?」

 ディスプレイが10月28日19時38分を映している。

 僕は意識を取り戻したものの、呼吸が不規則になっていた。

 運動したわけでもないのにずいぶん疲れている。

 汗もかいている。

 このゲームの恐ろしさが本体の満実と対峙して初めて分かった。

 離婚なんてあり得ない。

 僕の夫婦は円満だ。

 妻と調塑があの場にいたのは偶然だ。

 離婚が発酵?

 腐敗?

 ふざけるな!

 表情に出てしまっているのか、満実が訝し気な表情をした。

「家庭に問題でも抱えているのかね?」

「問題などあろうはずがありません」

「…………まあいい。このお題の報酬は『博士たちを殺害したと認めるかどうか』だ」

 僕の頭はまだぐつぐつ煮えている。

 何をわざとらしく。あんたが家庭に問題があるかのように言ったんじゃないか。

 そう、疑いを持つからいけないんだ。

 僕の妻に限ってそんなことがあるはずが無い。

 無い。

 離婚など無い。

 そう言ってしまいたい。

 そこをすんでのところで義務感が抑えている。

 僕はこいつを何としても止めなければならない。

 このゲームには絶対のルールがある。

 思考しなければならない。

 思考力が著しく落ちている。

 何とかしないといけない。

 思考に集中するにはどうしたらいい?

 とりあえず深呼吸。

 一回、二回、三回。

 しかしこれで家庭が壊れたらどうしてくれるんだ。

 ああくそ、またすぐ雑念。

 集中しろってのが無理だ。

 もうとにかく無理矢理でも考えよう。

 離婚が腐敗ね、まあ夫婦関係が腐敗してりゃ離婚するだろう。

 まあ僕じゃないどこかの夫婦と仮定して、だ。

 顔を見れば喧嘩ばかりみたいなのはもう腐ってきている。

 学生時代を振り返ってみれば、別れる時なんてのはだいたい腐っていた。

 致命的なズレ、飽き、他に目がいき始めた、等々。

 鮮度か。

 恋愛は鮮度が命。

 賞味期限が来たら終わりなんだ。

 そこで、待てよ、と気付く。

 結婚は違う。

 電撃婚の場合は知らないが、結婚は賞味期限が来てからだ。

 何ならもう終わりにしてもいいんだけど、という境地で何となく、自分の適齢期みたいなものを感じて区切りを付けるか、と思い立つのだ。

 ただ、それを発酵と言うのはイメージがな……

 発酵食品と言えば体に良いみたいなイメージがあるけど、関係が発酵すると表現するとなんかこう、イメージが悪いみたいな。

 というか離婚だっけ、結婚じゃなくて。

 離婚かぁ……

 基本的には腐敗だよな。

 じゃあ発酵と言えるようなロジックはあるか?

 発酵って言うと、こう……熟年離婚みたいな?

 もうとっくに終わってるんだけど、子供のためにお互い我慢して、我慢して、子供が独立する頃にはもうそれで慣れちゃってるんだけど、何かの拍子に再燃して、そろそろ新しいスタートを切るにはこれが良い、みたいに互いに納得してお別れ。

 そんな感じだ。

 発酵っていうと、こんな感じなんだよ。

 僕の中のイメージでは。

 離婚、ねぇ……

 仮に僕が離婚するとしたら。今後あのことを言い出せないままギクシャクしていき、ある日妻から話があると呼び出される。テーブルの上には離婚届が置かれている。僕はそこで初めて捨てられたことに気付く。親権は、養育費は、とか色んな問題が出てくる。

 ゾッとした。

 そんなこと考えたことも無かった。

 いや考えて結婚生活なんか送っている人は稀だろう。

 頭も肝も一気に冷えてきた。

 そしてもう、決定的に『腐敗』であることが分かった。

「離婚は………………腐敗です……」

 決定的になった言葉は葉から水滴が滑り落ちるように口から出ていった。

 回答を開始する。

 憂鬱な作業だった。

 僕のゾッとするこの気持ちを、何故そうなるに至ったか懇切丁寧に赤の他人に暴露しなければならないのである。

 力の無い調子で自らの思考を一から語っていく。腐敗と発酵について。そして僕の場合発酵にはなりえないだろうこと。

 僕の生み出したヘドロみたいな空気が場を満たしていく。

 もはや内容を聞いていなくても答えが分かるほどの空気感が出ていた。

 満実は微妙な顔をした。

 同情するわけではないがまあ君は君で大変だね、という時にするような表情だ。

「これはゲームだからあまり感情を入れ過ぎない方が良いのだが、まあ良いだろう。君にとってのそれという問いに対し充分な回答になっている。では報酬だ。『認める』。遠藤と兼咲を使ったのは私だ。任意同行にも応じて詳しく話すつもりだ」

 報酬は、通常なら泣いて喜ぶレベルのものかもしれない。

 僕達がいくら証拠を集めて突き付けても、大臣に突っぱねられたらもう手は出せない。

 それが、素直に認めるという。

 大物を挙げたとなれば伝説になるだろう。

 しかし今の僕は意気消沈していることと、ここより先が最重要なこともあって喜べなかった。

「もう、最終問題が出ても良いのでは?」

 次のお題が出る前に牽制。

 僕は遊びに来たのではない。

 そして満実を挙げることもそこまで重要視していない。

 目的は一つだ。

 最初から焦って最終問題を要求したわけではない。

 ちゃんとゲームには付き合った。

 もう充分だろう?

 視線が交錯。

 緊張の一瞬。

 ヘドロの空気が吹き飛ばされる。

 相手はふむ、と軽く頷いて見せた。

「次のお題ができたら、BMIのシステムの止め方を教えよう」

 遂に一番欲しかった報酬が提示された。

「人の情報を読み出したり上書きしたり、全員を操ったりするのができなくなるんですね?」

「そうだ」

 完璧だ。

 最終目的の扉に辿り着いた。

 これまでのお題で疲弊したがもうひと踏ん張りだ。

 娘だけは守らなければならない。

 はっきり言って他はどうなっても構わないが、娘が操られて将来好きでもない相手の子を産まされるのだけは絶対に阻止する。

 絶対にだ。

 僕は命を賭けてここに来ている。

 どんな問題でも来い。

「ではお題だ」

 満実の雰囲気が変わった。

 一回り大きくなったかと錯覚するほどの重圧。

「優生政策をしなかった場合のデメリットは何だ?」

 そうきたか……!

 この男の核心部分。

 この男の描いた計画。

 なぜ、全員を操るなんていう大層な発想に至ったのか。

 その徹底的な執念には恐れを覚えたものだ……


 車内を出る時、液晶時計が10月28日18時26分を示していた。

『彼はこのためだけに人生の全てを捧げてきたと言って良いでしょう』

 車のボンネット越しにオリヴァーがメモを見せてきたのが印象的だった。

 陽が落ちようとしている。

 僕らがやってきたのは岐阜県。

 使われているのかいないのか分からない寂れ具合の水道事務所が目の前にある。

 悪の親玉が住まう城にしては随分質素に見えるが、遠藤も兼咲もここに行けば本体に会えると言っていた。

 それにアポも取った。

 緊張したものだ、現職の大臣に直電することになるなんて。

 そもそもゴーサインが出たのも未だ実感は薄い。

 僕は報告書の結論欄にどう書いたか?

 あれだけ悩みに悩み抜いて。

 結論から言うと、白紙だ。

 じゃあどうしてゴーサインが出たの?

 答えは、今僕が視線を交わしているCIA職員である。

 報告書を出しに行く朝、オリヴァーと会った。そこで頼んでみたのだ。迂回して日本の警察に言うことを利かせられないかと。

 オリヴァーは分かりました、と言った。そうして彼がどこかに電話をしたら二時間後、僕に上司から電話がかかってきた。すぐ本部に来いと言われた。最初は、何か恐ろしい怒りをかってしまったんじゃないかと勘繰って、おっかなびっくり本部に帰ったものだ。しかし上司に聞かされたのは、君の担当している案件がとても深刻であることが分かった、さっき官邸から協力要請が入った、すぐに動いてくれというものだった。

 満実の友人、家族との面会が次々セッティングされ、更にはBMI研究の関係者らの証言集めと、目まぐるしく聴取してきた。

 蔦の這う水道事務所へ向かって歩き出す。

「僕らが遊びに夢中だった時期に、既に人生をデザイン、ね……」

 奴が中学生の時には、構想が固まっていたらしい。と、教えてくれたのは満実の古い友人だ。

『彼は本当に遠くを見ていたよ。どの高校に行ってどの大学に行って、官僚になる。官僚といってもどの省庁に入るかも具体的だった。凄いよねぇ。それから軍需産業にもパイプを作ると言っていた。僕は何でって聞いたんだよ、そしたら彼が、BMIの話をしてね。この国で実現するには強力な政治的影響力が必要なんだって。何でそれが影響力になるのって聞いたけどね、それは時期に分かるってはぐらかされた。まあ僕は科学が好きだったからね、その時はBMIって面白そうだねとよく話したもんさ。そうそう、元々満実君と仲良くなったのも、相対性理論の話で意気投合したからなんだ。今でも覚えているよ、初めて会った相手に、過去には行けると思うかい……って聞いてきたんだよ。変わってるだろう?』

 本当に驚きだ。

 本当に、そんな学生がいるのか……

 オリヴァーが別ページのメモを見せてくる。

『天才は一つの物事に偏執的なまでに取り組むことができる』

「僕らは道端に転がっている誘惑にフラフラ。なりたい職業にはなれないと信じている」

『その差異は、彼には酷くストレスを喚起するものだった』

 水道事務所の前で僕はネクタイを締め直し、中に踏み入る。

 オリヴァーも続く。

 人気は無い。

 奴に指定されたのは地下。

 エレベータに乗り込み、地下三階を押すと動き出した。

 奴のエリート思想は学生時代に積み重ねられていった。名門高校、名門大学と上がるにつれ、失望が大きくなっていったという。

 満実の友人はこんなことも言っていた。

『彼は不満を口にするようになった。名門校なのに何故こうも馬鹿ばかりなのかと。突き詰めると金が目的の輩ばかりで、何を成すために金が必要なのか答えられる者がいないと。ま、彼からすりゃそりゃそうだわな、彼にとって金とは国家予算だ。やりたいことも、必要な金も、桁が違った』

 そんな調子では回りと上手くいかないのではないか、と僕は訊いてみた。

『それが何だか上手かったんだねえ。主流派の参謀みたいな位置にスルッと収まっている。君は頭が良いから馬鹿にうまく助言して操っているんだろうと話を振ったら、彼はいいや、と首を振った。そしてこう言ったんだ。馬鹿は的確な助言を他人にされるのを嫌がる、それっぽいことを言ってやると良いんだ、よく考えると何にもなってないことを……ってね。いやあこれには舌を巻いたね。彼は出世すると思ったよ』

 そして奴は大臣にまでなった。政治家になってからはイライラする度合いが強くなったらしい。とても放送できないほど政治家連中を罵倒していたようだ。

 その舌鋒鋭い姿は古い友人にしか見せなかった。満実の妻も子供も、悪態を吐く姿など見たことが無いと証言している。奴にとっては家庭も演じる場所だったのか。

 地下は寂れた事務所と違い、研究所になっていた。

 秘密の地下施設なんて初めて見た。

 飾り気の無い壁・ガラス・扉。

 無機質と実用性。

「斯くしてバカを一掃したい願望を叶える方向に動き出した、と」

 僕は歩きながら呟く。

 それにもオリヴァーは律儀にメモを見せてくる。

『優れた者だけが残ればストレスが供給されなくなると信じて』

「優秀な両親の子供が事件起こして……ってのはしょっちゅうだけど。BMIを使った壮大な計画が、今完成しようとしている」

『この計画は人生をデザインした時から存在していたのでしょうか?』

 僕はオリヴァーを見て、この男は本当にメモばかりだな、と思った。

 面倒くさがりなのだろうか……まあいい。

「……奴の性格なら、たぶん」

 扉には鍵が掛かっていなかった。

 まさかとは思うが、銃の感触も確かめておく。

 奥へ進んでいく。

 人とすれ違わないのが不気味だ。

 打ち棄てられた廃墟をロボットだけが掃除しているみたいな光景を思い浮かべてしまう。

 広い部屋に出る。

 正面は背丈より遥かに高い壁になっており、壁の上に行くための簡易リフトが設置されている。

 壁の上に人影が見えた。

 待ち構えていたようだ。

 満実はBMI国家プロジェクトが始動してから、古い友人に決定的なことを語っていた。満実の友人は怪談話でもするように、声を落としてこう言っていた。

『博士たちと会話していると不思議なことに疲れない、普段いかに馬鹿ばかりと会話していたか実感すると言っていたよ。だからね、疲れるなら政治の世界から離れたらどうだと提案したんだよ。そんなにまでしてやることないだろうって。それにBMIをやるってことまでは決まったんだから、もう充分じゃないかって。その時の彼の顔は、忘れられん』

 奴は目を閉じ、冷たい笑みを浮かべたそうだ。

『世の中優秀な人間だけなら良かったのにな。人類は過去それを実施して失敗したという。そうだな……それを再度挑戦してみようか?』

 決定的だ。

 もう疑いようが無い。

 奴のやりたいこと、それは……

 僕はもう一度ネクタイを直し、背広も直し、足を踏み出した。

 行くぞ。


【4】


「優生政策をしなかった場合のデメリットは何だ?」

 ディスプレイが10月28日20時12分を映し出す。

 固く圧縮された静けさが漂う。

 部屋の奥には広いガラス窓があり、その向こうに広大な領域が広がっている。

 量子コンピュータとそれに合わせて作られたホライゾン・ストレージの機材が無数に格納されているという。

 満実が本当に話したいのはここなのだろう。

 最後のお題にしてきたことからそれは明らかだ。

 奴は長年作り上げてきたこの城を崩せるものなら崩してみろと言っているのだ。

 デメリット。

 そんなものは思い付かないが、考えた上で回答しなければならない。

 優秀な人間を残し、そうでない者は淘汰していく。

 そうしなかった場合、バカばかりになってしまうとでも言いたいのだろうか。

 ここは今まで以上に丁寧にいくべきだ。

「優生思想は、僕のイメージでは優秀な人だけ残れば良い、そんなエリート思想ですが……何かはっきりした、これだっていうものはあるんですか?」

 自分でここまで考えた、しかしその先が分かりませんとアピールしつつ訊ねる。

 そこは及第点だったようで、満実は満足そうに頷く。

「君の認識はある点においては正しい。しかしこの問題はもっと歪な形をしている。優秀な人間だけ残れば良い、それだけでなく、劣った人間は淘汰していく、ということだ」

「…………それは、同じことでは?」

「そう、だから君の認識はある点においては正しい。何の思惑も無く優生思想を手の平に載せれば、それが正しい認識だ。だが両者は、別物なんだ」

「別物」

 いよいよ分からなくなってきた。

 必死に奴の発言の意味を探る。

 優秀な人間だけが子を作れば劣った者は自然といなくなる論理になるのでは?

 これは表と裏の違いだけで、同じことなんじゃないのか?

 両者は別物……その意味が分からない。

 トドだかアザラシだかは一頭の強い雄=優秀な者だけがハーレムを作って子を残すようになっている。まさに優生思想だ。

 ん?

 雄は選別されるけど雌は選別されないのか。

 何だか世知辛いな。

 あることに気付く。

 何の思惑も無ければ?

 思惑。

 思惑か……

 思惑っていうと、あれか。

 大人の事情。

「自然界においては、正しいと?」

「賢明だ」

 満実が口元を綻ばせる。

 何とか最初の関門は突破した感じ。

 緊張が解けてくる。

 僕だってそれなりに自信はある。

 公安に入るにはそれだけ優秀でなければならない。

 普通の警察官とは違うのだ。

「人間の場合、優生学に基づいて何かをする者もいれば、基づかずにそれを利用する者もいる。ナチスも利用した」

 気が向いたのか、満実がヒントを出してきた。

 ナチスと言われて分からないはずはない。

 虐殺だ。

 標的にされたのは……ユダヤ人。この時、優生思想? 優生学? が利用されたのか。

 高校生の時何かで読んだ気がするんだけど……

 ああ、たぶんあれだ。

「人種差別……それに利用されたんですか」

「そうだ。個々人の優れているかいないかでなく、どの人種が優れていてどの人種は劣っているといった定義に都合よく改変し、利用した。ユダヤ人を劣っているなどバカバカしいことは誰が見ても明らかだろう。アインシュタインはユダヤ人だ」

 これは凄い名前が出てきたものだ。

 僕は目を瞑り集中した。

 答えまでの道はまだぼんやりしている。

 もう少し必要だ。

 人種差別。

 個々人でなく、人種で優劣を決める。

 定義を都合よく改変。

 何故、利用されたのだろう。

 虐殺のため。まともな精神では虐殺などできない、だからあいつらには何をしても良いんだという空気を醸成。そのために……?

 そういえば、優生思想は差別そのものじゃないか?

 優秀なやつだけ残れば良い、劣っている者からは権利を奪う。

 人権侵害。

 人権。

 人権……

 見えてきた気がする。

 人権派弁護士、人権運動、人権啓発……そんな言葉を人生の中で何度も聞いてきた。

 その圧力があるから……

「人種差別に利用されるならそこには大きな反発を生むと思うのです。特に今の世の中、人権が重要視されています。優生思想は人権を無視しなければ成立しないものです、だから失敗したのではないですかね」

「人権の擁護は倫理観を原動力にしているじゃないか。君に充分な倫理観はあるかね?」

 思ってもみないところから質問が飛んできて、僕はウッとなってしまった。

「無い、ですね……」

「そうだな。私も無い。多くの人は、倫理観と聞くと目を逸らすか、反感を覚えるか、だ。場合によっては何も感じないか。ボランティアに参加する人の少なさからしてもこれは裏付けられる。では人権擁護が優生思想を押さえ込む力として充分か。そこには若干の疑問が残る。むしろもっと簡単な理由じゃないか? 基準が曖昧なんだ、優生思想は。何をもって優秀とするのか、何をもって劣等とするのか。それは時と場合によって変わる」

「あ、ああ、なるほど」

 基準が曖昧だと、最初から感じてはいた。

 漠然と、優れた人間だけ残してそうでない者は淘汰していくってイメージはあっても、改めてそれは何かって考えると優生思想とはそもそも何だろうってなる。

「基準が曖昧だから利用されやすい。そして実際利用された。虐殺に利用されたことから、これは良くないものだと認識が広がった。元々失敗する運命にあったんだ」

 満実の話を聞いていると、失敗して当然のことのように思われた。

 僕自身優生思想を漠然と否定すべきものと思っていたが、虐殺と結び付いたから悪として世界中で廃れていったのか。

 それはもう、復活することは無いだろう。

 しかし、目の前の男は復活させようとしている。

 BMIで強制的に。

 緊張感が蘇る。

 そう、僕はただお話ししているのではない。

 彼の野望を阻止するために話しているのを忘れてはならない。

 それで、デメリットか。

 優生政策をしなかった場合の。

 無いと答えた時点でこちらの負けだ。

 一定の納得感ある答えを見出さねばならない。

「基準が曖昧なんですよね? 何か基準を明確にした場合でのデメリットですか?」

 話している内に僕の集中力は鋭くなっていた。

 そう、ここは曖昧さをなくすのが第一関門だったんだ。

 そうしなければ答えに幾らでも難癖を付けられる。

 目の前の男は期待通りだ、という顔をした。

「基準か、そうだな。難病などはどうだ? 実は現代においても優生思想は続いている。出生前診断は聞いたことがあるだろう? 胎児に異常があるかを検査し、異常が見付かれば中絶する。その世界では『検査をして中絶することは悪いことなのか?』といった声が大きい。実際に産んだとしても育てる自信が無い、家庭環境として背負えない、生まれてきた方が可愛そう……色々ある。綺麗事だけでは済まないのだ」

 これはまた強烈なカウンターパンチが飛んできた。

 これは……用意していたな、絶対。

 肌が粟立つ。

 刀を鼻先に突き付けられ、お主も抜けと言われた状態。

 これが、これこそが、本気か。

 空気が熱を帯びる。

 僕は静かに闘志を燃やす。

 受けて立とうじゃないか。

 ここからは本気の殴り合いだ。

「受け取り方は人それぞれあると思いますが……子供を作った責任というのもあります」

「愛し合うことは自由だろう?」

「避妊の方法は色々ありますので」

「そこまで完璧に考えるものかね? 君はそんなに計画的にしたかい?」

 満実の心の自由論に対し僕は一般論をぶつけてみたが、今度は僕の懐に矛先が向けられてしまった。

 攻め方が上手い。

「僕は、気を付けましたよ、ちゃんと」

 そんなの嘘だ。

 でもここで退けば一気に討ち取られてしまう。

「ふーむそうか。では子供を作る以上、それだけの責任は取るべきだと?」

「命を作るってことですからね」

「ならば君は出生前診断はしたか?」

 この流れはまずい。

 痛いところを連打で突いてくる。

 ここも嘘で切り抜けるか?

 でも病院に行った時点で僕の家のデータは作成されている。

 データが存在し、満実の権力ならそのデータを閲覧するのも不可能じゃない。

 だが一人一人のデータなんぞつぶさに見ているとも思えない。

 確率的には乗り切れる。

 だが……

 僕は満実と視線を交錯させた。

 呼吸が止まるような一瞬の後、

「……利用しました」

 やはり無理だった。

 リスクが低くても賭けはしたくない。

 だが困った。

 土俵際まで追い詰められた。

 しかも次に来る攻撃は当然、トドメの一撃である。

「ならばそこで異常が見付かれば中絶を選択したんじゃないのかね?」

 正確に心臓を貫きに来た一撃。

 僕は普通の、どこにでもいるクズだ。

 しかし認めれば満実の野望を阻止する理由も無くなってしまう。

 心は覗くことができない路線で嘘をつくか?

 だめだ、これまでの会話で僕に倫理観が無いことは明かしている。

 出生前診断を利用していてなおかつ綺麗事を並べたら即バレ必至。

 屁理屈路線でこれは優生思想じゃないと持っていくか、いやそれも無理がある。

 これまでの会話はここで追い詰めるための罠だったのか……!

 くそっ汚いやり方だ。

 もはや生半可な防御も反撃も意味を成さない。

 鉄壁の防御か渾身のカウンターしかない。

 集中力は極限まで高まっている。

 頭が焼き切れそう。

 考えろ考えろ……!

 考えろ!

 答えずにあなたはどうなんだ、のカウンターは無駄。

 余計に優生思想を肯定する結果が目に見えている。

 話を変えるのはアリ。

 しかし答えた上でその答えが重要でないことを示すロジックを入れなければ強引過ぎる。

 が、

 …………ん?

 何か、ちょっと……

 掴めそうな……

 ……キタ!

 光が見えてきた。

 吐き気も出現する中瞬時にロジックを組み立てていく。

 この路線で、全力のカウンターだ!

「…………そうかもしれません。ですが、それは可能性の話です。いざ医師に重大な問題があると告げられたとしましょう。そうしたら僕は、妻と話し合います。妻が泣きながら、『私達は命の選別をすべきでない』と訴えるかもしれません。そうされたら、僕も心変わりする可能性だって充分に、あるのです。人間はそんなに単純じゃない」

 この先は話を組み立てている余裕も無い。

 全身の毛穴からどっと汗が噴き出てくる感覚。

 ここで途切れさせてはいけない。

 間髪入れず話を変えていく。

「それよりも問題なのは、こういった事象に対し議論が尽くされていないことですよ! 僕達は優生思想のこともよく分かっていないし、出生前診断と優生思想が関係していることもよく知らない。議論もされないまま進めるなんて民主主義ですか?」

 僕の渾身のカウンターが確かな質量を持った。

 最後の問いかけが何を意味するか目の前の男が分からないはずがない。

 政治家である、彼に!

「ほう……」

 満実が心底楽しそうに笑みを見せる。

 そして肘をついて顎を弄った。

 声が聴こえてくるようだ。

 『まさかこんな返しをしてくるとは』って。

 はは、やってやったぞ。

 窮地を脱しただけでなく攻守まで交替だ!

 少し顎を弄っても良い返しが浮かばなかったらしく、

「確かにその議論は喚起してこなかったな」

 これでこちらに主導権が渡ってきた。

 思考がクリアになっていく。

 もうこのチャンスを逃すつもりは無い。

 必ず仕留める!

「優生政策をしなかった場合のデメリットですよね? 確かに知らず知らずのうちに利用している制度がなくなって何かしらの問題は発生するかもしれません。重大な問題を抱えて生まれてくる子も、その親も境遇を受け入れることができない人も大勢いると思います。しかし、だからといって議論も無いまま強制的に進めるのはやはり拙速だったのではないでしょうか? それに、これまでのお話で言ったじゃないですか、基準が曖昧だから利用されてしまったと。今は基準どころか全てが曖昧です。曖昧だったらまた利用されてしまうでしょう」

 遠くの的を射抜くつもりで、丁寧にポイントを押さえつつ相手を打ち砕く。

 クリアになった思考からは湧き水のように言葉が流れ出てくる。

 お題に回答した上で再考も促す完璧な展開。

 もうどんな反撃が来てもそれごと粉砕できる。

 文句があるならとことんまでやってやる、そんな思いでいつになく真剣な目を満実に向けた。

 満実はしばらく考え込んだ。

 色んな反撃をシミュレーションしているのだろう。

 だがそれがことごとく失敗に終わっているのが分かる。

 王手をかけられたまま逃げるしかなく、逃げたとて数手先には詰み。

 時間が経過していく。

 沈黙が長くなるほど僕は余裕ができ満実は苦しくなる。

 もう沈黙が長すぎると感じ始めた、その時。

 満実が深く頷いた。

 さあまだ抵抗するのか……おとなしく白旗を上げるのか……

「この国でも昔、過ちを犯した……ハンセン病患者の隔離や差別を行った。曖昧なまま優生政策を進めれば、また何者かに利用されてしまうだろう。歴史は繰り返す、か……」

 出てきたのは反撃ではなかった。

 そこに覇気は無く、どこで間違ってしまったのかを探す哀れな呟きでしかなかった。

 安心した。

 もう不毛な殴り合いをしなくて済む。

 ここまで来たら僕にできることはもう、優しくトドメを刺すことくらいだ。

「やり直しましょう。議論を重ねて、それでもどうしてもやるべきだとなったら……その時また進めれば良いじゃないですか」

 テーブルに目を落とした満実に手を差し伸べるように言葉をかける。

 満実はそれに応じた。

「止め方を教えよう」

 彼の表情は晴れやかで、潔かった。

 良かった……僕は緊張の糸が切れ脱力する。

 背もたれに沈み込んでしまいそう。

 ゲームクリア。


 ただお喋りしただけなのに、本当に疲れた。

 昔やったRPGの、ラスボスをやっと倒したみたいな、重労働だ。

 満実に連れられ、壁側を向いているモニタの所に移動する。

 部屋側に向いていないモニタはすなわち、みんなに見せたいものではないという意味だ。

 満実が付近の引き出しから説明書を取り出す。

 説明書の後ろの方が見えるように捲り、僕に渡してきた。

 緊急停止をする場合、と書いてある。

 僕がそれを受け取ると、満実は手を離す前に妙なことを訊いてきた。

「過去に行くことはできると思うかね?」

「ドラえもんに頼むしかないですね」

「…………残念だよ」

 満実は疲れ切った表情で説明書から手を離した。

 その背には哀愁が漂う。

 今更後悔しても遅い。

 それにもうゲームは終わっている。

 これ以上相手にするつもりは無い。

 モニタを触ると各種情報が表示された。

 稼働機数、稼働状態、セキュリティ、容量などが並んでいる。

 僕にはそれらは分からないし必要無い情報なのでスルー。

 モニタ右下に設定ボタンが表示されている。

 用があるのはこれだ。

 説明書を見ながら進めていく。

 設定、その他、作業コードを入力……4桁を入力、と……

 で、おお……?

 緊急停止って題名が出た。

 画面上には注意事項が羅列されている。突然止めるとバックアップが取れないとか、書面で承認を得て操作することとか。

 これらは興味無い。

 『次へ』ボタンを押す。

 操作種類は日時指定じゃなく、即時実行、と。

 最終確認画面が出てきた。

 パスワードの入力を求められる。

 手書きのパスワードを見ながら入力。

 感慨深い気持ちになる。

 現役の大臣を逮捕なんて正気の沙汰じゃない。

 皆が知ったらさぞ驚くだろう。

 まさか日本人全員が操られようとしていたなんて。

 でも、そんなものなのかもしれない。

 こんな大事件も、実際はドラマのように華々しいものじゃない。

 多数のパトカーが取り囲んだり銃撃戦があったり、そんなこともない。

 こういう風に人知れず解決されるものなんだ。

 パスワードの入力完了、そしてOKボタンを押す。

 この事件はどのように報道されるだろう。

 いや、その前に逮捕においても考えないといけない。

 まずは大臣の辞任をしてもらい、逮捕はその後になる。

 これは上層部と政府の話し合いで段取りが組まれるだろう。

 最悪、議員の任期満了まで待つことになるかもしれないが、まあここが止められればそれ以降はどうでも良い。

 野望と挫折、か。

 人生全てを賭けてまでやりたかったことが、ここまで大それた事件を起こしてまでやりたかったことが……そこまでのものなのかね、優生思想は。

 取り調べではどんな供述をするのだろうか。

 何だか哀れに思えてくる。

 画面には緊急停止を開始しますと文言が出た。

 その下に『承認コードを入力して下さい』と出ている。

 僕は説明書に目を移した。

 しかし承認コードの記述は見当たらない。

 さきほどの手書きのパスワードで全て終わっている。

 説明書の背表紙も見てみるがそれらしい書き込みは無い。

 ……あれ?

「あの、承認コードは?」

 僕の問いかけに満実は静かな微笑みで返した。

「過去に行くことはできると思うかね?」

「えっ……?」

 僕の中に強烈な違和感が生まれる。

 違和感は急激に膨張し、背中を駆け上がり凍り付かせていく。

 何か……

 何かおかしい。

 いったい彼は何を言っているんだ?

 何が起こっているんだ?

 画面の方では制限時間が表示された。

 5:00。

 4:59。

 4:58……

 だんだん減っていく。

「いや、ちょ、満実さん、承認コードを、早く……!」

 催促しても満実は黙ったまま。

 僕はパニックになってしまう。

「だってもうゲームはクリアしたでしょ?! 教えてくれないのは反則ですよ!」

「私はクリアだとは言っていない。止め方を教えるとは言ったが。君はルールを破った」

 僕は愕然とした。

 そして違和感の正体が分かった。

 ついさっきのことだ。

 説明書を手渡された、あの時……!

『過去に行くことはできると思うかね?』

『ドラえもんに頼むしかないですね』

『…………残念だよ』

 ゲームのルールその1、いいかげんな回答をしてはならない。

 僕はもうゲームが終わっているからと、いいかげんな回答をしていた。

 ゲームは、続いていたというのか……!

「映画でよくあるだろう。タイムトラベル。未来へ行くことは簡単なんだ。光速の90%まで速度が出せれば、その乗り物に4年半乗っているだけで地球では10年経過していることになる。特殊相対性理論だ」

 満実が楽しそうに喋るのが怖かった。

 画面上で減っていく時間、僕の焦燥とかけ離れている。

「過去に行けるかどうかも科学者が真剣に考えてくれている。有名なのはワームホールを2つ使ったものだ。片方を亜光速で運動させれば2つのワームホールの間に時間差が生まれ、過去と繋がる、という理論だ。ただし、この手のタイムマシンはできた瞬間に爆発を起こし破壊されるんじゃないかと見られているし、量子重力の法則を解明するまで分からないそうだ」

 ただただ奴の言葉が打ち付けてくる。

 僕にはもう考える力は残っていない。

「私は子供の頃からタイムトラベルにいたく興味を惹かれてね。色々本を読んだよ。過去や未来に行けたらさぞ面白いだろうと。しかし色々分かってくると、未来に行くことはできそうだが過去に行くのは非常に難しいというではないか。落胆したよ。そもそもワームホールの理論もワームホールを使えるようにすることがどうしようもなく難しい。少なくとも私が生きている間には不可能だ。しかもそれを亜光速で移動させる? もっと不可能だ。更にはできた瞬間に壊れる? 何だそれは!」

 満実が初めて感情を露わにする。

 妻子にすら悟られない、奥底にしまっていた姿。

「だいたい我々の使っている時間の概念で過去へ行けるのか? 映画みたいに何年何月何日の何時何分何秒と入力して。無理だ! 地球の1日は24時間だが金星の1日は243倍もかかる。今の地球の1日は24時間だが45億年前は1日が5時間だったそうだ。見方によっていくらでも変わる概念で自然界の時間を捉えられるわけがない!」

 次々溢れ出てくる言葉には膨大な熱が籠っていた。

 本当に好きなんだと分かる。

「宇宙にとっての時間を精確に捉えられない限り、過去のいつかの時点に行くことは無理だ。また、時間は1本の流れしかないのか、幾つもの枝分かれしたものなのかも分からなければならない。そうしなければ過去が変更可能かどうかも分からない。そこで重大なことに私は気が付いたんだ。過去に行くためには、過去が保存されていなければならない。この広大な宇宙の全てを、どこかに、だ。そんな途方もない情報の保存場所がどこにあるっていうんだ? 私は絶望したよ。無理だ、過去には行けない……ってね」

 こんな状況なのに、オリヴァーは黙々とメモを取っている。

 おい、何やってるんだよオリヴァー、何とかしてくれよ……こんな時までメモかよ……

「ああ、彼は記録者だ。この実験を記録したいというのが大国の意向でね。代わりにお膳立てをしてもらったが」

 確かにおかしいとは思っていた。

 オリヴァーが電話一本しただけで官邸まで動いたのだ。

 もう残りが30秒しかない。

 僕はヤケクソになり、モニタに手を伸ばした。

「ああどうぞ、てきとうに打っても当たれば停止できる。まあ何度も見ているが、だいたい同じようなものを入力しているがね。本人にとってはランダムでもクセが出るのかもしれない」

「…………えっ……?」

 僕は瞬きも忘れてしまった。

 満実の言葉は僕の理解の範疇を遥かに超えていた。

 何度も、見ている……?

 何度、も……?

 寒気、吐き気、脂汗。

 押し潰すような恐怖、畏怖、恐慌。

 僕は決定的な思い違いをしていた。

 それを悟った。

 悟ってしまった。

「さっきの続きをしよう。私は絶望し、一度は諦めた。しかしすぐにまた諦めきれなくて元の道に戻った。受験勉強をしながら必死に考えた。そしてある考えに至ったのだ。過去には行けない。何故ならば過去に行くためにはその過去がどこかに保存されていなければならないから。だから、」

 この男が人生全てを賭けたもの。

 それは……

「だから私は保存した。何年何月何日何時何分何秒何ミリ秒という、その瞬間を。全ての人の、全てのデータを。過去に行けないなら、過去をこちらに来させれば良い」

                                      了


【あとがき】


 作者の滝神です。ここまでお読みいただきありがとうございます。

 何年か空いてしまいましたが、新作を書きました。


 この作品はこの長さが適切だったので短編程度の長さで終わりました。


 タイムトラベルは古来より扱われてきたテーマではあります。

 でも、納得感あるものに出会えたことが無い。


 とある作品では、この方法で過去に行けるとは思えない、と感じたり。

 別の作品では、設定が破綻していたり矛盾していたり。

 なので、次のことを意識して書きました。


 もし現状、生きている間にできる範囲のことは何だろうか?


 書き終えてみると、SFであり、ホラーじみた終わり方であり、ミステリーみたいでもある不定形な造形になりました。


 また会いましょう。

 ではでは。


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