後編
ぼくは、夏休みがはじまる前に思い描いていた日々を淡々と、なぞるように送っていた。
夏休みの宿題は一学期中にほとんど終わっていた。ただひとつ、読書感想文という大きな山が残っていたが、それは四十日間かけてゆっくり取り組むつもりだった。本を読むのはあまり得意ではなかったし、読書感想文を書くのはまったくすきではなかったが、この夏は読書意欲が湧いていた。たぶん、土屋先生のおかげだろう。以前までなら嫌々一冊を読み、悩みながら感想文を書いていたところを、今回は興味のある本を何冊か読んで、そのなかから一冊、感想文に適した本を選んで書こうと考えていた。「大事なのは自発性だ」とは、土屋先生がよく口にする言葉だったが、その通りだ。本を読みたい自分がいれば、感想文を書くこともいつもより気楽に考えられた。
朝ごはんを食べて意識がはっきりしてくると、まず、本を読んだ。夏休みと言えば午前中はアニメの再放送を見て時間をつぶしていたが、テレビを点けずに本を読んでいると、部屋のなかはしんとして外だけ蝉の声でうるさく、こころが澄んでいくように感じられた。
最初に手をつけたのは夏目漱石の『坊っちゃん』だったが、これはだめだった。情景がうまく想像できず、会話に違和感をおぼえているうちに登場人物の関係性が混乱していき、物語の輪郭があいまいになっていった。それでもなんとか最後まで読んで、途中で投げ出さなかった自分を称えることはできた(それしか得られなかったとも言える)。ぼくは『坊っちゃん』を本棚に戻して、もっと読みやすそうな、身の丈にあった本を探した。
お父さんもお母さんも読書家というほどではなかったが、まったく読まないわけでもないようで、リビングにはぼくの背より高いガラス戸のついた本棚があった。本棚を占める面積は単行本のほうが大きいものの、冊数は文庫本のほうが勝っていた(『坊っちゃん』も文庫本だった)。ぼくは文庫本の背に目を走らせて、気になったものを手に取り、裏表紙に書いてあるあらすじを読んでいった。そして、今度は、現代作家の書いたミステリーを読むことにした。たしかお母さんがすきな作家で、近ごろよく映像化されているのではなかったろうか。これは『坊っちゃん』とは違い、明らかに読みやすかった。会話を中心にして物語が進んでいき、ややこしい描写はなく、何より舞台が現代というだけで安心感があった。かんたんに読めすぎて物足りない気もしたが、とにかくほっとした。本が読めないわけではないのだ。
午後は絵を描いた。引き続き自画像を多く描きつつも、七月に入ったあたりから想像で風景のようなものを描くようになっていた。けれどそれは、見るひとにはほとんど風景に見えないかもしれない、感覚的な風景画だった。画材は相変わらずクレパスで、最初はクロッキー帳に描いていたが(自画像もコピー用紙ではなくクロッキー帳に描くようになっていた)、もうすこし大きな紙に描きたくなって、スーパーで売っている四つ切画用紙に描くようになった。
まず、画面で一番大きくなるであろう色面を塗る。下書きはなしだ。この色面はみずうみをイメージしていることが多く、色は毎回決まっていなくて、単純に青やみず色のこともあれば、それ以外のまったく違う色をつかうこともある。そのあと、みずうみの周りに草花や木、場合によっては動物などを描き足していく。クレパスは細かい描写をすることがむずかしいので、とりあえず大雑把に色を置いていく。みずうみ同様、たとえば草だからといって緑をつかうとは限らない。画面が色で埋まると、今度はカッターナイフや定規の角などでクレパスを削り取り、輪郭を彫り出す。この作業でぼんやりとしている形がシャープに決まっていく。場合によっては鉛筆でクレパスを削りながら形を描いてしまう。二色重ねてから削ると上の色がはがれて下の色が見えることも描きながら学習していたので、それも利用しつつ、絵を複雑にしていく。
出来上がった絵は現実的な遠近感をほとんど無視しているし、草木や動物の姿も実際のものとはずいぶん違っている。その上、形や線があちこちで重なり、絡みあっているので、最終的にはそれが動物なのか植物なのか、そもそも具体的な何かなのかすら、よくわからなくなっている。
いったい、どうしてこんな描き方をするのか。
「そう描くしかないから」としか言いようがない。そもそも、ふつうはどういうふうにして絵を描くのかを、ぼくは知らなかった。
小学生のころに通っていた絵画教室では水彩絵具をつかって絵を描いたりもしていたが、あれはただ目の前のものを写し取るという作業だった。描くものははじめから存在していて、顔についた二つの目でそれらを観察し、紙の上で形をなぞる。色についても、見えている色を、限られた絵具をつかって再現する。
ぼくが描いている風景画には実際的なモチーフは存在しなかった。みずうみや草木や動物を描いているとは言ったが、それはあくまでぼくにとってのみずうみであり、草木であり、動物なのであって、実際のそれらとはほとんど関係がなかった。馬の脚が五本あってもいいし、木が空に浮いていても、蝶に歯が生えていてもよかった。なぜよいのかを説明するのはむずかしいけれど、たぶん、それらが本来形のないものだからだと思う。現実には存在していないものにぼくが仮に色や形を与えて、絵に起こしている。わけがわからないと自分でも思うが、描いているときの感覚を正直に言い表すと、そうなる。
自画像についてはシーレというお手本があったので、比べて良し悪しを判断をすることができたけれど、風景画に関しては何かを見習って描いているわけではないので、うまく描けているのかどうか、ぼくにはよくわからなかった。自画像を描くことがぼくにとって必然的な作業だったとすれば、風景画を描くことは自然的な作業と言えるかもしれない。実感で言うと、何となく地面を掘っていたら水が出て来たので、さらに掘り進めてみたらどんどん湧いて来てしまった、という感じだった。ぼく自身も、最初こそは掘っているひとだったが、しばらくするとあふれ出る水を観察することしかできなくなっていた。そういう意味では、作者とはいえ、絵を見るひととそう立ち位置は変わらないのかもしれなかった。
風景画を描くようになって、自然とシーレ以外の画家にも興味が湧いてきた。自分の絵が何なのか、ぼくはとても知りたかった。ひょっとするとぼくとそっくりの絵を描いているひとがいるかもしれないし、見た目は違っても、ぼくとおなじようなことをしているひとがいるかもしれない。そう考えると興奮した。まったく知らないところで、知らないあいだに、知らないだれかと出会っているかもしれないということに。
絵を描き終わると夕方で、ぼくは洗濯物を入れて、お米を洗い、炊飯器をセットした。外はなかなか暗くならず、ひぐらしが鳴いていた。八時前にはお母さんが帰ってきて、ふたりで晩ごはんを食べた。一時期に比べてお母さんの顔からは疲れが引いているように見えた。近々、会社で試験があるらしい。大人になってからもテスト勉強をしなきゃならないなんてね。お風呂から上がるとお母さんはピンクのマーカーを握って本を開いていた。ぼくは、おやすみ、と声をかけ、自分の部屋のベッドに入った。
北原白秋の本が現れて以降、夢の「進路相談室」にべつの本が現れることはなかった。本以外にも、とくに現れるものはなかった。
夢にやって来るといつも、ぼくは室内を細かく観察した。やっていると気持ちが落ち着いた。
ソファの後ろにある窓の外を見ると「何もない」ということを示す暗闇が均一に広がっていて、蛍光灯の光を反射したガラスにぼくの顔が映っている。手をのばして、窓の鍵をうごかしてみる。持ち手の先に半円のついているような形の鍵は実際の窓の鍵とおなじくらいのひっかかりでうごく。ソファの座面を二度三度手で押して感触をたしかめてから立ち上がり、机の配置を見る。学習机ふたつと長机ひとつが、よく見ると顔みたいに平行にならんでいる。木の椅子は四脚ある。ソファ側から見ると手前にあるのは長机だ。部屋の両側にはねずみ色をした背の高い棚が双子の老人のようにしずかに立っている。
窓側から見て右手、つまり黒板側の棚のなかを調べる。ガラス戸の取っ手の上には、現実とおなじく「大当たり」と書かれた四角いシールが貼ってある。なかには高校の資料や入試対策問題集、厚紙の表紙のファイルが入っている。棚いっぱいに入っているわけではないので、もうすこしでファイルはなだれを起こしそうになっている。下の扉を開くと紙の束が入っている。白紙ではなく、どれもプリントされていて、試しに一枚を手に取って読んでみると、数年前のオープン・ハイスクールの案内だった。プリントの下のほうに切り取り線が入っていて、生徒と保護者の名前を書いて提出できるようになっている。印鑑を押す場所もある。当日は教師の引率のもと、参加者で集まって高校を見学するようだった。ぼくはプリントを元に戻して扉を閉め、反対側の壁にある棚を見に行った。こちらはさっきの棚よりも乱雑にファイルやプリントが押し込まれている。本は一冊も入っていなかった。
それから壁際にあつめられた段ボール箱の中身を確認する。閉じられているものはからっぽであることが多かった。現実の箱の中身を、ぼくが知らないからだろう。ものが入っているのはふたが開いていたスポーツグッズの詰められた箱で、プラスチックのバットやゴムボール、卓球のラケットとピンポン玉、ビーチボール、緑色のネット、フリスビーに水着まであり、これさえあればどこへでも遊びに行けそうだった(剣玉やシャンプーハットといった、スポーツに関係のないものも入っていた)。
黒板にはぼくが書いた正の字が書かれている。この部屋に来た回数を示していて、完成した正の字は三つあり、アルファベットのTがひとつ、その横にならんでいる。ぼくはそのTにさらに一本、線をつけ足した。レールには白いチョークが一本出してあって、あとは黒板消しが置いてある。ぼくはレールについた抽斗のなかを見て、チョークの数を数えた。左には白が七本と黄色が五本、右には青とピンクが一本ずつ入っている。長さの印象も前に見たときとそう変わらない。ぼくは抽斗をしまった。
黒板の隣には細長い掃除用具入れがある。掃除用具入れは本やプリントが入っている棚より色が濃く、緑がかったグレー色をしている。扉を開くと、柄が短くて毛先の広がった古いタイプのほうきが一本と、細い棒の長辺に短い毛がいっぱい生えている新しいタイプのほうきが二本入っている。あとはプラスチックでできた赤色のちりとりがひとつあって、扉の内側についた金属の棒にぞうきんが二枚かけてある。
現実では、ぼくはこの部屋の掃除をほとんどしたことがなかった。一学期の終わりに土屋先生と大掃除もどきをしたが、ほうきでちりやほこりをあつめ、ぞうきんで床や机を拭くだけの、クラスでは毎日する程度の掃除だった。そのときも不思議と、部屋はあまり汚れていなかった。もしかすると、ぼくのいないときに土屋先生がやってくれているのかもしれない。
黒板と反対側の壁にホワイトボードが一台、パイプ椅子が十二脚あることを確認し、部屋の扉を開けて廊下を確認する。それも終わってしまうと、ぼくはいつも自分が座っている学習机の席についた。
机には例の「日本の詩人9」が置いてある。
突然現れたこの本はその後もずっとこの部屋にありつづけた。気まぐれに現れても、気まぐれに消えたりはしないらしい。本の背の下の方に三桁の番号が書かれたシールが貼ってある。その上には赤い丸のシール。結局、貸出カードはなかったが、裏表紙にカードを入れるためのオレンジ色の袋のようなものがついていた。
なぜ、この本が夢に現れたのか、ということについては、ぼくはとっくに考えるのをやめていた。おそらくこれはどこかの図書館で貸し出されているものだろう。ぼくはこれまで図書館という場所にはほとんど行ったことがなかった。小学生のときに親に何度か連れて行ってもらったことがある気がするけれど、そのときの記憶さえとてもあいまいだし、もちろんこの本を目にした記憶もない。実際見なかったと思う。
けれど、「日本の詩人9」は現実にあるまったくおなじ本を再現しているように見えた。
「日本の詩人9」のページを繰った。繰っても繰っても詩が出てきた。ただ言葉が読めるというだけで、ぼくには何が書いてあるのか、ほとんどわからなかった。この夏からはじめた読書はあまりに取るに足らないものだ、とぼくは思った。あんなミステリー小説が束になっても「日本の詩人9」には敵わない。家にあるどんな本よりも、この一冊を読めるほうがよっぽど価値がある。そう思うからには毎回手に取り、ページをめくって読もうとするのだが、ぼくの頭は一向に詩の言葉をとらえることができなかった。おそらくぼくには詩を読むセンスがないのだろう。
土屋先生のように本を読めるようになる日は、たぶん来ないだろうと思った。
本を閉じるまえに、ぼくはいつも「ほのかにひとつ」のページを開く。
「ほのかにひとつ」を読むと、頭のなかではいつも、土屋先生の声が再生された。ふつうにおしゃべりしているときとは違う、音の深い声だった。「ほのかにひとつ」以外の詩を諳んじてもらったこともあるが、そのときにも、先生はおなじような声を発した。あるいはぼくと勉強をしているときにも(詩を読むときほどではなくても)やはり違う声になった。これは、話すときと歌うときで歌手の声が変わるのと似ている。そのひとの力が最大限に解放される瞬間。「ほのかにひとつ」を聞いたのは、先生のなかにある力を最初に感じた瞬間だった。
もし、この部屋にいるのが土屋先生でなかったら、ぼくは別室登校すらできなかったかもしれない。できていたとしても、それは無味乾燥で、学校に登校している以外まったく意味のない時間だったかもしれない。ぼくはもはや、先生に出会う前の自分をよくおぼえていなかった。先生がいなければぼくは学校にも通えず、絵も描いていなかったかもしれない。ぼくや、ぼく以外のだれかがほんのすこしでも違う選択をしていたら、いまのぼくはいなかったかもしれない。奇跡に拾われたのだ。
ぼくは本を函にしまい、机の上に置いた。そして、あらためて夢の「進路相談室」を見回した。夏休みがはじまってまだ十日ほどしか経っていないのに、現実の、この部屋に通っていた日々はすでに遠い記憶になりつつある。土屋先生と会っていないことがぼくを不安にさせた。先生に会いたいと思った。何でもいいから言葉を交わすことができれば、それだけで安心するのに。
ぼくは毎日、土屋先生のことを思い出していた。とりわけ強く思い出す日もなければ、弱い日もなかったと思う。つまり、毎日おなじように、おなじようなことを考えていたというわけだ。
土屋先生が夢に現れた日も、用心して言えばその前日も、ぼくは特別何かをしたわけではなかったと思う。特別何かを考えたわけではなかったし、特別な出来事も起こらなかった。
その日、いつもとおなじ時間に眠りについて、夢のなかで目覚めると、学習机の席にだれかが座っていた。ぼくはソファに座って、正面にあるその背中を見つめた。顔が見えないからと言って、だれだろう、とは思わなかった。
うれしさより戸惑いのほうが大きかった。ぼくはしばらくうごけなかった。
「先生…」
かすれた声でようやく、ぼくは言った。よく思えば、この部屋で声を出すのははじめてかもしれなかった。土屋先生はぼくの呼びかけに反応しなかった。先生、ともう一度ぼくは言った。今度はさっきより芯のある声が出た。それでも先生はうごかない。ぴくりともしなかった。仕方なくぼくは立ち上がり、そばまで行って肩を叩いた。
びくっ、とからだを硬くしておどろいた先生は、ぼくの顔を見てちょっとはずかしそうにしたあと、いつもの余裕のある表情に戻って言った。「きみか。どうした?何でここにいるの?」
「こっちのセリフですよ」
「急に出て来たのはきみのほうじゃない」
「先生ですよ」
「んー?」
口を尖らせて、先生はぼくをにらんだ。ぼくは、自分が苛立っていることに気づいた。たぶん、おどろきすぎたのだろう。目の前に先生がいること、それ自体は嬉しいはずなのに、状況が呑み込めないために口調が強くなっていた。先生の目を見ながら、ぼくはとりあえず声だけでも落ち着けようとした。
「先生は、これが夢だってことに気づいていますか?」
「もちろん」先生はぱちぱちとまばたきをした。目は覚めているというふうに。「それはすぐにわかったよ。明晰夢は独特の感覚があるからね。服も夏にしては厚着だし、窓の外は真っ暗だし」
先生はファスナーのついたグレーのパーカーのなかに白と紺のボーダーシャツを着て、ほとんど黒に近いブラウンのロングスカートをはいていた。春先によく見た服装だった。ぼくはまだ詰襟を着ている。
「でも、この夢は、わたしの見る明晰夢とはちょっと違うみたいだね。最初に見た日に、いつもみたいに空を飛んだり、瞬間移動しようとしてみたんだけど、だめだった。部屋から外には出られるけど、廊下はこの部屋のある通りまでしかないし、ほかのフロアにも行けない」
「ちょっと待ってください」ぼくは先生の言葉を巻き戻し、頭のなかでゆっくりと再生してから、言った。「先生は、この夢を見るのははじめてじゃないんですか?」
「ひょっとして、きみも?」
ぼくらは探るようにお互いの顔を見つめ合った。
「きみは今日、はじめてこの夢に出てきたよ。わたしのこの夢にね。きみはきみで、この部屋の夢を見ていたって言うのは、つまりはそういう設定でわたしの夢に出て来ているということ?」
「ぼくから見れば、ぼくの夢に先生が現れたっていうことになります。何度もこの夢を見ている、って主張する先生が」
「何だかきみ、現実より怒りっぽいね。自己主張も激しいし」
「困ってるだけです。どういうことなのかわからなくて」
「ふうん」
土屋先生は、なぜかおかしそうに笑って、手元に目を戻した。気づいていなかったが、先生は「日本の詩人9」を手にしていた。
「この本、知ってる?」と土屋先生が訊いた。
「はい。でも、現実では知らないです。見たこともないですし。すこし前ですけど、突然現れて、それからずっとあるんです」
「すこし前?」先生は振り返ってぼくを見た。「わたしは、今日はじめて見つけたんだけど」
「前からずっとありましたよ」
先生は納得がいかないというふうに目を細めた。
「これ、たぶんわたしが中学生のときに読んだ本だよ」手元の本を開きながら先生は言った。「図書館にあった本でね。よくはおぼえていないけど、背の番号シールの雰囲気とか、後ろの貸出カードを入れるところとかが、そっくりなんだ。夢に見るほど印象深い本ではなかったはずなんだけどね。もちろん白秋はすごいと思っていたけど、あくまで乱読していた何千という本のうちの一冊に過ぎなかったし。まさか、無意識下にこんなにはっきりと記憶が残っているなんて」
「でも、ぼくはいっさい見たことがないんですよ。先生がどこの図書館に通っていたかも知らないし…」
先生は本を函にしまった。それまで一度も思ったことがなかったが、先生はとてもきれいな手をしていた。いや、手がきれいなわけではない。指は短くて節が立っていたし、肌も硬そうに見える。でも、本に触れるときの先生の手は何か特別な空気をまとっていて、「美しい」という言葉がよく似合った。先生はきっと本を愛しているのだろう、とぼくは思った。
「とりあえず、ふたりで情報を出し合って、整理してみよう」
先生は立ち上がって、席をぼくに譲り渡した。
土屋先生がこの夢を見はじめたのは夏休みに入ってからだという。ぼくと比べればまだそれほど日が経っていなかった。先生はそれまでにも何度か「進路相談室」が舞台になった夢を見たことがあったが、それはこの夢とは違ってふつうの夢だったし、明晰夢でもなかったので、最初にこの夢を見た日はなかなかその奇妙さに気づけなかった。
「やけに明確だな、とは思ったよ」感触をたしかめるみたいに前髪を引っ張りながら、先生は言った。「目に見える情報や質感が。頭がすごく冴えていたから、明晰夢だっていうのはすぐにわかったけどね。いつもと違ったのは、外が真っ暗だったこと。わたしの場合、明晰夢はいつも昼の情景ではじまるんだ。必ずね。だから、妙だな、って思って、窓に近づいてよく見たら、夜っていうわけでもないみたいじゃない。まるで墨を流し込んだみたいに真っ黒で。それでいろいろ調べはじめたんだ。ほかの明晰夢とおなじことができるかどうか、とか。この部屋や建物がどうなっているのか、とか」
そのあとの調査は、ほとんどぼくがやったこととおなじだった。
けれど、調査結果は微妙に違っていて、たとえば先生の夢では「面接グッズ」と書かれた段ボール箱にはちゃんと中身が入っていた。
「からっぽ?そんなわけないよ」
そう言って先生が持ってきた「面接グッズ」の箱には鉛筆やバインダーといった筆記用具といっしょに、鼻つき眼鏡やつけ髭といった、パーティーグッズといっていい変装の小道具が入っていた(三角帽やクラッカー、ろうそくも入っていたので、ほんとうにパーティーをするつもりだったのかもしれない)。
「中身を見たことがあったんですか?」
「当たり前じゃない。『面接グッズ』って何だよ、って思わなかったの?」先生は子どものようにぼくを馬鹿にした。
それから、ぼくらは、ふたりがなぜ、お互いの夢に現れたのかを考えた。
土屋先生は、まだぼくが意識を持たない、自分の夢の産物だと疑っていた。
「夢のなかで他人の意識と出会う、なんてことを信じるのは、なかなかに無理があるよ。それよりは、そういう設定でわたしがきみを捏造していると考える方が真っ当じゃない?」
「じゃあ、ぼくはぼくで先生を捏造しているということになりますね」
「わたしにとってはそうではないけどね」
「ぼくは先生がほんとうの先生だって認めていますよ」
「いいの?そんなふうに妄信して」
「捏造したぼくにそんなことを言うのも変ですよ」
「言うね」
先生は呆れたようにため息をついた。ぼくは出来の悪い生徒みたいだった。
「でも、やっぱり証拠もなしに信じるわけにはいかないな。検証してみよう。わたしときみがそれぞれほんとうに覚醒した意識としてこの場にいるのかどうか」
「どうするんですか?」
「かんたんだよ。明日の朝、きみがわたしに電話してくれればいい。そして言うんだ。『先生、夢で言ったとおり電話しましたよ』って」
それから先生はぼくに電話番号を教えた。ぼくは何度も先生に確認して、番号を暗誦できるようにした。
「きみがうちの電話番号を知っているはずがないし、さらに夢のことを言われれば、わたしはきみの意識を信じることができると思う。きみはきみで、きちんと電話がつながれば、わたしのことを信じることができるでしょ?」
「なるほど」とぼくは言った。
「合い言葉も決めておこうか。『電話しました』っていうのも味気ないもんね。何がいい?」
すぐには浮かばなかったので、ぼくは周りを見遣った。
「『面接グッズ』と『つけ髭』はどうですか?」
「それじゃあ単純過ぎる。もっとむずかしいのがいいよ」
どう単純なのかはわからなかったが、ぼくは迷って、目の前の「日本の詩人9」を指差した。「じゃあ、これをめくって、目についた言葉にしましょう」
「それでいこう」と先生は言った。
先生とぼくは順番に「日本の詩人9」をめくった。先生が「蓮」、ぼくが「按摩」になった。先生は一刻も早く実験をしたいようだった。とにかく好奇心が旺盛なひとだ。
「夢から覚めるときはいつもどうしてるの?」と先生が訊いた。
「だいたいソファでうとうとします」
「時間がかかりそうだね。わたしはここから飛び出すよ」
先生はソファの後ろにある窓を指した。ぼくはびっくりした。
「窓から?」
「夢を強制終了したいときはたいがい高いところから落ちるんだ。ゲーム・オーバーって感じで目が覚める。やったことない?」
観覧車から先生が飛び降りる夢を見たことを、ぼくは思い出した。まさかほんとうにおなじようなことをやっているとは。せっかくだから試してみない、とすすめる先生に、ぼくはこわいとも言えず、仕方なくうなずいた。
窓を開けても風はまったく吹いていなかった。部屋の空気がうごく感じもしない。先生が、ほら、と言って左腕を外に出した。先生の腕は外に出たそばからすっぽりと闇に包まれて、肘から先が消えたみたいになった。闇から引き抜くと、左腕は元に戻った。きみもやってみなよ、と、言うので、ぼくは右手を手首のあたりまで闇につけてみた。右手は何の感覚もなく、ただ姿だけを消した。
先生はソファの上に立ち、右足を窓枠にかけた。
「大丈夫だから」ようやくぼくが臆病であることに気づいたのか、先生はぼくの肩をやさしく叩いた。「一瞬だよ。ふわってしたら、もうふとんの上。きみはベッド派?」
「ベッドです」
「じゃあ、ベッドの上だ」
「ぼくから飛んでもいいですか?」
先に飛んでもらうつもりだったが、取り残されるほうが嫌かもしれなかった。もちろん、と言って、先生は右足を外し、ソファから下りた。入れ替わりにソファに立つと、座面がぐにぐにと沈んで上体が揺れた。先生の真似をしてからだを支えるように右足を窓枠に立てる。
「電話だけど、十時くらいにしてもらっていい?いや、十一時のほうが確実か。子どもを保育園に送り出して、洗濯や掃除を済ませて、一息ついてるころだと思うから」
「わかりました」
ぼくは何も考えないようにして頭の上にある窓枠を両手で掴み、一瞬からだを後ろに引いて、勢いをつけてから外に飛び出した。
「待ってるよ」
残響も許さないくらいに、闇はすばやくぼくの意識をのみ込んだ。
先生の言っていたことは正しかった。飛んだ瞬間こそ落ちるような体感があったが、すぐにぼくはベッドの上で目を覚ました。ソファで眠るよりよっぽど手っ取り早い。とはいえ、やっぱり気の進む手段とは言えなかった。胸のなかでは心臓が跳ねているし、呼吸が荒くなっていたのか、口のなかが乾いて気持ち悪かった。
机の上の置時計を見ると七時半だった。いつもより一時間早く目覚めている。強制的に、いつもより短く夢を切り上げたからかもしれない。どうせ十一時まで電話をかけられないのなら、もうすこし先生と話していてもよかった。けれど先生は早く起きたかったかもしれない。そういえば、夢を終える時間がいっしょなら、起きる時間もいっしょなのだろうか。先生もいま、起きたところなのだろうか。
お母さんが準備をして家を出るまでの物音を聞きながら(お父さんはもう出勤している)ぼくはぼんやりとベッドで寝転んでいた。九時になると起き出して、食パンを焼いて食べた。お父さんが残していったコーヒーをソーサーから注ぎ、牛乳を入れて飲んだ。
クマゼミの鳴き声がマンションの棟のあいだで大雨のように反響している。近くのベランダでだれかがふとんを叩いている。小学生くらいの子どもの足音や、叫び声。
十一時までの時間はずいぶんと長く感じられた。あまりにも長いので、起きて過ごすのが苦痛なくらいだった。いつもなら本を読む時間だったが、電話のことばかりが気になって、頭に文章が入って来なかった。夢の先生にほんとうに意識があるのかどうか、そんなことはどうでもいい。先生に電話をかけること自体が緊張するのだ。
起きてすぐ、ぼくは先生の家の電話番号をメモ用紙に書きとめていた。そのメモ用紙はリビングのテーブルの上に置かれている。お父さんがどこかからもらって来た何の変哲もないメモ用紙だ。真ん中に、邪魔にならないくらい薄いピンク色でロゴマークのようなものが書いてある。何かの企業のマークなのだろうけれど、何の企業かはわからない。電話番号は油性のボールペンで書かれていて、最初のほうはインクが出なかったので、すこしかすれている。字はどことなく不格好でぎこちなかった。時計を見る。まだ十時にもなっていなかった。張りつめた意識が時間をゴム紐のように引きのばしているのだ。読書をあきらめたぼくはリモコンを取ってテレビを点けた。再放送のアニメに時間を正常化してもらうために。
無事に十一時はやって来て、ぼくは電話の親機に番号を入力した。心臓の鼓動がなぜか耳の下あたりに聞こえた。相手は二回目のコールが鳴り止まないうちに受話器を取った。電話で聞く声はざらついていて、それが土屋先生の声なのかどうか、すぐにはわからなかった。
「土屋先生のお宅ですか?」とぼくは訊いた。はい、と相手が言ったので、ぼくはためらいつつ、「按摩」と小声で言った。
蓮、と相手は答えた。
「どうやら、ほんとうみたいだね」ここでやっと、ぼくはその声が先生のものだと認めることができた。「さすがにおどろいた。受話器を持つ手が震えてる。手汗もべっとりだ」
「ぼくもです」とは言ったものの、ぼくの手が震えているのは、もっと単純な緊張のためだった。
「電話が来るのか来ないのか、ずいぶん気になっていたから、今朝は結構へまをやらかしたよ。子どもを送って帰る途中、危うく車にぶつかりかけたし、洗濯洗剤はこぼすし、旦那のマグカップの飲み口が欠けた。何だかいやな予感がして、掃除はやめにしたよ。じっとしていようと思ってお茶を飲んでいたらインターホンが鳴って、ドアを開けたら新聞の勧誘。いつもなら気軽に出たりしないのにね。断り切れなくて、一か月夕刊を取ることになった」
ぼくは笑った。先生も、ごめん、と言って笑った。
「普段、電話なんてしないからさ」
「ぼくもですよ」
「番号を知ってるからって、あんまりかけてこないでね。顔が見えないのをいいことに、話さなくていいことをぺらぺらしゃべっちゃいそうだ。いまも、自分がおばさんに思えたよ」
「いいじゃないですか、何をしゃべっても」
「いたいけな中学生つかまえてすることじゃないよ。とにかく、必要がなければ電話は控えてね。この時間は主婦をやっているから。それに、これからも夢のなかで会うことがあるだろうからね。確実ではないけれど」
「そういえば、先生は何時に起きましたか?」
「六時前くらいかな」
「ぼくは七時半でした」
電話の向こうで、先生が興味深げに息をついた。
「きみが外に出たあと、すぐにわたしも窓から飛び出したんだけど、目覚める時間にそんなにずれがあるとはね。しかも、わたしのほうが早く起きてる。夢を終える時間と実際に目覚める時間は対応していないってことか」
「ひとりではわからなかったですね」
「まあね。何に関係しているのかもわからないけれど。でも、変な時間に起きるのはごめんだよ。主婦の朝は一分でも貴重だから」
「目覚ましを鳴らせば夢のなかでもわかりますよ。遠くのほうでなんとなく音が聞こえるから」
「知ってる。これでも寝覚めは悪いほうだから、用心してるんだ」
すこし間があって、先生は、そろそろお開きにしよう、と言った。お昼はどうするの、と訊くので、ラーメンをつくります、と答えると、おどろかれた。こんなに暑いのに、信じられない。
「わたしは今日もそうめんだな。それじゃあ」
「はい。また」
電話は何の名残も感じさせず、乾いた音を立てて切れた。
次はいつ、夢で先生に会えるのだろう。確実ではない、と先生は言っていたけれど、ぼくは一度起こったなら二度目、三度目もあるだろうと確信していた。あの部屋は現れたものをむやみに消したりはしない。
○
電話をした日の夜もぼくと土屋先生は夢で会うことになった。さすがに連夜会えるとは思っていなかったので、おどろかなかったと言えば嘘になる。
夢で目を覚ますと、先生の顔が目の前にあった。ぼくらはいつもの学習机をはさんで向かい合わせに座っていた。
「おはよう」先生は微笑んでいた。
「いつからそこにいたんですか?」ぼくはからだを後ろに引いて、先生から顔をはなした。
「まだそんなには経っていないよ。時計がうごかないからわからないけど、十分か、二十分か。ここに座って白秋を読んでいたら、きみの姿がそこに現れはじめてね、観察してたんだ」
「観察」ぼくは首を撫でた。「どんなふうでした?」
「本を読んでいたからなかなか気づけなかったんだけど、目を上げたときには半透明のきみがそこに座っていたよ。その前はもっと透けていたのかもしれないね。しまった、触ってみればよかったな。現実にはあり得ない体験だったのに」
「やめてくださいよ。気持ち悪くなってきました」
自分のからだがさっきまで透けていたなんて想像がつかない。妙な現れ方だ。自分ひとりだったときは気づけないことだった。
解せないような反応をしつつ、先生は、まあいいや、と言って、からだを横に向けて脚を組んだ。「たぶん、この先もチャンスはあるよね。二回目があったなら、三回目も、四回目もありそうだし」
先生は前回とおなじ服装をしていた。グレーのパーカーにボーダーのシャツ、黒に近いブラウンのロングスカート。ただ、髪型が変わっていて、赤いヘアピンで前髪をとめ、額を出していた。
「それ、どうしたんですか」
「わからない」と先生は言った。
「学校にはして来たことないですよね?」
「おそらくは。人前でおでこを出すのはあまりすきじゃないから。家用のスタイルなんだ」
「そういえば、髪もすこし短くなってませんか?」先生の肩のあたりを見ながらぼくは言った。最後に現実の先生を見たときには、たしか肩に髪がついていた気がするのに、いまは隙間が空いている。この夢ではおそらく春ごろ、ぼくが出会ったばかりのころの先生の姿が反映されているので、それ自体はおどろくことではない。ぼくが言いたいのは、昨日からさらに短くなっていないか、ということだった。
部屋には鏡がないので、先生は窓際にあるねずみ色の棚(「大当たり」の棚だ)のガラス戸に自分を映し、ぼくの言ったことを確認した。
「よくわからないな。昨日は自分の顔なんて見なかったし」
先生はどことなく気の抜けた声で言った。
「自分の見た目に興味がないんだよ。鏡だって、普段からあまり見ないし」
「ああ」なんとなく想像がついた。
「髪も、気にするのが面倒で、一時期すごく短くしたことがあったな。一回きりだけど。後頭部が断崖絶壁になっててさ、きれいな形じゃないんだよね」
「断崖絶壁?」
「触ってみる?」
立ち上がって先生のそばまで行くと、先生は頭のてっぺんから五センチくらい後ろに下りたところを指差した。ぼくはそこを撫でるように触れてみた。たしかに、あるところで急にすとんと指が落ちてしまうところがある。
「うまれたときからですか?」
「赤ん坊のころにずっとここを下にして寝かせられていたんだ。親が頭を転がしてくれなくて。いい勉強になったね。おかげで、自分の息子はきれいな頭に仕上げることができたよ。いまのところは、ということだけど」
「ふうん」ガラスに、先生の頭を撫でる自分が映っていた。はずかしくなって、ぼくはそっと手をはなした。
先生が手を上げてガラス戸の取っ手に指をかけたのは、ぼくが先生から手をはなすのとほとんど同時だった。先生は何気なく、手を右へうごかした。すると、溝がこすれる音がして、ガラス戸が開いた。
先生はぼくの方を振り返った。
「知ってた?」
「いいえ」とぼくは言った。「いつも鍵がかかっていたので、開かないと思ってました」
いつも、というのは、現実ではいつも、という意味だ。先生は不思議そうに取っ手にかかった自分の手を見つめていた。
「前にこの棚も調べたはずなんだけどな。そのときは開かなかった気がするのに。いや、実は調べてなかったのかな。きみの言うように、閉まっていると思い込んでいたのか」
先生はファイルを一冊取ってなかを見た。すべて白紙だった。ふたりとも見たことがないからだろう。ぼくはとある高校の冊子を手に取った。こちらはなかのページもちゃんと印刷がされている。おそらく現実とそっくりおなじに。ただ、この冊子もぼくは見たことがないはずだった。なぜ、こちらは中身まで再現されているのだろう。
先生はファイルを棚に戻し、べつの冊子を手に取っていた。ぼくの持っている高校の冊子よりも小さくて、厚みがある。
「国語の教科書ですか」横からページを見る限りでは、そう見えた。
「いや」けれど先生は首を振った。「古文だね」
「古文」とぼくは言った。「じゃあ、高校でつかう教科書ですよね」
「そうだね」先生は吸いつくように表紙を見つめている。
「高校の教科書が、何で置いてあるんだろう」
なかなか先生は口を開かなかった。いろんなページを開いてはながめている。なかの文章を読んでいるというよりは、ページの姿を見るように。教科書には文字だけなく、図版もたくさん載っている。表紙はオレンジ色で、角には折れた跡がある。何年くらい前のものなのだろう。もの自体はそこまで古くなっていなかったが、最近つくられたものでもないような気がした。
「これは、」本を閉じて表紙に目を遣りながら、先生はようやく口を開いた。「わたしが高校生のときにつかっていた教科書かもしれない」
「え?」ぼくは先生と本を順番に見た。見比べるように。
「ちゃんとはおぼえていないんだけど、でも、そういう気がする」
「高校の古文の教科書が、どうして?」ふたたびぼくは言った。
「わたしが知るわけないよ」先生はぎこちなく笑った。「でも、不思議だな。ちょうど今日、思い出していたところだったんだ」
「何を?」
するがなるうつのやまべのうつつにもゆめにもひとにあはぬなりけり。
「授業で読んで、そのあと自分でも読んだ。たぶん、高校に行けばきみも習うよ」
「何ですか?それ」
「とりあえず、座ろうか」
ぼくと先生はそばのソファに腰を下ろした。先生はふたたび教科書を開いた。教科書に触れるにしてはあまりに優雅な手つきで。本であればなんであろうと、先生には区別がない。
「『伊勢物語』は平安時代に書かれた歌物語で、主人公のモデルは古くから在原業平とされている。実在した宮廷の色男だよ。むかしの色男っていうのは顔がよければいいというわけではなくて、詩歌管弦にすぐれていないといけなかった。詩歌は漢詩と和歌、管弦は音楽だね。業平はとくに和歌がすぐれていて、六歌仙や三十六歌仙にも選ばれた」
「ろっかせん?」
「その時代を代表する歌人として認められていた、ということだよ。小倉百人一首にも歌が入っている。知ってるかな。『ちはやぶる神代も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは』」
ぼくは首を振った。先生は意外そうに目を見開いて、有名なんだけどね、と言った。
「『伊勢物語』の九段に『東下り』という話がある。たぶん、きみも習うとしたらこの段を習うと思う。いろいろあって『身をえうなきものに思ひなし』た主人公が京を出て東の国へ下るお話なんだけど、旅には何人か道づれがいて、都での生活を惜しみながら一向は東へと進んでいく。駿河の国――いまの静岡県だよ――で宇津の谷峠という山道にさしかかったとき、ある顔見知りの修行僧に出会う。そこで、主人公は都にいる妻に書いた手紙をあずけるんだ」
先生は『伊勢物語』のページを見せてくれた。
国語の教科書より文字が大きて行間が広く、振り仮名や注釈が多かった。文章の上には絵が載っていた。お椀で盛ったようなでこぼこした地面に草や松の木が生えていて、そのでこぼこのあいだを白い道が一本通っている。画面で言うと右下、道の真ん中に五人の人物が描かれていた。傘の形をした帽子をかぶり、杖を持ち、よごれた服を身に着けているのは、きっと行き会った修行僧だろう。ということは、僧の右側にいる四人が旅の一向ということになる。白っぽい衣服を着た人たちのなかで、ひとりだけ群青の服を着て目立っているひとがいる。これが主人公というわけだ。
「手紙には『駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり』という歌が書いてあった。現実ではおろか夢でもあなたに会えないから、どうやらもうわたしは忘れられてしまったんですね、という歌だね」
「変な言い分ですね」とぼくは言った。「夢で会えないのは、主人公が妻のことを考えていないからなんじゃないですか」
「もちろん、そういう意味で夢をあつかった歌もある。たとえば小野小町に『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを』という歌があるけれど、これは自分が思っているから、恋しいひとが夢に出てきたというパターンだ。でも、『駿河なる』みたいに、相手が思ってくれないから、夢に出て来ないという考え方も、当時にはあったんだよ」
「難癖つけてるようにも聞こえますけど」
先生は笑った。「難癖だって歌になるんだよ。そこがおもしろいでしょ?」
はあ、とぼくは言った。
先生はページを開いたまま、教科書を膝の上に置いた。
「でね、考えてたんだよ。この夢はどうなのかなって。つまり、この部屋できみと会っていることは、わたしがきみのことを思っているのか、きみがわたしのことを思っているのか、どっちなんだろうなって」
「どっちと言われても」ぼくはまごつきながら言った。「どっち、ということでもないんじゃないですか?」
「つまんないな。ちょっとぐらい考えてみてよ」
「そんなことを言われてもわからないですよ。こんな不思議なこと」
先生はあらわになっている額にしわを寄せて、ぼくをにらみつけた。
ぼくは首を振った。わからないものはわからない。
先生はあきらめたようにぼくから目をはなし、あごに指を当てて、しばらくひとりで考えていた。
「きみは、わたしが呼んだのかもしれない。自分でも気づかなかったけど、夏休みに入ってから、わたしはきみのことをどこかで考えていたのかもしれない。というより、まったく考えていなかったというほうが不自然だよね。一学期中はあんなに会って、話をしていたんだから。急に会えなくなれば、考えたりもするか」
「でもそれは常識の範囲というか、ふつうのことなんじゃないですか?こんな変な夢を見るほどのことではない気がしますけど」
「だからわたしは、自分が思っているよりも強く、きみのことを考えていたのかもしれない」先生はそんなことを言う。「でも、それだけじゃ説明できないか。まず、きみはわたしより先にこの部屋の夢を見ていたわけでしょう?順番で言えば、わたしがあとからこの夢にやってきたことになるよね。それについてはどう思う?」
ぼくは慎重にしゃべった。「最初にこの夢を見たのは、ぼくが一週間学校を休んでいたときでした。だからたぶん、いつもよりこの部屋のことをいろいろ考えていたと思います。でも、そんな意識がはっきりあったかどうかはわかりません。からだの具合も悪かったし、何か考えていたとしても、ぼんやりとしか考えられなかったと思うんです」
「相手は夢だからね。わたしたちが意識できるような表層のものじゃなくて、もっと深いところから出てきているものだとは思うんだけど」先生はふたたび、膝の上の古文の教科書に目を戻した。「でも、わたしたちの意識をもとにしてつくられているのも事実だと思う。でなければこんなものは出て来ない」
「白秋も」
「そうだね」
先生は振り向いて窓の外を見た。口から吐く息にかすかにガラスが白くなって、すぐにまた透明に戻った。
この夢がぼくたちの意識や記憶にもとづいてつくられていること。それはたしかだとは思う。
でも、それだけではないような気がする。
もし、ぼくと先生のふたりの意識(あるいは無意識)のみで出来ているのなら、この夢は、もっと自由であってもいいのではないだろうか。たとえば先生が見るほかの明晰夢とおなじように、空を飛んだり、瞬間移動ができてもいいのではないだろうか。瞬間移動ができなくても、この部屋から出てべつの場所に行けるくらいのことは。ぼくらはこの学校の校舎についての記憶は持っているのだから。あるいは通学路や、自分の家についての記憶も。学校のそばを通る道や、近くを走る線路、駅の向こうの商店街も。この夢では、この部屋以外の場所はほとんど暗闇で閉ざされている。どこへも行けず、この部屋で時間を過ごさなくてはならない。まるでこの部屋が意志をもって、ぼくらをここから出さないようにしているみたいに。
ぼくはさらにじっと、この夢について考えてみた。
先生と夢で出会えたこと、それ自体は幸運としか言いようがない。先生と引きはなされるぽっかりと空いた夏休みが、ぼくにはとても不安だった。ずいぶんと不可思議な方法であるにせよ、それが解消されたことは、基本的にはよかったことだと思う。大事な窓を失わずに済んだわけだ。
一方で、ぼくはずっと戸惑っていた。この現象にはわからないことが多すぎる。現実感、部屋の外の闇、現れる思い出の品、先生と会って話せているということ…。あらためて考えると、わかっていることはひとつもない。ただ状況として受け入れているだけで。
でも、この状況のなかには、何かぼくらを危険にさらすようなものはないだろうか。いま見えているもののなかに、不穏な空気をただよわせているものはないだろうか。
先生はどう思っているのだろう。
ぼくは横にいる先生を見た。
目はずっと向けられていたのだが、ちゃんと注視した。
先生はまだ窓の外を見ている。その目はどことなく夢見がちに見える。夢なのに。外には闇しかないはずだ。そして、先生は闇を見ているわけではないように感じた。口元が微笑んでいるように見えたが、まばたきをしてもう一度見ると、微笑んではいなかった。
小さな声で先生は話しはじめた。
「子どもができてから、わたしはずっと物事に追われていたんだ。触れることができて、放っておくと腐ったり、乱雑になっていくような。それらはわたしが手をつけないかぎり消えてくれないし、かといって、片付けても何にもならない。とにかく片付けないとマイナスになるから、そのマイナスをゼロにしつづけるっていう、そういう作業で…」
土屋先生はぼくの方に顔を向けた。今度はほんとうに微笑んでいた。目を細め、唇を閉じたまま横に広げて、鼻にすこししわを寄せて。ぼくは先生がどういう話をしているのかわからなかったが、黙ってうなずいた。その微笑みにうながされて。
「きみといる時間は、そういう時間とはまったくべつものだったと思う。ここだけの話、学校のほかの業務は、わたしにとって片付けとたいした差はなかったんだ。やらなければマイナスになるから、仕方なくこなしていただけで。でも、きみとこの部屋で勉強をしたり、話をしている時間は、それとは異なる質のものだった。言っている意味、わかる?」
「たぶん」と言うのを、ぼくはつっかえた。
「きみといることは、べつにしなくてもいいことだった。いや、しなきゃいけないことだったんだけど、たとえばきみの勉強を見たり、ソファでひなたぼっこをしたりすることは、しなくてもマイナスにはならない。ただゼロなだけだ。ひょっとしたら、することでマイナスになっていたときはあったかもしれないけれど、たぶん、ほとんどはゼロだったと思う」
「プラスなときもありましたよ」とぼくは言った。プラスのときしかなかった。
顔を伏せながら、たぶんね、と言って、先生は笑った。「たぶん、わたしもそう言いたかったんだ。マイナスをゼロにすることに必死だった日常のなかでは、ただゼロがゼロでいてくれるだけでプラスだったし、純粋にプラスになっていたこともあった。それは生産的な物事で、わたしを消耗させなかった。しずかな時間だったよ。この数年間で、わたしが求めていたのはこういうものだったんだと思った。ほんとうは喉が渇いてからからだったのに、かまう暇がなくて、わすれてたんだ」
ぼくは黙って話を聞く以外なかった。
先生の言う「しずかな時間」とは、ぼくが思っている「しずかな時間」と重なっているのだろうか。あるいはまったくべつのものなのだろうか。「マイナス」を「ゼロ」にする作業とは、具体的にはどういう作業なのだろう。言葉自体はわかるのに、全体を考えると途端に意味は漠然として、掴みどころがなくなってしまう。
先生は、ぼくが話を理解していないことに気づいたようで、探るようにぼくを見つめたあと、ふわりと笑った。どこかほっとしたように。こっそりと聞かれていたひとりごとが、肝心の部分は聞き逃されていたとわかって安心するみたいに。
「かんたんに言えば、楽しかったということだよ。この部屋で過ごす時間が、仕事とは思えないくらいに。だからお礼を言いたかったんだ。ありがとう」
「そんな…」
突然お礼を言われたことよりも、先生が言おうとしていたことを取り逃してしまったことに、ぼくは慌てた。でも、もう遅い。それはもう、ぼくの手に届くところまで戻ってくることはない。すくなくとも今夜は。
照れたふりをして、ぼくは、こちらこそありがとうございます、と言った。
この部屋は、一度起こってしまったことを、急になかったことのようにはしない(先生はこれを「不可逆的な性質」と言っていた)。
それからもぼくと先生は夢の「進路相談室」で会うことになった。
ぼくはときどき、先生に白秋を読んでもらった。先生は本がなくてもすらすらと詩を諳んじることができた。先生は、ぼくに詩を読むヒントを教えてくれた。音楽のようにリズムや音を感じること。字面や言葉のならびを視覚的に、絵のように見てみること。単語を読んだときに無意識に頭に浮かぶ色や情景をいちいちとらえては、詩の流れに合わせてつないだり、展開したりしてみること。古文の教科書も読んでくれた。先生の頭には古語の意味もすっかり入っているようで、原文を読んでは(おそらく、としかぼくには言えないけれど)完璧な訳をしてくれた。ぼくは不思議になって、どうしてそんなことができるんですか、と訊ねてみた。つまり、どうしてそんなにおぼえているんですか、と。
「基本的に、一度読んだことってわすれないんだ」先生の答えはおどろくべきものだった。「ふつうはわすれるものらしいね。中学生になるまで気がつかなかったよ。それがわからなかったせいで、ずいぶん周りにひどいことを言った気がする。テストがどうしてたいへんなのか、わたしにはわからなかったんだ」
「じゃあ、どうしてこんなに文学にも詳しいんですか?数学の教師なのに」
「まあ、小説やら詩やらは読書の基本というか、入り口みたいなものだからね。親が日本文学の研究者だったのも影響しているかもしれないけど」
「そうなんですか?」初耳だった。
「まあね。研究書も三冊くらい出しているよ」
ぼくはさらに質問をしたが、先生はあまり話したくないようだった。
「もう死んでいるし、数学の道に進むときに結構な親子喧嘩をしてね。あんまりいい思い出がないんだ」
あるとき、例の「大当たり」の棚からぼくのクロッキー帳が出てきた。ぼくはずいぶんおどろいたが、先生はよろこんでいた。新作が見られる、と言って。
クロッキー帳は二冊あって、一冊は自画像、もう一冊は風景画ばかり、分けて描かれていた(風景画のほうは四つ切画用紙をつかうようになる以前のものだった)。描かれた絵の順番は、現実のものとまったくおなじだった。ぼくは一枚一枚説明をしながら、先生に絵を見せていった。
風景画を見た先生は「抽象画?」と訊いた。ぼくは言葉の意味がわからなかったので、そう返した。先生はうなりながら、「クレーに似ている気もするけど、ちょっと違うか。クレーはもっと幾何学的な雰囲気が強いから」とつぶやいた。
「だれですか?」
「パウル・クレー。スイス生まれの二十世紀の画家だよ。バウハウスっていうドイツの有名な美術学校で教師をやっていたこともある。日本でも人気が高いから、本屋で探せばすぐに見つかるよ」
「そのひととぼくの絵は似てるんですか?」
「うーん、参考にはなると思うけど、似てはいないかな。きみの絵はクレーよりもうちょっと有機的というか、生き物っぽい感じがするから。ひょっとすると日本の画家のほうが似ているひとはいるかもしれない。でも、色づかいが独特だね。ちょっと日本人ばなれしているかも」
「似ているのか、似ていないのか、よくわからないですね」
「芸術の知識は浅薄なんだ」先生は笑った。「個人的には、かなりディープな絵だと思う。きみの精神世界が表れている、という意味でもディープだし、絵画としても自画像より専門的な領域に足を踏み入れていると思うな。塗り絵じゃないというか」
「そういうことがぼくにはわからないんですよ。描くことはできるんですけど」
「これからいろんな絵を見て、考えていけばいいよ。焦る必要はない」
クロッキー帳が現れた翌日、おなじガラス戸のなかから、ぼくがいつもつかっている鉛筆とクレパスが箱ごと置いてあった。ぼくはおどろくのを通り越して呆れた。ほんとうにこの部屋には意志のようなものがあるのではないだろうか。しかもずいぶんと意地の悪い。
おそらくはいつもの好奇心と実験精神が働いていたのだろう。先生は、描いてみたらいい、とぼくにすすめてきた。ほかにすることもないし、なんて言いつつ、夢のなかでぼくに絵を描かせてみたかったのだ。
「人前では描いたことがないんです」ぼくはひとまず抵抗を示してみた。
「いいじゃない。これが最初だよ。何事にも最初はある」
じゃあモデルになってください、と言ったのも、本気でそう望んだというよりは、あきらかにおもしろがっていた先生の気を削ぐためのはったりに過ぎなかった。
「それがなんの役に立つのかはわからないけど、やれと言うのなら」
先生は一瞬、わけがわからないというような顔をしただけで、ほとんど二つ返事でうなずいた。
「いつもモデルなんかつかわずに絵を描いているのに大丈夫?わたしじゃシーレのモデルたちのようなインスピレーションは与えられないよ?」
「そんなことは考えていませんよ」
ぼくはすぐに、先生と張り合ったことを後悔した。黙っていつもの絵を描いていればよかったのだ。
幸い(と言っていいのか)、自画像のクロッキー帳には白紙があまっていた。土屋先生は学習机を脇に寄せて、部屋の中央にスペースをつくった。すこしはなれたところに椅子をひとつ置いて「ここでいい?」と訊く。ぼくは適当にうなずく。状況を受け入れられないままに。
「ほら、指示を出して。ポーズを言ってよ」
クロッキー帳と鉛筆を持って椅子に座ったぼくは、なかばやけになっていた。「とりあえずそこで立っていてください」
「立つって言っても、どう立てばいいの?」
そんなこと、ぼくにもわかるわけがなかった。
よりシンプルな格好のほうがいいと思ったのかもしれない。先生は何も言わずに、着ていたグレーのパーカーを脱いで、長袖のボーダーシャツだけになった。相変わらず、そんなに大きいサイズではないはずなのに、シャツはあまって見えた。腕は棒っきれという言葉がぴったりの細さで、肩はとがっていて薄い。いつもより痩せて見えるくらいだったが、鎖骨や首のあたりはいままで見たなかで一番つやつやとしているように感じた。
しばらく見て、床に座ってもらうことにした。立ち姿で全身を描こうとすると、紙に収めるのがどうしてもむずかしくなるし、収まったとしても、顔や手といったパーツが小さくなってしまう。お尻がつめたい、と文句を言われたが(なぜか物はひんやりしていることが多い。床も。不思議だ)、無視してぼくは先生に片膝を立たせ、その膝の上に顔を置いてもらった。シーレだ、と先生は言った。有名なドローイングのポーズだった。先生はロングスカートをはいているので、脚はすねのあたりから先しか見えなかったが、それでいいと思った。
ぼくは鉛筆を取って、頭から順番に先生を写し取っていった。目は丁寧に形を追いながらも、鉛筆は速すぎるくらいを意識して、ためらいなくうごかしていく。ぼくはおどおどした、どっちつかずの線が嫌いだった。どうせ臆病なぼくのことだから、はじめてのモデル(しかも、先生だ)を前にすれば、変に慎重になるのは目に見えている。だからいつもより速く、速く、と自分を追い立てて線を引いた。雑にならないギリギリのスピードを計りながら。
思っていた通り、一枚目はかなりぎこちない仕上がりになった。全身のバランスが取れていない。からだに対して顔や手が小さく、スカートに包まれた下半身はつながりを欠いていて、形が漠然としすぎている。線は悪くないかもしれないが、これではお話にならない。描き終わるとすぐに先生は近寄って来て、クロッキー帳をのぞき込んだ。おお、という第一声はあったものの、それ以外に感想は言わなかった。
「スカート、邪魔?」
「邪魔じゃないです」とぼくは答えた。
「次はどうする?」
先生はもといた場所に戻ってポーズを取ろうとしていた。ぼくは一枚描いただけでめげかけていたが、やめられる雰囲気でもなかった。先生にはまた床に座ってもらった。
「今度は上半身だけ描くので、脚は適当でいいです」
さっきより椅子を近づけて、先生を見下ろしながら、ぼくは描きはじめた。上半身、とは言ったものの、ほとんど顔が中心でからだは肩までしか描かない。先生はじっとぼくのほうを見つめているが、絵を描いていると何も感じないし、何も思わなかった。一枚、二枚、三枚と、つづけて同じアングルから描く。
「ずっとおなじでいいの?」
「いいです」
だんだん手が顔の形をおぼえていき、線を引くのが速くなってくる。絵の顔は実際の先生の顔とそれほど似ていなかったが、そのときそのときに引く線によって、微妙に変化する絵を見ているのは楽しかった。それに何枚も描いていると、実際の顔と共通点のようなものはできてくる。
十枚目を描き終えたところで、キリがいいのでやめにした。これだけ描けば先生も満足だろう。
ぼくはクロッキー帳から絵をはがして、一枚目から順番に床にならべた。いつもならこんなことはしないのに、ふと思い立って。
「壮観だね」ぼくの隣まで来て、いっしょに絵を見下ろしながら先生は言った。「わたしの顔って、こういう顔?」
「似ていないとは思いますけど」冷静さを取り戻すにつれ、ぼくは徐々にはずかしくなってきていた。
「最後のほうはすごく速かったよ」
「顔だけですからね」
「これには色をつけてくれるの?」
「色ですか?」ぼくは意味もなく部屋を見回した。「それもここでやるんですよね?」
「現実には持ち帰れないでしょ?」
からだが熱い。まださざ波のようにしか感じられなかったが、集中力が切れれば、一気に疲れにのみ込まれてしまう予感があった。ぼくはまぶたをこすりながら言った。「気に入ったのだけつけます。いつもそうしているので。でも、今日はもう無理です」
「明日まで、ちゃんと残ってるかな」
ぼくと先生は床の絵を集めて学習机の上にまとめて置いた。そのあいだ、黒い布で覆われるみたいな猛烈な眠気が何度か襲ってきて、ぼくは気力でその布を払いつづけなければならなかった。
「このあとソファに座ったら、すぐに眠ってしまうと思います」
「了解。絵を描いてくれてありがとう。わたしはもうすこしここに残るよ」
「わかりました」
ずっと眠っていたはずなのに、さっきまで握っていた鉛筆の感触が、起きてからも指先に感じられた。夢のなかで絵を描いていた緊張感が全身に、そのまま残っているようだった。
気だるいからだをベッドから起こして、ぼくはクローゼットの収納ボックスに放り込んである自画像のクロッキー帳を取り出し、開いた。夢で土屋先生を描いていたクロッキー帳だ。
クロッキー帳に先生の絵はなかった。
ちぎったはずのページはまっさらのまま、元通りリングについていた。当たり前だ。あれは夢なのだから。頭ではわかっていても、からだは反対のことを訴えかけている。たしかに描いたんだと。子どもが親にすがりつくように。
全身から汗が噴き出していた。Tシャツがからだに重い。あまりの虚脱感にぼくはまたベッドに倒れ込もうとした。
そのとき、リビングにある電話が鳴り出した。机の上の置時計を見ると、まだ九時にもなっていなかった。あまり電話の鳴らない時間だ。お母さんだろうか。
一応、ぼくは電話機を見に行った。ディスプレイにはお母さんの携帯電話ではなく、市内局番からはじまる番号が表示されていた。親以外からであれば基本は無視するのだが、ぼくは、その電話を取った。
「今津です」思った通り、電話は中学校からだった。「あれ、ひょっとして風邪?声、ちょっと変じゃない?」
「いえ、大丈夫です」
「生活リズム、ちゃんと守ってる?学校があるときと変えちゃだめだよ、体調崩しちゃうから」
「大丈夫です」とぼくは繰り返した。担任の声ははつらつとしすぎていて、起きたばかりの耳にはすこし痛かった。
「登校日のことで訊きたいことがあったんだけど、その日は学校に来る?」
ぼくは目頭をかいた。「登校日っていつでしたっけ?」
「十日だね」
たしか今日は八月四日だった。
「別室に、ってことですよね?」
「もちろん、クラスに来る必要はないよ。時間も、みんなとおなじ時間に登校しなくていいし」
「何をするんでしょう?」
「全校集会と学年の集会、あとはホームルームかな。ちょうど夏休みの真ん中だからみんなの様子が見たいっていうのと、生活態度や宿題についての確認をするって感じ。宿題は進んでる?」
「だいたい終わりました」
「さすがだね」声が大きい。周りにもずいぶん聞こえているのではないだろうか。「まあ、集会にも顔は出せないと思うんだけど…出せないよね?(「はい」ぼくはと答えた)じゃあ、別室にだけでも来てくれるとうれしいな。担任として、きみの様子も見ておきたいので」
「わかりました」そこでぼくはふと思って、言った。「土屋先生は来ますか?」
「土屋先生?ちょっと待って」
ピッ、と音がして、受話器から音楽がながれてくる。小学校の給食のときにもかかっていた、馴染みのあるクラシック曲。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」でもなく、「美しきドナウ」でもない何か。
「非常勤の先生はその日は来ないね」保留が終わると、担任は言った。「ほかの先生もほとんど集会で出払ってるから、そのあいだはひとりでいてもらうことになると思う。ごめんね」
「そうですか」とぼくは言った。
「代わりじゃないけど、その日はカウンセラーの先生が来ることになってるの」
「石川先生が?」
「そう。わざわざ石川先生のほうから、登校日にどうですか、って。今日はそのことで電話したんだけど、どうする?カウンセリング受ける?」
受けます、とぼくは答えた。うんうん、それがいいね。うれしそうにそう言いながら、担任は手元に何か書きつけているようだった。
「あとね、カウンセリングを受けるにしても、受けないにしても、一度きみに電話したいって石川先生がおっしゃっているんだけど、いいかな?」
電話?
不思議に思いつつも、ぼくは、大丈夫です、と答えた。
「じゃあ、石川先生にきみの家の電話番号を教えるね。今日は一日中家にいる?」
「いると思います」
「そうか、よかった。たぶん今日中に連絡があると思うから、そのつもりでいてね。何か質問はある?」
「石川先生の電話番号ってわかりますか?」
「えっと」担任は十一桁の番号を読み上げた。ぼくは電話機のそばに置いてあるメモ帳に番号を書きとめた。「たぶん、ここからかかってくると思うんだけど」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、登校日にね。ホームルームが終わったら顔を出せると思う。十一時くらいかな。カウンセリングはその前の時間に入れてもらうように、私から石川先生に言っておくね。『進路相談室』の鍵は朝には開けておくから」
「わかりました」
電話が切れるとほっとした。
緊張したおかげで、起きてすぐのときにはあった夢の感覚が遠のいていた。ぼくはそのままキッチンに行って食パンを焼いた。そして、窓の外を見ながら焼き上がったパンを食べた。いつも以上にゆっくりと口をうごかして。パンの耳はごろごろとしていて、さくさくした部分は舌にすこし痛い。バターはしょっぱかった。口のなかに意識を集中させていると、どんどん自分が現実にくくりつけられていくようだった。
外は今日も快晴だった。窓から見える範囲には雲すら見えない。太陽に当たりたい気分だった。今日は外に出るのもいいかもしれない。パンを食べ終わるとぼくは外出できる格好に着替えた。
ふたたび電話が鳴ったとき、担任の電話からはまだ一時間も経っていなかった。
「もしもし」ディスプレイに表示された番号とさっきメモした番号を見比べてから、ぼくは受話器を取った。
「石川です。お久しぶり」
「お久しぶりです」
「ごめんね、電話なんて頼んで」担任とは違い、石川先生はほどよい声でしゃべった。学校の電話よりノイズが多いわりに、はっきりと聞き取れる。「ふつうは電話なんてしないんだけど」
「じゃあ、どうして?」
石川先生は、その問いには答えなかった。「夏休みに入ってから、どうですか?変わったことはない?」
「変わったこと」ぼくはどうするか、ちょっと考えた。「生活面では、とくにないです。でも、相変わらず例の夢がつづいていて」
「例の夢というと、あの生々しい部屋の夢?」
あの生々しい部屋の夢。
「そうです」とぼくは言った。
「それは、前に話していたようなことがつづいているということ?それとも、何か変化があった?」
「変化がありました」ぼくはもう一度考えた。言うべきか言わないべきか。そして、やっぱり言うことにした。「土屋先生が出てきたんです」
「土屋先生が出て来た」まるで発声練習をしているかのように、一音一音たしかめるみたいにして、石川先生は繰り返した。
「信じてもらえるかどうかわからないですけど、ふつうじゃないんです。つまり、ふつうの夢みたいに土屋先生が出て来たわけじゃなくて、ほんとうに土屋先生の意識がやって来たんです」
コップ一杯の水を飲むくらいの間があった。
石川先生の声がしずかになった。
「基本的には、対面以外でのカウンセリングはしないことにしているんだけど…だから、これからするのもカウンセリングというよりは、状況を報告しているだけ、というふうに受け取ってね。カウンセリングは登校日の日にちゃんとしましょう。でもその前に、すこし情報を入れておきたいです。時間はある?」
「大丈夫です」
ぼくは夢のなかで起こったことを話した。電話だったので、長くなり過ぎないよう話をまとめようとしたが、うまくできなかった。土屋先生が現れてまだ一週間も経っていないのに、夢ではいろんなことが起こり過ぎていて、それにたいしてぼくも、いろんなことを感じ過ぎていた。ぼくは感情をなるべく省いて話した。つい話しそうになっても、状況報告、と自分に言い聞かせた。ぼくが話しているあいだ、石川先生はほとんど何も言わなかった。ときどき、足りない情報を補完させるために質問をすることがあったけれど、それ以外は相槌さえ打たなかった。受話器からは、おそらくぼくの話を書き取っていると思われるペンの音がずっと聞こえていた。時々車の通るような音も聞こえたが、どこで書いているのだろう。
一通り話し終えると、ぼくはくたくたになっていた。なるべく短く済ませるつもりだったのに、時計を見ると、電話をはじめてから一時間が過ぎていた。こんなに長電話をして大丈夫ですか?そう訊ねようとしたら、先に石川先生のほうから質問があった。
「夢日記はつづけてる?」
「つづけてます。でも、細かくは書ききれなくて、ほとんど箇条書きみたいになっているんですけど」
「それでいいから、つづけてほしいな。あとからそれを見て、夢のことを思い出せるように」
「わかりました」とぼくは答えた。
「登校日まで六日あるね。それまで、大丈夫そう?」
「…わかりません」
「そうだよね。むずかしい話なのに、ちゃんと伝えてくれてありがとう」
「いえ」
「登校日だけど、学校のことはともかくとして、カウンセリングには、できれば必ず来てほしい」
「そのつもりです」とぼくは答えた。
「十一時より前にしてください、って今津先生には言われてるけど、十時でいい?」
「お願いします」
「じゃあ、六日後にね」沈黙のあいだに、また車が走り去るような雑音が聞こえた。「くれぐれも無理はしないように」
「無理?」
「日記をちゃんとつけて。それじゃあ、電話をしてくれてありがとう」
受話器を置いたあと、ぼくは石川先生の言葉について考えた。無理、とは何が無理なのか。あの夢を見ることだろうか。でも、それはコントロールできることじゃない。無理をしないようにと言われても、無理な話だった。
ぼくはまた疲れてしまった。すぐにでもソファやベッドにからだを横たえて、眠ってしまいたい。けれど寝てしまうと、またあの部屋に行ってしまうかもしれない。土屋先生が現れたことで夢は以前より密度を増し、夢と現実の比重は、ほとんど五分五分に近くなっている。それも、かなり意識を使って、現実が五分を下回らないように保っているという状況だ。ぼくはそこにはっきりと、越えてはならない一線を引いていた。もし、昼も夜も夢の「進路相談室」にいるようになると、いよいよ何か、危険な気がした。
今日はやっぱり外出をしたほうがいいかもしれない。外に出て、現実の、いろんな刺激を浴びたほうがいいのかもしれない。
ただ無目的に散歩するのはむずかしい気がして、隣の駅にある本屋へ行くことに決めた。ぼくは時計を見た。十一時二十分。お昼ごはんにはすこし早いし、まだお腹も空いてはいなかったが、外に出る前には食べてしまいたかった。ぼくはお母さんがつくって置いてくれているはずのお昼ごはんを冷蔵庫から出しに行こうとした。
電話機の前からはなれるとき、無性に土屋先生の声が聞きたくなった。
数時間前まで夢で会っていたし、体感ではたしかに声も聞いていたのだけれど、そうじゃない。現実の土屋先生の声が聞きたかった。むやみに電話してこないで、と土屋先生は言っていた。勝手にかけると迷惑かもしれない。そう思いつつも、ぼくは自分の部屋に行って机の抽斗に入れてある先生の家の電話番号が書かれたメモ用紙を取り出し、電話機の前に戻って来た。
番号をダイヤルした。
しばらく待ったが、先生は出なかった。ぼくは留守電を入れずに電話を切った。ごはんを食べているあいだも何度かかけ直したくなったが、結局しなかった。食べ終わった皿を洗っているうちに、だんだん気が収まってきた。折り返しはなかった。
外は一面の夏だった。
地面や建物に反射した光が行き場を失って、空中に白いもやみたいなものをつくっている。電柱や、赤いコーンや、駐車された車や、濃い葉をつけた木々は、あまりに鮮やかに目の前に現れた。アスファルトのつぶつぶとした表面までがこちらに迫ってくるような存在感を放っている。
本屋に着くと、ぼくは美術書のコーナーでパウル・クレーの画集を探した。先生の言った通り、画集はすぐに(そして何冊)も見つかった。
ぼくはひと目見て、自分の絵とはまったく違う、と思った。たしかに具体的なものを描いているようで描いていないような、線と色面でつくられた絵には共通点があるようにも見えるけれど、それらはぼくの絵よりよほど冷静に描かれていた。ぼくの絵はもっと衝動的で、もっとわけがわからない。
それでも参考にはなった。とくに人物を描いている絵。さんざんシーレを真似していたせいか、ぼくは、人物を絵のなかであまり描き変えられなかった。たとえば単純化して丸や棒線だけで表してみる、というようなことが、そもそも思いつかなかったのだ。かといって、シーレのような人物だと、ぼくが描いている風景画からはどうしても浮いてしまう。だから人間を登場させたくてもできないでいた。
クレーは人物をかなり自由に描いているように見えた。本にも書いてあったが「まるで子どもが描くようなタッチ」だった。たしかに、自分もろくに絵が描けなかったころは、こんなふうにひとを描いていたような気がする。最初に大きい丸を描いて、そのなかにさらに小さい丸をふたつと、線を一本引く。そうすれば顔ができて、そのしたに四角をひとつ描き、線を四本引けばからだができる。それで人間が描けていた時代があったのだ。なぜ、たったこれだけの線や図形のならびで、ひとだとわかるのだろう。クレーは、その事実の不思議を追究するために、子どものような絵を描いていたのではないか。「無邪気」という表現を本のなかに見つけたが、それは子どもの無邪気さとは違う。どう見ても大人の遊びだった。
本を閉じると、いまにも絵が描きたくなった。あの風景画に人物を描き込む。いいアイディアだ。もっと早くに思いつきたかったくらいに。ぼくは自分の風景画にずっと何かが足りないような気がしていた。みずうみがあって、森があって、動物がいる。それはそれで悪くはないが、あまりにも静止し過ぎているように感じていた。完結し過ぎているような。どこからからやってきて、またべつのどこかへ去ってく、そのあいだの風景をぼくは描きたかった。人物を描くことでそれが達成されるのかはわからないけれど、試す価値はあると思った。
本屋の地下にある文房具店であたらしい四つ切画用紙を買い、家に帰ることにした。冷房の効いた店内から外に出ると、瞬間的に汗ばんだ。ぼくはキャップを目深にかぶり本屋のある商店街を抜け、駅で切符を買い、各駅停車の電車に乗った。ぼくの乗った車両にはほかにふたりしかひとがいなかった。ふたりともおばあさんだった。ぼくらはみんな北向きの窓側の席に座っていて、向かいの窓に切り取られ、電車に合わせてうごく四角い光の列を足元に見下ろしていた。
マンションまでたどり着くと、タイミング悪く、中学生の集団に遭遇した。
みんなぼくの通う中学の体操服を着ていた。マンションに住んでいる生徒も多いし、ここよりさらに遠くに住んでいる子もよく敷地内を通る(それでときどき管理人に注意されている)。からだつきを見て、一年生だろう、と思った。部活終わりにしては中途半端な時間だが、そういう日もあるのかもしれない。彼らはこんがりとした茶色より濃い肌のなかに白い目と歯を浮かべて、きぃきぃと、動物的な声をあげていた。中学生というよりは小学生に近い。実際に、数か月前までは小学生だったのだ。十人以上の行列は、そのなかで二、三人ごとに分かれ、それぞれに遊んだり、話をしたりしていたが、ぼくとすれ違うときは必ず容赦のない視線を向けた。ほとんどは「だれだ?」という意味に思えたが、なかにはぼくのことを知っている子もいたのかもしれない。
一年生の集団が行ってしまうと、ぼくは早足になって、自分の家のある建物に入った。彼らはたぶんサッカー部だろうと、遠くに見たときから気づいていた。となれば、幼馴染たちも近くにいるかもしれない。建物に入っても歩調は緩めず、警戒しながら家の扉の前まで行った。幸い、だれとも鉢合わせたりはしなかった。
家に入ると、冷蔵庫から麦茶を出して、つづけて三杯か四杯飲んだ。コップも流し台もつめたくて、しばらく手を置いていたらすぐにぬるくなった。
どうしてみんなにはかんたんにできることが、ぼくにはできないのだろう。
あの子たち――さっきすれ違った中学生たち――は何も考えていないようだった。何にもわずらわされず、障害もなく、軽々と生きている。はじける笑顔。嘘のような現実だった。「何がだめなんだ」というお父さんの言葉が思い出された。それは彼らの笑顔が言っていることでもあるし、ぼく自身が思っていることでもあった。何がだめなんだ?
いっそ、そのまま目の前の壁を通り抜けてしまいたいと思った。最初から何もなかったかのように。でも、そういうわけにもいかない。そういうわけにはいかない、と思ってしまうところが、きっと、いけないのだろう。
絵を描く気は失せていたが、何とかもう一度奮い立たせて、買って来たばかりの白い紙を広げた。いつも通りの方法で色を塗り、線を引いた。人物も加えてみた。でも、うまくいっているのかどうか、よくわからなかった。いつも通りにやっているはずなのに。すこしして、どうしてこんなにいつも通りなんて思わなくてはいけないのだろうと思った。冷静に絵が描ける状態ではなかったのだ。
しかし、夢のなかでも、ぼくは絵を描かなければならなかった。ぼくは、昨日描いた土屋先生の線画から数枚を選び取って、自画像とおなじ手法で色をつけた。見た目にはちゃんとできていたように思えるし、横で見ていた先生もしきりに感心していたけれど、ぼく自身にはまったく手応えがなかった。
もっとも、この場合は、夢のなかで描いていたことも関係していたと思う。ぼくは、あの白紙のスケッチブックを見た瞬間がわすれられなかった。あの白さ。あれはほとんど恐怖に近い感情だったと思う。自分が生み出したはずのものが、ほんとうには存在していないということ。
だからぼくは、一種のパフォーマンスとして、土屋先生の絵を描いた。先生はよろこんでいるみたいだったし、それでいいと思った。
「実際に見ると、かなりアクティブな作業なんだね」先生は自分でもクレパスを取り、ぼくの真似をして紙に色を塗っていた。「こんなにうまくできるもの?むずかしいよ」
「何枚も描いてますからね」ぼくは汚れた手を広げて、あたりを見回した。「洗う場所なんてないですよね」
「とりあえずぞうきんで拭く?」
ぼくは掃除用具入れのなかにあるぞうきんで手を拭いた。完全には取れなかったが、まあいいと思った。どうせ夢だ。
そういえば、と言いかけて、ぼくは言葉をのみ込んだ。
昼の電話のことだった。結局家に帰ってからも折り返しはなかったが、先生の家の電話機にはぼくの家の番号が着信履歴として残っているはずだった。これまで切り出されていないということは、話さないほうがいいのかもしれない。
「そういえば?」
先生は顔を上げてぼくのほうを見ていた。
「また、現実でも先生の絵、描いてみようかなと思って。新学期がはじまったら」
「ほんと?」先生はうれしそうに笑った。「ここで描いてもらえただけでも充分うれしいのに」
「でも、あっちに帰ったら何にもないですからね」
「それでもね。夢でも事実でしょ」
先生らしい、と思った。きっと先生は、ぼくほどおそれや不安を抱いていないのだろう。臆病なぼくと違って、この夢を存分に楽しんでいるのだ。
どうも先生は、ぼくより長い時間、この部屋にいるようだった。
ぼくが夢にやって来るとだいたいは先にいるし、去るのもぼくのほうが先だった。ぼくは先生が来てからも、以前とおなじ滞在時間を守っていた(もちろん、体感でしか計りようがない)。試していないから何とも言えないが、ふつうに考えて、夢にいる時間が長くなれば眠る時間も比例して長くなるのではないだろうか。だとしたら、こんなに長く夢にいて、先生は大丈夫なのだろうか。
夢では、先生は本を読んで過ごしていることが多かった。「大当たり」の棚は、ぼくのクロッキー帳や画材を出したあと、毎日のように本を吐き出していた。本は過去に先生が読んだことのあるものに限られているようだった。ぼくが知っているのは『万葉集』と『カラマーゾフの兄弟』くらい(もちろん読んだことなんてない)だったけれど、ほかにもたくさん本はあった。尾崎翠の『第七官界彷徨』(「少女時代だね」)、シュレディンガーの『精神と物質』(「猫の話じゃないよ」)、『稲垣足穂全集』(「アシホじゃなくてタルホだからね」)、ノヴァーリス『日記・花粉』(「なんで『青い花』じゃないんだろう」)、マラルメの『骰子一擲』(「このタイトル読める?」)…先生は、ずいぶん偏った選本だな、と言っていたが、読みはじめると没頭して、ぼくが声をかけても気づかないときがほとんどだった。肩を叩くにしても、思いきって力を込めなくてはならなかった。
「数学の本はないんですか?」
「ないね」先生はもう一度「大当たり」の棚を探っていた。
「まあ、見つかっても困る」
八月九日。
その日はカウンセリングの前日で、ぼくは、この日を何事もなくむかえられたことにほっとしていた。いったい、どうして自分はこんなに不安でいるのだろうか。石川先生もぼくも、いったい何が起こると思っていたのだろう。
夜、夢の「進路相談室」へ行くと、いつものように土屋先生の姿があった。土屋先生はソファに座って本を読んでいた。ぼくが目覚めたのもソファだったので、先生のからだはすぐ隣にあった。
先生は、ぼくが部屋にやって来たことに気づいていなかった。相変わらず、読書に集中していた。
ぼくは横から先生の顔をまじまじと見た。
春に出会ったころ、先生の髪は肩のすぐ上のあたりまであったはずなのに、いまは首にかかるくらいしかなく、完全に隠れていたはずの耳も見えていた。
ぼくのほうは、髪が短くなったり容姿が変化したりはしなかった。服装も詰襟のままだった。それはそれで、よく考えてみれば不自然だったが、別室登校をはじめた日、現実のこの部屋に最初に足を踏み入れた日のままなのだ、と思えば、それ以上は気にはならなかった。
ぼくは何度か先生に髪の長さのことを指摘したが、先生には変化が感じられないようだった。たしかめるにしても鏡がないじゃない、と言うので、前とおなじように「大当たり」の棚のガラス戸に映して見せたのだけれど、それでもあまりピンと来ないようだった。
「自分の見た目って、興味が持てないんだよ」ろくにガラスを見ずに、すでに何度か聞いた言葉を、先生は繰り返した。「興味を持ったところでどうしようもない見た目だからさ。そう思わない?」
「さあ」と言うしかなかった。
「短くなる分には手間が省けていいよ。のびたら切らなきゃいけないからね」
ただ髪が短くなっているだけというのなら、先生の言うように、それほど気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、たとえば手や額、頬といったところの肌がほんのすこしふっくらとしてきてはいないだろうか。首の筋肉や鎖骨の陰影が薄くなってはいないだろうか。目元が明るく、力強くなってきてはいないだろうか。唇に赤味がさしてきてはいないだろうか。
最初は単にそう見えるだけだと思っていた。
けれど、さすがにそろそろ疑いようがない。
先生は若返っていた。
時間で言えば数年くらい、だとは思う。ひょっとしたら、子どもを産む前くらいには戻っているかもしれない。元々、子どもがいるようには見えない顔だったが、このときにはさらに決定的な若さがある気がした。
これはどういうことなのだろう。当然のように、ぼくには見当がつかなかった。でも、ただ気まぐれにそうなっているようにも思えない。何か理由があってもいいはずだ。ただの気まぐれだったとしても。
考えてもわからない問題を考えることはひどく疲れる。ぼくはとりあえず、先生の若返り問題を脇に置いておくことにした。
ぼくは先生の持っている本に注意を移した。
古い本だった。やわらかい土色をした布張りの表紙に金色の文字が入っている。アルファベットだ。読もうとしてみたが、どう読めばいいのかまったくわからなかった。長い表題の下には小さくB.Riemannと書いてある。作者名だろうか。表紙が立派なわりにページ数はすくなかった。ぼくは首をのばして、開かれているページをのぞき込んだ。
紙の上に文章が横書きでならんでいた。横書きの本は、この夢に現れたもののなかでは、はじめてではないだろうか。ところどころ、文章のあいだに広めの余白が空けられている。そして余白の中央には、見慣れない文字の列。
数式だった。
どちらかと言えばよろこびに近い気持ちだったと思う。ぼくは一瞬真っ白な世界に放り出されて、そこから戻って来るのに、いくらか時間がかかった。
ぼくは先生の肩を叩いた。一度では反応がなかったので、二度、三度と。徐々に力を込めて。
「ああ、おはよう」気づくとき、先生のからだはびくっと跳ねる。さっきまでどろんとしていた目は、ぼくのほうを向くと人間らしい光が戻っていた。
「今来たところ?」
「そうですね」ぼくは本を指差した。「何の本ですか?」
「ああ」妙な間があった。言い訳を探しているみたいな。
「数学の本だね。リーマンの」
「リーマン?」ぼくは記憶をたぐり寄せた。聞き覚えのある名前だ。「たしか、先生がすきな数学者でしたっけ」
先生は黙って本を閉じた。背表紙が見えた。表紙には外国語の表記(たぶん、ドイツ語なのだろう)しかなかったけれど、背表紙には日本語でタイトルが書いてあった。『幾何学の基礎をなす仮説について』。
「今日、見つけたんですか?あの棚から」
「うん。予感みたいなものはあったんだけどね。そろそろ現れるんじゃないかっていう」
「ぼくもそんな気はしてました」
「ごめん。いまのは嘘だ」、トトトン、トトトン、と、先生は表紙を指で叩いた。目は宙に向いていて、何も見ていなかった。「ほんとうは、すこし前からあったと思う。うっすらと、本の姿のようなものは見えていたんだ。手に取ろうとしなかっただけで。まさかほんとうに出て来るとは思わなかったし、それに、ねえ?」
「出て来られても困る?」
「そう、困る。もう数学はできないんだからね、現状として」
「じゃあ、どうして手に取ったんです?」
「容赦ないね」先生は笑った拍子に咳をした。「自分に甘かったことは認めるよ。せっかく出て来てくれたのに無視するなんてかわいそうだとかなんとか、都合のいい理由を言い聞かせて、見ることを許したんだ。やっぱりだめだったかな?」
「だめじゃないです」
先生の指は本の表紙を叩きつづけていた。リズムに合わせて何かを考えているようだった。ぼくがどれだけ見つめても、目はこちらを向かなかった。ふたたび話しはじめる前には本を叩くのをやめ、髪を触り、鼻の先をつまんでしゅっと息を吸った。
「この本を読んで、わたしは数学者になろうって思ったんだ。そのころ、わたしはまだ学校で習う程度の数学しか理解できていなかったから、正確には触れて、って感じだけど」
「わからなかったのに、読もうと思ったんですか?」
「本って、最初はわからないものじゃない?幼稚園のときは絵本くらいしか読めないのに、そこからすこしずつ、知らない言葉の書いてある本が読めるようになっていく。それが楽しいんだ」
ぼくは『日本の詩人9』を見た。それは、いまでは「大当たり」の棚のなかに入れられている。おなじ棚から出てきたほかの本といっしょに。
「どうして、この本がいいと思ったんですか?読めないのに」
「説明できるような理由は、ないな」先生は手のなかで本を回した。「中身を知る前からどうしようもなく魅かれる本っていうのがあるんだよ」
これ、ぬすんだほんなんだ。
ぼくはすぐには意味がわからなかった。
「盗んだ?」
「学校の図書室からね。わたし以外だれにも読まれないだろうから、許されると思ったんだけど、そういう問題じゃないよね」
「だれにも読まれないと思ったから盗んだんですか?」
「盗んだなんて思わなかったんだよ。何も考えてなかったから。悪いとも思わなかった。学校でよかったよ。売り物だったら捕まってたね」
「それから数学を勉強して、大学に行くんですか?」
「まあ、すこしごたごたがあったりはしたけど、強引にね。自分の人生だから」
「ドイツにも?」
「うん」先生はとてもしずかにうなずいた。「ドイツに行かないと、わたしのなかでは嘘だったから。つまり、この本に見つけてもらったことに応えることができないというか」
「本に応える?」
「そう、応える。この本はわたしが見つけたと同時に、わたしも、この本に見つけてもらったんだ」
先生は両手で本を握り、じっと表紙を見つめ、金色の字に光を当て、それからまた本をめくった。ページは先生の指にめくられるたびに小さな風を起こした。ぼくにはかすかな音しか聞こえないが、先生の肌はきっとその風を感じている。
先生はリーマンについて話してくれた。人見知りで内気な性格だったが、幼いときから勉学に猛烈な意欲を持っていたこと。十五歳くらいのころに、両親に手作りの万年暦をプレゼントしたこと。数学を勉強しつつも牧師になろうとして、なれなかったこと。『幾何学の基礎をなす仮説について』は大学講師の資格を得るために書かれた論文で、それが数学史上でも偉大な傑作のひとつになったこと。その後、ガウスとおなじく天文台に住み、才能ある多くのひとたちから数学者としての生命をうばった難問「リーマン予想」をうみ出したこと。貧乏によってからだをむしばまれ、病気がちになり、結核を患って三十九歳で死んだこと。最後に手をつけていた研究は耳の機構に関するものだったこと。
ぼくはリーマンについてそれほど興味を抱けなかった。
その日も、先生は夢に残るようだった。
「いつもどのくらいいるんですか?」
「さあ。本を読んでいるとただでさえ時間をわすれちゃうからな。時計もないし」
目は合わさないし、口ぶりも真剣味に欠けていた。適当に答えているのはあきらかだった。
「あんまり長くいないほうがいいんじゃないですか」棘のある言い方だとは思いつつ、ぼくは止められなかった。「あくまで夢なんですから。その本だって、実際にあるわけじゃないんですよ」
「そりゃそうだ」先生は立ち上がり、本を持って「大当たり」の棚の前に行った。「わたしも、きみが行ったらすぐに目覚めることにするよ」
「それがいいですよ」とぼくは言った。
○
扇風機の風が頬を叩いては去り、去ってはまた、叩きに来る。ぼくに風が当たっていないあいだは、石川先生のほうに、扇風機は向いている。
一か月ぶりのカウンセリングの部屋で、ぼくと石川先生はいつものようにテーブルをはさんで、斜め向かいになるように座っていた。
石川先生は袖がすこししかない、淡い緑色のワンピースを着ていた。ワンピースにはほとんど同じ色の糸で細かな花柄が刺繍されていて、光の加減で陰影ができた。黒くて長い髪は相変わらず首を覆っていて胸のあたりまで垂れている。暑くはないのだろうか、とぼくは思った。
ぼくは、はじめにスケッチブックを二冊、石川先生に見せた。自画像のスケッチブックと風景画のスケッチブックだ。石川先生は、一枚一枚に一言、二言感想を言いながら、ゆっくりと絵を見ていった。質問もされたが、「これはどう描いてるの?」とか「これは何?」とか、単純なものばかりだった。
「この前は絵を見せるって言っていたのに、わすれてすみませんでした」
「そういえばそうだった」石川先生は例のにっこりとした微笑みを浮かべた。
スケッチブックは、絵を見せるためだけに持って来たわけではなかった。ぼくは肝心の夢日記を石川先生に渡した。夢に出て来るスケッチブックはこれです、と言うと、石川先生は、そう、とうなずいた。ノートは読むときには、メモを取ることもなく、ただただぼくが書いた文字を読んでいた。何度か、おなじ文章を戻って読んでいることが、目を見ているとわかった。
「どうでしょう」最後のページを開いたまま石川先生がノートをテーブルに置くと、ぼくは待ち切れずにそう訊ねた。早く何か言ってほしかった。ぼくは、診断を必要としていた。
「その前に、きみが思ったり、感じたりしていることを聞きたいな」石川先生は布張りのソファに深く座り直した。
「そう言われても、わからないです」
「じゃあ、いま夢のなかにいるときはどういう気持ち?いいか悪いかで言えば」
「…微妙なところです」
「その微妙な気持ちを解きほぐすことはできる?どういう気持ちが入り混じってるんだろう」
「かなりむずかしいですけど…」額をかきながら、ぼくは言葉を探した。「楽しいんです、基本は。土屋先生がいて、話すことができるし。夏休み前に石川先生が言っていたみたいに、窓がひとつなくならずに済んで、安心したところもあります」
「そうだね」
「でも、所詮は夢なんだ、っていう意識がずっとあるんです。たとえば、どれだけ夢のなかで絵を描いても、現実のスケッチブックには何も描かれていない。せっかくいいものが描けたと思っても、なくなってる。最初からないんじゃなくて、なくなったっていう感じになる。それがぼくにはどうしても耐えられなくて、どうしようもなくつらい」
「ノートには、まだ夢でも絵を描いてるって書いてたよね?」
「ただ描いてるだけです。最近は土屋先生が本を読んでいることが多くて、邪魔するのは悪いから。本気で描いたりはしません。練習みたいな感じです」
「土屋先生が本を読んでいることは、さみしくないの?」
そんなこと思いません。
そう言いかけて、ぼくはその言葉を検査した。自分の気持ちを探り、言葉と照らし合わせてみた。
「それはいいんです。ぼくがさみしいと思うことは。土屋先生は結婚して子どもができてから、本を読む時間もなかったんです。あんなにすきなのに。だから、夢のなかくらいすきなことをしてもいいじゃないかって思います。絵と違って、本を読むだけなら、ぼくみたいな気持ちにならないだろうし」
「じゃあ、土屋先生が本を読んでいることは、いいことなんだ」
ぼくはすぐに返事をしなかった。そのあいだも、石川先生はぼくをじっと見つめている。丸い瞳で。
「こわい、とも感じます」
ようやくそう言ったとき、胸が沈んで、首が前に垂れた。空気の抜けた人形みたいに。
「いいことはいいことだと思うんです。ぼく自身、土屋先生にはもう一度、本を読んでほしいと思っていたので。でも、実際に本を読んでいるところを見ると心配になるんです。そんなにのめり込んで大丈夫なのかなって。あの夢がどういう夢なのか、ぼくには全然わからないけど、戻って来れないようなことがあってもおかしくない気がする。ぼくは、ほんとうはもうあの夢には行きたくないんです」
ほんとうはもうあの夢には行きたくない。たしかにぼくは、そう言った。
でも、と、ぼくはつづけた。「そういうわけにはいきません。土屋先生がいるから」
「土屋先生は、今日は学校にいる?」
「来ていないみたいです」
「そうか」石川先生は髪を耳にかけて、頬に右手を添えた。薬指にはいつもとおなじ指輪がはまっている。
「私は、きみの感覚に賛成です」と石川先生は言った。「あまりのめり込まないほうがいいと思う。私は、こういう夢を見たひとを知っているわけじゃないけど、似たようなことは知っている。ひとは、自分で夢をつくってしまうことができる。これはきみが見ているみたいな夢のことじゃなくて、もっと比喩的な意味ではあるんだけど…その場合ね、何が問題になるかというと、そのひとの都合の悪いことは徹底的に排除できてしまうということ。そうすると、夢にいるのがどんどん心地よくなって、そこから出られなくなってしまう。もし、ほんのすこしでも他者がかかわっていれば、そういうことは起こりにくくなるんだけどね…まったくない、とは言えないけれど」
「あの夢には一応、ぼくもいます」
「親しい人間の場合は、あまり安心できないんだ。たとえばふたりが恋人同士だったらどうなる?そこは文字通り、夢の世界になるでしょう。土屋先生が現れたと聞いたとき、あぶないかもしれない、と思ったのはこの可能性を考えたから。何事もなくてよかったけど」
「あるわけないですよ」びっくりしてぼくは言った。
「いろんなひとから話を聞いているとね、この世界ではときどき、起こるわけがないことが起こるんだってことが、よくわかるんだよ」
石川先生は顔を傾けて、笑ってみせた。
「そうはならなかったわけだけれど、話を聞いていると、土屋先生はだいぶ夢にのめり込んでいる可能性がある。たぶん、夢のなかで過去の自分と出会ってしまったんだろうね。現実の自分とはまったく違う自分に」
「そうだと思います」
「夏休みが終われば、この夢も終わると思う?」
一学期のあいだは、学校のある日には夢のあの部屋へは行かずに済んでいた。だからといって、二学期もおなじようになる保証はない。ぼくはそう石川先生に言った。
石川先生はうなずいた。
「それでも、一応そこが区切りにはなると思う。状況が変わるにせよ、変わらないにせよ。学校がはじまれば、直接会って話すこともできるし」
「家の電話番号を知っています」
石川先生は鼻に手を当てて、視線を落とした。二度、まばたきをした。
「やっぱり、直接会うのが一番だから。土屋先生とは面識もないし。電話ではなかなか安心できない」
「そうですか」とぼくは言った。
「とりあえず、夏休みが終わるまでですよね?」
「そうだね、あと三週間」
「そのあいだ土屋先生のことを見張っていれば、何とかなりますか?」
「わからない」きっぱりと、石川先生は言った。「何が起こってもおかしくないから。それでもだれかがそばにいるのと、そうでないのとではまったく違うと思う。何もしないで、ただいるだけっていうのもむずかしいとは思うんだけど。きみはきみで、自分の身を守るのに精一杯だろうし」
「やれるだけやってみます」何かに押しつぶされそうになりながらも、ぼくはそう答えた。
「きみは賢い子だと思うよ。よく考えているし、直観的に危険を感じることもできる。ちゃんと自分の声を聴いてあげてね。迷うこともあると思うけど、きみはいまのままでも充分に強いものを持っているから」
ほんとうにそうだろうか、とぼくは思った。ぼくはいまでも充分に強いものを持っている?
気づいたのは臭いだった。
嗅いだことのない臭いだった。すくなくとも、夢のその部屋では。
目を開くと、部屋がすこし曇っているような気がした。煙?ぼくはソファから手を伸ばして錠をはずし、窓を開けた。けれど煙は、部屋からながれ出ていかなかった。現実のようには。風がないのだから当たり前なのかもしれない。
正面に先生がいた。黒い半袖のTシャツにジーンズという姿で、いつもぼくが座っている学習机の席につき、蛍光灯を見るような角度で顔を上げている。
ぎょっとした。
先生の髪は、もはや垂れるほどの長さもなく、針のように鋭く立っていた。白い額も、小さくて縁の赤い耳も、ほとんど見えてしまっている。そして、後頭部の断崖絶壁も。
ぼくは立ち上がって、土屋先生にゆっくりと近づいていった。けれど、後ろから横に回ってちょうど鼻筋が見えたところで、足が止まった。こわくて、それ以上は近づけなかった。
もうすこし気持ちを整理したかったのに、先生は顔をこちらに向けて、やあ、と声をかけてきた。まだ肩を叩いていないのに。
「さすがにわたしも気づいたよ」先生の表情は硬かった。はずかしがっているというのでもなく、戸惑っているのでもなく。両手で頭をこすりながら言う。「これ、ドイツに行くすこし前の髪型だよ。ドイツに行ってすぐだったかもしれないな。あっちに行くと子どもにしか見えないらしくて、失敗だったんだけどね」
「だれかと思いました」ぼくは、とにかく明るい声を出した。すべておもしろい冗談だというふうに。
さっきの臭いが強くなった。
ひょっとして、煙草ですか。
ためらいつつぼくは訊ねた。
「どうしてわかったの?」
先生は大袈裟におどろいた表情をした。先生もこのことを冗談にして見せたいようだった。
「学生時代に吸ってたんだ。結婚する前にやめて、それ以来吸っていなかったんだけどね。旦那が嫌がるから。夢のなかでならいいかなと思ったんだけど」
「また『大当たり』の棚ですか?いつから」
「二日前だったかな。夢とはいえ学校の部屋だから罪悪感があって、きみには見つからないようにしたかったんだけど、やっぱりだめだったか。ごめんね」
ぼくは「大当たり」の棚のなかを見た。ガラス戸のなかに煙草はなかった。先生は向かいにあるおなじ形の棚の下の扉を開き、なかのものを取り出して、ぼくにひらひらと見せた。どこにでもあるような赤い色の安っぽいライターと、見たことのない茶色い箱。
「めずらしい箱ですね」とぼくは言った。「父が吸ってるんですけど、見たことない」
「ドイツにいたころに吸っていたやつだから。癖が強いんだけど、そのうちこれなしだと頭が回らなくなってね」
ぼくはまた臭いを嗅いだ。甘い香りのなかにぴりぴりとした棘のようなものを感じる。目がうるむような刺激。先生は煙草とライターをかさねて棚のなかに戻した。
「一応、きみが来るだいぶ前に吸うようにしてたんだけどね。今日はうっかりしてた」
「いったい、どのくらい夢のなかにいるんですか」
「よくわからないんだよ、前にも言ったけど」土屋先生は宙に手を浮かべながら言った。左手が煙草をはさみ持つようなかたちになっている。「本を読んだり、考えごとをしたりすると、すぐに時間をわすれてしまうから。きみがいる時間より長い、としか言えない」
「何度か家に電話をしたんです」
カウンセリングのあと、ぼくはまた土屋先生に電話をかけてしまった。こらえきれずに。今度はつづけて二回かけ、時間を置いてもう一回かけた。それでも、電話にはだれも出なかった。
「ごめんね、ちゃんと番号をおぼえていなくて。知らない番号にはかけ直さないんだ」
土屋先生はぼくに対してからだを横に向け、ソファに座った。まるでぼくの視線から逃れるみたいに。ぼくはその場からうごかず、立ったまま言った。
「ひょっとして、昼間も寝ているんじゃないですか?」
「暑いのが苦手なこと、知ってるでしょ?ここにいる方がすずしいから」
ぼくの胸はかなしみに似たものでいっぱいになった。
「もし、ほんとうにそんなふうにこの部屋をつかっているのなら、すぐにやめてください。もう本を読むのもだめです。煙草を吸うのも」
「いいじゃない、何をしたって。夢なんだからさ。わたしは、きみがこの夢をどうつかっても、文句は言わないよ」
もどかしい。首から上が火を放たれたように熱くなってきた。いったい、どう言えばいいのだろう。「文句を言っているつもりはないんです。危険だって言っているだけなんです」
「よくわからないよ。言っていることが」
「もし、この夢から戻れなくなったら、どうするんですか?」
「夢から戻れない?」
「石川先生にこの夢の話をしたんです。あまりのめり込まないほうがいいって、言ってました。夢のなかが心地よくなりすぎて、出られなくなってしまうって」
土屋先生の鼻の周りがほんのすこしゆがんだ。「のめり込んでなんていないよ。わたしはこれが夢だってわかってるし、戻れなくなるなんてこともない」
「先生、前に言ってましたよね?数学のことを考えていたら、旦那さんや子どものこともわすれてしまうかもしれないって。ほんとうにそうなるかもしれないって、こわくならないんですか?」
先生は呆気にとられたような顔をしていた。何を言われているのかわからないというふうに。
言い過ぎた。
咄嗟にそう思い、ぼくは急いで言い直そうとした。
けれど、それより前に先生はぼくから目をはなし、うっすらと笑った。馬鹿にしたような、嘲るような、つめたい笑い方に見えた。
はじめて先生とのあいだに壁を感じた。
どうして気づかなかったのだろう。よく考えれば、ぼくと先生には共通点なんてひとつもない。先生と生徒、女と男、母と子ども、数学と絵、本と…。いったいどうして、自分と先生につながりがあるなんて思っていたのだろう。ぼくが一方的に先生を必要としていただけで、先生がぼくを必要としていたわけでは、ない。
自分に腹が立った。そして、無性にはずかしくなった。涙をこらえていると、頭のなかがぱんぱんに膨らんでいるような感じがした。
暑いな。そう思って目をつむり、ふたたび開くと、突然、ふわっと足の力が抜け、膝が床に落ちた。あっ、と思ったが、そのまま床は近づいて来て、ぶつかる寸前で視界が真っ赤になった。
頭にもからだにも、痛みはなかった。ただ、まぶたが開かなくて、音だけがぶよぶよと聞こえていた。頬に触れる先生の手がずいぶんとつめたかった。そういえば、こんなふうに先生に頬を触ってもらったことがあった。はじめてのカウンセリングのあとだ。あのときもぼくの頬は熱くて、先生の手はつめたかった。
次第に視界は赤から黒に変わっていった。先生はぼくに何かを言っていたが、何を言っているかまったくわからなかった。心臓の音ばかりが響いていて。そして、強制的な夢の終わりがやってきた。ぼくの感覚は先生の手をはなれ、そのあと断線のような状態があり、次に意識が戻ったときには、ベッドの上でからだを丸めていた。
しばらくしても、ぼくのからだは高熱が出たときのように輪郭がぼんやりとして、どこにも力が入らなかった。目のなかには涙がたまっていた。それからすぐ、ぼくはもう一度眠ったのだと思う。夢から覚めたとき、外はまだ真っ暗だったのに、気がつくとほんのすこし明るくなって、雨が降り出していた。それは夏休みに入ってはじめての、夢のない眠りだった。熱っぽさは収まっていたが、それでも頭がだるく、不安もぼんやりとしか感じられなかった。
何とかベッドから起き出し、リビングに行くと、お父さんが朝ごはんを食べていた。白いTシャツに膝丈のグレーのズボン。寝巻姿だった。仕事は、と訊くと、お盆休みだ、という答えが返ってきた。
「墓参りに行くぞ」
畳んで置いた新聞をしばらくじっと見てから、お父さんは言った。
ぼくは頭を押さえた。「熱があるかもしれないんだけど」
「熱?計れ」
ぼくはペン立てに挿してある体温計を取って脇にはさんだ。熱は三十六度七分だった。
「平熱だ。大丈夫だろう」怒ったみたいに言って、お父さんは立ち上がった。
「雨だよ」とぼくは言った。
「車に乗っているうちに止む」
「お母さんは?」
リビングにはお母さんの姿はなかった。出かけた、とだけ、お父さんは言った。
「じゃあ、ぼくらだけ?」
それには何も答えなかった。
お父さんの言った通り、車に乗っているうちに雨は止んだ。日の光を透かした青灰色の雲が隙間なく空を埋めていて、あたりは中途半端に明るく、蒸し暑かった。
四、五十分、車を山側へ走らせると、霊園に着いた。
おじいちゃんはぼくが小学五年生のときに胃癌で死んだ。ひとり暮らしになったおばあちゃんは寝ている時間が長くなって、そのうちに足腰が弱くなり、一年前に施設に入った。お父さんには妹がいたけれど、いまは四国に住んでいる。ぼくはおじいちゃんの葬式以来、その四国のおばさんとは会っていない。
お父さんは霊園のひとと挨拶をし、規則正しくならんだお墓を縫って、迷うことなく家のお墓にたどりいた(ぼくにはまったく見わけがつかない)。雨に濡れた墓石をきれいな布巾で拭き、来る前に買った白と黄色の菊の花を挿し、しゃがんで手を合わせた。ぼくは何も考えずにお父さんに合わせてうごいた。自分がどこにいて、いま何をしているのか、頻繁にわからなくなった。
お父さんは白い襟のついた黒色のポロシャツにチノパンを穿いていた。シャツの裾はパンツのなかに押し込まれていて、そのせいでお腹が苦しく見えた。むき出しの腕は太く、毛が濃くて、手には文字盤の黒い金色の時計がはめられている。何でそんな時計をしているのだろう、と思った。自分はきっと、一生つけないだろう、とも。
おばあちゃんが元気だったころはいっしょにお墓参りをした。去年は家族三人で来た。今年はお父さんとぼくだけだ。お母さんが行きたくないと言ったのか、それとも、お父さんが連れて来なかったのか。どちらにしろ、この場にお母さんがいないのは、はじめてのことだった。
お母さんはどこにいるのだろう。
雨を吸った木が濃厚な気配をあたりに放っている。葉の匂いが空気いっぱいにふくまれていて、肺まで緑色になるようだった。蝉が、そろそろと様子をうかがうように鳴きはじめていた。お父さんは一言も口を開かずに、桶を持ってお墓の前をはなれた。
帰り道に霊園の近くにあるおそば屋さんに入った。ぼくはお父さんとおなじ天むすのついたざるそばを食べた。お父さんは高校野球のながれるテレビを見ながらざるそばを食べていた。お父さん以外のひともおなじようにテレビを見ながら自分たちのそばやうどんを食べていた。お父さんの口が天ぷらを呑みこみ、天むすの海苔を引きちぎった。アナウンサーが球児の名前を読み上げ、大会の成績をつたえていた。店員が子ども連れのお客にみず色のプラスチックのお椀と、おそろいのフォークを持って来ていた。外がにわかに明るくなって、店の床に引き戸の格子の影が浮かび上がった。わさびが鼻の奥を刺した。
デジャ・ヴュ、かと思った。でも、違う。現実感がないだけだ。わざわざ体験しなくても想像できてしまうような嘘みたいな景色しか、目の前になかったから、そう感じただけだ。
早く絵が描きたいと思った。自分の奥にたまっているものを、一刻も早く出してしまわないと。そして、さっさとこれを現実にしてしまわないと。ほんとうに生きているのかどうかわからなくなる前に。
○
ぼくの眠りは突然ふたをされたように完璧な、夢のない眠りになった。
ぼくはとにかく絵を描いた。残っている読書感想文のことも考えず、眠る時間を減らして、毎日毎日、休みなく絵を描いた。自分がすべきことはこれしかないと言い聞かせながら。
あれから土屋先生はどうなったのだろう。ぼくの言ったことを、どう思っただろうか。いま、どうしているのだろうか。
あの部屋に行けなくなったのは、土屋先生がぼくのことを考えなくなってしまったからなのだろうか。
夢のことをわすれるために、ぼくは一層絵にのめり込んでいった。
ある日、お父さんが何も言わずに部屋に入って来た。そのときには、ぼくが絵を描いていることは知っていたのだと思う。ぼくは気にせず絵を描いていた。それは何だ、と訊くので、絵、と答えた。何を描いているんだ、と言うから、それまで描いてきたスケッチブックやクロッキー帳の束を押しつけた。お父さんは一冊しかちゃんと見なかった。それから、入って来たときとおなじように、無言で部屋を出て行った。お母さんと何か話しているのが聞こえた。
何日間か、ふたりは何かを話していた。
ふたたび夢を見たのは、夏休みが一週間を切ったころだった。
あの部屋の夢だった。けれど、それがほんとうにあの部屋の夢なのか、それとも、自分が勝手につくった夢なのか、いまでも区別がつかない。
ぼくは暗い通路に立っていた。
目の前には階段があって、後ろには真っ暗闇の廊下がある。闇は階段にもただよっていて、それが見せかけだけの、閉ざされた場所であることを教えている。
そこが学校の廊下であることは、足元からつたわる馴染みのつめたさでわかった。ぼくは石の床の上に裸足で立っていた。服装も、制服ではなく、Tシャツに薄手のハーフパンツという、寝たときの姿だった。
むき出しの腕や脚に寒さを感じた。気温として寒さを感じるのは、この夢でははじめてのことだった。二の腕に手をやると鳥肌が立っていた。
右を向くと、廊下の奥にひとつ、明かりが漏れている部屋があった。
ぼくは身をこわばらせながら、明かりのほうへと歩き出した。冷気がからだにまとわりついてきて、だんだん、白い霧のようなものまで見えるような気がしてきた。
窓の外は相変わらず真っ暗だった。ただ暗いのではなく、黒い煙が一面に広がっているかのように、空気がゆっくりとうごいているのが見える。そのうごきは、ぼくについてきているように感じられた。じっと見張るように。
明かりはやはり、「進路相談室」のものだった。扉がうっすらと開いていて、そこからなかの光が筋になって廊下を走っていた。
ぼくは、なかなかその場からうごけなかった。これから自分が何を見るのかを想像すると、こわかった。部屋からは光といっしょにうっすらと白い空気がながれ出ている。ぼくに見せつけるように。ぼくを観念させるように。
銀色の取っ手に指をかけ、ぼくは扉を開けた。
毎日のように来ていたことを思えば久しぶりに見る「進路相談室」だった。
部屋のものはほとんど記憶通りの場所に収まっている。机も、椅子も、ホワイトボードや段ボールも。それらのたたずまいは、そこがぼくの知っているあの部屋であることを教えてくれている。
にもかかわらず、そこはもう以前の「進路相談室」ではない。
白濁とした空気と、異臭。煙草の煙はすみずみまで部屋を覆い、視界をかすませていた。目にしみて涙がにじむとあたりはほんとうに霧がかって見え、部屋が非現実的な場所に思えた。もちろん、ここは非現実的な場所だ。夢なのだから。ぼくは目をこすり、涙をぬぐった。それでも霧は完全には消えなかった。
先生はいつもぼくがつかっていた学習机の席に座っていた。
大きめの黒いTシャツにグレーのタイツ姿。短パンを穿いているのかもしれないが、Tシャツに隠れていてわからなかった。髪は、前に見たときよりもさらに短く、完全な坊主頭になっている。机の上には青色の灰皿とペンと数枚の紙、茶色のマグカップが置かれていた。どれもぼくがいたころにはなかったものだ。灰皿には煙草の吸殻が小さな山をつくっている。マグカップにはコーヒーと思われる黒い液体が入っていて、ほのかに湯気が立っている。いったい、どこでお湯を入れたのだろう。
先生はうつろな目を宙に向けて静止していた。まるでろう人形のようだったが、かすかに肩がうごいているので、呼吸をしていることがわかった。机に置かれた左手には火の点いていないあたらしい煙草がはさまれている。右手には赤色のライターが握られている。
ぼくは扉を閉め、先生に近づいた。そのあいだ、先生はぴくりともうごかなかった。まぶたすらも。すぐそばまで来ると、先生、とぼくは呼んだ。反応はない。ぼくは先生の右肩を叩いた。いつもそうしていたように。
「先生」
びくっとからだが跳ねて、それから、先生は目を細めてぼくのほうを見た。見たことのない、険しい目つきだった。心地よい眠りの邪魔をされたような。
「ああ」ぼくに気づいても、先生はぼくの知らない目をしたままだった。
「久しぶりだね。もう来ないのかと思ってたよ」
「来られなくなっていたんです」
険しいままの目をそらし、先生はきまりが悪そうに、鼻から深く息を吸った。
次に聞こえたのは、はずかしいな、という言葉だった。
「結局、きみが言ったとおりになったみたいだ」
「先生はここで、数学をしているんですか?」
「そう。もう何日になるんだろう、ずっとここにいるよ」
机に置かれた紙には数式と何語かわからない文章が走り書きしてあった。米粒くらいの大きさの字で、紙はまだ半分以上が真っ白だった。ぼくの視線に気づいた先生は紙の端に指をかけて裏返そうとしたが、思い直したように紙を置いて、指をはなした。
何を言えばいいのかわからなかった。自分がいまどんな気持ちでいるのかも。この状況に、何を思えばいいのかも。先生もおなじだったのかもしれない。見下ろすぼくの視線は避けて、閉じている扉のほうに目を遣っている。色の薄い唇はすこし開いていて、指にはさんだ煙草を手慰みにゆらしている。
「現実では、わたしはいまどうなっているのかな、って考えたりもするよ」ひとり言のように小さな声だったが、一度しんとした部屋にはずいぶん唐突に、大きく響いた。「水を飲んだり食事をしたりできないから、病院のベッドで管につながれていたりするのかなって。子どもは旦那か、わたしの実家にでもあずけられているんだろうね。きっと、わたしはいろんなひとに迷惑をかけているんだろう。きみにも」
そんなことは。そう言いかけたぼくの言葉を遮って、先生は、でも、とつづけた。
「わたしがひとに迷惑をかけていなかったときはほとんどないよ。いつもだれかの手を煩わせて、期待に背いて、傷つけて生きてきたような気がする。そうしたかったわけじゃないよ。だれかを傷つけたいなんて思っていたわけじゃないし、できれば期待にも応えたかったけど…いや、それは嘘だな。結局のところ、わたしはひとを傷つけないようにしたり、期待に応えようと努力をしてこなかったんだろう。そんな気がする。いつも自分を一番に優先させてきたような気が」
先生はぼくに向かって笑顔を見せた。ぼくは口の端をすこし震わせることしかできなかった。胸にもやのようなものが湧いて、どう相槌を打てばいいのかもわからなかった。
「でもほっとするよ」笑顔のまま、先生は言った。「もうそんなふうに、ひととかかわらなくて済むんだね」
「そうですか」
「きみはどう思う?」
「何をですか?」
「わたしのこと」
「ぼくは…」浮かぶ言葉はあったが、その言葉が正しいのかどうかわからなくて、口にすることができなかった。ただ、突っ立っているだけの、不自然な時間がながれた。
ぼくは訊いた。「先生はこれで満足なんですか?」
「この上なく」先生は目を細めた。「これはまさしく、わたしが望んでいたことだと思うよ」
「なら、ぼくはそれでいいと思います」
「うん」先生はうれしそうに笑った。
「それでも、きみには悪いことをした。何をしてしまったのかうまくは言えないんだけど、わたしはたぶん、きみを傷つけたよね。ごめん」
「いえ」
「迷惑もかけた。この前倒れたのもわたしのせいだよね、きっと」
「違いますよ」あれはぼくが弱かっただけだ。
「わたしは、きみから何かをうばったりはしていない?」
「うばう?」ぼくはすこし考えてみたが、首を振った。「わからないです」
そう、と先生は言った。ぼくは先生の顔をじっと見る。額からあごの先までつるりとした顔。どんなひっかかりも見当たらない。
ぼくはすっかり先生のことがわからなくなってしまっている。先生の考えていることが。いや、最初からぼくは先生が何を考えているかなんてわかっていなかったし、先生のことなんて何も知らなかった。先生がどんなふうに生きてきたのかも知らなかったし、ぼくと出会ってからも、どんなふうに生きていたのか知らない。学校にいないときのことは。
いや、学校で、この部屋で、いっしょにいたときでさえも。
「きみはこれからも絵を描くのかな」先生の表情は、いつの間にかすっきりとしていた。ぼくに向ける視線にも、以前のような親しみとやさしさが戻っているように感じられた。
「わかりません」とぼくは答えた。「いつまで絵を描きたいと思っているのかわからないし。でも、まだやりたいことはあるので、もうしばらくは。先生が数学をするほど真剣にはできないかもしれないけれど」
「きみにもらった自画像は何度も見返したよ。ここに置いてあるきみのスケッチブックも。わたしを描いてくれた絵も。きみがどう思っているのかはともかく、わたしは、きみの絵を見るとこころがうごく。もう十四歳だっけ?」
「まだです。夏休みが明けてすぐに、なります」
「うん、たいしたものだよ。だれでもできることじゃない。きちんと向き合ってやる価値のあることなんじゃないかな。個人的には、いけるところまでいってみてほしいと思うよ」
「ありがとうございます」
そう口にすると、頭から足先まで皮膚が粟立って、そわそわして、泣き出しそうになった。胸が詰まり、頭がかっとなった。さっきまでは感じていなかったのに、先生の言葉の響きが、残り時間をはっきりとさせてしまった。
いままで日常に、当然のようにあった時間が、もうすぐ終わって、消えてしまう。
これからどうやっていけばいいのだろう、とぼくは思った。未来にぱっくりと空いた大きな穴を、ぼくはどうすればいいのだろう。
何も考えられない。
「見届けられないのは残念だけど、まあ、それは現実でもそうだからね。あの部屋を出て、クラスに戻ればきみとははなれてしまうことになっただろうし、卒業すればほとんど会うこともなくなる。自然なことだ」
「そうですね」声は、冷静だった。思いとは反対にこころのざわつきは鎮まっていき、言うべき言葉をきちんと返そうとしている。
「これで会うのは最後なのかな?」
「たぶん、そうだと思います」
「きみはもう、この夢には来ない?」
ぼくは笑った。頭の輪郭が二倍に膨れ上がっているように感じられるけど、ふつうに笑うことができた。「もう来られないんじゃないかと思います。でも、先生がまた、数学ができるようになってよかったです」
「うん」と先生は言った。
「ありがとうございました。先生のおかげで学校に行けるようになったし、絵も描けるようになりました」
真剣な顔で先生は首を振った。「勘違いしちゃいけない、それはきみがやったんだ。わたしは何もしてない。わたしのほうこそ、ありがとう」
「ぼくはお世話になっていただけです」
「いや、そうじゃないんだ。ほんとうはね、勉強に口を出したり、話をしたり、昼寝をしたりしていたのは、わたしが楽しくてやっていただけなんだ。きみのためじゃなくて」
「そうなんですか」
「うん。だから、つき合ってくれてありがとう」
ぼくは一瞬息を止めて、吐いた。
「それならよかったです」
「うん」
「それじゃあ、もう行きます。邪魔をしてすみませんでした」
「そんなことないよ。ちゃんと話ができてよかった」先生は不意に、ちょっとふざけたような顔をして、ぼくをにらんだ。「気をつけるんだよ。きみにはこれからも、いろんなことがあるだろうからね」
「想像もつかないですけど」
「そう。想像もつかないようなことが、いろいろと起こる」
先生はぼくに向かって右手を突き出した。ぼくはすこしのあいだ、ぼおっとその手を見ていた。そして、握った。先生の手はつめたかった。ぼくの手が熱すぎるのかもしれない。
「頑張ってね」
「はい」ぼくは手をはなした。「さようなら」
「さようなら」
ぼくは何度も振り返りながら、部屋の入り口のほうへ向かった。先生は笑って手を振っていた。目を見開いたり、細めたり、音もなく口をうごかしたりして。ぼくをねぎらうように。去っていくのはぼくではなく、先生のほうだというのに。
扉を開けると、もう一度振り返って、先生に手を振った。頭を下げた。もっと何かしたいと思うのに、もうほかに、何をしていいのかわからない。
このまま出て行っていいのだろうか。
ほんとうに、こんなふうに終わりにしていいのだろうか。
ようやくぼくは迷いだした。けれど、と、すぐにぼくは思う。先生は言った。この上なく満足だよ、と。もうぼくにできることは、ない。この部屋を出て行く以外に。
廊下に出ると、扉を閉めるまで先生を見つめた。ほんとうに見えなくなってしまうまで。すっかり閉じると、ぼくは部屋から数歩はなれて、膝を抱えてうずくまった。もう何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。この夢では。
夢はすばやく、ぼくに暗闇を与えてくれた。
不思議と暗闇はあたたかかった。
またね。
部屋から足を踏み出す瞬間、そう聞こえたのは気のせいだろうか。たぶん、気のせいなのだろう。そもそも、あの夢は都合がよ過ぎる。きっとぼくの無意識がつくりあげたひとりよがりな夢だったのだろう。
○
石川先生が妊娠していると聞いたのはその年の十一月のことで、翌年の三月で産休に入ることになり、ぼくとのカウンセリングもそこで終わることになった。二学期がはじまってすぐの時点では、もちろんそんなことは知るよしもなかったけれど、それでもぼくは、漠然と石川先生との別れを意識していた。三年生になったらクラスに復帰すると決めていたし(まだだれにもつたえていなかったが)、そうなればカウンセリングを受けることもなくなるだろう、と。だから産休の話を聞いてもあまりうろたえなかった。
「土屋先生は、どうなったんだと思う?」
長めの沈黙を置いたあとで、石川先生はそう切り出してきた。
土屋先生は二学期がはじまっても学校に来なかった。
担任からは、事情があって当分は来ない、としかつたえられていなかった。ぼくは思わず訊ねたくなったが、やめた。担任だって詳しくは知らないに違いない。
「満足のいく人生をもう一度生き直しているんだと思います」
夏休みが終わって声色が変わったような気がする。石川先生にもそう言われた。これが声変わりというものなのだろうか。「いま学校に来ていないということは、たぶんそういうことなんだと思います。先生はべつに、教師になりたかったわけでも、子どもをうみたかったわけでもないですから。数学がしたかったんです。もっと早くにそうできていればよかったのに」
「むずかしいことだよ」と石川先生は言った。「生きているとね、思っている以上にいろんなものにぶつかる。自分が思った通りにばかり進んで行けるわけじゃない。それでこころに圧力がかかって、調子が悪くなってしまうひとがいる。私たちみたいな仕事も必要になってくる」
だとしたら、土屋先生は、いったい何にぶつかったのだろう。
ぼくはテーブルの上にある置時計を見つめた。ガラスのなかにいる二頭の象にピントが合う。象たちは踊っている。だれかを祝福するように。
「石川先生は、どうしてこの仕事をすることになったんですか?」
石川先生はすこしびっくりしたような顔をしたけれど、とくにためらうことはなく、話をしてくれた。
「最初は教師になったんだけど、やってはみたもののどうもしっくりこなくて、一度大学に戻ることにしたの。最初の学生時代にお世話になった先生の専門だったから心理療法を勉強したけど、ただ考える時間がほしかっただけだったんだなあ、っていまなら思う。だから、とくにカウンセラーになりたかったわけでは、ないね」
「やりたいことではなかったんですか?」
「もちろん、最終的にはやりたいと思ったから、こうしてカウンセラーになっているわけなんだけど、成り行きの部分が大きいかなあ。自分でもちょっとよくわからないね」
「カウンセラーをやめたくなったりはしないんですか?」
「つらいと思うことはあるけど、それでいやになって、やめたいと思うことはないよ。たぶん、私は一生この仕事をしていくんだろうなって、思ってる」
「一生ですか」
「たぶん、だけどね」
石川先生はにっこりと笑った。何てほがらかな目なんだろう、とぼくは思った。その目は、子どもができたと教えてくれたときにも濁らなかった。このひとはほんとうに、一生この仕事をつづけていくのだろうな、と思った。
土屋先生と入れ替わりにやって来た非常勤の先生は春に美術大学を卒業したばかりだった。すらっとした背の高い女性の先生で、山倉先生と言った。ぼくは山倉先生にデッサンを教えてもらうことにした。宿題を出してもらい、家でデッサンをして、翌日に持って行ってアドバイスをもらう。ほぼ毎日、これを繰り返した。三年生になってクラスに復帰してからも(クラスメイトたちは思っていたよりずっと自然にぼくと接してくれた。想像していたような苦労はほとんどなかった)、ぼくは山倉先生に絵を教えてもらった。美術室に石膏像があったので、美術の先生に頼んで描かせてもらったりもした。
山倉先生は県内の公立高校に美術専科があることを教えてくれた(先生はそこの卒業生だった)。夏休みの初日に、ぼくはその高校のオープン・ハイスクールに行った。とくに感心したりはしなかったが、何となく、この学校に進むのだろうなという気がしたので、家に帰ってお母さんにその話をした。お母さんは疲れた顔で、そう、と言って、何かを考えていた。何を考えているのかは、考えないようにした。
家族での話し合いがあったのは、二学期になって、学校での三者面談が近づいてきたころだった。リビングのテーブルで、お父さんはぼくの正面に座り、その隣にはお母さんが座っていた。
「美術科に行きたいってことは、つまり、画家になるということか?」お父さんは進路希望用紙を見ながら言った。第一希望から第三希望までの進路先をぼくはすでに書き終えていて、あとは親のサインと印鑑をもらうだけだった。
ぼくは首をひねった。
「画家になるってわけじゃない」
「じゃあ、何で美術科なんだ?」
「何となく、ここに行けばいい気がしたから」
お父さんは左手で口の横をかいた。また金色の時計だ。どうして家のなかでまで腕時計をしているのだろう。
「いいか、高校は義務教育じゃない。べつに中学を出たらすぐに働いたってかまわないんだぞ?」
「どういうこと?」とぼくは訊いた。
「こんなところに行かせるくらいなら、そこのバイク工場で働かせたほうがましだ」
「どうしてそうなるの?」お父さんの肩に触れながら、お母さんは言った。「そうじゃなくて、どうして美術科なのかっていうことをもっと聞いてあげて」
「もう聞いた。何となく、だろう。その程度にしか考えていないんだ」
「ちゃんと話して」お母さんは、今度はぼくを見た。「お父さんも、お母さんも、やりたいようにやってほしいと思ってる。行きたいところに行って、やりたいことをやってくれればいいって。だから、ここで何がしたいのか、ちゃんと話して」
何てくだらないんだろう。瞬間的に、ぼくは思った。何でこんなくだらないやり取りをしなくちゃならないんだ。
「ぼくはずっと絵を描いてる。これからもたぶん、絵を描く。だからここに行くんだ」ぼくは筋道を示すようにテーブルに指を置きながら言った。お父さんは首を振った。
「説明になってない。つまり、どういうことなんだ?」
「どう言ってほしいのかわからないよ。お母さんの質問には答えたよ。ぼくがここに行ってしたいことは、絵を描くことだよ」
「あんないかれた絵を?」
尻尾を出したな、と思った。お父さんはぼくが描いている絵を、そう思って見ていたのだ。自画像か風景画か、どちらを見たのかはよくはおぼえていないが、そんなことはどっちでもいい。どっちにしろ、いかれているのだ。
「ぼくがいかれていることなんて、とっくに知ってるでしょ?普通の子どもは不登校になんかならない」
「やめて」お母さんは険しい顔でぼくをにらんだ。「石川先生はとってもいい子だって言ってたよ。ちゃんとした、しっかりした子だって」
「医者がかんたんにひとの子を『いかれてる』なんて言うか?」
「カウンセラーだよ」ぼくは訂正した。
お父さんは黙った。目元と口のまわりの筋肉が細かくうごいている。何となく、自分の言葉に気まずくなっていることがわかった。すこし冷静になったのかもしれない。
ぼくも会話を思い返し、すこしだけだが、反省した。ぼくだって、きっと、お父さんを傷つけていないわけじゃないのだろう。お母さんのことも。自分の息子がいかれているかもしれないなんて、どんな気分なのか。
「普通の学校にはもう通いたくないよ。三年生になって、クラスに戻ってみてわかったけど、決定的に違うんだ。みんなと。ある程度なら合わせることができるけど、そんなことをしていたら、また学校に行けなくなるかもしれない。それよりは、自分とおなじように絵を描くのがすきなひとがあつまるところへ行ったほうがいいんじゃないか、って、思っただけだよ」
お父さんは目をつむっている。組んだ両腕をテーブルに置き、右手の人差指で腕時計のガラスを叩いている。
「お父さんは、」と、お父さんは言った。「まだうまく納得できない。また学校に行けなくなるかもしれない、って何だ?意地でも行け。合う、合わない、なんてことがそんなに重要か?いまから合わないことに慣れておけば、それはそれで役に立つ。世のなか、自分に合う場所のほうがすくない」
ぼくは何も言い返せなかった。黙ってお父さんの目を見ていた。
「言いたいことがあるなら言え。クソジジイ、でも何でもいい。いいか、父親なんてこんなもんだ。俺たちがお前のことを理解できないなんて当たり前だ、違う人間なんだからな。お前を思い通りにしたいとは思わない。でもな、家族っていうのはそんなに生易しいものじゃないんだ。俺たちがお前を理解できないことばっかりが問題なわけじゃない。お前が俺たちのことを理解できないことだって問題だ。そうは思わないか?」
わからない、とぼくは言った。
お父さんは鼻で笑った。
「わからない、って言っているうちに周りは進む。そうすると余計にわからなくなる。その繰り返しだ。みんながみんな、わかってからうごいていると思うのか?わからなくてもうごいてるんだ。だれも、お前が理解するまで待ってくれたりはしないぞ」
どこかでおなじような話を聞いたような気がしたけれど、うまく思い出せなかった。でも、お父さんは正しいことを言っていると思った。まったくその通りだと。それがいやなんだ、とは言えなかった。
「行きたいなら行けばいい。金も出してやる。お前の人生だからな、すきにすればいいんだ。でも、お前の人生はお前ひとりのものじゃない。その端っこにはお父さんとお母さんの人生もあるんだ。お前が行くって言うのなら、ついて行ってやる。行けるところまではな。それくらいの覚悟はある。お前はどうだ?俺たちをついて来させる覚悟はあるのか?」
お父さんは煙草を買いに外に出て行き、ぼくとお母さんはリビングに残った。
そんなにむずかしく考えなくていいよ、とお母さんは言った。
「いつも大袈裟だけど、お父さん、今日はめずらしくほんとうのことを話していたと思う。お母さんも、ついて行く気持ちはある。絵を描くなんて素敵じゃない。それがやりたいことなんでしょう?やりたいだけやればいい。そういう気持ちはもちろんあるんだけど、親だからね。何も訊かずに、はいはい、って聞き分けのいいふりして、あとで後悔したくないの。子どもの人生にいつまでもついて行けるわけじゃないから」
「むずかしいよ」とぼくは言った。「そんなにいろいろ、考えられない」
「そうかもしれない」お母さんは笑った。「石川先生が言ってた。あんたは、考えるよりも感じてうごくことができる子だって。自分の感じたことをたいせつにして生きていける子だって。それでいいと思う。そうやって生きていけばいいよ」
ベッドに入っても、ぼくの頭はお父さんとお母さんの言葉でいっぱいだった。
いったい、ぼくはどうすればいいんだ。すきにすればいい。そう口では言うけれど、お父さんも、お母さんも、いったいぼくに何を求めているんだ。
最近、眠れない夜が増えた気がする。眠れたとしてもまったく夢のない眠りなので、気がつくとすぐ朝になっている。休息した感覚はあったが、眠った意識が薄く、ずっと起きつづけているような感じだった。
あの日からずっと、ぼくは夢に遠ざけられている。そして、夢を見なくなると、ふたりのひとが去っていった。土屋先生も、石川先生も、ぼくの前にはもういない。きっと、これからも出会うことはないだろう。ぼくはこれから、あのひとたちのいなくなった世界で生きていかなくてはならない。