前篇
小学生にならないくらいの幼いころだったと思う。
そこは月に一度くらい、両親と買い物に行くデパートの最寄り駅だった。帰りの電車を待っていた。夕方のホームにひとはまばらで、両親はいなかった。ぼくひとりきりだった。
何を思ったのか、ぼくは突然、ホームの真ん中を走り出した。
しばらく走ると目の前に青い自販機が立ちはだかって、それを避けるために、右へと進路を逸らした。自動販売機にはぶつからずに済んだ。だが、その後もぼくの進路は右に逸れつづけた。やがて、ぼくのからだは、ホームから飛び出した。
線路へと落ちていく最中、夕陽が見えたのをおぼえている。ホームに入って来る電車の姿も。
夢はそこで終わった。ほんとうに体験したかのように胸がどきどきして、額に汗が浮いていた。ほんとうでなくてよかったと思った。
夜になって、ぼくはお父さんに訊ねてみた。
「夢はほんとうになる?」
ソファに座ってテレビを見ていたお父さんは、ぼくのほうに顔を向けると、眼鏡の奥の目を細めて言った。
「そうだ。夢はほんとうになる」
つまり、夢は叶うということを、お父さんは言いたかったのだと思う。けれど、当時のぼくは、その答えを残酷な運命のようにとらえた。いつか、自分はあんなふうに線路に落ちる。そして、タイミングよくやって来た電車に轢かれて、死ぬ。夢はほんとうになる。
そういう種類の夢――予知夢――を見るひともいるらしいが、ぼくは見たことがない(線路に落ちる夢もいまのところほんとうにはなっていない。幸運にも)そしてこれから書こうとしている話も、そういった夢とはまたべつものである。でも、それがどういう夢だったのか、ぼくはまだよくわかっていない。
ぼくはいま十七歳。高校二年生になっている。あれからもう、三年も経ったのだ。
○
これはある夢の話である前に、ある部屋の話である。
その部屋は、ふつうの教室の半分か三分の一くらいの大きさで、真ん中に学習机がふたつと、その奥に長机がひとつ置かれていた。椅子は四つあった。
机の左側には教壇があり、黒板があって、黒板についている抽斗を開けると、左側には白と黄色のチョークがごろごろと十本くらい、右側には青とピンクのチョークが一本ずつ入っていた。チョークはどれも小さくなっていた。黒板のレールには黒板消しが一つあって、チョークはなかった。教壇には教卓もなかった。
黒板の右側、つまり窓側にはねずみ色の大きな棚が置いてある。棚は上と下にわかれていて、どちらにも扉がついていた。上の扉はガラス戸で、中の本が見えた。高校の資料、入試対策問題集、厚紙の表紙のファイル…。扉を開けようとすると、鍵がかかっていてうごかなかった。扉の取っ手のすぐ上のところに「大当たり」と書かれた四角い小さいシールが貼ってあった。下の扉は開いたが、紙の束が無造作に入れてあるだけだった。棚の上には段ボール箱がふたつ載っていて、左の箱には黒マジックで「面接グッズ」と書かれていた。棚は反対側の壁にもひとつ置かれていて、上にはやはり段ボールが載っていた。
窓際にはひとり用のソファがふたつならんでいた。青っぽいグレーのソファで、やぶれたりはしていないものの色が擦れていて、叩くとほこりを吐き出しそうだった。
窓のブラインドは上がっていて、外がよく見える。西向きの窓なので、午前中はほとんど光が入らなかった。窓からは敷地を仕切る緑色のネットを透かして住宅地が見えた。北のほうには、ずいぶん遠いけれど線路も見える。国道までは距離があるので、車の走る音はそれほど聞こえない。
ホワイトボードや畳まれたパイプ椅子、いくつもの段ボール箱が壁際に寄せて置いてある。表札には「進路相談室」と書いてあったが、職員室のならびにあるもうひとつの「進路相談室」が主につかわれていて、この部屋はほとんど利用されなかった。おなじならびには第二理科実験室と準備室があった。第一理科実験室は職員室とおなじ本館の一階にあって、数年前に建物が改修されて設備もあたらしく、ほとんどの場合そちらが授業でつかわれていた。
そこは西館の三階。生徒も教師もあまり用のない場所だった。
はじめてその部屋を訪れたのは二年に進級してすぐ、学校に来るのは約三か月ぶりだった。校門をくぐる自信がなかったので、他の生徒とは登校時間を三十分遅らせて、校門前まで教師にむかえに来てもらった。
その日は冬がぶり返したかのように風がつめたくて、校門のそばで立っていた技術の教師は紫色のウィンドブレーカーを羽織り、寒そうに腕を組んで待っていた。ぼくが来ると「おはよう」とだけ言って、黙っていっしょに歩き、あたらしいぼくの靴箱の場所を教え、西館の「進路相談室」まで案内した。
「お世話になる先生を呼んで来るから、ちょっと待っていてくれな」
技術の教師(吉村という五十代くらいの男の教師で、顔のあちこちに大きなイボがあった)はぼくを部屋へ入れるとそう言って、どこかへ歩き去った。担任からは、自分は授業があってずっとつき添うことはできないから、べつの先生が面倒を見てくれる、という説明を受けていた。
ほとんど物置のような「進路相談室」はたしかにほこりっぽくはあったけれど、思ったより汚くはなかった。生徒がつかうことになって(たったひとりとはいえ)、掃除をしてくれたのかもしれない。ぼくは中央にある学習机にかばんを置き、室内を見回りながら、吉村先生が戻って来るのを待った。
こんこん、と小さくノックがあって、三分の一くらい扉が開くと、隙間から吉村先生が顔をのぞかせた。ぼくがいることを確認して、さらに扉を開く。どうぞ、と、部屋の外を振り返って吉村先生は言った。招かれたひとは技術教師の後ろから現れ、ゆっくりと部屋に入ってきた。
身長はぼくとおなじか、すこし低いくらい。ファスナーのついた黒のパーカーと細身の黒のパンツを着て、グレーのスポーツシューズを履いていた。スポーツシューズには青いひもがついていた。パーカーは上までファスナーが閉じられていて、首にはネックウォーマーをつけていた。髪はそのネックウォーマーに触れるほどの、肩にもとどかないショートカットだった。前髪が眉毛にかかっていて、瞳は小さく色が薄い。肌も白かった。鼻先は丸いけれどしっかりと前を向いていて、唇はすぼまったような形で真ん中に寄っている。顔だけ見ても、全身で見ても、何だか男の子のような見た目だったが、それでも女性とわかるやわらかい雰囲気があった。
「お願いしますね」
吉村先生は部屋に入らず、そのまま扉を閉めた。キュッキュと、シューズの靴音が遠ざかっていく。
ぼくらは挨拶をした。
「土屋のぞむと言います」
名前も、声も、やっぱりちょっと男の子みたいだった。
ぼくも自分の名前を言った。思ったより小さな声しか出なかった。
土屋先生は自分の分の木の椅子をぼくがかばんを置いた学習机の前まで持って来て、座った。ぼくも学習机から椅子を引き出して座った。かばんは机の上からどけて、床に置いた。
自分は非常勤講師としてこの学校に雇われていて、普段は授業の担当はせずに校舎を見回ったり、登下校の指導をしたりしている。そう土屋先生は説明した。要は見張り役だね、とも。それ以外にもこまごまとした仕事があって、たまに抜けないといけないときもあるけれど、基本はこの部屋でぼくにつき添ってくれるということ、木曜日が休みなのでその日はべつの教師が見てくれるか、あるいはひとりでいなくてはならないかのどちらかになるだろうということを、よどみなくしゃべった。
「学校まではひとりで来たの?」
ぼくはうなずいた。
「これからも今日みたいに、校門までむかえに行ったほうがよさそう?」
「たぶん」すこし考えて、ぼくは言った。
「じゃあ、明日からはわたしが校門にいるから。時間は今日とおなじでいい?」
「はい」
「帰るのはどうしよう?どれくらい学校にいる?」
「お昼には帰りたいです」
「わかった。じゃあ、四時間目が終わる前、十二時二十分くらいにはこの部屋を出るようにしようか。帰りも校門まで送るよ」
そこでチャイムが鳴った。一時間目が終わったようだった。
生徒が椅子を引いて立ち上がる音があちこちから聞こえた。全校生徒、千人が一斉にうごき、しゃべりだす音だ。授業中の緊張した雰囲気が一瞬にして解けていく様子が、なぜか、クラスルームから遠くはなれたこの部屋にまで伝わってくる。音だけでなく、空気のようなものまで。
「基本的に」
土屋先生はふたたび口を開いた。
「ここでは何をしていてもいいよ。ほかの生徒は勉強をしているんだから、きみも勉強をしたほうがいいっていう意見もあるみたいだけど、個人的には何をしていてもいいと思ってる。もちろん、ゲームみたいな娯楽的なことは遠慮してもらいたいけど、こうして見ている限り、そんなことはしなさそうだね」
ぼくはうなずいた。そんなことはしない、という意味で。
「つまり、勉強はしてもしなくてもいいということ。きみの当面の目標はなるべく毎日学校に来ることだから、とにかくそれができていればあまり口うるさいことは言わないよ。それにきみ、勉強はずいぶんできるそうじゃない。基礎的な学力があれば、のんびりやっても致命的に遅れることはないよ。ここはそんなにレベルが高いわけじゃないからね。わたしが教えてカバーすることもできると思うし」
「何の教科の先生なんですか?」とぼくはたずねた。数学だよ、と土屋先生は答えた。でも、だいたいのことは国語でも、英語でも、理科でも社会でもわかると思う。美術や音楽を教えろと言われると困るけど。
「とにかく、きみひとりに勉強を教えるくらいはわけないよ。あたらしい教科書もあとで持って来よう。担任の先生からあずかってるから」
土屋先生は軽く首を回した。「今日はどうする?さっそく勉強がしたければ、してもらってかまわないけど」
だまって苦笑いをしていると、じゃあ、適当におしゃべりでもしようか、と土屋先生は言った。
「水筒を取って来てもいい?家からあったかいお茶を持って来てるんだ。ついでに教科書も持って来るよ」
五分くらいして、土屋先生は薄紫色の細い魔法瓶の水筒とかごいっぱいの教科書を持って帰って来た。学習机の横にかごを置くと、どん、と、嘘みたいな音が鳴った。
「これ、今日すぐに持って帰ったりしなくていいから。どうせここで勉強するんだし」
土屋先生はかごから紙コップをふたつ出して机にならべ、水筒の蓋を開けてなかのお茶を注いだ。渡されて飲むと、知らない味がした。
土屋先生は「どのあたりに住んでるの?」とか「得意な教科は?」とか、答えに困らないようなかんたんな質問をいくつかした。それが済むと、自分のことを話した。地元は関西で、ここには結婚してから住むようになったこと。三歳になる子どもがいること(とてもそんなふうには見えなかったので、ぼくはすこしおどろいた)。三月まで出産と育児で仕事を休んでいて、この学校には今年度から雇われていること。つまり、雇われてすぐに、ぼくみたいな厄介な生徒を任されることになったわけだ。
三時間目の途中で、担任が様子を見にやって来た。会うのは二度目だった。さっき土屋先生と決めたことを、三人でもう一度確認した(ほとんど土屋先生が担任に説明してくれた)。それが終わると、「初日だから」と言って、取り決めより一時間早く家へ帰してくれた。
次の日、学校に行くと、校門の前には土屋先生が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
会話を交わしながら(「学校に来るまで何もなかった?」「わたしの家の周りはからすが多くてね、燃えるごみの日はいつも宴会なんだ」)西館三階の「進路相談室」まで行く。土屋先生が鍵を開けて、なかに入った。
「あれ」
土屋先生は窓辺のソファを指差した。
「きみが帰ったあとに掃除機でほこりを吸っておいたよ。すごくきれいになったわけじゃないけど、つかえるくらいにはなっているでしょ。よかったら休憩のときにでも座って」
ぼくはうなずいて、きのうも座った学習机の席につくと、置いて帰った教科書をつかって勉強をはじめた。
学校には一年生の十二月以降通っていなかったので、三学期はまるっと授業を受けていなかったが、自宅学習でおおよそ理解は出来ていた。ぼくはとりあえず国語の教科書を開いた。最初は詩の読解だった。数学や理科の教科書もぱらぱらとめくってみた。すこし考えて、やはり国語の、教科書に対応しているワークブックを取り出し、詩を読みながら問題を解きはじめた。
土屋先生が隣までやって来て、ワークブックをのぞき込んでから、「きみは詩を読んだりする?」と訊いた。
ぼくは首を振った。あ、そう、と言うと、土屋先生ははなれて行き、ぼくの背中側にある掃除したばかりのソファに腰掛けた。
「わたしのすきな詩を読んでみていい?」
ぼくは振り返っただけで何も言わなかった。うなずきも、首を振りもしなかった。意味がわからなかったのだ。土屋先生はお腹の上で手を組み、目を閉じた。
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
やはらかき麦生のなかに、
軟風のゆらゆるそのに。
薄き日の暮るとしもなく、
月しろの顫うゆめぢを、
縺れ入るピアノの吐息
ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに生れゆく
色あかきなやみのほめき。
やはらかき麦生の靄に、
軟風のゆらゆる胸に、
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
「余計なことだけど」
呆然としているぼくに向かって、土屋先生は言った。
「詩はべつに問題を解くためのものじゃない。その教科書のなかにあるものはどれも、元々そういうためにあるわけじゃないから、あんまり機械的にあつかうのは乱暴な気がするよ」
土屋先生はぼくの横について、いっしょに教科書を読むようになった。
ぼくはただワークブックを解くだけの勉強を自宅学習のときからつづけていた。ワークブックの問題と答え、また、問題と答えのあいだにある感触のようなものを暗記できれば、テストで点数が取れる。一年生の二学期にはそれに気づいた。土屋先生は、そんなぼくの勉強法を、すぐに見抜いたのだろう。
教科書を読みながら、土屋先生は様々な注釈をした。たとえば「虹の足」という詩を読みながら、同じ詩人が書いたべつの詩や、ほかの詩人が書いた虹についての詩を紹介した。また、先生は「虹がどういう現象か知ってる?」と言って、プリズムや光のスペクトルの説明をした。眼球の仕組や視覚の構造について話した。国語の教科書を読みながら理科の話を、社会の教科書を読みながら数学の話を、英語の教科書を読みながら世界の歴史を語った。ぼくはおどろきっぱなしだった。知識が、こんなにも自由に分野を超えてつながっていくものだということを、知らなかった。
土屋先生は、毎回のように「余計なことだけど」とつけ足した。「本来、こういうことは本人が興味を持てばすればいいことであって、学校の勉強はたしかにきみがやっている方法でもこと足りる。わたしがやっていることはほとんど押しつけだね」
ぼくは土屋先生の指導を「押しつけ」だとは感じなかった。むしろありがたく思い、それまで自分がしてきた「機械的」な勉強の仕方をはずかしく思った。わざわざ時間をかけて、何て意味のないことをしていたのだろう。
かといって、土屋先生の口から出る知識をすべて吸収するのは、ぼくには無理だった。先生はぼくが理解するまで説明をつづけるようなことはしなかった。わからないものはわからないままでいい、というのが先生の考えのようだった。それはそれで、いつか芽を出すときが来るかもしれないから、と。ぼくも、わかる、わからない、ということにこだわらずに先生の話を聞いていた。話を聞くこと自体が楽しかった。
自分の記憶を開いて知識を披露するとき、先生の目は光を吸ってつやつやと光った。声が一段深くなって、より少年のようになった(たまにスカートをはいて来ることがあったが、それでも男の子のように見えた)。
土屋先生は数年間、ドイツで数学を勉強していた。ベルンハルト・リーマンにあこがれて、とにかくドイツへ行きたかったらしい(もちろんガウスもいたけど、と言っていたが、ぼくはどちらも知らなかった)。子どものときから本を読むのが大好きで、数学に限らず、本であれば何でも読んでいたという。
「最近はほとんど読んでいないけどね」
「どうしてですか?」
「どうしても何も、本を読む暇なんかないからだよ」おどろいたように先生は目を見開いた。「家にいるあいだはずっと子どもを見ていないといけないんだ。子どもに関係するものとか。子どもが食べるもの、食べたあとの食器、よごした服、オムツ、よだれまみれのリモコンやおもちゃ、テレビに映っている着ぐるみのダンス」
でも、とぼくは言った。「子どもの興味があるものは、先生も興味があるんじゃないですか?」
先生は首を振った。
「わたしはビニール袋になんて興味はないよ」
ぼくの住むマンションは学校から北東に歩いて十分のところにあった。マンションはぼくがうまれるのとほぼ同時期に完成し、四歳のときに引っ越して来た。幼稚園と小学校がすぐ近くにあって、幼馴染がたくさん住んでいた。もっとも、小学校の高学年になり、ほとんどの幼馴染が学校のサッカークラブに入ると、あまり遊ばなくなった。ぼくはマンションの外に住むサッカーをしない友達と近くの広場で野球をした。
学校から帰るとまずお昼ごはんを食べる。ごはんはたいていお母さんが用意してくれていて、そうでないときは自分でインスタントのカレーやラーメンをつくって食べた。食べ終わって食器を片づけると、適当にテレビをながしながら居間のソファでぼんやりと過ごす。眠くなると横になって昼寝をする。夕方の、再放送のドラマがはじまるころに起きて、洗濯物を取り込んで畳む。それが終わるとお米を洗い、炊飯器の予約タイマーをセットする。
お米を洗っているころにはマンションにたくさん子どもの声がする。幼稚園児や小学生、中学生の声も。
幼馴染たち(いまもおなじ中学に通っていて、みんなサッカー部に入っている)は学校帰りに何度かうちの前までやって来た。二、三度インターホンを押し、だれも出ないことがわかるとぼくの名前を呼んだ。幼稚園のときから慣れ親しんだぼくのあだ名を。心配して会いに来てくれたことは声色からわかった。みんなが悪いわけではない。ぼく自身、起こってみるまでは、あんなふうに感じるなんて思いもしなかったのだ。
当時のぼくは内側と外側がはっきりとわかれていて、外側にあるものはすべて恐怖の対象だった。たとえば登下校中は、あらゆるひとが自分のことを見ているように感じられた。「おまえはここにいてはいけない」と視線で知らせてくるように。考えすぎだ、と、しつこく自分に言い聞かせてはみた。それでも、からだが、神経が、そう感じないことを許してくれなかった。幼馴染たちがどれだけぼくのことを心配してくれていようと、彼らの言葉や行動はすべて「なぜおまえはここにいるのか」という問いに変わって、ぼくを責め立てた。
幼馴染たちはぼくが学校に行かなくなった月に二回とそのあとにもう一回家に来た。それからはもう来なくなった。
仕事から帰って来たお母さんはジャケットだけ脱ぐと、あとはそのままの服装でエプロンだけして、たまねぎサラダとひき肉のオムレツ、コンソメスープをつくってくれた。ぼくはテーブルを拭いてマットを敷き、箸をならべた。お父さんは十時を回らないと帰って来ないので、平日の食卓はふたりきりだった。
ぼくは自分の分のごはんをよそい、お母さんはごはんの代わりにグラスと缶ビールを用意して、席についた。
「今日はどうだった?」
長い爪が開けにくそうだったので、代わりにぼくが缶ビールのプルタブを引き、お母さんに渡した。ありがとう、と言って、お母さんはグラスにビールを注いだ。
「先生と勉強したよ、いつも通り」
別室登校をはじめて二週間が経とうとしていた。
学校での過ごし方はすこしずつかたまってきていた。「進路指導室」へ登校するとそのまま二、三時間(休憩を取りつつ)土屋先生と勉強をし、残りの時間は窓際のソファに座って雑談をしたりぼおっとしたりして、十二時半になる前には部屋を出る。先生がいない時間はひとりで勉強をしたり、ぼおっとしたりする。先生が学校に来ない木曜日は、まだどうしていいかわからなかった。ひとりの部屋に慣れないまま、帰る時間がきてしまう。勉強にも手がつかずに。土屋先生は、ぼくの勉強が進んでいなくても何も言わなかった。ただおかしそうに笑うだけで。
「そう」グラスに口をつけながらお母さんはじっとぼくの顔をうかがっていた。ぼくは目を合わせずにスープを飲んだ。
「通いつづけられそう?」
「たぶん」
「そう」
お母さんがオムレツに箸をつけたので、ぼくも追うようにしてオムレツを食べた。おいしい、と言った。
「やっぱりひとりでするのと教えてもらうのとでは違う?」
「そうだね」
オムレツのひき肉が胸のあたりでごろごろと引っかかるような感じがする。
九時のニュースがはじまって、お母さんの視線がぼくからはずれると、すこしだけからだが楽になった。たまねぎの味も、さっきよりとげとげしく感じない。
お母さんの胸のあたりまである赤茶色に染まった髪は料理をはじめる前に後ろでたばねられていて、耳から垂れた金色のイヤリングがよく見えた。左手の中指には太めの銀の指輪がはまっていて、グラスを持つたびに当たって音が立った。唇にはまだ口紅のピンクの色がかすかに残っている。ぼくは土屋先生の姿を思い出し、やっぱり母親には見えないなと思った。
「それで」
ぼくのほうに顔を戻したお母さんは伏し目がちに言った。
「すきに決めてくれていいんだけど、カウンセリングを受けてみない?」
「カウンセリング」とぼくは繰り返した。
「あたらしい担任の先生――今津先生と話したときに教えてもらったんだけど、週に一回、学校にスクールカウンセラーのひとが来てるらしいの。知ってた?」
ぼくは首を振った。
お母さんはビールを一口飲んだ。
「最近はどこの中学校でもそういうひとが来るようになったんだって。生徒だけじゃなくて保護者も診てもらえるっていうから、とりあえずお母さんは受けてみようかと思って」
「平日だよね?」
「もちろん。だから仕事はフレックスで遅めに出勤にして、朝にぱっと診てもらおうかなって。ついでに、どう?無理にとは言わないけど」
いいよ、とぼくは答えた。
カウンセリングは四月最後の水曜日に行われた。
校門の前で、土屋先生とお母さんは自己紹介をした。お母さんはオレンジ色のワンピースにピンクがかった明るい色のカーディガンを着て、小さい石のついたネックレスをしていた。土屋先生は薄手のグリーンのタートルネックにジーンズ、ブルーのウィンドブレーカーを着ていた。お母さんの声はすこしかたかった。土屋先生は何も変わらないように見えた。
担任に挨拶をするため、三人で職員室まで行くと、ここでは慌ただしいからという理由で、全員西館三階の「進路相談室」に来ることになった。
お母さんは、入った瞬間こそ、へえ、という顔をしたが、あとはどこを見ていいのかわからないように視線を宙にさまよわせていた。(見るようなものは何もないのだから、仕方がない)。土屋先生はパイプ椅子をすすめたが、お母さんは断って木の学習椅子に座った。ちょうど四つあったので、全員が学習椅子に座ることになった。長机をはさんでぼくとお母さんが入り口側に、担任と土屋先生は窓側に座った。担任は、毎日とは言わないまでもよく来るので慣れているが、お母さんが部屋にいるのはとても奇妙な感じだった。
担任の今津先生は、ぼくが入学するのとおなじ年にこの学校で新任になった女性の教師だった。専門は国語で、高校生までバレーボールをやっていたらしく、身長が百七十センチ以上あって、すぐに「巨人」というあだ名がついた。たぶん、二年生でも担任より大きい男子は限られているだろう。長くてすらりとした脚をしているが、肩のあたりは大きくて、ブラウスが張りついている。西向きのこの部屋には午前中は日が入らないので外より寒かったが、お母さんはしきりにカーディガンの上から腕をこすっているのに(土屋先生は慣れているので厚着をしている)、担任は薄いブラウス一枚で平気なようだった。
ぼくらはあらためて四人で挨拶をした。
「私は一日に一回、様子を見に来られるかどうかなんですけど」担任はお母さんのほうを見て言った。唇がてらてらと光っている。「この部屋ではかなりリラックスして過ごせているんじゃないかなと感じています。どうかな?」
「はい」とぼくはうなずいた。
担任は鼻にぎゅっとしわを寄せて、うれしそうな顔をした。「今のところ一日も休まず学校に来られていますし、この調子で通いつづけてもらえたらなと思います。慣れてきたらお弁当を持って来て、もうすこし長く居てもいいかもしれないですね。土屋先生のおかげで、勉強もほとんどクラスの子たちと変わらないぐらいの進度でできているんですよ」
「たいしたことはしていません。むしろ横から口をはさんで、邪魔をしているくらいですから」
よどみのない土屋先生の言葉に、お母さんは眉根を寄せて、はあ、と言った。担任も一瞬、ぴたりと表情を止めたが、すぐにお母さんに笑いかけた。
「それで、よかったら今度の中間テストを受けてみてもいいんじゃないかなと思っているんですけど」
「それはクラスで、他の子といっしょに受けるんですか?」お母さんが訊いてくれた。
「この部屋で大丈夫です。監督も、土屋先生にしていただこうと思っているので」
「やってみればいいよ」と土屋先生が言った。ぼくはどちらでもよかったので、やります、と答えた。担任は満足気にうなずいた。額に汗が光ったように見えたが、気のせいかもしれない。お母さんはいまだ寒そうに肘を握っている。
「カウンセリングは何時からでしたっけ?」
「十時からです」とお母さんは答えた。「カウンセリングの先生はどんな方ですか?」
「私もよくは知らないんです。職員室で一度、全体に教頭先生から紹介があっただけなので。やさしそうな女性の先生でしたけど」担任はあたりを見回して、不思議そうに首を傾げた。「この部屋は時計がないんでしったっけ?」
「ないですね」と土屋先生が答えた。黒板の上に見える壁には、かつては時計がかかっていたと思われる円形の日焼けの跡と、釘の穴があった。
「頼めばつけてもらえるんでしょうか?」
「どうでしょう…あ、腕時計を職員室に置いてきてる」
九時四十二分ですよ。右手首に巻いた黒いデジタルウォッチを見て土屋先生は言った。ありがとうございます、と言って、担任は腕時計があるはずの場所をさすった。
「私、腕に何かつけるのが苦手で。授業のときもつけては行くんですけど、すぐにはずして教壇に置いてしまうんです」
「さっきの、テストの話ですけど、点数がよければ成績もつけてもらえるんでしょうか?」腕時計については反応せずに、お母さんは訊いた。
「成績はちゃんとつきます。ただ、通知表につく成績には授業中の態度――提出物が遅れずに出せているかとか、積極的に手を挙げて発表できているかとか――もふくまれるので、その点がちょっと…」
「それは、そうですよね」焦ったようにカタカタと、お母さんはうなずいた。
「でもきっと、成績をつける先生方も考慮してくださりますよね?一応、学校には来ているわけですし。テストで点数が取れていれば、二や一はつかないんじゃないですか?」からりとした声で、土屋先生がそう言った。
「そうだとは思います」ほっとしたような笑みをこぼしつつも、担任の表情は暗いままだった。「でも、実技科目がちょっとむずかしくてですね、期末試験にはペーパーテストもあるんですけど、授業内で実技テストが行われたりもするので、ひょっとすると、成績がつかないということもあるかもしれないんですよね」
「つかない、というのは?」
「通知表だと、そこだけ空欄になってしまうかもしれません」
短く息を吸ったきり、お母さんは黙ってしまった。
一年の三学期は一日も学校に行かなかったが、通知表には三学期のみの成績ではなく通年の成績が表記されていたので、空欄になっている教科はなかった。ぼく自身はあまり気にならなかったが、お母さんはそうではなかったのかもしれない。
「彼ならいつでも取り返せますよ」
気遣うように土屋先生がそう言ってくれたのに、お母さんは、勉強に関しては何も心配していないです、と返した。
ぼくはお母さんが何を考えているのかよくわからなくなった。
「そろそろカウンセリングの部屋に行かれますか?」土屋先生が言うと、自分の腕時計で時間を確認してからお母さんは、そうですね、とうなずいた。
「場所はわかりますか?」
お母さんは首を振ったが、代わりにぼくが、わかる、と言った。一瞬困った顔をしかけた担任の表情は、すぐにやわらいだ。
ぼくらは電気を消して部屋を出た。鍵を閉めながら土屋先生は、カウンセリングのあいだは見回りをしている、終わるまでには部屋に戻って待っているから、と言った。
「一時間くらいですよね?」上着のポケットに鍵を入れて、土屋先生が訊いた。
「一応、十時から十一時で予約を取っています」とお母さんが答えた。
「私は授業があるので、今日はこれでお別れになってしまいます」申し訳なさそうに腰を折って、担任は言った。お母さんとぼくはお礼を言って頭を下げた。
「いってらっしゃい」
見送りながら、土屋先生は手を振ってくれた。どうしていいかわからずに、ぼくは土屋先生にも頭を下げた。
カウンセリングの部屋は西館の二階、つまり「進路相談室」のひとつ下の階の角部屋があてられていた。カウンセリングの部屋も、その隣の部屋(この真上に「進路相談室」がある)もプレートがなく、何の部屋なのかわからなかった。さらに隣は「視聴覚室」と書かれていた。窓から日が射し込んで廊下は明るかったが、石の床はひんやりとしたかたさで、とてもしずかだった。
カウンセリングの部屋の前にはパイプ椅子が二脚ならべてあった。座って待っていればいいのだろうか。一瞬、椅子にからだが行きかけたところで、画用紙でつくった手作りの表が部屋の扉に貼ってあるのが目に入った。表は「在室」「不在」「面会中」という文字を、中央に描かれた白衣の女性の右腕がくるくると回って指さすようになっていた。
腕は「在室」を指していた。
お母さんが扉をノックすると、どうぞー、と声がした。ぼくはお母さんの後ろについてなかに入っていった。
まず、白い布の張られたパーテーションが視界を遮るように立っていて、扉を開いただけではなかの様子がわからないようになっていた。パーテーションを避けて奥へ進むと、部屋の真ん中に三人掛けのソファが一脚と一人掛けのソファが二脚、細長いテーブルをはさんで置かれていた。
女性は三人掛けのソファのそばに立っていた。お母さんが名前を言うと、カウンセラーの石川です、と名乗り、ぼくらにソファをすすめた。ぼくとお母さんは一人掛け用のソファにそれぞれ座った。ソファは黒の革張りだった。石川先生の座ったソファは緑色の布張りで、ところどころ茶色いしみがあった。
テーブルは中央がガラスの板になっていて、下に敷かれた赤紫色のじゅうたんが透けて見えていた。テーブルの上には卓上カレンダーと置時計、小さな木の鉢植えが置かれていた。置時計は二十センチくらいの高さがあり、金色の台座の上をガラスのドームが覆っていて、ぶら下がった丸い時計の下に象の人形がふたつ左右対称に配置されていた。象はどちらもパレードやサーカスに出るような飾りつけがしてあって、二足で立ち上がっていた。踊っているのかもしれないし、飛び上がろうとしているのかもしれない。カレンダーは有名なイラストレーターの絵でデザインされたありふれたものだった。
「それでは、よろしくお願いします」
石川先生は、年齢はよくわからないけれどすくなくともお母さんよりは若く、土屋先生より年上に見えた。額のまんなかで分けられた黒い髪が鎖骨のあたりまでまっすぐ垂れている。太めの眉に、瞳の小さな丸い目。唇は薄く、右の頬と左の目頭の近くにほくろがあった。白い長袖のTシャツに足首まで丈のある紺色のゆったりとしたワンピースを着ていた。
石川先生は隣のソファに伏せて置いてあった黒いバインダーを取り、はさんである紙に目を走らせた。
「今日はおふたりいっしょにお話したほうがよろしいですか?それともおひとりずつ?」
お母さんはぼくの顔を見た。
「どうするのがいい?」
「どちらでも」とぼくは言った。
石川先生は唇をゆりかごのような形にして、丸い目でぼくらを見つめていた。ビー玉みたいに光る目だった。
「私はすこし、ひとりでも話がしたいのですが」とお母さんは言った。
「じゃあ、最初はこのまま三人でお話をして、そのあとおひとりずつ時間を取りましょうか。十時から一時間ということになっていますけど、十一時からは予約が入っていないので、多少長引いても大丈夫です。ゆっくりやりましょう」
お母さんは順を追って、これまでのことを話しはじめた。「ええ」「はい」「うんうん」と、石川先生はリズムよくうなずきながら、ときどきバインダーの紙に鉛筆でメモを取っていた。ぼくは適当に相槌を打ったり、もとめられて話をつけたしたりするくらいで、あまりすることがなかった。
石川先生の話の聞き方は、どう言っていいのかよくわからないけれど、とてもふつうだった。まったく知らないひとのはずなのによそよそしくはなく、今日はじめて会ったにしては親しみのあるくらいで、かといって知り合いにしてはうなずく声がしずかだった。話題のデリケートさに対して、ぼくは不思議なほど落ち着いてた。革張りのソファにからだがしずんでいくのがわかった。眠かった。
すこしして、部屋が暗いのだと気がついた。窓のほうを見るとブラインドがしっかりと閉じられていて、外の光がほとんど入って来ていなかった。蛍光灯の明かりだけが部屋を照らしていた。窓際には職員室で見るようなスチールのデスクと背もたれのない回転椅子があった。デスクにはノートパソコンが閉じた状態で置かれていて、その奥に何冊かの本と国語辞典、ファイルが二冊、ブックスタンドで立ててある。ポトスの鉢植えからはのびたツルがデスクの上に垂れている。日光を浴びなくてもポトスは平気なのだろうか。土屋先生ならすぐにわかるかもしれない、と思ったが、そういえば植物にはあまり詳しくないと言っていたのを思い出した。
お母さんが先に石川先生とふたりで話をすることになって、ぼくは部屋を出た。ずいぶん眠気がからだに回ってきていたので、ソファから立つことができてぼくはほっとした。
廊下のパイプ椅子はソファよりずっとかたく、つめたくて座り心地が悪かったが、後ろにある窓からあたたかい春の光が注いでいて、さっきとは違う質の眠気に襲われた。
こんなふうに「進路相談室」にも光が入ってくればいいのに、とぼくは思った。そうすればもっと気持ちよく昼寝ができる。みっちり勉強をしたあとはからだが睡眠をもとめることが多く、ぼくはよく「進路相談室」のソファで眠った。土屋先生は昼寝をとがめなかった。眠るのは脳の情報を整理するのにとても役立つんだ、と、むしろすすめるような言い方さえした。不思議な先生だ。教壇に立つようになって、自分の授業で眠っている生徒がいても、おなじようにすすめるのだろうか。そもそも教壇に立っている姿が想像できなかったが。夫がいて、家で三歳の子どもを育てている姿が想像できないのとおなじように。
外国で数学を教えている姿なら、思い浮かぶ。外国の学校がどういうものか知らないけれど、日本よりも賢い子どもがいそうだし、賢い教育がありそうだ。土屋先生にはそういう場所が似合っている、と思った。
お母さんは思ったより長く話していたようで、入れ替わりにぼくが部屋に入ると、置時計の針は十時五十五分を指していた。このあとに予約が入っていなくてよかった。ひょっとすると、こうなることを見越して、わざと予約を入れなかったのかもしれない。部屋から出てきたお母さんの顔はすこしすっきりして見えた。「話せてよかった」とも言っていた。いい先生よ、とも。お母さんはそのまま会社に向かった。
「お待たせしました。廊下は寒くなかった?」
「窓から日が入っていたので」
石川先生はにっこりと笑顔をつくった。ぼくは最初に自分が座ったほうのソファに座った。石川先生はぼくから見て斜め右側にある位置に腰を下ろした。
石川先生はバインダーの紙を見た(何が書かれているんだろう、とぼくは思った)。「カウンセリングははじめてだよね?どうですか。緊張する?」
すこし考えて、わからない、と答えた。
そうだよね、と石川先生は微笑んだ。
「それで、最近は学校に通うようになって、どんな感じですか?」
ぼくはなるべく正直に、言葉にできることは言葉にしようと努めながら話してみた。通いはじめる前は不安だったが、いまは土屋先生のおかげで充実した日々を送っている。土屋先生にはほんとうに勉強をする、ということがどういうことか教えてもらった。先生はほとんど何でも知っているように見える。尊敬しているし、慕っている。先生がいなかったらこんなふうに毎日通うことはできなかったかもしれない…。
話しているあいだ、石川先生はずっとこちらを見つめていた。心配していたような、ひとのこころを暴き立てるようなことはせずに。ぼくは緊張や不安を感じていなかった。石川先生の目は、真剣に話を聞いているのだけれどこころはここにないような、ただ見つめているだけというような、それまで見たことのない目だった。
「それはよかったねえ」
ひと通り話し終えると、石川先生はしみじみとそう言った。ほとんど土屋先生のことしか話していないことに気がついたのは、そのときだった。はずかしい、というより、罪悪感に似た感情が湧いてきた。
「こんなに楽しんでいて、だめですよね」
石川先生は目を見開いた。「何がだめなの?」
「自分はクラスに行ってなくて、授業も出ずにほとんど学校をサボっているのに、何か変だなと思って」
「そう?」
不思議そうに見つめられたので、どう考えていいかわからなくなり、この話はやめることにした。石川先生はしばらく返事を待ったあと、ぼくが何も言わないのがわかると、睫毛を伏せてワンピースの膝のあたりのしわを直した。
「そういえば、夢はいまも見てる?」
「夢?」
「さっきお母さんから聞いたんだけど、自分が死ぬ夢を見るって」
「ああ…」
それはぼくがあまりしたくない話だった。
不登校になったばかりのある夜、近ごろ自分が死ぬ夢をよく見ると両親に話したことがあった。びっくりした様子で、それはどんな夢なのか、と訊いてきた両親に、ぼくはいくつか内容を説明した。
あのときはたしかに、ほんとうに死ぬ夢を見ていた気がする。自分が、この世からいなくなってしまうような夢を。
でもそれはほんとうに夢だったのだろうか。想像ではなくて?
たしかなのは何度も見たわけではないということで、「よく見る」と言ったことに関しては、嘘をついていたことになる。だとしたら、どうしてそんな嘘をついたのか。当時のぼくでさえ、よくわからなかった。
「見ていないです」
とりあえず、そう答えた。
「夢は毎日見る?」
「見ます。わりと」
これはほんとうだ。夢は見ないことのほうがめずらしかった。
「ちなみに、最近見た夢はどんな夢?」
ちょっと考えて、穴を掘る夢、と言った。
「穴?」石川先生はこちらを見たまま手元の紙に鉛筆を走らせた。「どんな穴?」
「どんなと言われても…普通の穴です。土を手で掘っていて、ものを埋められるくらいの。あ、何かを埋めてました」
「何かを埋める穴」と石川先生は繰り返した。「埋めたものはおぼえてる?」
「金色のものだった気がします。手のなかにおさまるくらいの」
「何だろう、身の周りにありそうなもの?現実にあるものなのかな?」
「うまく思い出せないですけど。そんなに変なものではなかった気がします」
「なるほど」鉛筆と紙のこすれる音がしばらくつづいた。「ちなみに、そんなふうに土に何かを埋めたことはある?」
「幼稚園か小学校の低学年くらいのころに、ガチャガチャのカプセルを埋めたような」
ああ、と言って、石川先生は両手でカプセルの形をつくり、開けたり閉めたりするような動作をした。「それはひとりでしたの?それとも友達や、だれかと?」
質問されるうちに、だんだんと記憶がよみがえってきた。「おなじマンションの友達としました。たしか、そのとき大事にしていたキャラクターの指人形をなかに入れた気がします。あと簡単な手紙みたいなものも。メモ用紙か何かに書いて。テレビドラマで、何年も前に埋めたタイムカプセルを掘り起こすシーンを見て、真似したんだと思います。そういえばお金も入れました、ぼくだけ。百円玉ですけど。あとでいっしょに埋めた友達の親からうちの親につたわって、すごく怒られました。すぐに掘り返して来い、って」
石川先生はおかしそうに笑った。「入れていた手紙には何を書いたの?」
「さあ、まったくおぼえてないです。そもそもたいしたことも書けない年だったと思うし…未来の自分に書いたつもりではあったと思いますけど」
「じゃあ、その出来事と最近見た土を掘る夢は、何か関係があると思う?」
「さあ」とぼくは言った。それはカウンセラーが考えてくれることなのではないだろうか。
「べつに、何度も見る夢というわけでもない?」
「そうですね」
「なるほどね」と言って、石川先生はまた何かを書きつけた。「ねえ、夢日記って書いたことある?」
夢日記?
ぼくは首を横に振った。
石川先生はバインダーから三枚のわら半紙を取って机の上に置いた。わら半紙には枠線があって、なかに何本も罫線が引かれていた。学校ではよく見る用紙だ。道徳のお話や交通安全のビデオや同級生の発表について感想を書かされたりするような。
「これに印象に残った夢をいくつか書いてきてくれる?細かく書いてくれてもいいし、メモみたいにキーワードだけでもいいので。書き方はおまかせします。ただ、見た日の日付がわかるように書いてくれると助かるかな」
罫線のならびを見つめながら、ぼくはうなずいた。
「負担にならない程度でやってみてください。次は、この紙を見ながらお話してみましょう」
石川先生はにっこりと微笑んで、立ち上がった。どうやら終わったようだった。
「長かったね。どうだった?」
部屋に帰って、ぼくは土屋先生にカウンセリングの様子を話した。夢日記を書くことになったと言うと、ずいぶん本格的なことをするんだね、と土屋先生はうれしそうな顔をした。本格的。ぼくは苦笑いした。
「すごいトラウマが掘り起こされたりしてね」
「やめてくださいよ」
土屋先生は『夢判断』という本があることを教えてくれた。フロイト、という名前は、ぼくにも聞きおぼえがあった。
「わたしはいまでも、ときどきドイツ語や英語のまじった夢を見るな」
「まじってるって、どんな感じですか?」
「ドイツに行ってすぐのころは、わからない言葉があると英語で説明したりしていたんだ。あと、文献なんかは英語もドイツ語も両方読む必要があったし。でも、母国語は日本語だからさ、慣れないうちは会話も読み書きもいったん日本語を経由しなきゃいけないときがあって。一年くらい経つと、ほとんどドイツ語だけで考えることができるようになったけどね。それまでは日本語とドイツ語と英語が頭のなかでぐるぐる回っているような感じだったな」
「へえ」まったく想像できない感覚だった。
「たぶん、そのときの感覚を脳がおぼえていて、わたしの意識がゆるんだときに再生してるんだろうね」
「ドイツにいたころの夢は見ますか?」
「見るよ。アパートの部屋とか、住んでた街とか、ふとした拍子に出てくる。最近は子どもについての夢がほとんどだけど。家事や子どもの相手を必死でして、ようやく眠れると思って横になったのに、夢のなかでまた家事や子どもに追いかけられるんだ。休むどころか余計に疲れたりしてね」
どう返事をしていいのかわからなかったので、相槌だけ打った。
「お母さんはどんなふうだった?」
「なんだかすっきりしたみたいでした」
「それはよかった」
そういえば、と言って土屋先生は壁の方を指差した。見ると、黒板の上に時計が取りつけられていた。日焼けの跡がぴったりと隠れる、見慣れた丸い時計だった。運よくつかっていないものが余っていたのだという。耳を澄ますとかすかに秒針のうごく音が聞こえた。
「すこし早いけど、今日はもう帰る?」
「勉強してないですけど」
「でも、顔がいつもより白く見えるよ」
土屋先生は右手をのばしてぼくの頬と額に触れ、それから手を握った。
「顔が熱くて、手はつめたいね」
「ほんとですね」たしかに手で顔に触れてみると、ずいぶんな温度差があった。
「帰ります」とぼくは言った。
「うん。思ってるよりも疲れてるんだよ。帰ってゆっくり休みな」
下校している最中に頭がだんだんと痛み出した。家に着くと、ぼくはさっさとお昼ごはんを食べてベッドに入った。起きたときには部屋が暗くなっていて、朝まで眠ってしまったのかと思った。もうすぐ日が暮れるところだった。焦ったせいで、変な夢を見ていたはずなのにすぐに忘れてしまった。からだじゅうに汗をかいていて、布団から出ている頭だけが冷えていた。
つめたくなった洗濯物を入れながら、ふと、夢で穴のなかに埋めていたのはアクセサリーではなかったか、と思った。どうもお母さんがよくしているイヤリングに似ていたような気がする。
けれど、一瞬形をとったイメージは水にひたしたように見えなくなって、ほんとうに金色のものだったのか、それすらわからなくなった。
ゴールデン・ウィークが明けて三週間後、中間テストがはじまった。
テストの日は登校時間が終わってすぐに学校に来て、チャイムと同時にテストがはじめられるよう「進路相談室」の席についた。テストは各教科の教師から土屋先生があずかって部屋に持って来た。監督も土屋先生がしてくれた。下校時間が早いので、いつもとは逆に、ほかの生徒が学校を出てしずかになってから帰宅した。ソファに座ってすこしずつ消えていく生徒の声を聞いていると、ずいぶん遠くへ来てしまった気分になった。違う星にいるような。
テストはすべての教科が学年で十番以内の成績だった。クラスのなかでは三教科で一番だった。がんばったね、と言いつつも、担任の笑顔はぎこちなかった。ほかの先生もすこしショックを受けていたらしい。土屋先生は何もおどろいていなかったし、褒めたりもしなかった。ぼくは安心した。こんなこと、べつにたいしたことではないのだ。
五月に入ると午前中でも部屋は寒くなくなった。土屋先生はパーカーを着なくなり、ぺらっとした長袖のTシャツだけで過ごすようになっていた。校舎のあちこちに咲いていたツツジがしおれていった。太陽の高度が日に日に上がって、影の色がすこしずつ変わるのが見てとれた。中国大陸から黄砂がやって来て、雨が降ると窓がよく汚れた(ときどき土屋先生と掃除をした)。ぼくは変わらずみんなより遅く登校し、昼過ぎには下校した。この五月はぼくにとって完璧なひと月だった。
夢にその部屋が表れたのは六月のなかばを過ぎたあたりだった。
○
五月××日
ぼくは水に浮いている。ほとんど海の真ん中のような場所。それでもぼくはそこが人工的につくられたプールのようなものだとわかっている。足がつかないくらいの深さがあり、水は青より黒く見える。
すぐ近くに父がいる。それ以外にひとは見えないし、ひと以外のものも見えない。父はなぜか野球のボールを持っていて、真上に放り投げては落ちてくるボールを泳いで取りに行くということを繰り返している。取りに行っては元の場所まで戻ってきて、また投げる。父はぼくに注意を払っていない。ぼくはただ、父の様子を見ている。
「水とまざらないようにしないといけない」と、父が言っていた気がする。
五月××日
雨のなか、どこかに向かっている。だれかと待ち合わせをしているようで、急いでいた。
家にお金を忘れたことに気づいて取りに帰る。待ち合わせ場所へは電車に乗らないと行けなかった。家に帰る途中に派手に転んで、服も着替えないといけなくなった。
家に着いてすぐに服を着替えようとする。なぜか、自分の部屋ではなくて親の部屋に入って、代わりの服を探した。タンスから出て来るのはコートばかりで、仕方なく、母がよく着ていたオレンジ色のコートを裸の上から着た。それから財布を探した。時間が迫っているので、電車では間に合わないと思う。タクシー会社に電話しようと思うが、電話番号がわからない。学校に(実際にはないのに)タクシーの乗り場があるのでそこまで行って、ようやくタクシーに乗り込むが、払えるお金が財布に入っていなくて、とても焦る。そしてこのとき、自分がコート以外なにも着ていないことにも思い当たる。
コートのポケットを探るとビー玉が出て来た。五個以上はあったと思う。これがお金の代わりになるんじゃないかと考えはじめる。
六月×日
観覧車に乗っている。行ったことのない遊園地の観覧車だった。外は夕暮れどきのようで、黄色っぽい。
向かいの席に土屋先生が座っていて、観覧車の外を指さしていろいろ教えてくれる。「リーマンは水族館に住んでいたんだよ」と言っている(ほんとうは天文台らしい)。ぼくは写真を撮りたいと思うけれど、カメラがない。
土屋先生の携帯電話が鳴る。電話に出ると、子どもが吐いていると言う。子どもが吐いているからすぐに帰らなくちゃ、と。でも観覧車はうごいていなくて、最初からずっと頂上をすこし下りたところにいる。すぐに行かなきゃ、と言って、先生は観覧車の扉を開く。そしてあっという間に飛び降りてしまう。するとぼくも、先生のうごきに吸いこまれるようにして、観覧車から出てしまった。
落ちる感覚があって、そのまま目が覚めた。
六月××日
エゴン・シーレが出て来る。
場所は室内で、シーレはぼくの前でゆらゆらと踊っていた。シーレは絵で見た自画像の姿だった。黄土色のTシャツを着ていたけれど下は何もはいていなかったので、ペニスが見えていた。ペニスはすごく大きくて、赤黒く、べつの生き物がついているみたいだと思ったら「クジラなんだ」とシーレが言った。ぼくは自分の描いた絵を見てほしかったけれど、手元になかった。「いま描けばいいよ」とシーレは言ってくれた。紙と鉛筆があったので、ぼくはシーレを見ながら絵を描こうとした。紙一枚を手に持って描くとペラペラしてうまく線が引けなかった。
「きみのジャンルだとそうなる」とシーレは言った。
月に一度のカウンセリングは、六月で三回目となった。
石川先生はぼくの書いたメモを一度読み終えると、たいていすぐに頭から読み返した。目のうごきで、それがわかった。二度目が読み終わると、なるほど、と言って、いつものにっこりとした微笑みを浮かべた。
「これ以外にもいろいろ見た?」
「見たんですけど、すぐにわすれちゃって」
「起きてすぐ書きとめるのって、結構むずかしいよね」石川先生はまた夢日記のほうを見る。「夢を見ているときはどんな気分?」
「どの夢ですか?」
「どれでもいいよ。全体的にでもいいし」
ぼくにも見えるように石川先生は紙をテーブルの上に置いた。ぼくはじっと考えてから、どれもあまりいい気分ではないです、と答えた。「いつもかもしれないですけど。楽しい夢はないというか、どちらかというとこわいような、ちょっと不安でいるような夢が多いかもしれない」
「たしかに、そうかもね」と石川先生は言った。「土屋先生が観覧車から飛び降りちゃったり、行きたい場所に辿り着けなかったり。お父さんはよく出て来る?」
「出て来る気がします。お父さんだけじゃなくて、お母さんも」
「このエゴン・シーレっていうのはどういうひとなの?」
「画家です。一九〇〇年ぐらいに生きていた人で、早死にしたけど、人物の絵をたくさん残してるんです。水彩画で」
「油絵じゃなくて?」
「ドローイングって、本には書いてありました」
「本を読んだんだね」
「土屋先生が絵の画像をプリントアウトして持って来てくれて、ほかにも見たくなって、本屋さんに行って探しました。結局、画集を一冊買いました」
「画集を」メモを取っていた手を止めて、石川先生はゆっくりとまばたきをした。
「この夢では絵を見てほしかったって書いてあるけど、実際に絵は描いてる?」
はい、とすこし迷ってからぼくは言った。
「それまでもずっと描いてた?」
「いえ、シーレの絵を見てからです」
へえ、と言って、石川先生は目を細めた。「それはすごい変化だねえ」
実際に、それはすごい変化だった。シーレの絵を見た瞬間、ぼくは「雷に打たれるような出来事」がほんとうにこの世にあることを知った。
いつものように窓際のソファに座って、土屋先生と話をしているときだった。五月の最後の週で日差しが強く、外は暑いくらいだったが、西向きの部屋はちょうどいい気温を保っていて、先生の横顔は青く、すずやかだった。
「ドイツにいたころ…ちょうどこれぐらいの時期に」ちょっと眠そうに半分まぶたを下ろしながら、土屋先生は話しはじめた。「ウィーン出身の友達の実家に遊びに行ったんだ。シェーンブルン宮殿で野外コンサートがあるからって、誘われて。ウィーン・フィルっていう地元で一番の楽団の演奏が無料で聴けるんだよ。モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』とかヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』とか、定番曲を演奏してくれる。知ってる?」
先生は二つの曲をハミングした。ああ、とぼくは言った。どちらも小学校の校内放送で聴いたことのある曲だった。
「音だけで言えばホールで聴くほうがいいんだけど、すごく楽しかったなあ。ワルツの演奏になると周りにいるお客さんが立ち上がって踊り出すんだ。ウィーンでは舞踏会の伝統があってね、きみぐらいの年齢になるとみんなダンス教室へ通うんだよ。だから老若男女、だれでも踊れる。わたしもその場で友達に教えてもらって、ちょっとだけ踊った。五月だし、時間も遅かったから結構冷え込んでたと思うんだけど、全然寒くなかったな」
コンサートのあと、土屋先生は友達の実家に泊まった。友達は代々医者をやっている家系に生まれ、ほかの兄弟はみんな医者をやっていた。末っ子である友達だけがなぜか「金にもならない数学」の道を選んだという。
「どうして医者にならなかったの、って訊いたら『ひとに親切にすることにもお金儲けにも興味が持てなかったから』だって。『それより美しいものに興味があったんだ』って。つまりそういうひとが数学をやるわけだよ」
どちらかと言えば皮肉っぽく、先生は笑った。
泊まった翌日、友達は「おもしろいものがある」と言って、先生を曾おじいさんの書斎に案内した。
友達の曾おじいさんはまだ生きていたが、老衰で寝たきりになっていて、書斎はもうつかわれていなかった。「そろそろ整理しなきゃいけないんだけど、曾おじいさんが嫌がるんだよ。ものの価値のわからない脳足りんに持ち物を触られたくないんだってさ」
書斎はとても立派だった。壁のほとんどが書棚になっていて、はしごが必要なほどの高さがあるにもかかわらず、どこもぎっしりと本が詰まっていた。先生は一瞬、自分の父親の書斎を思い出したが、まるで歯が立たなかった。
先生は書棚を見て回った。「ものの価値のわからない脳足りん」でもおどろいてしまうような貴重な本が次々と見つかった(いくつか本の名前を言ってくれたが、ぼくにはその名前をとらえることさえできなかった。「フランス文学がすきだったみたいだね」と先生は言っていた)。数学の本も少なくなかった。先生は友達に断って何冊か手に取らせてもらい、パラパラとめくった。ほとんどの本に曾おじいさんのものと思われるメモ書きがあった。ずいぶん古いメモで、読みづらかったが、曾おじいさんが数学を理解していることは充分にわかった。すごいひとだね。と先生が言うと、ほとんど化け物さ、と友達は笑った。
「見せたいものはこれなんだ」
先生は窓から一番遠くはなれた部屋の隅に連れて行かれた。
窓のあるところ以外はすべて棚になって本で埋まっているのに、そこだけくりぬかれたように白い壁が見えていた。壁には額に入った絵が一枚掛けてあった。窓から遠く薄暗い場所な上に書棚で影ができていて、すぐには何が描いてあるかわからなかった。先生は好奇心のままに歩み寄り、絵に顔を近づけた。
シーレだ。
震える線。ぎこちなくゆがめられた人物のかたち。実際の肉体より生々しい色彩。複製ではなく本物だと、先生は直観的にわかった。
絵には横たわるふたりの女の子が見下ろすようにして描かれていた。どちらも十代前半くらいだろうか、女の子たちは顔を寄せ、目を閉じている。その年齢らしく、仲睦まじく眠っているだけのようにも見えたし、キスをする寸前のようにも見えた。服やタオルケットはやや抽象的に描かれていて、その下で、ふたりのからだがどのようにからまっているのかわからなかった。むき出しになっている腕や足は黄土色の紙に対して光るように白く、ところどころに赤味がさしている。よく見ると、ふたりのうちひとりは薄く目を開けていた。目はこちらを、つまりは作者であるシーレのほうに向けられている。女の子同士の触れ合いに夢見心地でいながらシーレをも誘いこもうとしているかのような、貪欲な目だった。見ているこちらがひやりとしてしまうような何かが、その目に描き込まれているような気がした。
「あんなにも濃密にシーレが見えたのは、あれが最初で最後だね」
それ以前にも、先生はシーレの作品を間近で見たことが何度かあった。画集にも目を通していた。たぶん、美術館や画集では学術的過ぎるんだろうね、と先生は言った。書斎の暗がりで出会うような個人的なかかわり合いのなかでしか見えないことも、世のなかにはある。
友達の説明によると、その絵が描かれた年(絵にはサインといっしょに「一九一一」と書かれていた)に、曾おじいさんは街でいとこの女の子と歩いているところを、シーレに呼び止められた。モデルにならないか、と。曾おじいさんは当時十歳で、本人は嫌がったが、いとこの方が申し出を引き受けてしまった。
「じゃあ、ひょっとしてこの絵は曾おじいさんを描いた絵なの?女の子にしか見えないけど」
友達は首を振った。「全然べつの女の子さ。でも、曾おじいちゃんを描いた絵も持っていると思う。たぶん、だけどね。ここだけの話、相当なシーレのコレクションがあるらしいんだ。だれにも見せないし、どこに隠してあるのかさえわからないんだけど」
「曾おじいさんが亡くなったら、その絵はどうなるの?」
「さあ。ぼくらもずいぶんしつこく問い質してみたけど、結果はこれだった」友達は口にチャックをするジェスチャーをしたあと、両手をパーに広げた。「ただ、ぬかりなくやっている、っていうだけ。自分以外の人間をまったく信用していないんだ、それがたとえ家族であっても。ぼくが医者にならなかったのは、曾おじいちゃんみたいになりたくなかったからかもしれないね」
「モデルをしたあとも、シーレとは交流があったのかな?」
「いや、そのすぐあとにシーレはクルマウに移ってるはずだ。それからノイレングバッハに行って、兵役にも従事して…ウィーンに帰ってきたのは一九一六年だったかな?とにかく、交流と呼べるようなものはそれ以降なかったと思う。一九一一年にモデルをした一回きりさ。きっと、だけどね」
不思議な体験だったな。
その絵が目の前にあるかのように、土屋先生はほんのりと瞳を濡らしていた。「わたしは、曾おじいさんはそのあとも、どこかでシーレと会ったような気がするんだ。でなければ、たった一回の出会いがよっぽど鮮烈だったんだろうね。曾おじいさんのなかでシーレの存在はずっと生きていたんだと思う。スペイン風邪にかかって二十八歳で死んでしまったあとも」
「そんなにすごい絵だったんですか?」ぼくはまだピンときていなかった。
「うん。シーレの作品のなかでは、決して目新しい絵ではなかったんだけどね。でも、曾おじいさんは相当選び抜いてあの絵を手に入れたと思う。たぶん、もっとすごい絵も持っていたんじゃないかな」
翌日、土屋先生はわざわざシーレの絵をインターネットで検索して、画像をプリントアウトしてきてくれた。
「わたしが見た絵の画像は出てこなかったよ。きっと、世にすら出ていないんだろうね。だれにも知られないまま、この世から消えてしまったのかもしれない」
画像は粗く、プリントはにごった色をしていたけれど、ぼくは釘づけになった。
先生がプリントアウトしてくれた絵は三枚。先生がウィーンで見たものとよく似た、少女がふたり寝そべっている絵と、緑色の服を着た女性が片膝を立ててこちらを見つめている、シーレの作品のなかでも有名な絵。それと自画像。
ぼくが胸を打たれたのは自画像だった。
あまりに痩せこけた男がからだをさらけ出して、こちらを見つめている。白い絵具で縁どられたからだはまるで恒星のように光を放っていて、肌は火傷のようにざらりとした質感で赤黒く塗られている。焼け焦げているのだと思った。このひとは自分が放つ光に焼かれている。有毒な自我の光に。そして、その光が、見るひとのこころにも青白い火を放つ。ぼくは、その光を真正面から受けてしまった人間のひとりだった。
先生は三枚のプリントをぼくにくれた。
けれど、それでぼくの気持ちは収まらなかった。
ぼくは隣町にある大型書店まで画集を探しに行くことにした。ずいぶんと思いきった行動だった。学校に行くならまだしも、それ以外の理由で外に出るのは、まだこわかったから。
ぼくは同級生や知り合いに会うことをおそれながら街を歩き、電車に乗り、本屋をさまよった。美術書のコーナーは二階(書店は地下一階から三階まであった)のフロアの隅にあった。エレベーターからもエスカレーターからも遠くはなれていて、近くにトイレと非常階段があった。蛍光灯の位置の関係で高い棚が影をつくり、背表紙が暗かった。向かいの棚には音楽や映画関連の書籍がならんでいた。
シーレの本は四冊見つかった。一冊は評伝で、絵はあまり載っていなかった。歴史順に西洋画家を取り上げたシリーズ(棚一列を黒い背表紙でびっしりと占めていた)は絵と文がいい分量にまとまっていて読みやすそうだった。それよりすこし大きく、ページ数の多い画集もあって、これは油絵が多く載っていた。
最終的にぼくが買うことになったのはドローイング集だった。これは四冊のなかで一番分厚く、値段も高かった。なかにはシーレの描いたドローイングが年代順に、三百点以上載っていた。本屋の暗がりでぼくは一枚一枚、順番にそれらをながめていった。
本のなかばに差しかかったあたりから、だんだんと気分が悪くなってきた。胸がいっぱいになって、呼吸が荒くなっていた。とてもじゃないが見つづけていられなくなって、ぼくは途中で本を閉じた。これで充分ということなのかもしれない。そう思って、その日は大人しく帰った。けれど、帰ったそばから気になりだして、居ても立っても居られなくなり、次の日にはまた本屋へ出向いて、ドローイング集を手に取った。そしてまた気持ち悪くなった。日を置いてあと二回、おなじようなことを繰り返した。このままでは最後まで絵を見ることができないと思い、中学生が手を出せるような金額ではなかったが、お正月にもらったお年玉の残りを引っ張り出してきて、とうとう手に入れてしまった。
痛いくらいに心臓を高鳴らせながら自分の部屋でふたたびドローイング集を見はじめると、なぜか、不思議なくらいすっと読み通すことができた。一度も気持ち悪くならなかった。もう一度見返してみても、何も起こらなかった。
最後の絵は死にかけている妻の絵だった。
それから間を置かずに、自分もシーレのような絵が描きたいと思うようになった。
正確に言うと、描けるだろうという感覚が湧いてきた。
おぼえている限り自発的に絵を描きたいと思ったことは、それまで一度もなかった。小学校の四年生まで絵画教室に通っていたけれど、それはおなじマンション内に教室があって、幼馴染のお母さんが先生をしていたからだった。二年生のとき、夏休みの宿題だった絵画コンクールに出す絵を描く、無料体験に通ったのがきっかけだった。教室には幼馴染たちもいたし、お母さんも何か習いごとをさせたいと思っていたようで、ちょうどよかったのだろう。教室はとくに楽しいとは思わなかったが、絵が褒められたので、夏休みが明けても何となくつづけた。四年生になると学習塾とスイミング・スクールに通うことになり、代わりに絵画教室はやめることになった。幼馴染はとっくにみんないなくなっていた。
幼馴染のお母さんは美術大学を卒業していて、近くにある実家の一部屋をアトリエにして日本画を描いていた。たしか一度、市民ギャラリーへ個展を見に行ったことがある。植物を描いた絵が多かった気がする。
絵画教室ではものを見て描かされることがほとんどだった。コップや瓶やお菓子の缶、花や野菜といった日常的に目にするものを、とにかく時間をかけて描かされた。
「ただ見るだけじゃだめ。それがどういうふうにしてできているのか考えてごらん」
ぼくはそのころつかっていたスケッチブックを見つけ出した。スケッチブックにはデッサンと水彩画が交互に描かれていた。どれも自分で描いたようには思えなかった。よく描けているなと思った。指導がよかったのだろう。
スケッチブックは三分の一ほど真っ白なままつかわれていなかった。ぼくは鉛筆と消しゴムを右手に、スケッチブックとドローイング集を左手に持って、玄関に行った。
玄関には全身が映る姿見があった。ぼくはその前で腰を下ろし、鏡に映る顔とスケッチブックの紙の白を交互に見遣った。こんなにじっくりと、自分の姿をながめるのははじめてだった。ぼくはシーレのドローイング集をパラパラとめくった。そして、とりあえず鉛筆を持って、線を引いてみることにした。
シーレの絵は、描かれた年代によって絵柄が違う。おなじように女性や自画像を描いていても、年を経るごとに生々しさや荒々しさは収まっていって、絵が洗練されていく。ぼくが描きたいと思ったのは土屋先生がウィーンで見た絵と同じ年代、一九一一年前後の絵だった。そのころの絵がいちばんむき出しな感じがした。ぼくは、その線がほしいと思った。その線をつかって、自分のなかにある何かを暴いてしまいたかった。「欲望」という言葉が浮かんだ。
感じるままに、シーレの線を真似て自分の顔を描いてみた。紙と鏡を交互に見ながら、細くとがらせた鉛筆の先を紙の目に突き立て、ぐりぐりと線を引く。顔の輪郭から髪、目、鼻、口へと。
描き終わるとシーレの絵と見比べた。ひどい出来栄えだった。実際の顔にまったく似ていなかったし、何より、線が違った。力の入れ過ぎだろうか。ぼくの描いた線はやけに黒々として、ただ乱暴なだけで、幼稚に見えた。それに、シーレは描くのが速かったらしいのだが、この描き方だと紙に鉛筆が引っ掛かって、速くは描けない。筆圧はしっかりしながらも、もっとすべるようにうごいているのだ。
次の白紙にまた自分の顔を描いた。できるとシーレの絵と見比べて、違いを検証し、新しい紙に描き直した。白紙がなくなると裏面をつかった。それでもあっという間にスケッチブックは埋まってしまった。短い時間のうちに何枚も絵を描いたせいか、感じたことのない疲れが脳を分厚く覆っていた。描きたい気持ちはまだあったが、その日は終わることにした。
それから毎日、学校から帰るとぼくは絵を描いた。玄関の姿見の前で、自画像ばかり描きつづけた。家にある紙は何でもつかった。デコボコしたスケッチブックの紙より普通のコピー用紙のほうが描きやすいことに気がついて、スーパーで五百枚入りの束を買った。からだも描きたくなると服を脱いだ。もちろん、親がいないときに。ひとりのときでないと絵は描けなかった。何となくだが、知られてはいけないことのような気がした。
シーレのように、とはいかなくとも、自分なりに満足のいく線が引けるようになってくると、今度は、色をつけたくなってきた。
本によるとシーレはグワッシュという絵具をつかっているらしいのだが、それがどういう絵具かわからなかったし、当然持っているはずがなかった。水彩絵具は持っていたけれど、コピー用紙につかうとぶよぶよになったり、最悪の場合破れたりしそうだった。
考えた末にクレパスをつかうことにした。直感的に、シーレの絵肌を再現できるような気がしたのだ。
試行錯誤はありつつも、ぼくはわりに早く、自己流のクレパスのつかい方を身につけた。
まず、顔やからだの部分にはだ色を塗る。シーレのドローイングには独特の色ムラがある。下に塗った色が乾かないうちにべつの色を置いてにじませたような。ぼくは赤や青のクレパスを指先に塗り、その指で先に塗ったはだ色をこすった。すると、クレパス独特のガサガサした質感が、べたっとした絵具のような塗り味に変わった。指につけた色がまざってムラみたいになっているし、指紋の跡が筆の刷毛目のようにも見える。何より、指で描くといううごきが、絵画教室で習った行儀のいい描き方とまったく違っていて、楽しかった。
できあがった絵はシーレから感じたものを残しつつも、自分だけの絵になっているような気がした。描けると思ったあの感覚は間違っていなかったのだと思った。
土屋先生に見せたのは色を塗った絵が二十枚ほど完成してからだった。それまで絵を描いていることは言っていなかったから、ずいぶんびっくりしていたけれど、先生はすぐに「シーレだね」と言ってくれた。ぼくは本屋に画集を探しに行ったことや絵を描くようになった経緯を説明した。
「未来のことはわからないけれど、すくなくともいま、きみには絵を描く必要があったんだろうね」
長机にならんだ絵を見つめながら、先生は言った。
「そういう必然性みたいなものを感じる。きみがつくったもの、っていうより、きみから出て来たっていう、そういう感じ。だから、どの絵もすごくいいよ」
先生はじっと絵を見つづけていた。だんだんと、どうしていいのかわからなくなって、ぼくは窓のほうに顔を向けた。
「どうしてきみにシーレの話なんてしたんだろうって、考えてたんだよ」
先生は言った。
「だれにも話したことがなかったんだ、あの話は。何だかそっとしまっておきたいような話だったし、話したところで伝わるのかどうか、よくわからないと思っていたから」
「そうだったんですか」
「きみはシーレを知る必要があったんだろうね。わたしは、ひょっとしたらきみのために、あそこでシーレを見たのかもしれない」
そして先生はまた黙った
そうかもしれない、とぼくは思った。
先生の口から聞かなければ、ぼくはシーレに興味を持たなかっただろうし、たとえどこかで絵を目にしたとしても、素通りしていたかもしれない。そもそも、この部屋に来ていなければ、絵なんて描いていなかっただろう。絵を描く必然性というものがあったのだとしたら、それには、この部屋と先生の存在がきっちりと編み込まれている。
「これ、もらってもいい?」
「え?」
「あと、これと、これと、これも」
先生は四枚の絵を順番に指差した。
「いいですけど…こんなのがほしいんですか?」
「うん」
「でも、自画像ですよ」
先生は首を振った。「そんなことはどうだっていいんだ」
ぼくは先生に四枚の絵を渡した。先生は定着剤というもののことを教えてくれた。このままだとクレパスが取れてしまうからね。先生はどこからかクリアファイルを持って来て、絵をそっと重ねてファイルにはさんだ。
石川先生はぼくの言うことを何ひとつ否定しなかった。すべては「なるほど」の一言と微笑みで受け入れられた。ぼくは余計なことを考えずに、自分が話したいと思うことを話すことができるようになっていった(夢日記からトラウマを掘り起こされるようなこともなくて、ぼくは安心した)。
絵を描いていることも、何の抵抗もなく話した(土屋先生と石川先生以外には秘密にしていた)。話さないことがあったとしても、それは話す必要がないだけで、隠しているわけではなかった。
「よければ、私にも絵を見せてくれない?」
いつもより顔をゆるませて親しげに言うので、ぼくは深く考えもせず、はい、と答えていた。
「次のカウンセリングのときに持って来ます」
「楽しみにしてます」
そう言われても、ぼくは石川先生にどんなふうに自分の絵が見られるのか、ほとんど考えなかった。たぶん、ぼくは石川先生がどんなひとかということに、ほとんど興味がないのだと思う。石川先生も、ぼくの描いている絵がどんな絵なのか、単に知っておきたいだけなのだろう。
お母さんもぼくとおなじく月に一度のペースでカウンセリングを受けていた。カウンセリングの日には「進路相談室」で担任と土屋先生を交え、四人で近況報告をするのが恒例となった。
あの部屋に土屋先生以外のひとが入ってくることが、ぼくはあまりすきではなかった。担任はほぼ毎日部屋を訪れたが、来ると急に居心地が悪くなった。気のせいか、土屋先生もおなじように感じている気がした。見た目には変わらなくとも、ほかにひとがいるときはすこしだけ、ぼくと距離を置いて接しているのがわかった。
二日間、「進路相談室」にべつの生徒が通ってきたことがある。ぼくと同じ学年の田辺さんという女の子だった。
一年生のときはぼくのクラスとは違う階にあるクラスだったようで、顔も見おぼえがなかったが、田辺さんのほうはなぜかぼくのことを知っていた。有名だよ、と田辺さんは言った。不登校のことがうわさになっているのかもしれなかった。
「授業みたいにして、ふたりまとめて教えようか」土屋先生はそう提案した。幸い「進路相談室」には黒板もホワイトボードもある。けれど田辺さんが小声で、自習がいい、と言ったので、ぼくらは各々すきな教科の勉強をし、土屋先生は窓際のソファに座って後ろから見守る、という形になった。ただ教科書を読み、ワークブックの問題を解くという作業は久しぶりにやるととても淡白で、音を消してテレビを見ているようだった。ぼくはいまにも土屋先生が向かい側に座って教科書のなかの一行を指差し「この公式でほんとうに重要なことは…」とか「この事件について言及した有名な本があって…」とか「こうしている瞬間にも脳のなかでは…」というようなことを話しかけてくれないかと待っていたが、そんなことは起きなかった。
物足りない思いをしているぼくとは反対に、田辺さんは、土屋先生の存在がどうも気に食わないようだった。勉強をはじめて二十分が経ったころ、
「何だか集中できないです」と田辺さんは言った。
「そう」土屋先生の声はしずかだった。「何か理由はある?」
「見張られてるみたいだから…」
困ったような口調だったが、言葉ははっきりとしていた。ぼくは田辺さんの顔を横目で見た。田辺さんの目は机の上の英語のノートに向けられていて、切れ長の一重まぶたはぴくりともうごかす、何の表情もなかった。
「それもそうだね」
組んでいた腕をほどいて、土屋先生はソファから立ち上がった。
「じゃあ、しばらく見回りをしてくるよ。三十分くらいしたら様子を見に戻って来て、また見回りに行く。そうすれば集中できる?」
たぶん、と田辺さんが答えると、土屋先生は「進路相談室」から出て行った。
ぼくはおどろいた。要するに「邪魔だ」と先生に向かって言う田辺さんにも、それをすぐに聞き入れた土屋先生にも。こんなにもかんたんに状況というものが変わってしまうということにも。
先生がいなくなった途端、田辺さんは勢いよくぼくに話しかけてきた。だれがむかつくとかだれが気持ち悪いとかあいつは死んでしまえばいいとか、ほとんどが教師の悪口だった。ぼくは相槌だけ打ちながら教科書に目を落とし、勉強をつづけている態度をとった。自分のなかに黒いものがながれこんでくるのを感じて、どんどん気分が悪くなっていくのに、「やめろ」と言うことができなかった。
チャイムが鳴って休み時間になると、田辺さんは部屋から出て行った。そして、次のチャイムが鳴ってしばらくするまで、戻って来なかった。授業時間には、今度は家族の悪口を(土屋先生が戻ってきたとき以外)話しつづけて、チャイムが鳴るとまたどこかへ行った。何となく、友達に会いに行っているのだろうと思った。
三時間目がはじまると、案の上、さっき友達が、と言って、クラスメイトの話をはじめた。
ぼくは同級生にはひとりも会いたくなかった。ものめずらしい目で見つめられたり、心配されたり、何か訊ねられたりするのがわずらわしいし、こわい。
この子は、全然違うと思った。それは会った瞬間からわかっていた。田辺さんの目は、ずっと外に向かって見開かれていた。ひとに消えろとは思っても、自分が消えてしまいたいとは思わない人間なのだ。
翌日、田辺さんは部屋に来なかった。クラスに戻ったのか、学校を休んでいるのかはわからなかった。ぼくはいつものように土屋先生と勉強をした。
「きのう、どうだった?」
勉強のあと、ソファでくつろぎながら、土屋先生が思い出したように訊いてきた。
「何か…だめでした」
そうかあ、と土屋先生は笑った。
おなじ週の木曜日に田辺さんはもう一度「進路相談室」に登校してきた。土屋先生が休みの日だったので、自然とふたりで自習することになった。田辺さんは前より話しかけてこなかった。かと言って、勉強に集中しているわけでもなく、ずっと親指と人差し指の爪をこすり合わせていた。
「あの先生さ」しばらくして、田辺さんが訊ねてきた。「むかつかない?」
すこし自信のない声に聞こえた。もちろん、土屋先生のことを言っているのだろう。
「むかつかないよ」
さすがに自分でもつめたい言い方になっていたと思う。けれど、仕方がないことだと気づいてほしかった。歓迎はできない。
それ以来、田辺さんは「進路相談室」には来なかった。お互いにとってもそれでよかったのだと思う。
六月の三週目には梅雨に入った。あらかじめカレンダーに書き込んであったかのような、きっかりとした梅雨入りだった。空は分厚い雲でしっかりふたをされて昼でも暗く、雨は景色にカーテンを引くように降りしきった。
ぼくは体調を崩して、まるまる一週間学校を休んだ。「進路相談室」に通い出してからは、はじめての欠席だった。そう思うと、一週間ぐらい休んでもいいような気がした。土屋先生に会えないことはさみしかったけれど。
ずっと寝ているのも暇なので、ぼくはときどきベッドから起き出して、絵を描いた。頭痛がしてすこしふらふらするわりに集中することができた。たぶん、雨のせいだろう。盛大な雨音にすっぽり覆われていると、ひとりでいることが際立って、澄んだ気持ちになる。
学校を休んで五日目。その日も、朝から雨が降っていた。
ぼくは三枚の自画像を描いた。
ふと思い立って、一枚を長髪にした。肩までしか描いていなかったので、髪を伸ばすと男か女かわからない人物になった。
ぼくはシーレのドローイング集を引っ張り出し、女性を描いた絵を見ていった。自画像と女性の絵とでは、タッチは似ていても雰囲気が微妙に違う。作品の意味合いが違うのだろう。そこには異なる自由があった。自画像はだれに気がねすることなくすきに自分をあつかえ、モデルを描いた絵では逆に、自分にとらわれずに描くことができる。自分じゃないから丁寧に描いたり、適当に描いたり、残酷に描ける。
ぼくははじめて、女のひとを描いてみたい、と思った。
でも、だれを?
頭に浮かんだのは土屋先生だった。先生はぼくが絵を描いていることも知っているし、シーレのことも知っている。頼めば、おどろきこそするかもしれないが、引き受けてくれる気がした。けれど問題は、ぼくが頼めるかどうかだ。そもそもシーレのような絵を描くためにモデルを頼むということが、現実的ではない。いったい、ぼくは先生にどんなポーズをとってもらえばいいのか。
先生に会いたいと思った。休んでいるあいだ、その思いはずっとぼくの意識の底をながれていて、穴を見つけては一日のうちに何度も噴き出し、ぼくの頭を裏側から叩いた。それは何かなつかしい感覚だった。さびしさと興奮が入り混じった、微妙な感覚だった。雨や体調が悪いことも関係しているような気がしたが、ぼくにはそれがいつ、何があったときの感覚なのか、最後まで思い出すことができなかった。
さっさと一日を終えてしまいたくなって、その日はかなり早い時間にベッドに入った。
目が覚めると、そこは自分の部屋ではなかった。
ぼくはある部屋のなかで立っていた。それほど広くはない部屋で、目の前に学習机がふたつならんでいて、奥には長机がひとつある。その向こうには窓があって、そばにひとり掛けのソファがふたつ置いてある。見慣れた光景だ。
そこは「進路相談室」だった。
ぼくにはついさっき、自宅の部屋で眠った記憶があった。それ以降起きて学校に行った記憶はないし、いま起きたばかりだという確信もある。ふつうに考えれば、周りには自分の部屋の風景が広がっているはずだった。
首をひねり、あたりを見回してみる。左には教卓のない教壇があって、黒板がある。反対側にはホワイトボードやパイプ椅子や段ボール箱が壁に寄せて置いてある。ねずみ色の棚があって、上には段ボール箱が載っている。「面接グッズ」と書いてある段ボール箱だ。その箱もぼくが知っている場所に、まったくおなじように置かれていた。
黒板の上の時計を見た。九時をすこし回ったところだったが、秒針が止まっていた。息をひそめてみても、カチカチという音が聞こえない。
これは夢だ、と思った。
ずいぶん生々しい夢だな、と思った。あらためて部屋のなかを見回してみても、ほとんどほころびがない。夢のなかの景色はもうすこしぼんやりしているというか、いい加減な気がした。たとえば自分の家でも、家具の配置が変わっていたり、あるはずのものがなかったり、あるいはないはずのものがあったりということが頻繁にある(目を覚ましたあとの記憶にもとづけば、ということだが)。
ぼくはすぐそばにある学習机に目を落とした。ぼくがいつもつかっている学習机だ。机には以前だれかがつけた傷跡があった。カタカナのキ(ひょっとしたら草冠かもしれない)のように見える跡で、彫刻刀のようなもので深く彫りこまれていた。その傷跡は座ったときには右手奥にあった。ぼくはいま、座るのとは反対側の位置から、立って机を見下ろしている。つまり、それは左手前にあるわけだ。傷跡はそのとおりの場所にあった。記憶にある形、色、彫られた深さで。ぼくは机に触れてみた。ほとんど完璧な質感が指先に感じられた。天板に塗られたワックスにすこしずつほこりや、鉛筆の粉や、お弁当の食べかすや煮汁、生徒の皮脂などが刷り込まれ、染み込んでいったような、独特の湿り気のある質感だ。
思い立って、ぼくは回れ右をし、部屋の扉に近づいた。持ち手に指をかけて横に引いてみると、予想とは違い、扉は開いた。てっきり、外には出られないのではないかと思ったが。
扉の外には当たり前のように廊下があった。石でできた、つめたくてかたい床の廊下だった。ぼくは部屋から出てみた。上履きを通して感じる床の感触。
上履き?
たしかに、ぼくの両足には上履きがはまっていた。しかも、よく見ると、制服まで身に着けていた。六月に入って暑くなり、上は半袖のワイシャツだけになっていたが、着ていたのは詰襟だった。そういえばさっきから気温というものを感じていない。廊下の床にはひんやりとしたものを感じるが、これは気温というよりもどちらかと言えば質感に近い。
廊下も、実際の学校とおなじだった。隣には準備室があり、第二理科実験室がある。その奥には階段があって、階段の向かい側(つまりいまのぼくから見て左手)には長い廊下がつづいているはずだった。けれど、ぼくは「進路相談室」の前をはなれてほかの部屋や階段をたしかめには行かなかった。
代わりに窓の外を見た。外は真っ暗だった。夜だから暗い、というのではなく、そこで夢自体が途切れているかのような闇。たぶん、学校より外は必要ないということなのだろう。あるいは、この先の階段や廊下もおなじようになっているかもしれないし、ぼくが足を踏み入れた途端に姿を現すのかもしれない。とりあえず、ぼくは「進路相談室」以外の場所に興味はなかった。目が覚めているときとおなじように。
ぼくは部屋のなかに戻って扉を閉めた。
さて。ぼくは、いつも自分が座る席に腰かけて、机に肘をついた。
「明晰夢」と言ったろうか。夢だと自覚できる夢を見るのは、これがはじめてかもしれない。土屋先生は、よく見ると言っていた。
明晰夢では、ずいぶんすき勝手できるらしい。先生は必ず空を飛ぶと言っていた。上昇をつづけると宇宙まで行くことができるのだそうだ。月には何度も降りたし、火星や金星にも行ったと言っていた。木星の大赤班のなかに突っ込んだこともあったが、たとえ夢でも二度としないと言っていた(何があったのかはわからない)。海にも潜ったことがあるらしい。光のまったく届かないはずの深海も夢のなかでは見えるらしく、ほんとうにいるのかどうかもわからないような奇怪な生物がうじゃうじゃいた、とうれしそうに話していた。どれも、ぼくなら思いつきもしないようなことだった。
しかし、考えごとをするにしてもずいぶんスムーズにできるものだな、と思った。この分ならしっかり記憶も残っていて、夢日記に書くのもそう苦労しないかもしれない。
ぼくは机に顔をつけた。すぐそばから木と鉛筆のにおいがする。眠い気がした。夢のなかで眠気がするというのも、妙だ。このまま眠ったらどうなるのだろう。目覚めるのだろうか。つまり、現実のぼくの目が。せっかくの明晰夢なのに、まだ何も試していなかったが、もったいないとは思わなかった。ぼくは土屋先生のように好奇心旺盛な人間ではない。ただ、さみしい夜のひとときをこの「進路相談室」で過ごせたことが、ぼくにとってはうれしい出来事だった。たとえそれが夢であっても。ぼくのこころ(あるいは無意識)は、ぼく以上に正しいうごきをして、自分が必要としていることを行ってくれているのかもしれない。治癒のようなことを。
まどろんだ意識のまま、夢はしばらくつづいた。顔にあたる腕や机の感触、椅子のかたさ、詰襟の布目のぬめるような光り方。ソファにも座ってみたかったが、ぼくはもう立てなかった。眠いのだ、とにかく。それに、ソファの座り心地をたしかめて、それでどうなるというのだろう、現実にまったくおなじソファがあるというのに。そう、すべて現実にあるのだ。この部屋も、ここにはいない土屋先生も。あちらに戻ればすべてある。さっさと目覚めてしまえばいい。
やがて周りの景色がぼくを中心にして収縮する感覚があり、真っ暗闇になった。ぼくは自分の部屋のベッドの上にいた。
この夢を見たあと、ぼくは余っていた新品のノートを取り出して最初のページを開き、日付を頭につけてから夢の内容を書いていった。そのときにはすでに、またあの部屋の夢を見るだろうという予感があった。あまり体験したことがない、確信に満ちた予感だった。だから、記録がばらばらにならないように、ノートをつかって書きとめておこうと思った。夢のことはしっかりと記憶に残っていて、ついさっきまでほんとうにあの部屋にいたかのようだった。ぼくはそのことも書き記しておいた。夢をコントロールできるかどうかは試さなかった、とも。
「進路相談室」は、思ったとおりその夜にもぼくの夢に現れた。そして次の夜にも。
○
カウンセリングがあるまでに、ぼくは「進路相談室」の夢を計九回見た。夢を見るのは決まって学校に行かない日の夜だった。六月の第三週(はじめてあの部屋の夢を見た週だ)以降、ぼくは学校を休まなかったから、「進路相談室」が現れたのは、学校のない土曜と日曜の夜だったことになる。
ぼくは夢の「進路相談室」に毎回三時間くらい居座った。相変わらず夢のなかの時計は九時過ぎで止まっていて、正確にどれくらいの時間が経っているのかはわからなかったが、感覚で実際の「進路相談室」で過ごしているのとおなじくらいだろうと踏んでいた。普通の夢ならいらないシーンが適当にカットされていたりするが、「進路相談室」の夢では、時間は頭からお尻まできっちり連続したものとして正確にながれていた。だからかどうかはわからないけれど、起きたあとも、三時間分の重みというか、疲労のようなものがからだに残っている気がした。眠っていたというよりは、べつの場所で三時間過ごしてまた自分の部屋に戻ってきたような(睡眠時間はふつうとあまり変わらなかった。ぼくの場合だと、大体七、八時間ほどだ)。月曜の朝は、だから、妙な感じがした。さっきまで(夢のなかで)いたはずの「進路相談室」に、起きてすぐに登校しなければならないのだ。
夢の「進路相談室」で、ぼくは何をするでもなく、ぼんやりとして過ごした。二日目はソファの座り心地を試し(やっぱり実物とそっくりそのままだった)、黒板の書き味を試し(備えつけのチョークの色、形、長さもおなじで、つかった分はなくなったまま元に戻らなかった)、「面接グッズ」の箱のなかをのぞき(これには何も入ってなかった。現実の箱の中身をまだ知らないからかもしれない)、その他の段ボール箱を漁った(ピンポン玉とラケットが出てきたので、しばらく壁打ちをして遊んだ)。三日目か四日目にふたたび廊下に出て「進路相談室」以外の場所を見て回った。と言っても、隣の準備室や第二理科実験室は鍵がかかっていてなかに入れなかったし、その先の階段は昇っても降りても「進路相談室」のある階に行きついた。階段の向かいにのびている廊下はいくら進んでも、振り返るといつも「進路相談室」へつづく曲がり角がそこにあった。すべて予想通りだったので、とくにおどろきはしなかったが、すこし呆れた。まるでゲームの世界だ。プログラムにない場所へは行けない。
廊下の探索を終えると、奇妙なことが起こっていた。
部屋に戻ると、学習机の上に本が置かれていた。紫色の函に入った古びた本だった。黄ばんだ厚手のビニールの巻かれた函には「日本の詩人9」と書かれていて、「北原白秋」と印字された薄緑色の帯がついていた。まったく記憶にない本だった。ぼくは函から本を取り出して、なかを見た。すべてのページに文字が印刷されている。見たことがないわりに精巧な再現だった。
後ろからろくに文字も読まずページを繰っていると、あるところでふと、手が止まった。
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
やはらかき麦生のなかに、
軟風のゆらゆるそのに。
薄き日の暮るとしもなく、
月しろの顫うゆめぢを、
縺れ入るピアノの吐息
ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに生れゆく
色あかきなやみのほめき。
やはらかき麦生の靄に、
軟風のゆらゆる胸に、
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
何か、記憶にある響きだった。見おぼえのない本のはずなのに、なぜ。戸惑いながら言葉をながめていると、ところどころ、土屋先生の声で再生されるところがあった。
ああ、と思った。これは、先生が最初にぼくに教えてくれた詩だ。
内容はあまりおぼえていなかったが、「罌粟」や「軟風」や「麦生」といった印象的な言葉は記憶にあったので、きっと正しいのだろうと思った(ちなみに、ぼくはこのときはじめてそれらの漢字表記を知った)。「ほのかにひとつ」という名前で、『邪宗門』という詩集のなかに収められている作品らしい。
ぼくは細かく本を観察してみた。新品というよりは使い古されていて、ページにはところどころ茶色いしみができている。表紙はわりにきれいだった。本の背の下の方に赤い丸のシールと三桁の番号が書かれた四角いシールが貼られていて、上からさらに透明のテープで留めてある。三桁の番号は「693」。書き込みはないし、何かがはさまったりもしていない。どれだけじっくり見ても、見おぼえはない。
ひょっとすると、土屋先生と関係するものかもしれない。
そんな妙な考えが頭をよぎったが、しばらくして取り消した。なぜ、そんなことを思ったのだろう。第一、土屋先生にかかわりがあったとして、ぼくの夢に出て来るのはおかしくないか。そんな当たり前のことに気づくのにすこし時間がかかって、ぼくははずかしくなった。本は閉じて、函にしまった。
夢のことは土屋先生に話さなかった。一度見ただけなら話していたかもしれないが、土屋先生に会うまでに、つづけて三回も「進路相談室」の夢を見ていた。不思議なことがあった、というふうに話すには程度を超えているように思えた。話してどう思われるのか、ということも、めずらしく気になった。
代わりに、と言うのも変だけれど、ぼくは九回分の夢の記録が書かれたキャンパスノートをカウンセリングに持って行って、石川先生に見せた。夢のことで頭がいっぱいになっていたので、前回のカウンセリングで絵を持ってくる約束をしていたことはすっかりわすれていた。石川先生は終わりまで約束について触れなかった。ひょっとすると先生もわすれていたのかもしれない。
石川先生は夢の記録をずいぶん興味深そうに読んでいた。
「不思議だねえ」
心底感心したように石川先生は言った。感心しかしていないような声だ。ぼくは、専門家としてもっと分析のようなことをしてくれると思っていたので、先生がそれ以上何も言ってくれないのがわかると、つい拍子抜けしてしまった。
「先生には何かわかりますか?」仕方なく、ぼくは訊ねてみた。
「わからない」と石川先生は答えた。悪びれもせずに。「知っている場所や思い入れのある場所は夢に出やすいし、おなじ夢を何回も見るひとも知っているけど、話を聞いているとただそういうこと、っていうわけでもないよね?」
「さあ」そう言うしかなかった。「でも、ぼくはこの夢以外につづけておなじ夢を見たことはないです。あと、こんなにリアルな夢も」
「ほんとうにその部屋にいるみたいなんだよね?」
「ほんとうにいるみたいなんです」
「しかも、学校に行かない日に見る」
「先生」すこし考えたが、ぼくはやっぱり訊いてみることにした。「これって、やっぱりおかしいんじゃないですか?」
「おかしいって?」
「異常というか、病んでいるというか」
「いやいや」石川先生はほがらかに笑って、右手を顔の前で振った。薬指の指輪がきらきらと光る。「たったこれだけのことで病んでいるなんて言えないよ」
「じゃあ、これは異常じゃないんですか?」
「きみは、異常っていう感じがするの?」
「異常」ぼくは自分の言葉を繰り返してみて、その感触をたしかめた。目をつむって手のなかのものを転がすみたいに。
「異常、ではないかもしれないですけど…でも、ふつうではないって感じがして」
「ふつうではない」石川先生はバインダーの紙にメモをとった。「夢のなかの部屋にいると気持ちがいいって言っていたよね?」
「ほっとするっていう感じです。居心地がいいというか」
「こわい、とかは?」
「それも、あります。気味が悪いというか」
「まあ、そうだよね」石川先生はふっと首を傾けて笑った。同意の笑み。「じゃあ、ずっと夢のなかにいたい、とかは思わない?」
「そんなことはできないでしょう」
「もしいられるとしたら。考えてみて」
もしいられるとしたら?ぼくは石川先生の言っていることがよく理解できなかった。もし、ずっと、夢のなかにいられるとしたら?意味はわかるのにイメージができない。まるで五次元や六次元を想像するときみたいに。そのままの言葉でぼくは伝えた。石川先生は、なるほど、と言っただけだった。
「また、記録を書いて見せてください。細かくてわかりやすかった」石川先生はいつもの微笑みをつくって、ノートを持ってひらひらさせた。「これ、コピーとってきてもいい?」
「どうぞ」
職員室でコピーを取って帰って来ると、石川先生はぼくにノートを返した。
「つぎに会うのは九月だね」
石川先生は長期休みには学校に来ない。今日が、一学期最後のカウンセリングだった。
「夏休みのあいだ、夢はどうなると思う?」
「このままだと、毎日見ることになりそうですね」軽い調子で言ったが、それはぼくも気にしていた。毎日学校に行かなくなって、毎日「進路相談室」の夢を見るようになったら、ぼくはどうなってしまうのだろう。
「不安?」
笑っていたつもりだったけれど、さすがに不自然だったのか、石川先生がそう投げかけてきた。わかりません、とぼくは答えた。もちろん不安はあったが、考えれば考えるほど、いったい何が不安なのかわからなかった。どんなに奇妙でも、夢は夢じゃないか。
「でも、土屋先生と会えなくなるのは、すこし不安かもしれないです」
「それはたしかに、ちょっと心配だな」テーブルの上のカレンダーを見ながら、石川先生は言った。「たとえると、部屋の窓がひとつ減ってしまうようなものだから。そのぶん外から光が差さないし、空気の入れ替えがむずかしくなる。このカウンセリングも窓だとすると、ふたつ減ることになるね。家族以外に、コミュニケーションを取っているひとはいる?」
ぼくは首を振った。
「ちょっとたいへんかもしれないね。でも、引きつづきこうやってノートに日記を書いてみたらどうかな。夢のことだけじゃなくてもいいし、もちろん夢のことだけでもいいけど。それと絵を描くのも、おなじようにいいと思う。無理はしなくていいけど、しんどいなと思ったら気持ちを文章や絵にして、目に見える形にしてみてください。それだけでもほっとすると思うので」
夏の陽気がすっかり定着してきても「進路相談室」の様子はあまり変わらなかった。日当たりの悪さは影響が強いらしい。この分だと冬は地獄だね、と、土屋先生はよくぼくを脅かした。
先生はソファに座った状態で首を後ろに傾け、窓から額を出していた。切ったばかりの髪が風で左から右になびいていた(なびく、というほどの長さもなかったが。先生の髪は出会ったころよりもすこし短くなっていた)。
「小さい頃から寒いのは平気なんだけど、暑いのはだめだね。いろんなものが白く濁っていくイメージなんだ。何も考えられなくなる。クーラーも苦手だから、職員室とかもかなりきついよ。この部屋が一番過ごしやすいね、学校のなかでは」
「家でもクーラーを点けないんですか?」
「旦那が暑がりだし、子どももいるから、点けないってわけにはいかないな。熱中症もこわいしね」
「じゃあ、先生はいまが地獄ですか」
「これからが本番だよ」土屋先生は窓枠から顔を引き抜き、首を起こした。
「夏休みがあると、また学校に来るのが大変にならない?せっかく慣れてきたのに」
「一か月も先のことだから、想像がつかないですね」ぼくは数学の問題集のページを一枚めくった。
期末試験が終わって(成績は中間試験とほとんど変わらなかった)、早くもぼくは夏休みの宿題に取りかかっていた。連立方程式は何も考えなくても手がさらさらとうごいて問題を解いていくので、先生との会話は妨げにはならなかった。
「でも、また家に引きこもる想像もできないです。クラスにはまだ行けないと思いますけど」
「そうだね、クラスに戻ることも考えなきゃね」
何気ない一言だったが、頭のなかの数字が一瞬飛んでしまい、ぼくはもう一度問題を読み直さなくてはならなかった。
「何か考えてる?」
「何をですか?」
「これからどうしていくか」土屋先生はソファから立ち上がった。
「まだ考えられていません」ぼくは、さっさと言ってしまった。「夏休み明けは、とにかくまたこの部屋にくる。それで精一杯だと思います。そのあとのことは、まだわかりません」
先生は、てっきりぼくの前に座るのかと思ったら、ぼくの背中側にある椅子に座った。ぼくが顔を向けると、先生は長机に頬杖をついてじっとこちらを見ていた。黒のTシャツはずいぶん小さく見えるのに、それでも先生の薄いからだには余っていて、膝下丈のパンツから出たすねは中学生より細く見えた。
「追い込むつもりはないけど」先生は、そう前置きした。「わたしをふくめ大人はきみに対してそれほど多くの選択肢を与えることはできないよ。というか、選択肢はほとんどないように誘導してくると思う。べつにきみの可能性をつぶしたいわけじゃない。みんな、きみがすきなように生きることができればいいと思ってる。けれど、大人が大人の役割を果たそうとすると、そういうふうになってしまう。わたしの言いたいこと、わかる?」
ぼくは黙って先生を見つめた。わからない、という意味で。
「わたしが言いたいのは、きみが考えないかぎり、大人の言うことを聞かなくちゃいけないっていうこと。きみは、考えたことを言葉にして伝えないかぎり、大人が提示してくるアイディアに従わなくちゃいけなくなる。たとえば、わたしは、きみが三年生に進級するのを目処に、クラスに復帰すればいいと思っている。クラス替えがあるから、二年生の途中から戻るよりは、気持ちが楽だろうからね。もしきみに希望がないのであれば、わたしはこの考えを担任の今津先生と共有しようと思っているし、そうすれば今津先生は学年主任の先生に相談をするだろう。きみのご両親にも。こうやって、大人のあいだではどんどん話が進んでいく。きみが知らないうちに」
土屋先生は右手の人差指でくるくると長机に何かを書いていた。数式のようなものを。ぼくは先生の顔が見られなくて、その透明な数式をながめている。爪が硬い板の上をすべる音がほかの音を吸い込んでいって、部屋がしずかになっていく。
「もちろん、きみはこの提案を拒否することができるよ。けれどそれには代案が必要だ。大人を納得させる代案が。いやだ、と言って、それで済むわけじゃない。高校受験があるからね。周りの大人も、今回はそんなに甘くないよ。」
先生はじっとぼくの顔を見ている。仕方なく、ぼくも見る。ぼくらはほとんどにらみ合うような形になっている。
「ひとつ言っておきたいのは、大人は安全な選択肢しか提案できないということ。わたしたちはなるべくきみに多くの選択肢が残るような道を提案しようとしている。けれどほんとうは、多くの選択肢が残るように見せかけて、ほとんど一本道しか与えていないんだ。ある程度バリエーションがあるかもしれないけど、基本の道筋はおなじ。それは大人がきみを安全に社会に届けられる道筋だ」
「それは悪いことなんですか?」
「悪くないよ、何も」手品師のように先生は両手を広げた。
「でも、あんまりひとに考えさせておくと、よくわからない場所に運ばれてしまう。わからない、と思っているうちにね。それだけはおぼえておく必要があると思う」
「むずかしいですね」
「そうでもないよ。すくなくとも不登校なんて、ふつうの大人では考えられない道だもの」
土屋先生は顔にしわを寄せて笑った。
ぼくはお父さんのことを思い出していた。
お父さんは、ぼくが不登校になってからあまり話しかけてこなくなった。話すことがあっても、いつも瞳が揺れていて、ぼくと目を合わさなかった。おびえているようにも、怒っているようにも、かなしんでいるようにも見えた。
「行けばいいじゃないか」
たまらずにそう言ってきたときがあった。
「何に困ってるんだ。勉強だって苦労してないし、部活だって楽しそうにしてたじゃないか。一回、どこかの高校のコートを借りて練習してたときに、見に行ったのをおぼえてるぞ。いい先輩がいるんだって、話してただろ。ほんとうはいじめられたりしてたのか。何がだめなんだ」
お父さんは一刻も早く納得のいく言葉を引っ張り出そうとしていた。ぼくは、違う、とか、そうじゃない、としか言うことができなかった。正しくないものを払いのけることしか。でもそれは、お父さんのような大人にすればまどろっこしくて、遠回りな方法だったのかもしれない。すぐに掴めるような理由が必ずあるはずだと、お父さんは思っているようだった。口にこそ出さなかったけれど、お母さんもおなじだったのかもしれない。
「そういえば、最近また本を読みはじめたよ。きみに勉強を教えていたら、また読みたくなってさ」
土屋先生は日本の古い文学者と思われる名前を口にした。読んだことある、と訊かれたので、首を振った。聞いたこともない名前だった。
「まあ、読んでいたとしても、ちょっとびっくりするけどね。大人になって気が向いたら読んでみればいいよ。わたしが読んだのは高校生のときだったと思うんだけど、さすがにだいぶ印象が変わってるね。読書自体がだいぶ久しぶりだから、とにかくおもしろくて仕方がない。おかげで寝不足。クマできてない?」
先生は目の下を指差した。ぼくは首をのばして見てみたが、よくわからなかった。
「数学の本は読まないんですか?」
「やめてよ、ほんとうに寝られなくなっちゃう」先生は苦笑いした。「冗談じゃなく時間をわすれちゃうんだ、数学のことになると。ひょっとすると旦那や息子のこともわすれちゃうかも。さすがにそれはまずいでしょ」
「じゃあ、もう全然、数学のことって考えないんですか?」
「考える暇なんてないよ。いつも言ってるじゃない。それに、数学関連の本は結婚するときに全部処分しちゃった」
「そうなんですか?」ぼくはおどろいた。「どうして?」
「本って、場所を取るからね」
「処分までしなくても」
「数学のことを考えるのってね、この世ではない、べつの空間にいるようなものなんだよ。息子のおむつ替えながらやることじゃないね。すくなくともわたしには無理。そこまで器用じゃないし。かと言って、たしなんだり親しむ程度の付き合いなんてしたくない。ゼロかイチかの二元論なんだ」
口調は普段と変わらなかったが、言葉は思いの外強かった。いつものしなやかな印象とは正反対の強引な態度に見えたが、これがほんとうの先生の姿なのかもしれない、という気もした。本人が言うように、あまり器用ではないのかもしれない。
「よくドイツにいたころの話をしてくれますよね」もっと話をつづけたくなって、ぼくは訊いた。「真剣に数学に取り組んでいたころの。その話はつらくないんですか? 」
「過去は過去だからね、いまさらつらいなんて思わないよ。それに、ドイツはわたしにとってひたすらに楽しかった思い出だから。楽しいことはいくら思い出しても楽しいよ」
「そういうものですか」
「そういうものだよ。正直子育てには数学ほどのめり込めないし、つらいことや面倒臭いことが比べものにならないくらい多いけど、おもしろいと言えばおもしろい。相変わらず、息子の興味の対象はさっぱりだけど。息子の最近のお気に入り、当ててごらんよ」
「テレビアニメとかじゃないんですか?」
「チラシだよ。くしゃくしゃに丸めてはのばしたり、やぶいたり、耳元で握って音を聴いたりしてる。あと、食べ終わったゼリーの容器をきれいにしてあげるとすごくよろこぶね。まるで宝物みたいに窓辺にならべて置いてあるよ。旦那や親戚はちょっと発育が遅れてるんじゃないのか、なんて気にしてるけど、わたしは放ってるよ。進んでるからっていいわけじゃない」
先生は、からりとしたいつもの声に戻っていた。嘘は言っていないのかもしれないが、どれくらいほんとうの気持ちを言っているのかもわからなかった。
「夏休みになると話し相手がひとり減ってしまうね」
先生が話題を買えたので、ぼくはあとを追うようなことはせず、ああ、と相槌を打った。「カウンセリングでも言われました。部屋の窓が減ってしまうみたいに空気の入れ替えがむずかしくなるから気をつけなさい、って。どう気をつければいいのかよくわからないですけど」
「きみだけじゃない。わたしもだよ」先生は、なぜかすこし怒ってるみたいに言った。「部屋の窓とは、なるほどね。さすがは専門家だ。いいガス抜きになってたからな。ちょっとつまんなくなる」
「ぼくと話すことがですか?」
「そんなにおどろくこと?これだけ毎日いっしょにいるんだから、当然だとは思わないの?」
「さあ」とぼくは首をひねった。当然だとは思えなかった。「ぼくはただ、面倒を見てもらっているだけなので」
「もちろんそうだけど、なんか心外だなあ。思ったより一方通行だったってこと?わりに楽しくやれていると思っていたのに」
「いや、楽しかったですけど」
「まあ、勉強にちょっかい出したり、今日もお説教しちゃったしね。楽しい、とは違うか。でもわたしはそれなりに充実した時間だったから、これから一か月以上、この時間がないのかと思うと、さみしいなと思って」
そうですか、とぼくは笑った。ずいぶんと取り繕った笑い方になった。
でも、どう言えばよかったのだろう。自分も楽しかったと、言ってもよかったのだろうか。楽しい以上の時間だったと。
一学期の最終日、ぼくは体育館で行われた終業式には参加せず、担任が来るまで「進路相談室」で夏休みの宿題をして過ごした。担任は、クラスのホームルームが終わって生徒を下校させたあと「進路相談室」にやって来た。ぼくは通知表を受け取った。今津先生が言っていたように一般教科には三か四の数字がついていて、実技教科は空欄になっていた。
担任が部屋に来た時間が遅かったので、土屋先生が近くのコンビニまで走ってお弁当を買って来てくれた。びっくりして遠慮したが、せっかくだしいっしょに食べよう、と言ってくれたので、部屋で土屋先生とふたり、お昼ご飯を食べた。この三か月ではじめてのことだった。土屋先生が買って来てくれたのはかつ丼で、プラスチックのふたからはきれいに値札がはがされていた。先生は家からタッパ―に入れた味噌汁とラップにくるんだおにぎりを二個持って来ていた。おにぎりには海苔が巻かれておらず、具も入っていなかった。
部屋にはまだ日が射さなかったけれど、蒸し暑さはしずかに押し寄せて来ていた。時計の針は十三時を過ぎていた。かつ丼は職員室で味噌汁といっしょに土屋先生がレンジで温めて来てくれたおかげでしっとりとした湯気を立てていた。外ではもう部活動がはじまっていて、女子の小気味よいかけ声が聞こえてきた。あまりに久しぶりに聞いたので、ぼくは妙な気分になった。ドラマみたいに白々しくて、現実に起こっていることには思えない。学校とは不思議な場所だと思った。
どうしたの、と訊くのでそのことを話すと、てっきり笑われると思っていたのに、先生は、ねえ、と言って、味噌汁をすすった。