焼酎ロックは効きすぎる
焼酎のお湯割りとか、日本酒の熱燗とか、酒は温かいものが好きだ。
ゆっくりと飲んでいた、お猪口の中が、空になる。
左手を伸ばす。
その先で、すでに徳利が持ち上げられていた。
「どうぞ」
「あぁ……ありがとう」
芦田が、慣れた仕草で徳利を傾け、盃を満たしていく。
心底嬉しそうな横顔が、俺には理解できなくて、直視できない。何が、何で、そんなに嬉しいのだろうか。――……本当は、分かっているから、余計に、見ていられない。
「なんだか、すごく慣れてるね。お酒は、苦手なんだろう?」
「はい、飲むのは」
と、芦田ははきはきと答えた。若々しい元気のある喋り方が、俺は少しだけ羨ましく感じてしまう。俺は、小さい頃からずっと、『もっとはっきり喋りなさい』とか『もう少し覇気を出しなさい』とか、言われ続けてきたから。
「でも、大学とかでも飲み会って何度もあるじゃないですか。その中で飲まないようにしながら、うまく立ち回ろうと思ったら、お酌して回るしかなくって」
「なるほど。生き残るための、知恵ってやつか。すごいなぁ」
「いえ、そんなことは……」
「まぁ、苦手なことなんて、するもんじゃないからね。芦田は、飲むと、すぐ寝てしまうんだったか」
「はい、そうなんです」
「寝酒にはなりそうでいいね。俺は逆に、目が冴えちゃって、全然、眠れなくなるからなぁ」
「で、見ての通り、饒舌になる」
と、居酒屋の店主が口を挟んだ。彼は、俺の昔馴染みで、小中高とずっと同じ学校にいたやつだ。料理の腕を生かして、小さな居酒屋を始めたから、時折こうして入り浸らせてもらっている。今回は、会社の慰安旅行で、偶然俺の地元に来ることになったから、旅館を抜け出して飲みに来たのだった。
「顔色はまったく変わらないのにね。なかなかに厄介だから、頑張ってね、可愛い後輩くん」
「あ、はい……かわいい、こうはい……?」
「徹が前、ここに来た時――」
「一秋、余計なこと言うな」
この前のことを言われては困る。睨みつけると、店主の水瀬一秋は両手を上げて、まったく反省していないように肩を竦めた。
酒を口に含む。適度に温かい。強めのアルコールの中に、ひっそりと隠れる甘みを、舌の先で探り当てる。こういうのが俺は好きだ。ポールモールも、大多数を占める雑味の中に、一瞬だけ香る甘みがあるんだ。
頬に当たっていた、何か問いたげな目線から、
「――八尋さんて、お酒も好きだったんですね」
まったく関係のない言葉が流れ出た。
「会社の飲み会だと全然飲まれないから、僕、てっきり、あまりお好きじゃないのかと思ってました」
「……安い店の、まずい酒は、好きじゃないね。やたらと騒ぐのも。――こういうところで、ゆっくり飲むのが、一番良い」
「そうなんですね」
そう言って笑うのを、俺は、やっぱり直視できない。
酒が喉に沁みる。何重にも包み隠された、甘美な味を舌の上で転がす。
空になった盃に、追加の酒は、注がれない。――まるで、少しだけ休みたい、と思っていたのが、伝わっていたかのように。
「君は、他人のことをよく見ているね。感心するよ」
「そう、ですかね?」
「うん、気遣い上手だ」
「――僕、この間、同僚に“空気が読めてない”って怒られちゃいまして。あと、先輩の岸本さん、髪の毛切ったの、気付きました? 僕、全然分からなかったんですよね。何が変わったか分かるか、って聞かれて、答えられなくて、凄く呆れられました」
そう言う彼に、俺は首を傾げる。
「あれ? 君、いつだったか、俺が散髪してきた次の日、すぐにそのこと、言わなかったっけ?」
「言いましたよ。だからなんですよね、“八尋さんのはすぐに分かって、どうして私の方は分からないんだ”って、岸本さんが」
「……」
「どうしてって言われても、答えられないですよね」
きっと、彼の話には続きがあるのだろう。けれど彼はそれを言わず、図ったように――事実、図ったのだろうけれど――丁度よいタイミングで、徳利を取って、酒を注いだ。
俺はなみなみと注がれた盃を、半ばまで持ち上げて、
「――俺だけ、特別だから、って?」
困らせるつもりでわざとそう言った。
この前、ここに来たのは、四月の初めごろだ。祖母の葬儀のために、地元へ帰ってきて、ついでに寄ったのだった。
一秋とは、長く親友をやっているから、何かと相談のしやすい相手だった。その上、彼自信も、恋愛沙汰に関しては稀有な経験をしているから、こちらの話がどんなに突飛であろうと大丈夫だ、という自信があった。
何より、俺自身が、誰かに聞いてほしかった。
何のアドバイスもいらないから、ただ黙って、相槌を打ってくれる相手が欲しかった。
「――この間さぁ、」
「うん?」
「突然、後輩に告白されちゃって」
「へぇ、珍しい。お前もまだ寂びれてなかったんだな」
「それがさ――いくつ下なんだろう……じゅう、ご? かな? それくらい年下の子でさ」
「可愛いの?」
「うーん……まぁ……そこそこ」
「ふぅん、ならいいじゃんか。――それで、徹は一体、何をそんなに悩んでいるのかな」
皮肉っぽい切り口が友人の十八番で。
俺は素直に口を割る。
「……うーん……なんだろうね……久々すぎて、分からない、って言えばいいのかな」
「他人に好かれるのが?」
「うん」
「……ま、俺たち、もういい歳だもんな」
「そうなんだよねぇ……」
その一言に尽きた。
歳だから。
素直に単純に生きたり、感情に従って冒険したり、ストレートに甘い恋愛をしたり、なんてことは、少々厳しい。
それをするには、複雑な味が付きすぎた。
虚空に呟く。
「どうしたもんかなぁ……彼、いい奴だしなぁ……」
「そっか……――ん? 待って、お前今何て言った?」
「どうしたもんかなぁ、って」
「その次」
「彼はいい奴――」
「それだ。……“彼”? 彼女じゃなくて?」
「うん。――あれ、言わなかったっけ、俺?」
「言ってねぇよ、今初めて聞いたわ」
友人の穏やかな口調が崩れた。混乱したり興奮したりすると、彼はいつもこうなる。頭を抱えて「可愛い後輩って男かよ……」と呟き、それから、顔を上げて、
「っていうか、悩みどころはそこじゃないんだな……お前らしいっつーか、何て言うか」
呆れたようにそう言った。
俺は昔から、何かの“境”というものに疎くて。
小さい頃、轢かれた野良猫のために救急車を呼んでしまって、ひどく怒られたことがある。――同じ命だと思っていたのだ。
男女の区別も特に付けなかったから、友人は少なくなかった。――誰も、長続きはしなかったけれど。
恋人などはほとんど、居た例がない。――境界が甘すぎると、逆に警戒されるらしい。
だから――今、迷っている。
彼との間に、どんな境界線を引こうか、と。
「俺だけ、特別だから、って?」
澄まし顔を作って、酒を傾ける。アルコールの奥に、隠れた甘み。
肩が触れるほど狭いカウンター席だ。すぐ隣で、酔ったように顔を真っ赤にした芦田が、次の瞬間、頭を抱えてカウンターに突っ伏した。
そしてまた次の瞬間には、がばりと起き上がって、
「八尋さんって時々物凄く意地悪じゃありませんかっ?」
「そうかなぁ」
「そうです! ――まったく、もう……っ!」
「あっはっは、ごめんごめん」
――その、捨てられた子犬みたいな顔が見たくって、とは、口が裂けても言えない。
お猪口の中を空にして、そろそろ帰ろうかと思った俺は、立ち上がろうとして、
「……あぁもう、かっこいいなぁ……やっぱ、好きだなぁ、八尋さん……」
深く俯いた芦田が、音にならない声で呟いたのが、聞こえてしまった。
それで、不意に、立てなくなった。芦田はまるで焼酎のようだ、と、何の脈絡もなく思った。お湯割りにすると美味しくて、ずっと飲んでいたくなるけれど、飲み過ぎると悲惨なことになる、焼酎のような。
そして、割った時の美味しさに油断すると、こうなるのだ。
――ったく、この歳で焼酎のロックは、効きすぎる……。
「あれ、八尋さん? 大丈夫ですか、顔真っ赤ですけど」
誰の所為だ、と思いつつ、平静を装う。
「うーん、年甲斐もなく、飲みすぎちゃったかなぁ」
「お水とか、頼みますか?」
「いや、いいよ。大丈夫だから」
「そうですか」
ほっとしたように微笑む、芦田。
それから、皿の上に残っていた、小さな炊き込みご飯のおにぎりを、指でつまんで、心底美味しそうに頬張って。
米粒の付いた指先を、唇でしゃぶる。
「……吸いたいなぁ」
思わず呟いてしまった瞬間、店主に睨まれた。
「うちは全席禁煙だぞ」
「うん、知ってる」
平然と答えながら、カウンターに頬杖を突き、隣を見る。
芦田が、嬉しいような困ったような照れたような、そんな複雑な表情を浮かべていた。――そう、その顔が見たいんだよ、俺は。芦田は、頬を真っ赤に染めて。それから、頭を激しく横に振ったから、きっと、“深読みするな”とか“勘違いするな”とかって、自分に言い聞かせているのだろう。それから、平静を取り戻すためか、またおにぎりを口に運んで。美味しそうに頬を緩ませて。――その顔も好きなんだよ。だから、性懲りもなくラーメン屋に連れて行ってしまう。
やっぱり、やめられないな。
やめる気にはなれない。
傷付けるのも、つらい思いをさせるのも、嫌だけれど、それでも。
――焼酎のロックの、強すぎるアルコールの中から、甘みを探り当てるまでは。
おしまい