第三話
カクヨムにも掲載してます。
第3話 - SAKURA - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054884402421/episodes/1177354054884421506
それからも、平穏な日々が続いていった
私達は多くの本を読んで、沢山の物語を書いた。
誰にも見せることなく、誰にも干渉されることなく。屋上の楽園で、二人の時間を毎日少しずつ過ごしていた。それだけで全てが満たされていたし、それだけで十分と思えていた……少なくとも、私にとっては。
それから間もなくして、年が明けた。
年度が変わるまで数ヶ月。
――先輩が卒業するまで、あと僅かになっていた。
否が応でも、来年度以降のことを考えずにはいられない。私にとっても、人生の転換期とも言うべき時間が確実に迫っていた。
しかし私には本があったし、物語があった。そして何よりも、先輩が居た。だから私のこの先は、不安だらけであっても……きっと乗り越えていけると、そう信じていた。
でも、先輩は――そうではなかった。
……1月、2月になるにつれて、先輩の調子は少しずつ変わっていった。
以前よりも覇気がなくなったというべきか、私に対して多くの知識をくれる饒舌がめっきり少なくなったし、本を読む量も、速度も相当に減少していったように見えた。
――そしてなにより。
屋上に来なくなることが、増えた。
私は混乱した。困惑した。
何故――あれだけ強い先輩が、アレだけのものを読めて、書ける先輩が、そんなふうになるなんて。私は今までその様子を見たことがなかったし、どうするべきか分からなかった。
一瞬それは受験によるプレッシャーでもたらされたのかと思った。しかし先輩はいつの間にか大学に合格していたし、そうでないことは明白だった。では、何だろうか。
――それでないのなら、やはり先輩自身の内面に、何かの変化が起きたのだろうか。
私の頭の中は絶え間ない焦燥感で真っ白になって、それまでなんとか定まっていた足元も、まるでおぼつかないようになった気がした。色々なことを考えても、何も分からなかった。
……だから私は、先輩にそのまま尋ねてしまうことにした。
「――先輩」
その日の先輩にも元気がなかった。
大きな革張りの古い本の表紙だけを、延々と見つめている。それはチェコの作家による怪奇小説だった。古い街の路地裏に現れる、正体不明の怪物についての話。
私も一回だけ読んだことがある。何もかもが分からないまま終わる、後味の悪い話だった。
先輩の目は薄く開かれていて、その口も僅かに吐息している。明らかに、心がそこになかった。そして……顔色は、良くない。
「……先輩」
私は問いかける。
先輩には聞こえていないらしかった。
――もう一度、少し大きな声で問いかけた。
「先輩……どうしたんですか」
すると彼女は私を一瞬見て、また目を表紙に戻す。
小さな、殆ど聞こえない程の声で、返答が来た。
「――なんでもないわよ」
……私の心に、少しだけ棘が刺さった。
どこからどう見ても、そうは見えないからだ。
――先輩は、私と同じか、それ以上に嘘が下手なのだ。
「……そういう風には、見えませんけど。顔色も良くないし。今日、全然読めてないじゃないですか……」
「なんでもないって……言ってるじゃない」
4月は確実に近づいていた。
しかし、その春の来訪をぎりぎりで迎え撃って食い止めようとするかのように、気温はどこまでも寒く、私の指先はかじかんで、頬はどこまでも赤くなった。
冷たい空気が、私の思考を正常なものから引き離そうとしているように感じられた。しかし私は耐え忍んで、先輩に聞き続ける。
「本当にそうなんですか。……本当に」
「そうよ」
先輩は――私を見た。
……その瞳には、何も映っていなかった。まるで何も宿っていなかった。
真っ黒なだけの空間が、そこにある。
「大丈夫よ。私は――」
先輩は少しだけ口を曲げて、まるで自分の状況を皮肉るように、こわばった笑いを浮かべようとした。
……それを受けて、私はいよいよ我慢が出来なくなった。
「――……そんなわけ、」
私は拳を握って、叫ぶ。
「そんなわけないじゃないですか! 先輩、最近ずっとおかしいですよ! 読んでもないし、書いてもない……私にいろんなことを教えてくれなくなった。一体何があったのか、教えてくれたっていいじゃないですかッ!」
先輩もまた――言い返す。
「なんでもないって……言ってるじゃない! 放っておいてよ!」
その声が震えている。聞いたことがないほど、弱さに満ちた声。
「いい加減にしてくださいよっ! 私、先輩を追いかけてここまで来たんです! 先輩が居なきゃ、私は居ないも同然なんです。先輩の力になれないなら、私なんて意味ないんですッ、だから――」
「そうよ! あなたの力なんて、もう! 何にも――何にも、役に立たないのよッ!!」
先輩は叫んだ。私の心に、その言葉が突き刺さった。私は動けなくなった。
――沈黙が流れる。いつもより、ずっとずっと、寒かった。
「先、輩…………」
先輩は呆然とした顔だった。まるで、取り返しのつかないところまで来てしまったというように。
それから――歯を、かたかたと鳴らし始める。その額から頬にかけて、青ざめていく。身体が震え始める。私はショックで動けないままだった。目の前でその様子がハッキリと見えたのに、何もできなかった。
先輩はそこで身体を腕で押さえつけた。そのまま、膝から崩れ落ちる。
そして一言、ただ一言――口から取り零した。
「寒い…………春は、もう、こない」
――間もなく先輩はぷつりと意識を失って、その場に倒れ込んだ。
私がその後の行動に移ったのは、そこからたっぷり数十秒後のことだった。