第一話
カクヨムにも掲載してます。
第1話
SAKURA/緑茶 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054884402421
放課後の屋上が、私と先輩の部室だった。
コンクリートの隙間から僅かに雑草が生える床に、ハードカバーの本を何冊も積み上げて、空の比率が橙よりも藍色が多くなってくるまで、ただそれを読む時間を過ごす。時にその本は、私達自身が書いたものへと変貌する。
僅かな時間――換算すれば、本当に二時間ほどにすぎない時間。
しかし、その時間に全てがあった。
「ここから見える景色は、いずれ、満開の桜になりますね。先輩」
私が問うと、隣に居るその人は長い黒髪を風になびかせて、手に持っている色あせた詩集をそっと閉じた。それから、あの、眉根をひそめてちょっと怒ったような表情の笑い方をした。
その人の肌はどこまでも透き通るようで、プリズムみたいに色が変わりつつある空模様をそっくりうつしとっているようだった。
「ええ、そうね。その時は……世界を二人占めしましょう」
背中に陰を携えて笑う先輩。そこには、18年の年月以上のものがたっぷりと含まれているようで――なんだか、古い苔むした大木を思い起こさずにはいられない。
先輩は長く華奢な腕を耳に当てて、髪をかきあげた。それから、細い目で私の反応をそっと伺った。顔をこちらには向けていなくとも、その長い睫毛は私の中に随分と焼き付いていた。
それから、小さく言った。
「おいで」
……私は少しだけ身体を浮かせて、先輩の傍に寄った。それから、先輩の肩に頭をのせた。先輩は動かなかったが、制服の布地が擦れる音がして、同時に私のすぐ近くに僅かな冬の残り香と、柔らかな肌の感触があった。
今わたしたちはフェンスにもたれながら、二人で本の壁に囲まれている。
「今日はいつもより、沢山読めたような気がします」
「何を読んだの」
「まだ途中ですけど……『花のノートルダム』を、半分くらいまで読みました」
「あらあら。私の負けだ。私は今日、取るに足らない詩人の集成を少し読み進めただけよ」
そう言って先輩は、閉じていた本を私に見せてくれた。フランス語は読めない。私が眉根を寄せて表紙と睨み合い、唸り声を上げていると、先輩はからからとおかしそうに笑い、声を震わせながら、それはミルボーというフランスの詩人によるものだ、と教えてくれた。
私はなんだか悔しい気持ちになって、先輩の肩に何度もぽすぽす頭を寄せた。先輩は抵抗せず、その度に頭を撫でてくれた。すこしだけ、くすぐったかった。
……風が、強くなってきた。
まだ、春と言い切るには頼りない季節だった。
空を見ると、少しずつ藍色が侵略を始めているようだった。
――もう、帰る時間が近づいていた。
私はがっかりしてため息をついた。それから、先輩のほうを見て、言った。
「先輩」
「……ん?」
「ずっと、一緒に居られたらいいですね」
先輩は一瞬目を丸くしたように見えた。あまりにも飾り気のない言葉を言ってしまって、私は少しだけ自分を恥じた。
……でも先輩は。
そこで染み渡るような笑顔を浮かべて、ただ一言、言ってくれた。
「……そうね。――私も、そう思ってるわ」
その時先輩が浮かべていた笑顔は、あまりにも、あまりにもいつも通りだったから。
だからその日はそれ以上何も起こらず、私達二人は学校を後にすると、あっさりとそれぞれの家路についたのだった。
◇
体育館の中には、何もなかった。
卒業式までにはまだ数日あるから、パイプ椅子が並べられていることもない。波を描いた天井の下にはつるつるした板張りの床が広がって、その茶色は左右に大きく縁取られた窓から差し込む柔らかい夕方の光によって、まるで肌の色のようにきらめいている。
私達生徒は、その中を各々道具を携えて歩いて行く。がらんどうの空間に、上履きの擦れる耳障りな音がいくたびも重なって反響する。
「はい、じゃあ貼るよー。そこ動かないでね」
そうして作業が始まった。
責任の押し付け合いとたらい回しの末決まった卒業式の実行委員は今日、卒業式で入場する三年生をいかにして出迎えるのかについての重要な試行錯誤を行うことになっていた。
床の中央部分を断ち切るようにテープが引かれて、通路が作られる。それから、入口付近にアーチ状の門が作られる。作業は順調に、かしましく続いていく。
「そういえば岩谷先輩、就職するらしいよ」「ほんとに? 今の時代で?」「あはは、時代って何――」「ほらそこ、ちょっとずれてるってば」
私はやや離れたところで作業を手伝っていた。距離の分、喧騒も遠くに聞こえるようだった。
「よし、出来た」「すごいじゃん。ちょっと結婚式みたいだけど」「よーし、じゃあ適当に卒業生役決めちゃってー」
ワイワイと盛り上がる中で、自然と三年生役が決まる。紙で出来た大きなアーチをくぐると、その上から紙吹雪が舞う仕掛けになっていた。
「じゃあ音楽流してー。はい、スタート」
体育館に、感動を誘うような優美な音楽が流れ始める。そして、生徒の数名が扉の向こう側に引っ込む。
『卒業生、入場』
本番さながらに、アナウンスが流れる。
そして、扉がゆっくりと開かれる。
……休日が明ければ、そこから顔を出すのは、高校という巣を飛び出して、各々の未来へと進んでいく者達に違いない。その胸に抱いている感情は、いかなるものであれ、きっとどこか浮ついた調子が滲んでいるに違いない。
時間は進む。期待と不安に後押しされながら、誰もが皆旅立っていくのだ。その先に道があるということを、確かに信じながら。
「……っ」
人知れず、私は唇を噛んでいる。他の皆の動向から離れたところで、すべてを見ている。今、生徒が入ってくる。扉の上に張り出した渡り廊下で、桃色の紙吹雪を満載した生徒が待ち構えている。私の胸はこれ以上ないほどにざわついて、今すぐにでもここから逃げ出したいような気持ちになっていた。
ああ、しかし――それがかなうことはない。私はもう、未来から目を背けることが出来ない。
――あの時に考えていたこと。来月なんて来なければいい。時間なんて進まなければいい。永遠にあの夕方の時間のまま止まっていればいいのに。
そんな風に考えていた。だから、桜なんて降らなければいい。そう思っていた。
「紙吹雪いくよ、せーのっ!」「それっ!」
「――わっ、凄い!」
「大成功じゃん、綺麗綺麗」
「桜みたいだよ!」
「うわー、でもこれ回収するの大変だなぁ……ごめんみんな、手伝って!」
「――宮子も!」
「あ、うん……ごめんね」
「もー、ちゃんとやってよね」
でも――あの夕方が再び訪れることはない。私の思いとは裏腹に、藍色の時間はすぐにやってくる。
先輩が、卒業式に参加することはない。
数日前に、死んだからだ。