淡い期待
黄色:
自分に自信が持てず、意識改革が必要なとき。
自業自得…なんだろうけど。
私はパソコン脇からいつもするように遠い彼の姿を盗み見た。
藍色がかったストライプの入ったスーツは今日も一生懸命仕事に向かっている。
どうやって彼のこと避けてたっけ、私。
ぼんやりと物思いにふけながらふと考えた。
こんな風に覗き見ることもしていなかったし、帰るときに彼の姿を確認することもしていなかった。
仕事?
いやでもイベントの準備が大変で今も忙しいのは変わらないし。
私生活の充実?
いや私趣味といえる趣味は持ってないもんなぁ。
友達?
いや最近は特に遊びに行っていないし。
仕事中どころか今じゃ帰宅してからも速水さんのことを考えたりする。
こんな風に覗き見ることすら止めていたのに。
ともすると、告白されたてのころよりも速水さんのことを気にしているのかもしれない。
いやかもじゃなくて絶対そうだ。
だって。
グイっと私はパソコン横にノートを立てらかせた。
こうしていないと彼の姿をまたつい見てしまう。
+
自分が避けるのと、避けられるのとじゃ違いすぎるってこと…なのかな。
「避けられたって分かって傷つかないわけない。」
時間がたったってまだあの表情が思い浮かぶ。
意地の悪い表情じゃなくて、眉がさがって切なそうな――。
やっば!
私はガシャガシャとバックスペースと書かれた文字のところを連打した。
……せめて謝りたい。
避けてた理由は嫌いだとかそういうんじゃないよって。
もっと複雑なものだよって。
でもきっと、彼が私に一度も目を合わせてくれないというのはそういうことなんだろう。
消しそびれていた“わけない”という画面上に表示された4文字を4回キーボードをたたいて私は消した。
+
「お疲れ様でしたー。」
先に上がっていく先輩がたを見送り、私はふう~と息をついた。
寒いしコーヒー飲んじゃおうかな。
あと一息、あとひといき、自分で自分を励ますように給湯室へ向かった。
う~ん、頑張ってあと2杯分…ってところだな。
確認したコーヒーポットのメモリは半分よりも下。
作ろうか作らまいか非常に微妙なライン。
私は観念して、普段よりも少なめに自分が飲む分を取り分けた。
「はぁ。」
口元に当てたコップから白い湯気がもくもくと上がる。
おいしいなぁ。
どうしてこう、仕事の合間のコーヒーって格別なんだろう。
家で飲むコーヒーが一番下で、(家で飲むときは大抵朝、仕事行きたくないなって時に気合い注入として飲むことにしているから。)
おしゃれなカフェで飲むのがその次、
仕事にひと段落着いたときに飲む給湯室が一番上。
あ、一個重要なのを忘れてた。
あの缶コーヒーも同じくらい好きだ。
憧れの人からのお疲れさまコーヒーはたまらないじゃない?
だから給湯室のコーヒーと缶コーヒーとで同率一番ってことになる。
って何私順位づけしてんだろう。
最後の一口をずずっと飲み干した。
+
「来ないか…」
前ならこうやって油断していたらいつの間にかやってきていて、
からかい口調で私を弄んでいくから、
あわてて私は逃げていく。
少しだけ……後ろ髪をひかれながら、私は逃げていく。
ばか。だから私が悪いんだろって。
私こんないじけた奴だたっけなー、何だらだら文句垂らしてんだろう。
避けずにちゃんと思ってること吐けばよかった。
そしたらきっと今にその空いているドアからひょっこりきたんだろうな。
「市田、お疲れさま」って―――。
なんてね。
私は紙コップをゴミ箱にいれ、手を洗った。
「お疲れ。」
……え?
+
ばっと振り返った私は
黒のスーツがすぐに目に入って
「お、お疲れ様です。」
最初だけたじったけれどそのまま挨拶をした。
「まだコーヒー残ってるかな?
オー残ってる残ってる!」
ご機嫌な彼が私の横に立つ。
「長嶋さん今週残業ばかりですね。」
徒労感をねぎらいながら私は言葉を口にする。
「うんー、早く帰りたいけど…。」
こぽこぽっと長嶋さんは、遠慮なしにコップいっぱい注ぎ切ってしまったようだ。
…速水さんならなんとなく少し残してそう。
意地の悪い印象ばかりの彼なのに、変なことでそう思った。
+
「もうあがり?」
「あとちょっと残ってます。」
「9時来るしあがりな?帰り寒いぞ。
どうせ、あれだろ?」
長嶋さんは私の今抱えている仕事のことを話し始めた。
「あれは下の奴らに任せたらいんだからそんな気つかわんでも。」
「はい…、すみません。」
イベントの準備は特に私が手伝う義務はないのだが、
自分が企画に携わっておきながら何もしないのはどうしてもいやで、少々自分の仕事をおろそかにしがちだった。
「自分のができてなかったら結局だめですよね……ハハ。」
苦笑いしながら残っている大量の雑務を思い出す。
「まぁそういうのがお前のいいところだけどな。
真面目で実直で、何もかんも背負い込む。」
ポンと長嶋さんは私の頭に手を置いた。
「もう少し俺とか他の人にだって頼っていんだからな。」
「…はい。」
長嶋さんって理想の上司だ。
こんな人徳のある人いないよ。
私の頭から離れていく長嶋さんの手。
傷口に薬を塗ってジーンとするみたいに、彼のぬくもりの残像がしばらく残っていた。
+
「あ、いたいた!」
次の日、外でのある仕事を終えデスクに戻った私に珍しい人が声をかけてきた。
「市田さーん、待ってたんですよ!」
声の主は私と目が合うや否や、散歩に行けると喜ぶ子犬のような愛い表情を私に向ける。
彼のお尻には、機嫌よさげに左右に揺らす尾が生えているようだ。
「俺、朝から探したんですよ。」
すると今度はしょぼーんと細い眉がさがる。
さっきまでご機嫌だった尻尾がだらーんと落ち込んだみたい。
「ごめんごめん!午前は外での仕事だったの。
それにしてもどうしたの?
内川くんが私に声かけてくるなんてすごい珍しいけど。」
「いやー、そんな大したことじゃないんですけど…。」
ちらりと彼は一瞬目線をどこかに外して私にまた合わせた。
「明日また飲みたいなって。」
「…あ、そういうこと!」
とんと検討がついていなかった私だったが、その一言ですべてを理解した。
「長嶋さんに掛け合ってくれないかってことでしょ?」
微笑む私に、
彼はなにかんでこくんと小さくうなずく。
「1度飲ませていただいたとはいえ、声をかけて飲み行きましょう!
なんて隣の部署の俺がなれなれしいかなって…。」
私経由じゃなくても全然大丈夫なのにな、
本人に素直にそう伝えれば絶対長嶋さん喜ぶだろうに。
内川くんって律儀だな…。
「長嶋さんにあとで聞いてみるね、明日の仕事終わりだね。」
「お願いします!
結果は俺のLINEに連絡してきてください、俺これから外に出るんで!」
「うん、分かった。」
連絡持ってたかな、そう一瞬脳裏に浮かんでしまうぐらい使っていない彼の連絡先。
確か実際に使ったのは数回だったはず。
随分前に同期のみんなとごはんに行ったときに交わした、内川くんの連絡先がこうして生きてくるとは…。
そのままちらりと私は今デスクの上に置いた携帯を一瞥した。
飲み会か――――その言葉から派生したあること。
パソコンの画面の左側にアングルを集中させながら、
「内川くん…。」
気にかかったそのことを私は口に出した。
+
「はい。」
「速水さんはちなみにいる…の?」
どくんと心臓が鼓動する音が聞こえた。
「勿論ですよ。」
過敏になった私を無視して、呆気なく内川くんから答えが飛んでくる。
「そっか…。」
いるんだ。
「3人飲みかぁ、あと1人誘えばいいのに。」
私はその場を繕うように笑いながらそんなことを言った。
「あれ市田さん、仕事切羽詰まってる感じですか?」
「いやまだ余裕はあるけど。」
内川くんに視線を戻す。
「びっくりした、3人で飲むとか言い出すから。
市田さんも参加ですよ、もちろん。」
「え?ちょっと…」
私がまだ喋っている途中だというのに、
「今、余裕あるって言ったんで断りはなしですからね。
断っていいのは長嶋さんだけです。」
と言って私の言葉を掻き消す。
「場所はこの間と同じところでいいかな~。
時間はもちろん長嶋さんの都合に合わせますので。」
「あ、うん。」
ってまた長嶋さんかい。
「ま、ここで決めても長嶋さんの都合が悪かったら元も子もないので、
それも連絡で決めましょう。」
「了解です。」
「じゃぁ俺もう行かないとなんで。
LINE待ってますねー!」
それだけ言うと、今度は私の「じゃぁ。」の字も聞かず疾風のように去っていった。
……内川くんは律儀だって言ったけどやっぱり撤回。
律儀な範疇は長嶋さんだけらしい。
しかし、怒涛のようだったな。
苦笑いを浮かべながら、
鞄から取り出したスケジュール帳の3と書かれた日付のところに「食事」と簡単に書く。
……飲み会か。
この間は自分からは逃げれなかった。
でも今度は違う、今ならまだ断れる。
連絡しておけばいいんだもん、私は用事があるって。
…だけど、話さなきゃ。
あの人に。
全部。
パソコン横に立てらかしてるノートの正体の気持ちを。
私は席を立った。
長嶋さんの仕事が切羽詰まっていませんように、そう思いながら。