白い息の衝突
「あー食べた、食べた!」
速水さんよりも人二人分ほど前を歩く内川くんは夜空に伸びをした。
「内川、車に気をつけろよ。」
騒がしいお店街を抜けたとはいえ人通りの少ない住宅街も車がたまに通る。
足元も舗装されたアスファルトとはいえ所々に砂利が転がっており、ちらちら建つ街灯だけでは心もとない。
運の悪いことに、星と月も雲の中へすっぽりと収められていた。
その人は酔っぱらっている内川くんを警戒しているみたいだった。
以前飲んだ時に何かしでかされたのかな、そんな想像が頭の中をよぎった。
「市田も遅れてない?」
「大丈夫です。」
その人の広い背中を背景としてはぁと白い息が空中に出る。
マフラーしてくればよかった、いつもより遅くなったこともあってかすこぶる寒く感じた。
「長嶋さんはもう着いちゃいましたかね?」
内川くんが歩くペースを落とし速水さんの横に並んだ。
「タクシー乗せたし、長嶋の家までならすぐだろうからもう帰ってるだろうな。」
「なかなか手こずりましたね。」
内川くんが苦笑しているのは長嶋さんが歩いて帰ると聞かなかったことを思い出してのことだろう。
たくさん飲んだ長嶋さんを気遣って、彼らはタクシーで帰るよう無理やりお店前で諭していた。
「内川くんと飲むのが相当楽しかったのかな。」
笑いながら私は長嶋さんの上機嫌な様子を思い浮かべる。
「そうだったら嬉しいなぁ。
またお誘いしたら僕とも飲んでくれますかね。」
「絶対ノリノリだよ、長嶋さん優しいから。」
私の返事に内川くんは安心した様で、また一人だけ先へ先へと歩いていく。
遠くで聞こえた電車の警笛音が夜道の趣にぴったりだと思った。
「内川、心配だからあんま離れんな。」
そう再度催促したにも関わらず
「速水先輩ももちろんまた飲み行きましょうねー!」
と陽気に絡む内川くん。
「分かったから。」
酔った内川くんにはさすがの速水さんもお手上げみたい。
もしかすると速水さんの弱点は内川くん…?
なんて彼に弱点が存在するわけないか。
+
10分ほど歩いた。
たち並ぶ住宅の窓から洩れる光が消えるところも出てきた時刻、
あと少しで内川くんともさよならする別れ道にたどり着く。
その人はどっちの道行くんだろう…。
右?左?
内川くんも速水さんも二人で話しているけどそれらしい会話が出てこない。
私が一番知りたい情報だったりするのに。
「市田さーん。」
「うん?」
内川くんの言葉に俯いていた頭をあげる。
「僕だけちょっとそこの外れにあるコンビニに行くんですけど用事ありますか?」
「えっと…」
私は隣に立っているその人をちらりと見た。
2人っきりは気まずい気もするけど、
でもああいわれた手前露骨に避けるのは…。
「私はいいかな。」
「じゃぁ僕だけちょっと行ってきますね。」
タッタッタ――、
きれいなリズムで彼は駆けていく。
「足はや。」
ぽつりと速水さんはつぶやいた。
「ですね。」
私も答える。
「コンビニ行くと思った。」
「……そこまで避けないですよ。」
むくれっ面の返事。
「そこまでってことは避けてたんだ。」
「ち、ちが!」
「はいはい。」
それから私が避けていた理由も聞かずに彼は黙った。
はぁ。吐きだした息が二つ白く漂う。
私のと、速水さんのと。
4つ角の一角、塀の前で二人で立って人が一人はいるか入らないかの距離。
「疲れてない?」
「大丈夫です。」
「そっか。」
「寒いね。」
「寒いですね。」
短い会話。
静かな空気感が変な気まずさを追い立ててきていた。
「内川くんは何買いに行ったんですか?」
「明日の朝飯とか振り込みとかもろもろ。
いっとくけど内川の買い物すごい遅いから、ってこれ内川と飲んだときもしかして体験した?」
「いえ、その時彼買い物しなかったので。
でも、内川くんは確かに遅そうです。」
くすっと私は笑った。
「あーさみい。」
速水さんは息を吐いて口元へもっていった丸めた手を温める。
「速水さんは寒いの苦手そうですね、細みですから。」
「細いって言うな。」
「いた。」
間髪いれずにコツンと頭に中指の頭突きが落ちてきた。
なんだよ、もう。
私は彼を見上げる。
私よりも30センチほど高い背。
横顔も整っていて、右目じりの泣きボクロも白い肌も
醸し出す大人の雰囲気も変わらない―――――が頬と耳は赤色ですっかり染まっている。
速水さんの嘘つき。
やっぱり、寒いの苦手なんじゃん。
+
「なに?」
「なんでもないです。」
見降ろしてきた速水さんに私はぷいと顔を元に戻した。
変わらず私たちの口から吐く息はもわっと空中に白く広がる。
「心配して損した」それに似た感情をついさっき抱いたはずなのに。
速水さんの身を縮こめて立ってる姿を見てると
手を突っ込んでいるコートのポケットにカイロがあったら、なんて考えてしまっていた。
「……帰ったらちゃんと温まってくださいね。」
とりあえず今はこう言うことしかできない。
何なとなく照れくさくて速水さんの方を見ずに今度は言った。
彼は少し間をあけて口を開く。
「あほ。」
こっちは心配して…!
むすっとした顔で不満そうに彼を見上げると
「市田の方が赤鼻なくせに。」
ツン、と速水さんが私の鼻先をつついた。
「な!」
完全にふいをつかれた私は反射的に鼻を手で覆い隠す。
じろりと速水さんは私をみおろしたまま。
「変な気遣い見せるからだよ。」
面白くなさそうにそう言うと私がいる方とは真逆のほうに視線を向けた。
別に体の心配するとか普通のことなのに、変って。
やっぱり心配するんじゃなかった。
そしたら触れられた鼻がこんなじんとすることもなかったのに。
+
怒る…とまではいかないけれど、
まだ速水さんは不機嫌そうにそっぽを向いているので私は無難に長嶋さんの話題を出すことにした。
「長嶋さんはちゃんと帰れましたかね。」
「……大丈夫だよ。
今頃一人ぬくぬくこたつにでも入ってるんじゃないかな。」
穏やかな口調に、話題に気を遣うことでもなかったのかと安堵する。
また一つ向かいの家の2階の電気が消えるのを傍観しながら
「いいなぁ長嶋さん。」
とぽつりとつぶやいた。
「長嶋と飲んだときどんな話するの?」
「うーん、仕事の話とか長嶋さんの趣味の話とか。
専ら聞き役ですよ。」
「俺も内川のとき聞き役。」
「そうでしょうとも。」
私と速水さんの小さな笑い声が場を占める。
「長嶋と飲むのがメイン?」
「そうですね、他の人とはあんまり。」
そう言って少しだけ惨めだと思った。
社内で人気な速水さんは飲みに誘われるなんてしょっちゅうなはずだ、
内心私のことを寂しいヤツ、そう思ったかもしれない。
「孤独な奴だな」とからかわれるのも最悪覚悟していた。
+
「俺とは?」
へ?と言ってしまいそうになった言葉を飲み込んだ。
「またそのからかいですか、しつこいですよ。」
笑いながら私は視線を地面に移動させる、速水さんの方はさっきからまだ見ていない。
「大体速水さんなら他に飲む人いっぱいいらっしゃるでしょう?」
「例えば?」
「木野さん。」
その名前が浮かんだけれど、言うのをやめた。
やけに“リアル”だと思ったから。
「内川くん言ってたじゃないですか、社内で人気だって。」
「だから?」
「だから他の部署の方とか…。」
「あぁー。」
彼はそういえば、と思い出したように言った。
「え、でも市田とは飲んでないんだけど。」
「もうしつこい!」
カッとなって声をあげた私とは対照的に、ハハハと彼は笑い声をあげる。
肝心なところでお得意の悪態を披露しないくせに、
どうでもいいところで私をおちょくる―――それが彼の根性らしい。
+
「本当速水さんってからかってばかりですね…。」
軽いというか緩いというか、どちらかというと遥の性格に近いのかもしれない。
「市田にだけね。」
「またからかい…。」
道端の小石を蹴った。
「よくわかんないなぁ。」
彼は笑うのをやめたようだった。
「からかってきたかと思えば変なところで優しい、
かと思えばまた振り回す……。」
「あとは何?」
じっと私を見る彼の瞳にひるんでしまう。
それでも私は小さく口を開いた。
10パーセントが勝ってしまったのかもしれない。
「……気もたせるようなことだって言ってくる。」
閑寂―――私たちの間に冷たい空気だけが通り過ぎる。
「俺のからかいが何か分からない?」
彼は足元にあった小石をけった。
「……分からないです。
いつも速水さんは今みたいに質問してくるばっかりで全然答えてくれないから。」
あの告白も、給湯室も、会議室でのことも。
全部、ぜんぶ私をかき乱すばかりで。
+
「でも市田は、もう答え聞くつもりなかったんじゃないの?」
私は黙った。
「あの時、俺がまだコーヒー残してたことを知っておきながら
“変な人”って言って逃げて。」
「それは……」
「市田はさっきの居酒屋でもシャットアウトした。」
「そんなの、」
言えない。
ただの意地張りだなんて、とてもじゃないけれど。
「そんなの―――。」
冬の寒さのせいじゃない。
悲しみか怒りか焦りか嫉妬か、
どれにも当てはまらないなんとも言えない感情が湧き上がって、それらが私の声を震えさせていた。
何も言わない私に
「ここで黙るのはずるいな。」
彼が小さく吐露。
速水さんは大き目な石を蹴とばした。
「…俺、
避けられてたって分かって傷つかないわけないんだけど。」
「あっ。」
言葉にならなかった声をだして、見上げた彼は
いたそうな表情を一瞬―――――
そしてすぐに笑って
「でもそれ以前に長嶋なら上手くやるんだろうな。」
小さく笑った。
「なんで、長嶋さん…。」
呟いた私に彼は私の頭に手を置く。
「お前に嘘ついたことは一度もないよ。」
ぼそっと優しい声。
何か言おうとした私に
「……って言ったところで信じないくせに。」
速水さんは悪戯な表情を浮かべ私の頭を小突いた。
+
そのまま彼は私に背を向けると、何も言わないままコンビニにつながる道へ歩き出した。
私は追わなかった、いや追えなかった。
彼の姿が見えなくなって数分後、パタパタという音と共に内川くんが目の前に現れた。
「すみません、遅くなっちゃって。
いやープリンかケーキかえっと迷っちゃって。」
彼は手に持っているコンビニ袋を晒しながらぶつぶつとひとりでに話を繰り広げる。
「あ、速水さんはもう帰るらしいので。」
「……え?」
「あぁ、市田さんは知らないのか。
速水さん僕がいると心配だからって決まってここまでついてくるんです。
自分は飲んだ日、電車で帰るくせに。」
電車って、駅はもうだいぶ前に――――
「優しい人ですよね、僕もああいう人になろうかな。
そしたらもてちゃったりして。」
内川くんは無邪気に笑う。
「……。」
「市田さん?」
「本当、」
速水さんらしい。
+
バスから降り、私はパタパタと会社まで駆ける。
頬にあたる風が冷たい。
いよいよ冬大本命前といったところか、今日は今月一番の寒さらしい。
会社の人との朝の挨拶に度々「寒いですね」と漏らしてしまった。
長嶋さんから今日も新たなお仕事を任され、私は書きごとをしたりパソコンにむかったりてんやわんや。
あっという間に午前は終わった。
カバンから取り出すお昼。
あぁ、忘れてた。
席を立ってコーヒーを汲みに行く。
また席に座る。
卵がおいしそうだけれど先にハムとレタスのサンドを食べる。
…おいしい。
――――でも、何もない。
その背中を盗み見るのが当たり前になって、もう1か月半は過ぎようとしていた。
「足はや。」
ぽつりと速水さんはつぶやいた。
「ですね。」
私も答える。
「コンビニ行くと思った。」
「……そこまで避けないですよ。」
むくれっ面の返事。
「そこまでってことは避けてたんだ。」
「ち、ちが!」
「はいはい。」
それから私が避けていた理由も聞かずに彼は黙った。
はぁ。吐きだした息が二つ白く漂う。
私のと、速水さんのと。
4つ角の一角、塀の前で二人で立って人が一人はいるか入らないかの距離。
「疲れてない?」
「大丈夫です。」
「そっか。」
「寒いね。」
「寒いですね。」
短い会話。
静かな空気感が変な気まずさを追い立ててきていた。