ビターな香り
週末がすぎてまた新たな一週間が始まった中、
私は来週行われるイベントの準備でバタバタしていた。
それは私も一部企画に携わらせていただいたもので、
イベントで流す映像作りに関係させていただいたり、しなければいけないことも幅広い。
下の階でメインに行われているため、私は朝から階段を何度も往復する始末。
ようやく普段通りの仕事に戻れる頃には、とっくにお昼をすぎていた。
明日は実際に現場に行く予定だし、今日以上に忙しんだろうなあ。
まぁ忙しいのはいいことなんだけど。
そんな風に感慨にふけながら、持参したサンドイッチを口にいれる。
到底“あの”サンドイッチには適わないけれど、それでもおいしい。
甘い卵の味が口に広がって、
だんだんと口の中がぱさぱさしてくる。
コーヒーでも飲みに…。
そう思ったとたん、私はハッとして頭をふるふると振った。
だめだめ、給湯室行ったら鉢合わせしちゃうかもじゃん!
私には絶対手に負えないもの!
あぁもう余裕ができるからこんな邪念ばっかりになっちゃうんだ、
もっと働かなくっちゃ!
最後の一個であるサンドイッチをむしゃりと頬張った。
+
「市田、ちょっといいかな?」
「はーい!」
仕事だ、仕事だ!
パソコンを打つ手を止めた私は長嶋さんのもとへと急いだ。
「この間直してくれた奴よくなってたよ、この調子。」
にこっと微笑む彼。
「ありがとうございます!」
さっきまでのもやもやが消え、嬉しい気持ちでいっぱいになる。
「えっとそれで、今忙しそうにしてるとこ申し訳ないんだけど、」
「全然かまわないです!」
「……あ、そう?それは助かるけど。」
一瞬きょとんとした顔の後、長嶋さんは言葉をつづけた。
「俺たちの部署じゃなくて、隣の部署の仕事なんだけど。」
「隣の部署?」
「今度××会社に営業に行くらしくて、
来週のイベントの企画もその時詳しく紹介しようとしてるんだって。
それで市田も一部企画して今携わってるし、話一応聞きたいって。
忙しいし断ろうと思ったんだけど、力入れてるらしいから特別にってことで市田に聞いてみたんだけど。
でも、余裕あるみたいだからよかった。」
目じりを柔らかく下げた長嶋さん。
一方の私は、表情が一気に青くなる。
「えっと…それでどなたに……。」
「速水。」
近づく足音。
カーペットがもふもふ音を立てる。
至近距離でその人を見るのは久しぶりだ。
「長嶋、話し通してくれた?」
よく通る彼の声が私の耳に突き刺さった。
ガチャという音をたて、一番小さな会議室に私たちは入った。
一つ大きな白いテーブルが中央に置かれており、8つの椅子がその周りを取り囲んでいる。
「ここでいいかな?」
「はい。」
先に入った速水さんはメモ帳とペンをテーブルの上に置くと、
「飲み物でも持ってこようか、コーヒーでいい?」
そう言ってうなずいた私を見届け、
「座ってて。」
一人で出て行った。
残された私。何の音もしない部屋。
テーブルの上の黒いメモ帳とペンが私を見つめてくる。
うーだめだ、何か意識してしまう。
緊張もすごいし。当の速水さんは普通なのに……。
あーもう!
これは仕事、これは仕事。割り切れ、私!
頬をパチンと私は叩いた。
+
コンコン。
数回のノック音。
1回深呼吸して気持ちを整えた私は、彼が開けるよりも早く扉に手をかけた。
「ありがと、お待たせ。
座ってて貰ってよかったのに。」
「飲み物、用意していただいているので。」
速水さんは紙コップをテーブルに置くと適当に席に座った。
私は彼から席を二つほど開け、ななめに向かい合うような形をとる。
「そんな時間くわないから安心して。
長嶋からもよくよく言われてるから。」
苦笑しながらそう言う速水さん。
私が短く返事すると彼はメモ帳を開いた。
質問の前に何か小言の一つや二つ言われるのかと思っていた私は
彼の行為に拍子抜けしてしまう。
彼はいたく真剣な表情ですぐに本題の仕事に入った。
企画の内容、自信を持っている点などなど
あらかじめ考えていたと思われるものを彼は次々に聞いてくる。
減らないコーヒー、どんどん彼のも私のも冷めていく。
すごい適当な人かと思ってたのに。
速水さんってこういう一面もあるんだ。
+
「ありがと、じゃぁちょっと書き留めさせて。」
「はい、どうぞどうぞ。」
彼の手がせわしなく紙の上で踊り始める。
静かな速水さんって新鮮。
いつもなんかからかってくるし。
彼の手は左から右、下へと動きまた左から右へ変わらず動いている。
いっぱい、書いてるなあ…。
長嶋さんよりごつくはないけど、
骨ばってて私より色が濃くて、男の人の手…なんだ。
あんまり顔見ないようにしてたから分かんなかったけど、
こうやってじっと見ると、
鼻筋がすうっと通ってて目に若干かかる髪の感じとか、
艶やかな肌の中に浮かぶ目じりのほくろとか
この人、
本当色っぽい……。
それに、大人の人―――なんだ。
+
「ん、ありがと。これで何とかなりそうだわ。」
ほっとした表情の速水さん。
見ていたことがバレてしまわないように、私は咄嗟に視線をコップに移動させた。
「力になれたみたいでよかったです。」
私は軽く微笑む。
彼はメモ帳をパタンと閉じるとペンと一緒に、スーツのポケットにしまった。
「もうコーヒー冷めちゃったかな。」
右手でそっとコップに触れる彼。
私はそれを黙って見守る。
「……。」
「……。」
「じゃぁ戻ろうか。」
てっきりそう言われると思っていたのに
そう言うでもなく、
口を開くでもなく、黙ったまま。
私が喋るタイミングなのかな、戻りましょうかっていうべき?
分かんないけど、でもとにかく沈黙は耐えらんない…!
頭の中でクエスチョンマークがいっぱいになっていた時だった。
「お昼取った?」
速水さんは視線をコーヒーから私へと移した。
上目遣い、彼の目が私をとらえている。
「…さっき取ってました。」
仕事しながら取っていたということは何となく言わないことにした。
「そうなんだ。」
彼の口元が少し緩まる。
「速水さんは?」
「これから。
仕事ひと段落しないと取らないタチで。
まあでも今はお腹減ってないんだけどね、始まる前はすいてたけど。」
「いざ食べ始めたらきっとまたお腹減り始めますよ。」
笑った私に、速水さんはくしゃっと笑い返した。
「……。」
「……。」
話が途切れた。
何を話そうか、そうあわてている私とは裏腹に
速水さんはぼーっとマイペースに壁の一点を見つめている。
速水さんなんで戻ろうって言わないんだろ。
何考えてるんだろう。
そもそも今の私たちの感じって何…?
+
「速水さん。」
「何?」
彼が私を見つめる。
「きゅ、給湯室での…ことなんですけど…。」
デクレシェンドのようにだんだんと小さくなっていった言葉。
い、言っちゃった……!
うつむいてぎゅっと目を閉じる。
頭の中を彼がいいそうな言葉たちが駆け巡っていた。
それでも
「ん?」
そう彼が口に出すなんてこれっぽっちも思っていなかったけれど。
見上げた先の速水さんは、
首をかしげて、何のこと?とでも言いたげな表情。
…え?
私は思わず聞き返してしまいそうだった。
「あ、何でもないです!」
笑って誤魔化すようにコーヒーを私は手に取る。
ばか。
別に、ちょっと聞いてみただけ…じゃん。
ゆがむコーヒーの水面。
私が飲んだからなのか、私の表情が歪んでるからなのか。
消し去るかのように私はそれを飲み干す。
「冷た。」
速水さんは手に持ったコーヒーを凝視した。
「まだ飲んでなかったんですね。」
「……なんでだと思う?
俺がコーヒー飲んでなかった理由。」
彼がもう一口飲む。
「……いえ。」
私の胸がドクンとなる―――。
「市田がもうちょっとこの場にいたいなあって思ってるときどうする?」
「それは……」
行動を遅くするとか、話しのばす…とか。
……あ、そ、そういうこと、
速水さんがコーヒー飲んでなかった理由。
「……顔、火照ってるけど大丈夫?」
くすっと笑った、意地悪な彼の表情。
「い、今の冗談なんですか、もしかして。」
「さあどうでしょう。」
またしても口の端を緩めている彼。
あ、もうこの人本当意地が悪い。
人が質問したことには答えてくんないくせに。
優しい人だなんてうわさした人、誰ですか。
「速水さんって意地悪いんですね。
優しい人だって聞いてたのに。」
「…俺のこと知ろうとしたんだ?」
机に頬杖をつく彼。
「ほらそういうとこですよ。」
「ごめんね。」
そういいながらもその表情はちっとも悪気がなさそう。
「仕事中のすごい視線も俺を知ろうとしてのことだったのかな?」
悪戯な笑みで彼は私をからかった。
「見てないですよ。」
コップを手に取る。もう中身は入ってないのに。
「…なんで空なのに飲んでるの?」
「っ。
も、もううざいですよ!」
私は口を尖らせた。
「ごめん、ごめん。」
子供のように無邪気に笑う彼は、
とても私より6歳年上の29歳の大人には思えない。
+
長嶋さんと同い年だってのに全然違うなあ。
長嶋さんのほうが大人っていうか、落ち着いてるっていうか…。
「どうした?」
「いえ、長嶋さんと同じ年に見えないなぁって。」
「…そう?」
速水さんの眉が一瞬ぴくっと動く。
「長嶋のほうが魅力的?」
「魅力的って―――…
そうじゃないですけど、やっぱり長嶋さんのほうが…」
落ち着いているっていうか安心感があるっていうか。
やっぱりどんなに会話が盛り上がっても、
速水さんは遠い世界の人のようなそんな気がする。
それは年齢のせいなのか彼の人気のせいなのか、
何の違いなのか分からないけれど。
「…速水さんは変な人ですね。」
「え?
それってどういう……」
コンコン
会議室のドアがノックされた。
「失礼します。
速水さんちょっといいですか?」
木野さんが顔をひょこりと小さくのぞかせた。
「あ…うん。」
速水さんがコップをそのままにしてその場に立ち上がる。
その彼のコップを持つと私は自分のも持ってドアに向かった。
「もう終わったのでここどうぞ。」
「いや、市田ちょっと。」
「長嶋さんに頼まれた仕事思い出したので。
コーヒー片しときますね。」
木野さんに会釈すると私は速水さんを見ずに会議室を出た。
給湯室で片づけた二つのコップ。
彼のコップにはまだコーヒーが半分以上残っていた。




