鈍色の海
油に侵された真っ黒な海にはもう誰も足さえつけようとしない。
波の音はとぷんとぷんと重た気で、その悪臭のためか寄り付く生き物はいなかった。
コーシは三日間徹夜で仕上げたプログラムを破棄するために、このごみ溜めのような海にわざわざ出向いていた。
目ぼしい海岸に降り立つと、油のせいで浜辺なのかゴミの山なのか分からない場所に出る。
彼は躊躇いなくそこに小さなチップを捨てると、しばらく無言でそれを見下ろした。
痛烈な舌打ちをもらすと、ジャケットのポケットから煙草を取り出し乱暴に火をつける。
ぼやける意識のまま海を眺めていると、ふと波音に混じって何か聞こえることに気がついた。
「…いぬ?」
どうやら聞こえるのは犬の鳴き声だ。
おかしいのはそれが海の方から聞こえてくることだ。
朝日を浴びてうっすら光る鈍色の海に目を凝らすと、数十メートル先にゴミに捕まりながらも沖に流されて行く犬を見つけた。
コーシはのんびり煙草をふかしながらその犬を眺めていた。
ここでは愚か者は生き延びていけない。自分の身を自分で守れなかったのならば、命尽きることがあっても仕方がないのだ。
無駄に煙い煙草が半分程になった。
無造作にそれも海に捨てて去ろうとしたとき、海から犬とは別の声が聞こえた。
「こっちよ!大丈夫!まだ間に合うから!」
思わぬ声に振り返ると、コーシはとんでもないものを目撃してしまった。
なんと目の前の黒い海に先程の声の主と思われる少女が飛び込んでいたのだ。
ここの油の海は重い。
少女が懸命に沖に進もうとしてもなかなか先に行けない。
目指しているのはどうやらあの犬のようだ。
「おいっ!バカかお前!!行くな!!」
コーシは咄嗟に声に出していた。
少女はすでに頭の上まで真っ黒に汚れたまま振り返った。
人がいるとは思っていなかったのだろう。
その目は驚きに見開いていたが、すぐに笑顔を作ると明るい声で返事をした。
「大丈夫!まだあそこまでなら私でも足届くから!」
コーシは正気を疑った。
地上を覆い尽くしている汚染物質に頭をやられてるんじゃないかと、割と本気で思ったくらいだ。
そうこうしてる間にも少女はなんとか油をかき分け、ついには流されていた犬までたどり着いた。
きゃんきゃんと鳴く油の塊をしっかり両手で抱きしめると、元来た海を戻り始める。
だがただでさえ身動きのしにくい海なのに、両手が塞がっていて思うように動けるわけがない。
少女は何度も油の中に沈んでは起き上がり、浜に向かってよろよろと歩き続けた。
「その犬を捨てろ!!」
見かねたコーシが再三通告したが、少女は決して手にした命を離そうとはしなかった。
やっと浜辺に近付いたとき、その姿がまた海の中に消えた。
しかも今度は中々起き上がってこない。
「うそだろっ…」
コーシは考えるより先に体が動いていた。
どぷどぷと波をかき分けさっきまで少女が見えていた場所まで走る。
幸い犬がまだもがいていたので居場所はすぐに分かった。
犬ごと横抱きに抱え上げるが、彼女の意識は完全にない。
「おいっ!おいっ!」
乱暴に揺さぶるが、だらりと黒い液体が滑り落ちる以外反応がない。
この海水は口に入るだけでも下手すれば即死だ。
コーシは無我夢中で少女と一匹を抱えて海から躍り出た。
このままシェルターの入り口をくぐるわけにはいかない。油を洗い落とす方が先だ。
「なんっで俺がこんなこと!!」
罵詈雑言を吐き散らしながら、コーシは地下水がかろうじて生きている廃ビルの地下に滑り込んで行った。