屋上の天使
「私ね、天使になるの」
中二の夏。そう言って彼女はビルの屋上から飛んだ。
止める間もなかった。ほんの一瞬の出来事だった。
彼女は天使どころか、見るも無残な肉塊へと、姿を変えてしまった。
――そして、あれから三ヶ月が経った。
深夜。とある廃墟。
俺の目の前には死んだはずの彼女が立っていた。
背中に大きな羽を生やして。
「ね、だから言ったでしょ? 私、天使になるって」
「……そうだな」
「……全然驚かないんだね。つまんない!」
「いや、驚いてるって」
「あ、そうなの? 良かった~。天使になったかいがあったよぉ」
彼女はその長い髪の毛を指でクルクルと捻りながら、安心したような笑顔を作る。
こんな表情を見せてくれたのはいつぶりだろうか。
「あのね、私、今日が初仕事なの」
「……仕事?」
「うん!……カズちゃんは天使の仕事って何だか知ってる?」
「神様の補佐的な、なにかだろ?」
「他には?」
「あー……死んだ人の魂を、あの世に連れてく、とかか?」
思いついたまま、テキトーに答えてみる。
「ピンポーン! 大正解!」
彼女は、何故か嬉しそうに話し続ける。背中の羽根がまるで犬の尻尾のように左右に振れている。
「つまりね、私の記念すべき一人目のお客様は、カズちゃんってこと!」
「……なるほど」
「あ、でも安心して! カズちゃんは天国行きが決定しているから! そもそも地獄行きの人は天使が迎えに来たりしないしね」
「……神様の善悪の基準は、よく分かんねーな」
俺がそう言った途端、彼女の表情が曇り始めた。
「カズちゃん、あのね、私……」
「まあ、俺のやったことなんて、完全に自己満足だ。お前が気に病むことはない」
「……私は、とにかくカズちゃんがどんどんボロボロになっていくのが見ていられなかったよ……ごめんね、私のせいで」
彼女の頬を涙が伝う。
「そうか……悪かったな、心配かけて。でもこれでようやく俺もお前のいるところにいけると思うとさ、今から楽しみで仕方ないぜ」
俺は笑ってみせようとしたけれど、どうしても腹に力が入らなかった。なんせ脇腹にナイフが刺さったままだ。数メートル先に転がっている若い男の死体が目に入った。
まあ、仲間が二人も殺されたんだから、ナイフの一本や二本くらい、持ち歩いているのが当たり前か。
でも、何とか全員、無事に殺せて良かった。
彼女を辱めたドブ野郎共。後悔など微塵もなかった。
これで思い残すことは何もない。
――いや、一つだけ。
「ところで、俺はいつ死ぬんだ?」
そう長くもないだろうが、一応聞いてみる。
「ええと……あと一時間くらいだよ」
一時間、か。本当かどうか分からんが、まあ、まだ間に合うかもな。
俺は気力を振り絞って、うつ伏せになっていた自分の体を起こした。
「え、カズちゃん、そんな体で動いちゃ駄目だよ!」
「何言ってんだ。どっちにしろ、死ぬことには、変わりないじゃねーか」
「それはそうだけど……」
「折角なんで、死に場所くらい、選ぼうと思ってな」
体が限界に近づいていることもあり、そこに辿り着くまでに三十分以上かかってしまったが、夜中だからか、幸い誰にも見咎められずに済んだ。
「はあ、はあ……おい、あと、何分、だ」
返事はない。
「……いよいよとなると、幻覚すら、見えなくなるのか」
胸の奥のほうを、ほんの僅かな安心感と、底のない悲しみが襲う。
俺が天国など、いけるわけがないのだ。彼女は、己の弱さが生んだ、都合のいい幻覚に過ぎなかった。
「……分かっていたんだけどな」
そうだ。分かっていたのに。死ぬ寸前だというのに。こんなところにまで来てしまった。
「私ね、天使になるの」
そう言って飛んだ彼女。いや、飛べなかった彼女。
その落下していく様を、俺は見ていた。地面に叩きつけられ、グチャグチャになるまでの一部始終を。
――あの光景を、上書きしたかった。
「…………これは?」
気が付くと、俺は宙に浮いていた。
眼下には、俺がさっきまで立っていた、あの日の屋上が見える。
慌てて後ろを振り返ってみる。
「……はは。死んでも幻覚って見るものなのかね」
そこには、背中に生えた大きな羽を広げて、天使のような笑顔をした彼女がいた。