八月の暑い夏
競歩とは、五千メートル、一万メートル、二万メ-ロル、三万メートル、五万メートルのいずれかの距離を歩く速さを競う陸上競技種目であり、他に二時間で進む距離を競う種目もある。
主なルールとして、常にどちらかの足が地面に接していること、つまり、両方の足が同時に地面を離れてはいけない。両方の足が地面を離れると、(ロス・オブ・コンタクト)という反則をとられる。
更に、前脚は接地の瞬間から地面と垂直になるまで膝を伸ばしていなければならず、曲がると(ベントニー)という反則をとられる。
全国高等学校総合体育大会には、二〇〇一年熊本大会から導入された。
プロローグ
1
梅雨が明け盛夏に向かう七月半ば、熱く焼けたアスファルト道路の陽炎の揺れる中を九月開催の高校総体南関東大会出場を懸けた神奈川県予選を目前に控え、三人の若者が走っている。いや?歩いている。いや?走っている。いや、歩いている。
神奈川県立金又高校陸上部・競歩種目代表。三年生の今岡五郎並びに共に二年生の内田由樹と柴田嘉佑だ。
午後三時、容赦なく照りつける陽は、彼等の肩をこんがりと焼いている。だが、時折吹く心地よい風がウェアのランニングを持ち上げると、ウエアに普段隠れている肩口から胸元は驚くほど白い。特に、由樹の胸元は、若干、他の二人より肉付きが良いことも手伝い、また、男性には珍しく身体のラインが丸みを帯び、長髪を後で束ねていることもあって女性ランナーのようだ。しかし、残念なことに金又高校陸上部に女子は存在しない。でも、それらしき選手はいた。
「由樹、ピッチが落ちてるぞ!」
最後方から三年今岡の激が飛ぶ。
「嘉佑!由樹の後に着け!」
「ハイ、ハイ、ハイ」
「嘉佑、返事は一回でいい」
嘉佑は先頭から回り込むように由樹の後方へ着く。
「なあ、由子、背中のニキビ結構増えてるよ」
由樹は、首が捩じれ折れんばかりに背中を覗きこむ。
「えーっ!?昨日もケアしたばかりなのに。本当?ヤダー」
「だから、前にも言ったろ。髪の先が直接肌に触れて、どうしても不衛生になって出来ちゃうんだって。由子は絶対ショートのほうが可愛いと思うし、髪、切ってみたら?」
「本当?」
「本当さ!絶対に可愛い」
「じゃあ、そうしようかな」
最高方を歩く今岡は、二人の他愛のない会話にいつも無関心で、一人練習に集中する。しかし、フォームの乱れなど二人にあれば的確に指摘し修正指導する。
不器用だが実直な今岡は、陸上部の副主将を任され、陸上部顧問の阿部幸三先生と陸上競技の花形である百、二百メーターの短距離選手で、主将でもある守山光男から絶対的な信頼を得ている。
「由樹、膝が曲がっている。つま先を前に向け、親指の付け根が直線になるように歩け」
「ハーイ」
「返事は短くていい」
「ハーイ」
表情こそ変わらないが、今岡は半ば諦め気味だ。
「いつものように、このカーブを歩ききり、イトーヨーカドーを過ぎたら俺が一番前へ出る。ピッチを上げるからしっかり着いて来いよ。学校まであと五キロだ」
「いいフォームだ、由樹。その調子だ、頑張れ。嘉佑、引き続き、後方から由樹のフォームをチェックしてくれ」
今岡は二人に声を掛け、抜き去りながら先頭を歩く。
「どう、嘉佑、私のフォーム乱れてない?」
「少し、尻の揺れが激しいかな」
「バカ」
「大丈夫。半年前に入部したばかりで由子の進歩はめざましいよ。やっぱり、由子は男なんだな。ただのダイエット目的で始めたなんて信じられないよ」
「複雑だな。いずれにしてもそれは本当のことだもの。インターネットの記事で見たのよ。競歩はダイエットに効果抜群のスポーツだって」
「嘉佑はどうして競歩なの?」
「入部当初は中距離希望だったけど。ほら、うちの中距離、けっこう人材豊富だろ。梶原なんて特に。結局ところてんみたいに押し出されて」
由樹は、前を指差しながら小声で。
「どうして?」
「最初から競歩志望だったみたい。なんでも、親父さんがオリンピック候補だったみたいで」
すると、突然、今岡が振り返えった。
「話を止めて呼吸を整えろ。嘉佑、リズムが乱れているぞ。二人共歩きに集中しろ」
嘉佑と由樹は、目線を合わせ舌を出した。
学校から二キロほど手前。三人は、海岸沿いのひょっこりひょうたん島に似た野島山を左に見て、その裾野を大きく廻り込むカーブにさしかかった。
相変わらず、夏の暑い日差しが彼等を追い掛けている。
この時、反対車線を走行中の二人乗りオートバイも、今岡等とは反対に、野島山を右に見ながらカーブに差しかかっていた。
このカーブ路は曲がりが急で、毎年、二、三件の事故が起きていた。
「あっちいなー!!メット取りてーすっよ!!」
後部シートに乗る真次は、ハンドルを握る一男にオートバイのエンジン音にかき消されぬよう大声で話掛けた。
「まったくだ!!真次、今何時だ!!」
「三時くらいっす!」
「えっ!!聞こえねーよ!!何時だ!!」
一男は、真次に時刻を聞き返すと同時に、ヤマハVーMAX水冷四気筒、一二〇〇CCのギヤを二速に落し、カーブに入る直前にあらためてアクセルを開け始めた。そして、外側に引っ張られる力に負けないよう、ほぼ、すべての体重をオートバイに預け、車体を大きく右に寝かせて角度の急なカーブを攻め立てて行った。
すると、この時真次は、一男に正確に時刻を伝えようと両手を後方に回し掴んでいたV-MAXのキャリアから、時計を嵌めていた左手を離した瞬間、大きく右に傾けられた自分の身体を右腕一本で支えきれず、バランスを失い、右肩から滑るようにオートバイから落ちてしまった。
一男の運転するV-MAXは、突然重量が軽くなり加重が変化した為、突風に煽られるかのようにバランスを崩し、あわや、転倒しそうになったが一男は愛車を巧みに操作した。そして、すぐさま反転。
「真次ー!!」の掛け声一つ。真次が落ちた場所へ一目散に向かった。
「きゃー!事故、大変」
由樹は口に両手をあてがい、一瞬、その場に佇んだ。
今岡は全速力で走り、倒れている男性らしき人のもとへ向かった。
冷静さを取り戻した由樹も今岡の後を全力で追う。そして、振り向き様に嘉佑を怒鳴った。
「嘉佑!走って!走って!」
嘉佑は、初めて身近に目にする事故に動揺しているのか、まだその場を動けずにいる。
「嘉佑!早く来い!」
由樹の突然の男言葉にはっとし、嘉佑は綺麗なフォームで歩きはじめた。
「バカ!練習じゃないのよ!普通に走って!」
「あっ、そうか」
あらためて嘉佑は、由樹の後を走って追った。
「大丈夫ですか!?聞こえますか!?」
今岡は現場へ到着すると、屈み込み、倒れている男性に大声で呼び掛けた。
続いてエンジン音を轟かし到着した一男は、オートバイのスタンドを立てることももどかしく、愛車を横倒したまま真次の元へ駆けつけた。
「真次!大丈夫か!?聞こえるか!?」
次の瞬間、興奮のあまり一男は、真次の肩に両手を掛け、身体を激しく揺すろうとした。
その行為を今岡は一喝した。
「触るな!」
「エッ!?な、なんで」
「とにかく、症状が分からないまま触れるのは危険なんです」
「携帯持ってますよね。救急車を直ぐ呼んでください」
「わ、わかった。えーっと、何番だったっけ。あっ、そうだ!一〇四」
「それは、電話番号案内です」
「あっ、ああ、一一七」
「それは、時刻案内」
「えっ、あっ、ああ、一一〇」
「警察は後でいいです!」
動転しているのか、無知なのか、今岡は途方にくれる。
「な、なんだよ!教えてくれよ!」
「一一九番!」
「もしもし!!もしもし!!なんだよ。何にも聞こえねーよ。俺の携帯、壊れちまってる」
一男は涙声だ。
ふと、助けを乞うように一男は今岡を見ると、何かの合図のように頭を二度ほど叩いている。
聞こえる訳がない。一男は、携帯電話をヘルメットの外側から耳元へ当てているのだ。
「ハイ。こちら一一九番。火事ですか?事故ですか?」
「見りゃ、分かんだろ!?」
「落ち着いてください。こちらからは何も見えませんよ」
「事故だよ!」
「怪我人はいますか?」
「いるよ。バイクから落ちちゃって」
「意識はありますか?男性ですか、女性ですか?」
「いっぺんに言うな!こんがらがっちまう!」
そんなやり取りを見兼ねた今岡は、一男から携帯電話を奪うように取り、一男が(フガフガ)言っているのを左手で制し電話を代わった。
「もしもし、当事者が混乱しているようなので電話代わりました」
「あなたは?」
「事故現場の近くにいて、偶然、事故の一部始終を見ています」
「意識はあるようですか?」
「分かりません。ただ、今のところ呼吸はしているようです。胸のあたりが小刻みに上下しています」
「意識があるかどうか、もう一度確認して、ないようなら大声で呼び続けてください。手の甲などつねっても有効です」
「分かりました」
「場所は?」
「海岸通り、野島橋の入り口付近です」
「あなたのお名前は?」
「今岡と言います」
「すぐに向かいます」
消防隊員はそう答え、電話を切った。
反射的に今岡は、真次に駆け寄り意識の有無を確認した。しかし、残念なことに意識は混沌とし反応を見せない。
「おい!聞こえるか!」
今岡は何度も呼びかけ、同時に皮膚を千切らんばかりに手の甲をつねった。
「あなたも呼び掛けてください!」
この期におよんで、まだ、オロオロしている一男を今岡は怒鳴り付けた。
すると一男は、少なからず冷静さを取り戻し、地面に膝を着き懸命に真次の名を呼び続けた。
尚も二人で呼び続けていると、フルフェイスのヘルメットの中から、真次のくぐもった声にならない音がした。
「真次ーッ!!」
それは、夏空を貫く一男の絶叫だった。
この間、ほぼ、センターライン近くで起きた事故だった為、上り下りの行き交う車が乱れ、事故見物も相まって渋滞を引き起こしはじめていた。
それに気づいた由樹は、
「嘉佑、上り下りに分かれて通過する車を誘導しよう」
嘉佑のOKの返事で、二人は(持ち場)に走り出した。
やがて、カーブの向こうから高らかなサイレンが響き救急車が姿を現した。
直ぐ後からは、救急車を見守るかようにパトカーも着いて来ていた。
慌ただしく三名の救命士が救急車から降りて来る。うち、二名の救命士は折りたたみ式のストレッチャーを抱えていた。
「君が今岡さん、ご苦労さまです」
救命士の一人が、今岡に労いの言葉をかける。
二人の救命士は、既に真次の応急処置をはじめている。
フルフェイスのヘルメットを救命士の一人が慎重に外す。すると、湯が沸騰したやかんから水蒸気が立ち上がるように真次の頭部から水滴となった汗と蒸気が流れ出た。
「意識が出たり出なかったりで混濁の状態です」
一人の救命士が、救命隊隊長に報告した。
「よし、気道確保、ストレッチャーに乗せるぞ。そして酸素」
隊長の一連の指示のもと、ストレッチャーに乗せた真次を二人の救命士が救急車へ押し込んだ。
「今岡さん、これから受け入れ先の病院を手配します。しばらく待っていてください」
と言って、隊長は救急車のリア扉を閉めた。
真面目な今岡は、ある瞬間から、この偶然の出来事を他人事ではなく、自分の事のように受け止めていた。
ところで、当の一男は、(済まない)と今岡に詫びはしたものの、心ここにあらずといった様子で、先ほどから三人のユニフォームの胸元あたりを交互に見て首を傾げている。
「K、A、N、A、えーっと、カンタマ、いや、違う、カナマタ。エーッ!金又!」
一男は突然素っ頓狂な声を上げ、難解な数学の問題でも解いたかのように興奮している。
「なあ、なあ、あんた等の胸に書いてある字、金又でいいんだよな」
「ええ、僕達は、金又高校の陸上部です」
「じゃあ、あんた、顧問の先生かなんか?」
「いいえ、三年の今岡と言います」
「えーっ!うそっ!俺とタメ!?」
側にいた由樹と嘉佑は思わず吹いた。
今岡は咳払い一つ。一男と同級と分かって態度も変わった。
「金又高校と知ってどうした、何かあるのか?」
「ああ、何かあるもないも、バイクから落ちた男は金又高校の二年で、俺の中学時代の野球部の後輩、藤代真次って可愛い奴さ」
一男はまた涙声になった。
「エーッ!藤代君なの!今、救急車に乗ってる子!私のクラスの隣、C組よ、彼。今の今まで全然分からなかった!」
「ヘルメットしてたからな。由子、知ってるのか?俺は知らないなぁ」
「そうね、嘉佑は知らないかもしれない。部活もやってないし、あまりクラスでも目立つわけでもないらしいの。ただ、女の子には結構人気あるのよ。ハンサムだし、なんて言うの、影があるっていうか」
そうこうしているうち、救急車のリア扉が開き救命隊隊長が顔を出した。
「受け入れ先決まりました。磯子の(磯波病院)です。どなたか付き添いますか?」
すると、既に現場検証を行っていた警察官の一人が、話の機会を逃すまいとばかりに割って入って来た。
「救急さん、彼等からはこの後、いくつか話を聞きたいので申し訳ないが先に行ってください」
警察官は、今岡に視線を送りながら隊長に言った。
「了解しました」
「救急さん!真次をよろしくお願いします!」
一男は精一杯頭を下げた。
隊長さんは、やさしい笑顔で(大丈夫)と一言。
白馬をひるがえすように、真次を乗せた救急車は走り去った。
今岡は、シリコン製で重さ僅か十グラムの腕時計で時刻を確認した。この時計は、マラソンや競歩競技に適している。
時刻は既に、四時半をまわっていた。
陸上部の皆が心配していることだろう。いつもなら学校に到着している頃だ。
今岡は、救急車が事故現場を離れるのを横目で見ながら警察官に言った。
「お巡りさん、話を聞きたいって、長くかかりますか?」
「今岡君と言ったね。ありがとう。現場検証に協力して頂けるのだね?」
「ええ、協力はしますが、僕達は金又高校の生徒で、いつもなら、そろそろ到着している時間ですし、学校では、何事かあったのかと心配している筈です」
「勿論、学校へは直ぐに私から連絡を入れる。今岡君、済まない。よろしく頼むよ」
そう言って警察官は、学校へ連絡する為にパトカーへと歩き出した。その直後、今岡は警察官の背に声を掛けた。
「お巡りさん!事故の当事者で、病院に運ばれた生徒がうち(金又)の二年C組の藤代真次であることも伝えてください」
警察官は今岡を振り返り、分かったというように右手を上げた。
警察官との話をひとしきり終えた今岡は、ふと、視線を感じそちらに目をやると、一男が他の警察官との事情聴取の合間を受け、泣き笑いの表情で、(済まない)というように顔の前で左手をかざした。
学校に連絡を終え、パトカーから戻った警察官に今岡は言った。
「お巡りさん、この二人はいいですよね?」
由樹と嘉佑のことだ。
警察官は今岡の話に頷いた。
「じゃあ、二人共先に学校へ戻ってくれ。場合によっては、藤代に付き添って病院に行くかもしれない。そのことも先生に伝えてほしい」
「りょうかーい」
由樹は右手の親指を立て、嘉佑を引っ張るように、ジョギング程度のスピードで夕凪光る海岸線を走り出した。
2
現場検証も終わりに近づいた頃、一男の尻ポケットの携帯電話が大きく呼出し音を奏でた。
(アハ、すいません)と、警察官に自嘲気味で電話にでる。
警察官は憮然としている。
電話は一男の彼女、理紗だった。
「ハイ。俺」
「ハイ、オレ。じゃねーよ!バ―カ!」
「何時だと思ってんのよ!今どこにいんのよ!」
えらい剣幕だ。まるで、一男の携帯電話がスピーカーモードにセットされているかのような音量で理紗の声が聞こえてくる。
一男は、携帯電話を耳元から二〇センチほど離した。
警察官は何事かと一男を横目で見てる。
「怒んなよ。さっき、事故っちまって」
「エーッ!マジ?アハハハ。でも、たいしたことないんでしょ?」
「バカ、笑いごとじゃねーよ」
「だって、あんた、電話に出てるじゃん」
「俺は取り合えず、大丈夫なんだけど・・・」
「何よ、はっきり言いなさいよ」
「実は今日、明美に紹介しようと真次を連れて行く予定にしてたじゃん。その真次が、バイクの後部シートから落こっちまって。さっき、病院に運ばれた」
「エーッ!大変!で、どうなのよ、大丈夫なの?」
「まあ、命に別状はないと思うけど・・・」
「えっ?何なの、命に別条はないって、どういうこと?」
「うん、そのう、頭を打ったみたいで意識がはっきりしないんだ」
「エーッ、大変じゃない、しっかし、バッカよねー、あんたも。どうして今日に限ってバイクで来るのよ。みんなで遊ぶって言ってたじゃん」
「いやー、理紗と会うのも久しぶりだし、真次を明美に紹介したら、後は別々に分かれて、そのー、お前といちゃいちゃしたくて」
「バカ!何考えてんのよ!そ、それで、あんたはまだ病院に行けないの?」
「ああ、もう少し、事故検分ってのに時間がかかる」
「うーん、しょうがないな。真次君、どこの病院に運ばれたの?」
「エッ!行ってくれるのか!うれしい、理紗、愛してる!」
「この借りは、きっと返してもらうかね」
一男は病院名を理紗に告げ電話を切った。
午後九時、磯波病院。集中治療室の入口通路に何人かの人溜まりがある。
ある中年の男性は、長椅子に俯き加減で座り、両手を握り合わせたその手を左右の膝の間に置いている。その隣に座る女性は、疲れきった表情で、男性が握った両手の上に右手を添えて男性の肩にもたれている。
二人の若者は柱に寄り掛かり、一人は所在なく落ち着かず、あちらこちらに視線を移し、もう一人、短髪でトレーニングウェア姿の若者は集中治療室のドアに目を凝らしている。
また、別の長椅子には、二人の高校生らしい女の子がお互いの腕を絡ませ神妙な面もちで座り、その隣には、三十代前半の男性が少し不安げな表情で集中治療室のドアが次に開く瞬間を見守っている。
真次が救急車で運ばれ病院に到着してから、間もなく四時間が経過しようとしている。
その二時間前、集中治療室のドアが一度開き、事故後初めて真次の両親は、真次の症状について担当医師から報告を受けていた。
長椅子に寄り添うように座っているのが真次の両親だ。
父親の藤代紀夫は、某都市銀行の経理担当部長。実直そうではあるが、型物で神経質そうな面持ちだ。
先ほど、一男が病院に駆けつけた時の紀夫の第一声は、(君がうちの息子を傷付けたようなものだ。君みたいな男と真次は付き合っていたなんて)と、眼鏡の奥を光らせ、吐き捨てるように言った。一方で、傍らにいた母親の美佐子は、色白の細面の顔を崩し一男をいたわるように見た。
-二時間前ー
「ご両親どうぞ。現在のご子息様のご容態について先生からお話がございます」
中年の看護師が、重々しく、藤代夫妻に声をかけた。
「よろしくお願いします。担当医の三上です」
「どうなんです、息子は?」
藤代紀夫は、いきなり切り口上で三上に詰め寄った。
「あなた、失礼ですよ。ご挨拶もなしに。申し訳ありません。主人も事情が事情ですので。どうぞ、よろしくお願い致します」
美佐子は、三上の機嫌を損ねまいと気を遣う。
紀夫は、自分の事は二の次で、他人の気持ちを第一に優先する妻のこういった性格に普段から癖易気味で、嫌そうに一度首を傾げた。
「どうぞ、お座りください」
三上は紀夫の態度に顔色一つ変えず、二人に丸椅子をすすめた。
「で、どうなんです、息子は?」
「あなた!」
美佐子は紀夫に、(いいか加減にして)と、咎めるように言った。
三上は美佐子を見つめ、軽く頷くと話はじめた。
三上のデスク横に置かれたレントゲン投影機に、何枚かのレントゲン写真が青白く映し出されている。
「最初にお話しておきます。まだ、この段階で息子さんの意識は回復しておりません」
夫妻は緊張の面持ちだ。三上はそれを察するように言った。
「ただ、呼吸は毎分、十五回から二十回を刻んで安定しています。つまり、成人男性の平均の値を示しています」
「どうして意識が回復しないのですか?」
美佐子は、務めて、冷静に質問しようと心掛けているようだ。
「勿論、頭部については、MRI検査、また出血も考慮し、CT検査も行いましたがMRIの造影画像から損傷個所は見当たらず出血もありませんでした。ですから、正直申し上げて、私達も少々困惑しています」
三上は、デスクの端にあった頭部脳模型を手に取り話を続けた。
「しかし、事故でオートバイから落下の際、ヘルメットの損傷具合から脳の側頭葉付近を打った事は事実です。脳は、各部位ごとに情報を処理する能力が異なっていて、この側頭葉には、知識、ならびに記憶を司る機能があります。今回、この側頭葉付近にも疾患は認められないものの、頭部を打った拍子に脳が歪んだり、ぶれてしまったり、或いは、本来の位置からずれてしまう事もあります」
三上は胸の前で脳模型を抱え、リアルに振って見せた。
「そして、それが起ったと私は見ています。その為、今、息子さんの脳は、脳自身で修正している最中だと思われます」
「脳自身で修正している最中だと?」
紀夫は考えられないという表情で、冷たい視線を三上に向けた。
「そして、その結果、意識は戻ると?」
紀夫は、三上を嘲るかのように迫る。
「あなた!」
美佐子が紀夫を諌める。
「うるさい!」
紀夫は美佐子を怒鳴ったが、三上は尚も冷静に言った。
「ええ、そのような症例はいくつもあります」
「それで、戻るとしたら、どのくらいの時間が掛かりますか?」
美佐子の顔が歪む。
「正確にお答えすることは出来ません。十分後の可能性もありますし、一週間、一ヶ月、或いは二ヶ月、半年、それ以上も・・・」
「植物人間・・・」
紀夫が苦々しくつぶやく。
美佐子は堪え切れず、掌で顔を覆った。
真次の他の症状として、内臓疾患は認められず、右鎖骨の亀裂骨折、右肩甲骨の圧迫骨折、右上腕骨の亀裂骨折、右手根骨の捻挫等、三上は、頭部損傷以外全治二ヶ月と診断した。
3
集中治療室入り口前の通路は、このところの電力事情で、照明の明かりもまばらに制限され非常灯の淡い光がよく目立つ。
集中治療室前に集まる人達も会話少なく、治療室入り口ドアの上に掛かる時計の針を刻む音と何処からともなく時折聞こえる病院関係者らしき人の通路を歩く靴音が虚しく響く。
「ごめんね、明美。病院まで付き合わせて」
「いいのよ、気にしないで。紹介してもらって、お互い付き合うかどうかは別にして、私も真次君に会いたいと思っていたのだから」
嫌みのない、悪戯っぽい笑顔を理紗に見せ明美は言った。
「でも、いっこ、下だったのね」
理紗は思った。この子、本当に可愛い。芸能人で言うと、ササキノゾミに似てる。どうして彼氏いないんだろう。不思議。
「ちゃんと意識戻ってほしい」
明美は真剣な眼差しを集中治療室のドアに向ける。
「大丈夫。藤代は必ず戻って来ますよ」
そう答えたのは、理紗と明美の隣に座っている男性だった。
彼は金又高校の教師で真次のクラス担任を務め、名前を布施良と言った。
布施は、警察から学校に事故の一報が入ると、取りも直さず病院に駆け付けて来た。まだ、三十三歳という若さだが昭和の雰囲気が漂う。黒縁の眼鏡を掛け、白Yシャツの腕を捲り、ツータックのスラックスを腰高に細めの腰をベルトできっちり締めつけている。物理担当だそうだが、いかにも白衣が似合いそうだ。すると、隣の長椅子から声がした。
「先生、そんな月並みなは言わないで頂きたい」
非常灯の淡い光を背にし、顎の張った顔の影だけを美佐子の背中越しに見せ、紀夫は低い声で言った。
「しかし・・・」
と、言ったまま、後の言葉が布施は続かなかった。
「お父さん、大丈夫っすよ」
横合いから一男が口を挿むと、(君には黙っていてほしい)と、紀夫に一蹴された。
一男と視線を合わせた理紗は、小さく顔を左右に振り、(何も言うな)とばかりに目を細めた。
今岡は、相変わらず柱に身体をもたれ立っていた。しかし、クラブ活動の疲れもあって、さすがに立っているだけの体制が辛くなり屈伸運動を始めた矢先、勢いよく集中治療室のドアが開き看護師が顔を覗かせた。
今岡の僅か十グラムの腕時計は、九時〇五分を示していた。
そこにいた全員が一斉に看護師に歩み寄った。
「息子さん!意識戻りましたよ!」
看護師は満面の笑顔で興奮気味に言った。一方で、一男は、緊張の糸が切れたのか男泣きに泣きだした。
「真次ー!」
そして、その直後、一男は、その勢いのまま、看護師の引き止めるのも聞かず治療室に転がり込むように入ってしまった。
「ちょっと!あなた!だめよ!今は身内の方だけよ!」
ドアの奥に消えた一男に看護師は声を掛けた。
すると、紀夫が言った。
「いや、いいんだ、看護師さん。彼は息子の兄貴みたいなものだ」
美佐子は、紀夫の言葉に耳を疑った。
他の人達も美佐子と同様の反応を見せ、呆気に取られて紀夫を見つめている。
集中治療室に入ろうとする直前、美佐子は通路を振り返った。
「それでは行ってまいります。後ほどみなさんに先生のお話をお伝え致します」と、頭を下げ、紀夫の後から治療室に消えて行った。
真次は目を開け、治療室の天井の一点を見つめ横になっていた。
ベッドの傍らには、既に、三上と真次が立っていた。
「お母さん・・・」
真次の端正な顔立ちの薄い唇が、微かだがはっきりとした口調で美佐子を呼んだ。
「真ちゃん、分かるのね。良かった」
美佐子は泣き笑いの表情で、愛おしそうに言った。
ベッドの上の真次は、次に父の紀夫に視線を移した。
「お父さん、心配掛けたね。仕事は大丈夫かい?」
「えっ!?あっ、ああ、私の仕事のことなど、し、心配しなくていい」
紀夫は驚き、思わず美佐子を見た。
美佐子も口に右手を当て、目を大きく見開き驚いていた。
実はこの二年、父親と息子の間で、会話らしい会話はまったくなかった。父と息子の親子関係は完全に冷めきっていた。
「お父さん、先生が言うには二ヶ月くらい入院が必要で、クラブ活動に復帰するにはけっこう時間が掛かるみたいだ。退院したら昔みたいにキャッチボール付き合ってくれる?競歩を本格的に再会する為のリハビリになる」
「あっ!ああ、もちろん、付き合うさ」
またも紀夫は驚いた。
「先生!?」
紀夫は助けを乞うように三上を見た。
三上は、夫妻の驚きに違和感を覚え、ベッドに横たわる真次に声を掛け、夫妻と一男を治療室の隣室へ案内した。
「藤代君、今日は休みなさい。何も心配いらないよ。大丈夫だからね」
その後、三上は、看護師に一言二言指示を与えると藤代夫妻と一男を引き連れ隣室に入った。
治療室の隣室には、小ぶりな応接セットが備えてあった。
藤代夫妻は二人掛けのソファに座り、一男は別に簡易椅子を用意され夫妻の隣に座った。
テーブルを挟んだ向かい側に三上が座る。
四人が席に着くと当時に看護師がやって来て、バインダーに挿まれた書類の綴りと脳模型を三上に手渡し、一礼して部屋を出て行った。
早速、紀夫が不安げに口を開いた。
「先生、し、真次は大丈夫なのですか?」
三上は、紀夫のこの一言で確信した。夫妻は、先ほど真次と交わした少ない会話から、昨日までとは違う、言い様のない息子の変化を感じたのだった。それが、三上が感じた違和感だった。
「息子さんとお話頂いて、気掛かりなことがあったのですね?何でもいいです。気付かれたことがあればお聞かせ下さい」
三上は務めて冷静に二人に話を促す。
「はい。実は・・・」
美佐子は隣に座る夫に一瞬目をやり、決心するように話だした。
「実は、お恥ずかしい話なのですが、主人と息子は、この二年間、会話らしい会話は一度もありませんでした。思春期と言えばそれまでですが、朝の挨拶すら私は聞いた事がありません。主人も頑固で、そんな
関係を修復しようなどと思ってもいなかったでしょうし」
「差し障りがなければお話して頂けますか?何が原因だったのですか?」
三上の質問を受け美佐子は続ける。
「はい。真次は中学まで野球をやっていて、あっ、こちらの飯島一男さんと一緒に野球をやっておりました」
突然名前が出て、一男は恐縮し頭を掻いた。
「真次は野球が上手で、有名私立高校の野球部からお誘いを受けたほどで」
「そっす!真次は抜群の野球センスだったから!」
「君、今は私の家内が話をしてる」
一男は、紀夫の一喝でうなだれた。
「それで、どうしました?」
三上が先を促す。
「しかし、主人が、(もっと先を考えろ。高校で野球ばかりやっていては将来に繋がらん)と、私立の進学校へ行くことを強く勧めたのでのです。主人にしてみれば、息子を思う一心だったのですが、一方で息子は、(自分の夢を断たれた。その上、高校まで決められてはたまったものでない)と、反発を致しまして」
「私には、私なりの考えがあったんだ」
紀夫は、自分の気持ちも察しろとばかりに口を挟んだ。
「それは分かっています。でも、もう少し真次と話をして、お互いの理解を深めてほしかったです」
「結局、ご主人が勧めていた学校には行かず、地元の金又高校に息子さんは行かれた訳ですね」
美佐子は頷く。
「先生、家内が話した通り、私はこの二年、真次とは全くと言っていいほど話をしたことはありませんでした。それが、目を醒ましたとたん、それまでの二年がなかったかのように真次は素直に私に話かけて来ました。本当に驚きました。時折、真次と妻の会話を聞いていて、私なりに思ったものです。(母親にあんな物言いはなかろうと)、ですが、先ほどの息子の接し方は昔に戻ったような感じでした。ましてや、私の仕事を気遣うなど。信じられない」
紀夫は高ぶる感情を必死に抑えている。
「それと、もう一つ気掛かりなことが・・・」
おまえが言えとばかりに紀夫は美佐子を見た。
「どのようなことでしょう?」
三上は半身を前のめりに答を待った。
「はい」
紀夫の後を受け、美佐子が話はじめた。
「先生も真次の話の内容はお聞きなされておりますので、私と主人の聞き違いではないと思いますが、先生、真次は学校で、クラブ活動は勿論のこと、陸上競技、その、競歩という運動はまったくやった事がございません」
美佐子の目は、これは何を意味するのかと訴えている。
「エエ!?」さすがに三上も狼狽した。
「君はどうかね。聞いたことがあるかね?」
紀夫は、一男に敢えて、聞いてみた。
「俺も聞いたことないです。あの時はびっくりしました」
「藤代さん、いかがでしょう?今、通路でお待ちの担任の先生と陸上部の生徒さんに念の為お話を伺いたいのですが」
二人の簡易椅子があらたに用意され、三上を挟むように今岡と布施が加わった。
この間、美佐子は一度席を立ち、通路に取り残されている理紗と明美に今までの経過を話し面倒を掛けた事を丁寧に詫びた。そして、車代を預け、取り合えず二人には自宅へ帰ってもらう事にした。
二人は逆に恐縮し、明日また見舞いに来ると言って待合のタクシーに乗り込んだ。
タクシーが走り出して間もなく、すれ違った救急車の赤いシグナルが二人の顔を一瞬朱色に染めた。
六畳ほどのこの部屋は、普段から出入りする医療関係者や患者の家族等と面談する為の部屋になっているようだ。
三上が座る後の壁には、(生命の樹)と、題されるロシア人画家のレプリカの絵画が掛けてある。キャンパス地にプリントされていてよく見なければコピーと分からない。
皆が囲む応接テーブルの卓上時計は十時になろうとしていた。
今岡は三上の質問を受け、校内、校外を問わず、どんな機会であれ、真次との接触があったかどうか考えることから始めた。
一方で布施は、入学当初から現在に至るまで、主に学校生活での出来事や真次の言動を必死で思い返した。その理由は、真次と競歩との関連が僅かでもあってほしいという願いからだった。そして、持ち寄った考えを尚二人で考察、照合した結果、競歩競技自体は元より、何らかの形で競歩に携わっていたという少しの事実も見出せなかった。加えて、陸上競技全般に思いを馳せても、真次に経験はなかった。
4
「さあ、皆さんどうぞ。冷たいうちに。若い人はコーラがいいでしょ?」
美佐子は、売店横の自動販売機で買い求めたペットボトルの清涼飲料水を皆に勧めた。
「今岡君と言ったね。挨拶が遅れて申し訳ない。今日は本当にありがとう。君は真次の命の恩人だ。さっき、家内から聞いた。救急隊の方が君の冷静な対応があったからこそと褒めていたそうだ。お礼の言いようがない。本当にありがとう」
この状況に皆が慣れだしたのか、空気が落ち着いてきた。紀夫も例外ではない。
「あら、もうこんな時間。今岡さんも飯島さんもご自宅で心配していらっしゃるわ。気がつかずにごめんなさい。もう、お引き取り下さい。先生もどうぞ。お疲れでしょう」
今岡と布施が、集中治療室の隣室に入ってから一時間が過ぎた。
「いえ、私は。今岡君、君は帰りなさい」
「僕も大丈夫です。自宅にはさっき連絡しています。それに、やはり気になります。競歩との関連性がないとすれば、尚更・・・どういうことなんだろうと」
「お、俺は真次、真次君の傍にずっと着いています」
「先生と今岡君は、私が後で車でお送りする」
紀夫はペットボトルのお茶を一口含み、丁寧にキャップを閉め、三上に向き直った。
それは明らかに、三上へ見解を求める態度だった。
三上は一つ浅い息を吐き、話はじめた。
「午後十一時現在、息子さんの症状は脳波、呼吸ともに安定しています。血圧も正常です。生命の危険はないものと思われます。その根拠として、MRI、CTによる検査から異常が認められていないからです。脳自体は綺麗な状態です」
「しかし、何故、息子は妙なことを言ったり、そのう、昔のように素直だったり?」
紀夫をはじめ、皆がこの点に注目している。三上は続ける。
「ええ、まだ、明日以降、慎重に経過を診て行きますが、本日の三時間前、九時の段階です。息子さんが意識を戻したと看護師がご報告を致しましたが、実は、その約二〇分前に意識を戻していました」
皆が一様に驚いた。
「この点につきましてはご理解を頂きたいのですが、まずは、患者さんの症状を医者として事前に把握する必要があります。それで、その方法は問診。つまり、こういったケースは、簡単な口頭質問で行います」
三上は、テーブルの上に伏せて置いてあったバインダーに挟ませた書類の二ページ目を捲った。
「最初に今年は何年で何月の何日であるのか、続いて氏名、年齢、身分、つまり、息子さんの場合、高校生ですから、○○校の何年生で何組であるのか、次に誕生日、続いて、両親の名前、家族構成など、身近な質問です。これらについて息子さんは、ゆっくりではありますが、正確に答えることが出来たのでご夫妻をあらためてお呼びしたのです。それなのに彼が突然入って来られて、いささかびっくりしましたが、息子さんはその時、彼の名前も呼びました」
三上は一男を見て、曖昧な笑みをこぼした。
「その瞬間、私は自信を持ちました。もう、大丈夫だろうと・・・」
しばらく、三上の話が途切れ、そして、その間を埋めるかのように黒縁の眼鏡を指で押し上げながら布施は探偵のように言った。
「でも、実際は、何かが起ったのですね?」
三上は天を仰ぎ、今度は少し深めの息を吐いた。そして、おもむろに語りはじめた。
「医者の私が言うのも何ですが、脳のしくみは驚くほど複雑で、今回の息子さんの一つの症例を見てもその一端が垣間見えます。先ほどお話したように、息子さんの脳に損傷がなかったにも係らず意識が戻らなかった。しかし、ご存じのように意識は回復しました」
三上は、テーブルの上の脳模型を手にした。
「今回の事故で、頭部を打った箇所はこの部分、側頭葉付近と考えられ、打った瞬間に脳がぶれたか、あるいは、歪んだ可能性があると見てほぼ間違いありません」
三上は、脳模型をテーブルに戻した。
「どうして意識が戻ったとお考えですか?」
布施が緊張気味に、また、眼鏡を指で押し上げ質問した。
「はい。今回、脳の各部位が損傷したのではなく、縮んでしまったり、あるいは歪んでしまったり、あるいは、元の場所からずれてしまったという現象が起きたと先ほどお話しました。で、あるならば、私は、脳の自然治癒があるだろうと予測をしていました。ご両親には既にお話していますが、脳自身が行う回復作業です。勿論、同時に促進剤も投与しています。そして、時期については断言出来ませんでしたが、作業終了と同時に意識は回復するだろうと思っていました。このような症例は幾つか報告されていますし、私もかつて経験しています」
「せ、先生、真次の意識がまたなくなるということはありませんか?」
「はい、意識がなくなるということはないと思います。しかし、比較的長い睡眠に入る可能性はあります。言い換えれば、脳が疲労の状態にあり、それを補う為に休息する。つまり、睡眠によって疲労を取り除く為と言えばお分かり頂けると思います。しかし、これが息子さんに必ず当てはまるとは言えません。むしろ、通常の生活リズムを取り戻す可能性のほうが高いと思われます。いずれにしても、明日以降、この問題は早期に答えが出る筈です」
「先生、そのう、もう一つのほうは?」
紀夫が核心に触れ、あらためて皆の視線が三上に集まる。
「数時間前の出来事ですので、現状では、私の初見も推測の域を出ないと申し上げておきます。今回の息子さんの症状は、幾つかの障害が二重、三重と重なって起きていると考えられます。皆さんも日頃良く耳にされる記憶障害ですが、息子さんの症状から、この記憶障害の一つである(びまん性軸索損傷)の疑いがあると見られます。そして、その可能性は高いだろうとも思っています・・・」
三上は、右手の人差指を祈るような仕草で眉間に当て、少し考え込んだ。
「しかし・・・」
三上にしては珍しく歯切れ悪い。
「何ですか、先生?」
美佐子が質問する。
「はい。(びまん性軸索損傷)とは、脳内に衝撃を与えることによってズレを生じ、大脳の神経細胞を断裂し記憶障害が起きる症状です」
そして、三上は、再び手にした脳模型で大脳の中心に位置する間脳を指で示し話を続けた。
「特に、この間脳を傷つけると、訳の分からないことを言ったりする特徴があり息子さんにも当てはまるように思うのですが、何か釈然としません。いわゆる、(びまん性軸索損傷)の弊害から発生される言動とは質が違うように思えてならいのです」
五人は三上の話を受け、天を仰いだり、又は俯いて、それぞれが皆一様に物思いに耽っている。
布施が俯いた顔を上げ、三上に尋ねた。
「どういうことですか?」
「まず、細胞そのものの損傷は外科処置でほとんど完治しますが、それと平衡して、息子さんの症状に改善が見られるかどうかは別の問題であるような気がしています。私の思い過ごしであるなら、それはそれで良いのですが・・・何か他に要因があるように思えてなりません。後ほどその理由をお話します」
三上は、次に、健忘症の症状について話はじめた。
「私は、今回の口頭質問を行った際、意識、知識、判断力について注意深く観察致しました。その結果、(全健忘症)、つまり、健忘症の疑いはないと判断しています。ただ一方で、息子さんの(記憶)の部分に弊害が残っていますので、そこで、先ほどお話した神径細胞との因果関係に注目してみました」
これから先、三上は、五人にどう話を伝えればいいのか腕を組み考えた。
「正直、今回の息子さんのようなケースは初めてで、前例もあまり聞いたことがありません。ですから、仮説をもって考えてみました。突飛な話に聞こえる事もあるでしょう。そこはお許し願いたいと思います。まず、警察の方から頂いた調書を見て事故状況をおさらいしてみました。勿論、私は素人ですし、事故そのものの原因を調べる訳ではありません。カーブ路を、片側から二人乗りのオートバイ。また一方の片側からは三人でやって来る競歩選手。双方の存在はカーブ路である為に死角になり、本来であればカーブ路のほぼ頂点に来なければお互いの存在に気付きません。ここからは、オートバイの後部シートに乗っている息子さんに注目し、話を進めます。息子さんが、オートバイから落ちる直前までの視界がほぼ前方だけだとした場合、既に、オートバイは横に傾けられていることも有り、目に入るものは何も変哲のないアスファルト道路だった筈です。そして、次の瞬間、オートバイから落下する訳ですが、この時、息子さんの身体は斜め下方に投げ出され、一瞬ですが、息子さんの視界は大きく開かれることになり、目線はカーブの頂点を捉えることになりました。そして、死角の僅かな隙間に競歩する三人の姿を見たのです」
「そ、それで先生」
一男の一言で四人は我に返った。それまでは、ドラマを見るように三上の話に聞き入ってしまっていた。
「はい。息子さんが落下直後、頭部を打ち、意識を失くす直前に認識したもの。つまり、頭を打つ前の最後に見た被写体が競歩する三人の姿だったわけです!」
三上にしては珍しく興奮している。
「先生、な、何をおっしゃりたいのですか?」
美佐子は訳が分からない。
三上はまたも、テーブル上の脳模型を手に説明しようとした。ところが、模型に指先が上手く掛かからず、テーブルの上から落ちてゴロゴロと紀夫の足元に転がった。三上は、(すいません)と、模型を受け取り、あらためて脳模型を示しながら話を続けた。
「我々人間が物を認識する際、まず目で捉え、その映像がこの後頭葉の視覚に流れます。そして、形・色・動きなどが整理され、更にその物の判別をこの頭頂葉の判断という箇所とこちらの側頭葉の記憶とが連動してその物が何であるのかを識別します。脳は、それを瞬時に行います」
「先生、難しくて俺よく分からないよ」
一男の正直なところだろう。
「それではもう少し簡単に話をしましょう。目で捉えた物を、脳の資料室のような所に情報を送り出して、今、目で捉えた物が何であるのか検索し答えを導き出します。答えを導き出した後は、それを声にしたり、あるいは声に出さずとも、再び資料室に記録として留められ次の出番の機会を待ちます」
「逆に、過去に我々が見たことのない、あるいは、知識として持っていない物を初めて目にした時は認識出来ないということになるのですか?」
さすがに物理担当らしい質問を布施はした。
「ええ、医学的にはそういうことになります。ある物を見た時、予め知識を持たない物は判別出来ないということになります。例えば、どなたでも経験があるでしょう。漢字の読みで、読めない場合はどうしますか?辞書などを引き、調べますね。そして、それを覚え、記憶します。ですから、次にその漢字を読むような機会があっても、既に記憶していますので特に調べる必要もなく回答することが出来るのです」
「俺なんて駄目だよなー。ぜんぜん頭には入らないです」
「君、不謹慎だよ。そもそも努力が足りんのだよ」
紀夫に言われ、面目なさそうに一男は俯いた。
「それで、先生。そのう、意識を失う直前に、今岡君達を息子は見て?」
「はい。今岡さん達を視認した情報は、瞬時に視覚へ流れた筈です。その後の脳の働きは先ほどお話した通りです。いづれにしても、直後に、息子さんは頭部を打つことになります。本来、脳における情報伝達は、神経細胞を介して電気で行われます」
「えっ!?電気って。あの、照明を点けるあの電気ですか?」
美佐子が素っ頓狂に声を上げ、すかさず、物理担当の布施がうんちくよろしく話だした。
「人は栄養と酸素でエネルギをー作り、エネルギーを消費して電気を生みだします」
「布施先生の言う通りです。電気はそうして作られ、伝える役割を持った細胞が神経細胞なのです。人の
思考、記憶、感情、行動をつかさどる脳の各部位に神経細胞が大きく係り、それを動かす力が電気なのです。そして、そんな神経細胞が脳には一千億個以上あり、非常に複雑で、まだまだ多くの謎を脳は秘めています。話を戻します。このような複雑な回路を持つ神経細胞が、頭を打った衝撃で電気エネルギー自体を乱し、電気容量または電気の開放や停止までも混乱させ、側頭葉の知識・記憶を司る部分、あるいは前頭葉の意思・計画・意欲・感情をつかさどる部分に影響を与えたとものと私は解釈しています。
息子さんが以前から競歩競技をやっていたとする発言は、このような脳の誤作動が引き金になったものと考えます。競歩する三人を、頭を打ったことで、より深く記憶に留めました。勿論、息子さんの情報の中に競歩競技は存在していました。息子さんがご主人にお話しなされた、(昔みたいにキャッチボール付き合ってくれる?競歩を本格的に再会する為のリハビリになる)という言葉がそれを証明しています」
「先生、失礼ですが、幾分、説得力に欠けるような・・・」
布施は遠慮がちに言った。
「ええ、おっしゃりたいことはよく分かります。私もより真実を知りたいと、この数時間、いろいろと文献をあさりました。そこで、神経生理学研究における(夢)について、関連性がないものか調べてみました」
「ゆ、夢ですか?」
紀夫は、目を丸くした。
「はい。夢です。夢は主として、睡眠時に出現するとされます。睡眠中は感覚遮断に近い状態でありながら、大脳皮質や返緑系の活動水準が覚醒時とほぼ同様であるとされています。そして、外的あるいは内的な刺激が加わると、脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されつつ、記憶映像と合致する夢のストーリーを作ると述べられています。私は、MRI等の検査で異常がなかったにも係らず、息子さんの昏睡状態の意味が分かりませんでした。しかし、この文献を読むにつれ息子さんは完全な昏睡状態ではなく、より近い睡眠状態であったと理解しました」
「息子は眠って夢を見ていた?」
紀夫は素直に三上に言った。
「はい。そのように思います。昏睡よりも、より近い睡眠状態であり、過去の記録と睡眠に入る前の直前の記憶。そして、夢のストーリーを重ね合わせ、現実のこととして、脳の懐深く記憶を留めた」
「何か分かるような気がします。本来スポーツ好きの彼は、心のどこかで、また一生懸命に身体を動かしたい、運動したいという欲求があったのではないでしょうか。そして、今日の事故が、ある意味、あらためて彼の心を開放させた」
布施がまとめるように言った。
「あの、昔に戻ったような態度も、その、夢の関連からでしょうか?」
美佐子が質問する。
「今の段階ではなんとも言えません。その可能性も否定は出来ません。しかし、現時点で、一般的な診断をするならば、脳の前頭葉の前頭前野という部位に障害が出ていると思われます。この部位ですが、場合によっては、人の人格そのものを変えてしまうことがあります」
5
翌、日曜日の昼下がり。金又高校陸上部。
「みんな、早めに着替えて出て行ってー」
由樹の甲高い声が聞こえる。 由樹は、皆が出て行った後に着替えをする。他の男子は文句も言わず、日常の事として、たんたんとユニフォームに着替え部室を出て行く。
しかし、由樹を見る皆の態度がいつもと幾分違う。どこかよそよそしい。由樹を盗み見しながら部屋を出て行く。
「修、何?なんか私に言いたいことでもあるの?」
梶原修は、若干頬を明らめ俯き加減に言った。
「な、何でもないよ」
修は部室を出たところで嘉佑に会った。
「よっ、修」
「おっ、おう嘉佑」
「修どうした?具合でも悪いのか」
「わかってんだけどさあ、今日の由子は、特にドギマギしちゃって。変な感じだよ。あっ、そうそう、昨日は大変だったな」
「俺なんてたいしたことしてないよ。びびちゃって。由子に引っ張られぱなし。五郎先輩はさすがだよ」
「光景が見えるようだな」
「たいしたものさ、じゃ、後で」
「遅い!嘉佑!」
「何、ぽかんとしてるの?」
「か、髪切ったんだあ?」
「そう、昨日嘉佑に言われて。午前中、美容院に行って来たの。どう、似合う?ミニマムショートにしてみたの。髪の色もいい感じでしょ」
由樹は満面の笑顔で、くるっと、ターンでもしそうだ。
「あっ、ああ、似合ってる」
「ありがとう。嘉佑にそう言われるとうれしい!」
「ほんと、普通の女の子みたいだ。修の気持ちが良く分かる」
嘉佑は独り言よろしくつぶやいた。
「エっ!何?なんか言った」
迂闊にも自分が発した言葉に嘉佑は驚き、目を覚ませとばかりに首を左右に振った。
「あら、そう。嘉佑も早く着替えて」
今日の由樹は上機嫌だ。
嘉佑がTシャツタイプのウェアから頭を出しかけた時、陸上部の二階部室へ向かう鉄製の階段を重そうな足取りで上がるサンダル履きの乾いた音が響いた。階段を登りきり、両腕を両膝に当て、太り気味の身体を腰から折って陸上部顧問の阿部幸三はフーッと一つ息を吐いた。そして、開け放たれた部室の窓から、首に巻いたタオルで額を拭いながら二重顎の顔を覗かせた。
「あっ、先生」
「おお、嘉佑、ああ、由樹も。部室には二人だけか?」
「はい。あとのみんなはグランドに出ています」
「そうか、申し訳ないけど嘉佑、みんなを集めてもらえないか」
「ここは暑い。金又池に集合してほしい。みんなに話がある」
部室はプレハブで狭く、熱がこもる。立っているだけで全身から汗が噴き出す。
金又池は、各クラブが部室で利用するプレハブ建屋の西側に在り、周りを芝が植えられ、多くはないが幾つかベンチを備え金又高校生徒の憩いの場所になっている。
キャプテンの守山光男、副キャプテンの今岡五郎をはじめ、部員十六名全員が金又池の畔に集合した。
「暑い中、日曜日にも係らずご苦労さん。みんな、芝の上に腰をおろしてくれ。九月の県予選まで、一ヶ月少々となって、みんな追い込みの最中だとは思うが、くれぐれに無理は禁物だ。体調管理をしっかりやってほしい。一人一人が皆の顔色に気遣ってほしい。先日、今岡に言われたクーラーボックス、明日、届くことになっている。水分補給はしっかりとな。さて、集まってもらったのは、みんなも既に承知のことと思うが、昨日の事故の件だ。あらためて事故の概要だが、場所は、日頃から我々がランニングコースにしている海岸道路野島橋付近で、二人乗りバイクが走行中、後席の人間が誤って道路に落ちてしまい、そこを偶然にも、競歩チームの今岡と嘉介、吉樹が遭遇した。間違いないな?今岡」
「はい。間違いありません」
「そして、問題はここからだが、落ちた人間がうちの生徒で二年C組の藤代真次だ。クラスがいっしょの者いるか?」
阿部の問い掛けに、今回、神奈川県予選で、一一〇メートルハードルにエントリーしている木村信夫が返事をした。
「うん。信夫、彼とはクラスで親しいほうか?」
「いいえ、先生、ほとんど話もしたことがありません」
「うん、そうか。では、あらためて、みんなに聞きたい。学年、クラスを問わず、多少なり藤代と係ったことのある者はいるか?」
ほとんどの生徒が、首を横に傾げた。
「うーん、やはりな」
「先生、どういうことですか?」
キャプテンの守山が質問した。
「うん。昨日の事故で藤代は、肩から腕へかけて骨折をし、更に頭を打った。そして、少し、頭に障害が残ったということだ」
聞いている生徒達がざわめいた。
「今岡、悪いがその先を続けてくれ」
「あっ、はい」
阿部の後を受け、今岡は話はじめた。
「先生が言うように、頭を打った拍子に彼の脳に障害が起きた。医者が言う原因は俺には難しすぎて説明出来ないので、状況だけ言うと、本人の意識は戻り、金又の生徒であることも年齢も自覚している。そして、家族も友人も分かり、日常的な事も理解出来ている」
「ちょっといいか、今岡。それでは意味が分からない。本当に脳に障害を受けたのか?」
キャプテンの守山が疑問をぶつけた。
「まあ、待ってくれ。まだ先がある。彼が目を醒ました後の言動は、まるで性格が変わってしまったかのように違うらしい。なんでも、やさしくなったというようにに聞いている。そして、問題は次だ」
今岡はその先を躊躇し、話を止めた。
「なんだ、どうした、今岡、先を続けろ」
守山が今岡をせっついた。
「今まで、経験がまったくないにも係らず、以前から競歩競技をやっていたとする趣旨の話をした」
今度は、皆が大きくざわめいた。
阿部は静まってくれとばかりに、(パン、パン、パン)と掌を打ち皆を注目させた。
「聞いてくれ。何故、経験もない競歩をやっていたとする発言があったのか、その要因の一つがこういう
ことらしい。藤代は、事故の直前、つまり頭を打つ少し前だな。最後に見た光景が今岡等三人だった。そして、この映像が強く記憶に留められた。どうも、一連の記憶障害がここから始まっているらしいのだ。
さっき、担任の布施先生とも話をしたのだが、今後、藤代の記憶が正常になるのか、ならないかはまだ不透明だ。医者もそのあたりの見解は難しいらしい。仮に記憶が戻らない場合は、対応を考えなくてはならない。今言える事はそれだけだ」
二十分前 ― 職員室 ―
「布施先生、いらしていたのですか。昨日は遅くまで大変でしたね。今日は?」
阿部は、休日で出勤していない他の教師のデスクに納まったキャスター付きの椅子を引っ張り出し、布施の隣で重い腰を降ろした。
「ええ。先日の研究会の資料作りがまだですし、それと、阿部先生に昨日の件であらためて、お話をしておく必要があると思いまして。今、よろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
「昨日、私は、病院に詰めながら学校へは随時連絡を入れていましたので、藤代の状態はお分かり頂いていると思いますが」
「ええ、承知をしております。目を醒ましたら、彼自信が競歩競技をやっているというような発言ですね。不謹慎ながら、笑い話のようで少し唖然としましたが。それに、もう一つ。性格も変わってしまったというように聞いています」
「はい。すべて、記憶がもたらす影響だということですが、その中に、夢の要素も含まれているらしいのです」
「寝ている時に見るあの夢ですか・・・」
「はい。解釈が難しく、上手く説明出来ませんが、何でも、彼自身が持っている本来の記憶と夢で作り上げられた記憶とで、まったく新しいストーリーが作られたそうです」
「脳はまだまだ解明されていない部分があると聞いていますが、私にはいささか・・・」
阿部は腕を組み遠くを見つめた。
「それで、布施先生、話しておきたいこととは?」
「はい、藤代が学校に戻って来た時の対応です。例え、記憶障害がこのまま残っても、社会生活に支障がないとされれば、近い将来、藤代は復帰します。何より、彼自信がそれを望むはずです」
「ええ、勿論そうでしょう」
「藤代の記憶障害が事故前の状況に戻れば、彼の学校生活、日常生活は以前と何等変わりないでしょう。多少の違和感は残ったとしても。しかし、障害が残っていたとするならば、あらためて彼を迎いいれる我々は、良いにつけ、悪いにつけ、彼の意思とは関係なしに戸惑う事も多いはずです」
「うーん。確かにそうですね。」
先ほどから組んでいた阿部の腕がやや、強くなった。
「私は、教科の成績については、それほど気にかけていません。記憶の障害は別にして、学力の低下、向上は彼の意思だと考えるからです。高校入試時の成績はトップクラスでしたし、藤代の両親が言うところの〈昔に戻ったようだ〉とするのであれば、逆に学力の意識は高まるものと思います」
「なるほど。と、なると生活面ですか?」
「はい。しかし、生活面と言っても、広範囲で捉えどころがありません。想定しょうにも雲を掴むようです。やはり、個々の局面での対応に終始すると思います。そして、常に、その局面に先手を打つのは藤代です」
「そうか、その局面にならないと、どんな疑問を投げかけて来るか想定のしょうがないか」
「しかし、阿部先生、彼が復帰した当初は我々が先手を打つ事が出来ます」
「そうでした。それは想定でも何でもない。現実として訪れる」
「はい。我々、教職員もさることながら、クラスメイト等、生徒達の彼に対する対応です。生徒達はまだ子供ですから。臨機応変という訳にはいきません」
「そうですね。生徒達は大人と違い素直ですからね」
阿部は頷き布施に同意した。
「素直な分、時に、残酷です」
布施は眼鏡を指で押し上げ、堅い表情で言った。
「事前に、生徒達に事情を伝えておく必要がある」
阿部は独りごとのようにつぶやいた。
「おっしゃる通りだと思います。しかし、まだ事故から二日、十分に時間はあります。今後も僕は、継続的に藤代を見舞いに行きますし、両親と話す機会も多いはずです。その結果の見極めが重要だと思っています」
そして、布施はあらためて阿部に言った。
「阿部先生、それに陸上部に関係する問題も・・・」
「そうですね。やっかいなことではあります。しかし、事実は事実として受け止め、彼の為にも真摯に対応しなければならない。なんとも、デリケートで薄氷を踏むような問題です。事の顛末を正しく伝えるべきなのか?伝えて、彼はそれをどう理解するのか?逆に繕い受け入れて虚偽と気付いた時、彼はどう反応するのか。虚偽と気付くのにそんなに時間はかかりません」
「学業とは違う難しさがあるようですね」
布施は、真っ直ぐに阿部を見つめた。
「適切な表現であるかどうかは分かりませんが、自転車はそこにあるが乗り方を知らない。一方で、二次
関数の問題は解けないが、分数は解ける。とでも言えばいいのでしょうか。前者は既に寸断されている
ということです」
「難しいですね」
「事は簡単ではありません」
阿部はまた、遠くを見つめた。
「いずれにしても、学校全体の問題として取り組まなくてはいけない課題です」
何時か帰って来るだろう藤代の姿を思い浮かべ、布施は、校庭の校門に視線を送った。
6
入院から七日が過ぎ、真次の姿は一般病棟の三階個室に在った。事故から三日後には、完全に生命の危険はないとされ集中治療室を出ていた。
真次の頭部以外の外傷は、右鎖骨の亀裂骨折、右肩甲骨の圧迫骨折など全治二か月と診断され、事故当日のうちに速やかに治療されていた。幸いなことに、ギプスなどで身体の外側から固定する外固定方式の施術のみで、手術によって実施される内固定方式はとられなかった。
真次はベッドから半身を起し、窓から街並みを見ていた。
夏を盛りに迎え、歩道には日傘が行き交い、傍らを行き過ぎる営業マンらしき男性のスーツの背は汗で光っていた。
スライド式のドアが開き、母親の美佐子が真次の兄、真一朗を病院の玄関口まで見送りあらためて病室に戻って来た。
「兄さん、今日、長野へ帰るのかい?」
「そうよねえ、夏休みなんだから、もう少し家に留まるように言っても、卒論の準備だとか、アルバイトが忙しいんですって。あなたにくれぐれもよろしくって」
真次の兄、真一朗は、長野県に在る国立大学・教養学部の四年生で、大学入学と同時に横浜の実家を出、長野市内のアパートで一人暮らしをしていた。
「じゃあ、母さんここでいいよ。冬休みには戻るから。しかし、正直驚いたな。あんなに、つっけんどんだったのに。人格が変わったようだ。その、先生の言う、前頭前野に本当に障害がありそうだ」
「なに人ごとみたいに言っているのよ。あなたの弟でしょ。それに、ここ、何年もいっしょに暮らしていないのだから、それほど真次のことを理解していたとは思えないわ」
「うわー、母さん、きっついなー。でも、最も、そうかも知れない。それに、真次とは五才も離れていて、どこか、子供扱いしてたかな」
「母さんね、素直に、こういうふうに考えるようにしたの」
「どういうふうに?」
「たいしたことじゃないの。事故のせいでも何でもない。何て言うのかな。誰にでもある、あなたにもあった」
美佐子は両肩をすぼめ、少女のような笑顔で真一郎を指差した。
「反抗期が普通に来て、真次の場合は少し遅かったけど。その反抗期は短く、そして、普通に終わったの」
「何だよ、それ、本当に普通じゃん」
「ええ、でもそれで、ふっきれた感じがしてるの。まだこの先、何があるか分からないけど」
「うん。まっ、そうだね。いつになく、母さん前向きだね。笑ってる母さんがいいよ」
「あら、常に母さんは前向きよ」
「アハハハハ、はい、はい、そうですね。お父さんとの間も修復出来たようだし、悪いことばかりじゃないよ。それじゃ、行きます。父さんによろしく。何かあったら直ぐ連絡して」
真一朗は、夏用のハンチングを目深に被り、二度ほど母を振り返り病院を後にした。
真一朗が帰って間もなく、スライド式のドアをノックする人影があった。
「どうぞ」
美佐子は、ドアの向こう側の人影に声を掛けた。一男だった。手にコンビニの袋を下げている。
「こんにちは。はい、これ」
「まあ、まあ、いつも悪いですね。そんなに気を遣わないでくださいね」
「えっ!?先輩、またアイスクリームですか?」
「あっ、ああ、暑いと思って」
「先輩、いくら暑いとはいえ、そんなにアイスクリームばかり食べきれませんよ。母さん、先輩に冷凍庫見せてあげて」
冷凍庫は、連日、真次の買って来たアイスクリームで満杯だった。美佐子は真次に背を向け、クスクス笑った。その時、スライドドアの隙間から遠慮勝ちに女性が顔を覗かせた。
「あのー、こんにちは」
「あっ、いけね、忘れてた、理紗だ!」
「まあ、まあ、どうぞ、お入り下さいな」
美佐子の招きで、理紗ともう一人、明美が病室に入って来た。明美は胸に花束を抱えている。
「この間はお世話になりました」
二人はぎこちなく腰を折り、美佐子に挨拶した。
「いいえ、こちらこそ、お世話になりました」
美佐子は丁寧に応じた。
「また直ぐに来ようと思ったのですが、一男、あっ、飯島君に、(今は遠慮しろ)と大人びた口調で止められて。少しカチンときたんですが・・・まだガキのくせに」
理紗はキッと一男を睨んだ。
「な、なんだよ。ねっ、お母さん、そ、そうですよね」
一男は美佐子に助けを求めた。
美佐子は二人のやり取りに堪らず笑い出した。ベッドの上の真次も、その光景を見て笑い出し、真次も理紗も明美もつられるように笑った。
「あっ、これ、お見舞いです」
明美が花束を美佐子に差し出した。
「まあ、綺麗、ありがとう。今、花瓶に活けて来るわね」
皆がいっしょに笑らい合ったことで、他人行儀な垣根が取りはらわれたようだった。
数分後、美佐子は左手に花を活けた花瓶と右手に簡易椅子抱え病室に戻って来た。
「ええっ!お母さん、言ってくれれば俺が持って来ましたよ」
一男は花瓶を受け取り、慌てて言った。
「いいのよ、洗面所の隣にナースステーションがあって、そこで借りて来たの。気にしないで」
「先輩、お袋はそういう人なんです。今もきっと、看護師さんに(病室までお手伝いします)とかなんとか言われて、(大丈夫です)と、ご丁寧にお断りしたはずですよ」
「お父さんみたいなこと言わないでよ」
「ほら、怒った。図星だ」
「まだ、椅子が足りないから、どなたか、あの生意気な病人の肩の上にでも座って頂戴!」
舞台に立つお妃役の女優のように美佐子は言った。
「じゃあ、俺が座ります」
「せ、先輩!?」
「足元だよ」
皆はまた一斉に笑った。
「そうそう、飯島さんに頂いたアイスクリーム、みんなで一緒に食べましょ。食べきれないほどあるのよ」
「真次は右腕が不自由だから、俺が食べさせてやるよ」
「先輩、止めてくださいよ。自分で食べれます。食事だって、ちゃんと左手で出来ているんですから」
(出来てはいるけど)と、前置きし、美佐子は椅子を立ち、病室の隅の茶箪笥に向かった。そして、引き出しを開け、中からスプーンを取り出した。ところがこのスプーンは、湾曲した先がフォークのように切れ目が三本入り食べ物を刺せるようになっているのだ。美佐子は、このスプーン&フォークを皆の前でヒラヒラさせた。
「世の中進歩しているわよねー。これなら、ご飯も食べれるし、肉じゃがのじゃが芋だって食べれます。おまけにスープだって飲めるわよ」
「母さん!」と真次は悲鳴を上げた。
本日一番、皆の笑いが病室を満たした。
「ところで、飯島さん、お二人をあらためてご紹介してくださる?先日もお会いしているけど、お名前をまだお聞きしていないの」
美佐子は先ほどの笑いが治まぬまま一男に尋ねた。
「あっ、はい、えっーと、そこに座ってアイスクリーム食べているのが・・・」
「先輩、落ち着いて。二人ともアイスクリーム食べてますよ」
「まったく、頼りないんだから。何、汗掻いているのよ。私は、林理紗と言います。高三です」
「林理紗さん、理紗さんとお呼びしてもいいかしら」
「はい」
「理紗さんは、飯島さんとお付き合いしていらっしゃるのね」
「はい、まあ、今のところ・・・」
「おいっ、理紗、今のところって何だよ」
「人生、永いのよ」
理紗の一言で真次は撃沈した。
美佐子は次に明美を見た。
「北川明美と言います。理紗の友達で同じ高校の三年生です」
「理紗さんと同じように、お名前でお呼びしてもいい?」
明美は頷いた。
美佐子は時間の経過につれ、事故当日の話題になるだろう不安を感じ始めていた。
「小母さん、明美は今日、はじめて真次君に会うんです」
美佐子はとうとう、その時が来たと思った。
「そうなんです。事故の日、四人で会うようにしていて、そこで真次を明美に紹介しようと思っていたんです」
この時ばかりは人の気も知らないでと、一男を怒鳴りつけたい心境だった。
「そ、そうだったの、全然知らなかった。友達が増えることって良い事よね。出会いは大事だわ」
美佐子は気もそぞろに曖昧な返事で、目線は頼りなく、真次の表情を盗み見るように見ていた。
一方で、当の明美も、真次を見つめていたが、決して浮ついた感じではなく、何かを量るかのように真剣な眼差しを向けていた。
「真次、そうだよな」
またもや一男の軽率な一言(美佐子にはそう聞こえた)に、美佐子の心臓は凍りつきそうになった。
「ええ、まあ・・・」
真次は、そのままで、しばらく押し黙った。その後の言葉が続かない。
美佐子には、すべての時間が止まったかのように思えた。
そして、唐突に、その後を真次は話はじめた。
「つい、さっき、会ったばかりで。でも、正直驚いた。そのう、す、素敵な人なんで。最近よくテレビに出ている人に似ている感じがするけど・・・何と言う人だっけ」
「珍しい、真次君がこんなにしどろもどろするなんて。見たことない。ササキノゾミよ。あっ、真次君、赤くなってる」
そう言って理紗は真次を茶化し、笑った。
「理紗さんも勿論、素敵だけど・・・」
「なーによ、真次君。そういう言い方されると、怒るに怒れないでしょ。でも、確かに認める、明美が可愛いのは」
「エへへへ」
「一男、笑うところじゃないでしょ!」
その時、美佐子は、瞳に押し寄せる涙の決壊を防ごうと顔を上げ懸命に瞼をしばたたせていた。
この一週間、事故当日の出来事に美佐子は触れられずにいた。触れた事によって起きうる代償を思うと、触れる事の勇気が持てなかった。
美佐子は、いつの間にか明美に左手を握られていた。明美は感の鋭い少女だった。思わず二人は見つめ合った。その時、美佐子の瞼はたまらず決壊し、一筋の涙が頬を流れた。
美佐子は、自分の真意を汲み取ってくれた明美の気持ちが嬉しかった。
7
夏の陽も陰り、季節は初秋を迎えていた。
先日終わりを告げた高校総体は、神奈川県予選を皮切りに南関東大会、そして、高校総体本選と進む中、金又高校陸上部は創部以来の快挙を成し遂げていた。ここに、陸上部の軌跡の一部を紹介しておこう。
神奈川県内でも上位にランクされ、県予選通過を有力視されていたキャプテン守山光男は、一〇〇メートル、二〇〇メートル短距離走に出場。その実力を存分に発揮し、一〇〇メートルで二位、二〇〇メートルでは優勝という輝かしい成績で南関東大会出場を果した。また、中距離五〇〇〇メートルに出場した梶原修も三位の高成績で念願の南関東大会出場を決めた。しかし、その後の高校総体本選には健闘むなしく出場に至らなかった。だが、一人だけ、その大いなる壁を突き破った選手がいた。競歩種目代表の副キャプテン、今岡五朗だ。今岡は、五〇〇〇メートル競歩に出場。県内トップの二一分五十五秒を叩き出し、南関東大会出場を決め、更に南関東大会においても二位入賞。なんと、高校総体本選に駒を進めた。しかし、本選の出場となれば、全国から名立たる選手が集まる強豪揃い。だが、今岡は、激烈なレースを展開し、必死に上位の選手に食らいつき決勝進出を果たした。そして、全国6位入賞の好成績で大会を終えたのである。
今大会、金又高校陸上部は、出場種目十一のうち、六種目もの競技が南関東大会へ勝ち上がったのであった。
― 陸上部の健闘の祝賀も冷めやらぬ十月はじめの職員会議 ―
美山校長の話が続いている。
「・・・陸上部の活躍は、我が金又高校の文武両道の心得と基本をなすところであります。他の公立高校からも賛辞され、非常に励みとなるとたくさんの祝福を頂きました。失礼、話が長くなりました。阿部先
生、一言お願い致します」
「校長先生、時間が押しております。まだ最後の議題を残しておりますし・・・」
議事進行、英語教師の菅原は、不服そうに意義を唱えた。
「あ、うん、よろしい。阿部先生、一言お願い致します」
美山は菅原の意義に感知せず、再度、阿部にコメントを求めた。菅原は、歌謡ショーのステージで、歌い終わった歌手が次の歌手を紹介するように、肘を折り、掌を見せて、(どうぞ)とばかりに無言で阿部のコメントを促した。
「それでは手短じかに。この度は、ご声援ありがとうございました。校長先生をはじめ、教職員の皆様に
厚くお礼申しあげます。今回の結果は、日々、努力を怠らなかった生徒達の賜物にほかなりません。大会成績もさることながら、今後の彼等の人生にとって、大変意義深い大会期間中だったはずです。是非、生徒達には、この尊い経験を将来に活かしてほしいと思います」
そうコメントして、阿部は頭を下げた。
「ありがとうございました。早速、本日最後の議題です」
菅原は、阿部が頭を下げ切らぬうちに議事を進行した。
「えー、本日最後の議題です。二年C組、藤代真次の件です。一生徒の問題を取り上げる事については、
甚だ、疑問視される先生もいらっしゃるのではないかと思いますが・・・」
美山が間髪を入れずに言った。
「菅原先生、あなたはそのように思うのですか?」
「いえ、けっして、そのような・・・」
「布施先生、最近の藤代はどういう状態ですか?」
美山は、菅原を無視するかのように布施に質問した。
「はい。事故以降、状態は変わりません」
「つまり、二か月前の彼とは、未だに違うということですね。彼自身、自分の変化に多少なり気付いている様子はないのですか?日常生活も問題ないのですか?」
美山は立て続けに布施に質問した。
「はい。自分が変わったという印象は今のところないようです。また、日々の生活にも支障はありません。医者も問題なしとはっきり言っています」
「骨折等の具合はどうですか?」
「はい、それらについても、リハビリも順調に進み、先週あたりから父親とキャッチボールも始められる
ほど回復しているようです」
事情を知るほとんどの教職員がざわめいた。
「この二年をどう解釈していいのか、不思議としか言いようがない状況ですね」
美山は席を立ち、窓に掛かるブラインドを巻き上げ、夕方にさしかかる校庭を見つめた。季節は間違いなく行き過ぎている。美山は振り返り、更に布施に質問した。柔らかな西日が、美山の横顔を琥珀色に染めている。
「布施先生、藤代の両親ですが、事故後の経緯を本人に伝える意思はあるのでしょうか?」
「はい。非常に迷っています。事実を伝えて、藤代が受け止められるのか、不安を感じているようです」
「布施先生は、どう、お考えですか?」
「はい。私はこの二年間、担任として、特別、藤代と深く係って来たという訳ではありません。勿論、無視したこともありません。他の生徒と一線を引くというように思ったこともありません。しかし、クラスの中で唯一浮いた存在で、協調性はなく、酷く投げやりな印象であったことから、どう、彼に接触したらいいのか困惑もしていました」
「ええ、布施先生、あなたの指導に云々言うつもりは毛頭ありません。一生懸命にやっておられていることは私も承知しています」
美山は布施を労う。
「あっ、いいえ、そういうつもりでは。反して、事故後の藤代は驚くほど変りました。投げやりな印象などどこにもありません。協調性も高く、誰に対しても自然な気遣いで、高校生とは思えない懐の深さを感じさせます」
「懐の深さ・・・ですか」
美山は考えこむように、また、窓の外に視線を向けた。
「布施先生、続けてください」
「はい。一方で、事故の数日前、彼と二人きりで話をする機会を持った私は、何時になく気軽に話をする藤代と、戸惑いながらも、とりとめのない話をしました。しかし、その数分で彼に対する私の印象は大きく変わりました。どう言ったらいいのでしょう。とても感情豊で冷静な人間であると感じたのです。それなのに私は、藤代の心の一端を覗けたにも係らず、それ以上踏み込もうとしませんでした。今思えば残念でなりません。情けないくらいに・・・」
「それも、教育の中の一こまに過ぎません」
美山は布施を気遣った。
「そして、短い会話の終わりに、藤代はこう綴りました。今思うとまるで予言めいたように聞こえますが、(先生、前も今も自分なんだよ)、と」
教職員達が驚くように反応した。
「なんとまあ、神がかり的な話ですね」
菅原がちゃかすように言ったのを美山が制した。
「私はこの二ヶ月間、藤代を冷静に見てきたつもりです」
この時、布施の視線は阿部にあった。
「彼は、真実を受け入れられるはずです」
「うむ。布施先生、あなたは、現在の藤代の精神状態であれば告知は可能であると思うわけですね?」
布施は頷いた。
美山は、職員全員を見廻し言った。
「私は、何度も言うように、学校全体の問題として捉えています。他の先生方のご意見も参考にしたいと思います。いかがでしょう、どなたかご意見のある方は?」
すると、古典担当の北村由美子が真っ直ぐに手を上げた。今年、金又高校に赴任した新任教師で、学生の匂いがまだ消えずに残っている。
「あの、布施先生、病院の先生は告知について、どう言われているのですか?」
「ええ、医者の立場から、出来れば、本人に事情を伝えたいと思っているようです。ただ、最終的には両親の気持ちを尊重したいと話されています」
「私も告知に賛成ですな」
北村とは逆に、来年定年を迎える数学教師、笹川がおもむろに意見を述べはじめた。
「先ほど、布施先生から藤代の状態、それに布施先生が感じておられる彼の心情などをお聞かせ頂いたが、常に接している布施先生ならではのご意見でしょう。やはり、ここは事前に通達すべきだと思います」
笹川は、阿部に視線を移し話を続けた。
「事故後の記憶障害で、競歩をやっていたとする話をし、今も尚、復帰の準備を進めているという。しかしながら、現実は彼の戻る場所はない。これは残酷なことです。阿部先生は、どう、お考えですか?」
笹川は、質問の矛先を阿部に向けた。が、その時、議事進行の菅原が皮肉めいて言った。
「阿部先生には最初から、藤代を受け入れる気持ちなんてありませんよね。取り分け、陸上部は厄介事を二つも抱えることになりますからねえ」
「君!今は藤代の問題で話あっている。不謹慎ではないかね」
笹川が、菅原に威圧的に言った。
「い、いえ、いえ、私はただ、阿部先生のお気持ちをお察ししただけで・・・」
菅原は、掌を捏ね、上目づかいに弁明した。
菅原が言う、陸上部が抱える問題。それは、陸上部の大半の生徒が通称で由子と呼ぶ内田由樹のことであった。由樹は、幼いころより、心の性と身体の性に違和感も持った、いわゆる、性同一性障害の持ち主で、男性の身体でありながら心の大部分を女性の要素で占められた通称、M・T・F(男性から女性へ)と呼称されるタイプの男性であったのである。
それは、今から遡ること、一年と十カ月ほど前。由樹が金又高校へ入学する直前の出来事であった。
― 金又高校・校長室 ―
美山校長に呼ばれた阿部は、校長室のドアをノックし、美山の返事に促されて部屋に入った。そこには、三名の親子らしき人達がいて、校長室に設けられた三人掛けソファに目鼻立ちのはっきりした透通るような肌の(女の子)を中央に、両隣には両親とおぼしき人が座っていた。
「阿部先生、お忙しいところ申し訳ありません。どうぞお座りください」
阿部は、美山に対座する三人に浅く一礼し、美山が座る隣の一人掛けのソファに腰を降ろした。
朝から降り続ける細い雨は、夕方になっても止む気配はなく、校長室の窓ガラスから雨の滴が消えることはなった。
「さっそくですが、ご紹介いたします。本年度、我が校に入学が決まっている内田由樹君とそのご両親です」
美山の前の三人を紹介され阿部は驚いた。と、同時に、中央に座る人物に視線は貼りついた。
「阿部先生、驚くのは無理もないことです。由樹君は男性です」
由樹は、美山の言葉に臆することなく真っ直ぐに阿部を見つめ、(よろしくお願いします)と、頭を下げ、同時に、由樹の両親もソファから立ち上がり阿部に深く頭を下げた。
「どうぞ、お座りください」
阿部は、両親が座り直すのを待って、あらためて自己紹介した。
「本年度、一年生の日本史を担当いたします、阿部幸三と申します」
「あっ、はい、私は、由樹の父親で、内田邦彦と申します。隣は、家内の裕子です。よろしくお願い致します」
「阿部先生、先生には、ご家族の訪問の理由を予め話しておく必要があると思っていましたが、皆が同時に顔を合わせる今日になってしまいました。申し訳ありません」
美山は、事前に伝えられなかったことを素直に阿部に詫びた。
阿部は返事の変わりに頷いた。
「阿部先生、あなたも驚かれたようでしたが、私もはじめて由樹君とお会いした時は驚きました。由樹君には失礼ながら、神も悪戯らが過ぎると思ったほどです。当然だと言えば当然ですが、化粧もせずにいる顔立ちから、とても男性とは思えません」
「はい。私もそのように思います。確か、私の記憶が正しいのであれば、由樹君は、本年度、我が校に一番の成績で合格していますね?」
「はい、その通りです」
本来、本人、父兄の面前で、入学の合否は別として順位の公表まではしない。しかし、この場の空気がそれを良しとし、美山までもがその結果を認めた。
「さて、内田さん、私から阿部先生に今日に至るまでの経緯を簡単にお話させていただきますが、よろしいでしょうか?」
美山は、内田邦彦に視線を向け言った。
内田邦彦は、しっかりとした口調で、(お願いします)と返事をした。
「由樹君、君もいいね」
美山は由樹にも同意を求めた。
「はい」
由樹は、この年齢にして、既に達観し、自分の人生の良し悪しを受け入れているようであった。
「阿部先生、結論から申し上げると、由樹君は、既に医者から性同一性障害と診断を受けています」
人は、自身がどの性別に属するかという感覚、男性又は女性であることの自己認識を持っており、これを性同一性という。
大多数の人は、身体的性別と性同一性を有するが、稀に、自身の性別を理解しているものの、自身の性同一性に一致しない人もいる。そうした、著しい性別の不連続性を抱える状態を性同一性障害と医学的に捉える。そして、性同一性障害の発生原因は、生まれつき、身体的性別と性同一性に関わる脳の一部とが、それぞれ一致しない状態で出生したものと考えられている。
「由樹君と共にご両親も、様々な葛藤、苦難を乗り越え、今日に至っている訳です」
阿部は、美山の話しの終わりと同時に、閉じていた目を開いた。
そして、親子の誰となしに感慨深げに言った。
「苦労しましたね」
母親の裕子は感極まり、ハンカチで目頭を押さえた。
「ご両親は、将来の由樹君について、どうあるべきだとお考えですか?」
阿部の質問に父親の邦彦が答えた。
「はい。校長先生にお話し頂いたように、我々親子は、悩み、苦しみ、時に罵倒し合い、私など、逃げ出したいほどの心境になりました。しかし、一番辛かったのは由樹だったはずです。中学二年生までの彼は、自分本来の姿を学校では見せる訳にもいかず、家庭でも、特に私に気遣い、(男性)として振舞っていました。しかし、その結果、彼は多大なストレスに陥り、髪は一部円形に抜け、食欲は失せ、彼の心は病んでしまったのです。中学三年生になった春、専門医の診察を親子共々受ける決心をし、そして、性同一性障害と診断されました。本来、男性から女性へ移行する段階での処置として、ホルモン療法などされるらしいのですが、由樹の場合、ほとんどそういった療法をとらずに済むらしいのです。つまり、より女性に近い体質ということになります」
内田は、迷わずに言った。
「私達夫婦は、由樹の心のままに生きてほしいと思っています。そして、近い将来、由樹がきちんと(女性)として生きて行けるように応援して行きます」
阿部は由樹を見た。由樹は、二重瞼のはっきりした目で先ほどと変わることなく、しっかりと前を見て座っていた。その瞳に、一点の曇りもなかった。
「さて、阿部先生、単刀直入に申しあげます。由樹君をあなたのクラスに編入させたいと思いますが、引き受けて下さいますか?」
「承知致しました」
阿部は、躊躇なく即答した。
「あ、ありがとうございます」
由樹の両親は、再びソファから立ち上がり、深く頭を下げた。
「内田さん、頭を上げてください。由樹君も他の一生徒と何等変わりありません」
「阿部先生、私からも礼を言います。ありがとうございます。さて、次に由樹君の学校での立場ですが、
あくまで、男子生徒の扱いです。お分かり頂けますね。中学での生活がそうであったように、高校生活においても不便を感じるでしょう。そこは由樹君、自らの感性と努力で乗り切ってください。出来ますか?」
「はい。大丈夫です。校長先生、阿部先生、よろしくお願い致します」
由樹は、外の憂鬱な雨を吹き飛ばすくらいの笑顔ではっきりと答えた。
「私も笹川先生と同意見です。藤代の問題については、これまで幾度となく、布施先生と話をさせて頂いて来ました。布施先生は、当初から、藤代の見舞いを続ける上で症状を確認し、今後の対応を考えたいとおっしゃっていました。私も布施先生の意見を尊重したいと思います」
「分かりました。布施先生、藤代はいつ頃学校に復帰の予定ですか?」
「今月、十日を予定しています」
「後、一週間ほどですか。藤代の告知については、どなたが?」
「はい、担当の三上という医師が。非常に信頼出来る先生です」
「布施先生、あなたも同席されるのですね」
「はい」
「うむ。ご足労ですがよろしくお願いします。それと、阿部先生、先生にも同席をお願い出来ませんか?
布施先生、いかがですか?」
美山は、阿部に答えを聞かずに布施に意見を求めた。
「それはもう、阿部先生がいらして頂ければこれほど心強いことはありません」
「阿部先生、よろしくお願いいたします」
「あっ、はい、私も経緯場、関係がありますので・・・」
阿部は見事に、美山の術中には嵌ったと感じた。
当の美山は、ほくそ笑み、阿部が目を合わせると、さっと視線をかわし背中を向けた。見る人が見れば、二人の強い信頼関係が見てとれるような光景だった。阿部は笑いをこらえていた。
「藤代の件は、もう、よろしいでしょうか?校中先生。終了してもよろしいでしょうか?」
「少し待ってください」
布施の発言に菅原は、明らかな不機嫌顔で口をへの字に曲げた。
「校長先生、今日のこの決定にあたって、藤代の両親には、学校の総意ということで話をしても構いませんか?」
「勿論です」
8
真次の退院を控えた四日前の午後。まさに、空は秋晴れだった。
例の集中治療室の隣室で、三上医師は、真次のカルテに目を通しながら真次と真次の両親、真次のクラス担任の布施、それにもう一人、初対面となる、同じく金又高校の教師が訪れるのを待っていた。
約束の時間、テーブルの卓上時計は午後二時になろうとしていた。そして、間もなく、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
三上は、ドアの向こう側へ声をかけた。ドアが開き、真次の父親の紀夫を先頭に、製造工場のラインの上を部品が運ばれるように、訪れた五人は一定の間隔で整然と部屋に入って来た。狭い部屋に多少窮屈な感じだった。三上は以前から有るソファ以外に、簡易椅子を三脚用意していた。
三上は、ほほ笑み、五人を迎えた。
三上の前の二人掛け用のソファには、真次と母親の美佐子が座り、二人を挟むように紀夫と布施が座った。三上と初対面の阿部は、三上と並ぶように椅子に腰かけた。真次は、今日の三上の話を退院前の形式的なものだろうと思っていたが、二時に合わせ、両親と病室を出、三上が待つ部屋へ行く途中のロビーに布施と阿部がいたことに少し戸惑い、不安めいたものを感じていた。
ひと通りの挨拶が終わり、三上は真次に話かけた。
「いよいよ退院だね。どう気分は?」
二か月ほどになる真次との付き合いで、三上は杓子定規な物言いではなくなっていた。
「はい。調子は凄くいいですし、勿論、退院を心待ちにしていました」
真次は、奥歯に物の挟まったような言い方をした。
「ただ、今日の雰囲気は不自然な気がします。退院前のごくありふれた先生からのお話しであるとは思えません。両親はともかく、学校からもわざわざお二人の先生がいらしています」
紀夫が絡んだ淡を切るように、一度のどを鳴らした。
「先生、やはり、僕に何か起きているのですか?」
「その前に聞かせてほしい。事故前と事故後で、何か、心境の変化みたいなものを感じたことはない?」
三上は言葉を選んで真次に質問した。
「心配しないで、何でも話してほしい」
真次は俯き、言おうか、言うまいか悩んだ。誰一人、言葉を発せず、沈黙の時間が流れた。
数分が経過し、ふと、真次が顔を上げた。その表情は不安げだった。
「真ちゃん!」
思わず美佐子が真次に声をかけた。続けて、何か言いたげな美佐子を三上が目で制した。
「真次君、君はさっき、(やはり、僕に何か起きているのか)と言ったね。それは、君自身、何かしら、身体の変化に気付いているというふうに受け取れるけど?」
真次は、額にうっすら汗をかいていた。
「普段は何も変わらず、不自由なこともないんです。ただ、分からない!競歩に関することがまったく思い出せない!まるで誰かが、僕に、二度と競歩はさせないとばかりに仕組んでいるかのようで。僕の記憶に、競歩がこれっぽっちもないんです。先生!これは、事故で頭を打ったからではありませんか?!」
そう言って、真次は頭を抱えた。そこにいる真次は、不安と恐怖に苛まれる普通の高校生だった。
「真次君、落ち着いて。一つ一つ、修正していけばいいんだ。君の症状は、それが出来るんだよ。私を信頼して話を続けて」
「リハビリも終わりに近づいた頃、競歩の練習を再会しようと病院の散策路へ出、何回も(走ろう)と試みましたが、一歩も前へ足を踏み出せませんでした。まったく、フォームを思い出せないんです」
「真次君、それは当り前なんだよ」
真次は、三上の言葉に目を丸くした。
「えっ?!どういうことですか?」
「真次君、こちらの先生は分かるよね」
「はい、勿論分かります。日本史担当の阿部幸三先生です」
「確かに、日本史担当の阿部幸三先生です。真次君、他に阿部先生について、何か思い当たることはない?」
「えっ!?」三上の質問に戸惑いながらも、阿部を見つめ、真次は考えた。
「阿部先生は、学校で見かける程度で、授業も受けたことはありませんし、他に思いつくことは正直ありません」
真次は、尚も不安が増したようで、額の汗が玉になり光だした。
「三上先生、ここからは私が。よろしいでしょうか?」
三上は浅く頷いた。
「藤代、君とは初対面に近い。あらためてよろしくお願いする」
そう言って阿部は、真次に右手を差し出し握手を求めた。
何が何だか分からず、釣られるかのように真次も左手を差し出した。
「藤代、冷静に聞いてほしい。私は、金又高校の陸上部の顧問でもある」
真次は、額の汗も引かぬ間に、あらたに、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「ええっ!?先生、ぼ、僕は、競歩競技ばかりだけでなく、それ以外の記憶も失くしてしまっている!?」
真次は、三上に虚ろな目を向けた。
「す、すいません、阿部先生、そんな大事なことまで」
真次は、阿部に視線を移し、申し訳なさそうに言った。
「いや、藤代、私にそんな気を遣わなくていい。そうではないんだ」
「真次!」
その瞬間、紀夫は堪え切れず、真次を愛おしそうに抱きしめた。そして、思わず言った。
「真次、おまえはな、おまえはな。少し、記憶障害が残ってしまったんだ。でも、心配しなくていい。すべて順調に行っている」
一瞬、部屋の空気の流れが止まった。
秋の日に落ちる陽は早く、部屋は薄く黒ずんできた。
真次は、抱きしめられ、胸に埋もれた顔を起こし、ゆっくりと剥がれるように紀夫の身体から離れた。
真次の額の汗は、紀夫に抱きしめられた際に服で拭き取られたせいなのか消えていた。皆は、固唾を飲んで真次の言葉を待った。
「先生、僕の症状を聞かせて下さい」
三上に向けた真次の表情は落ち着いていた。
「真ちゃん、気分はどう?大丈夫?」
美佐子は、気もそぞろに言った。
「母さん、大丈夫。心配しないで」
「先生」
真次は、視線を三上に向けた。
「冷静に聞けるね?」
真次は頷いた。
「二日前にMRIの検査をし、君といっしょに画像を見たよね?その時にも言ったけど、脳は非常に綺麗な状態だった。そして、このことは君に初めて話すけど、事故当初、つまり、頭を打った直後の状態も、
今回の検査結果と大差はなかったんだ」
「では何故?」
「頭を打ったことによる記憶の障害であることは間違いない。厳しい言い方かも知れないが、実際に君に起った。しかし、君の場合、単純に記憶障害であると断定することは出来ない。何故なら、本来、記憶障害とされるもののほとんどに脳の損傷が認められている。真次君の場合、脳のショック障害とでも言ったほうが分かりやすいかもしれない。頭を打ったことで、脳全体のバランスが崩れ、それぞれの脳細胞がドミノ倒しのように連鎖して、あるもは機能を止め、あるものは急激に働いた。おそらく、こう理解していいと思う」
「その結果、僕は記憶を失くしたのですか?」
「いや、と、言うより、記憶の混乱をきたしたと言ったほうが当っているかもしれない。突拍子もなく聞こえるだろうが、君は意識を失くしていた時間に夢を見ていたような記憶はある?」
「あるような、ないような。でも、クラブ活動のこと。つまり、競歩のことは、常に、頭の中にあったような気がします。常に復帰を待ち望んでいましたから」
三上は、診断した結果が、想定を含んだものであったものの、真次の今の言葉で確信に近い感覚を得た。
三上は、真次以外の四人を見廻し、(これから伝えます)というように視線を送った。
「真次君、君は明らかに夢を見ていた。現実に競歩をやっていたという事実はない」
真次には衝撃的な言葉だった。記憶障害と宣告されたものの、実際に行っていた競歩が現実でないと言われるとは思ってもみなかった。
「し、しかし・・・」
真次は、助けを乞うように阿部を見た。
阿部は、静かにかぶりを振った。
「真次君、つらいだろうが、事故の状況を思い出してほしい。真実を知る為に。君はオートバイから落ちる瞬間、何かを見なかったかい?」
「真次、落ち着いて、焦らずに考えてごらん」
紀夫が、やさしく言った。
真次は、心の整理がつかぬまま、目を閉じ事故の状況を振り返った。
熱い夏の陽を浴び、一男の運転するバイクは、火照った体を冷やそうと焼けた道路を疾風のように走っていた。バイクの速度は、直線道路からカーブに差しかかってもほとんど変わらず、尚も快調だった。
その為、一男のバイクは、より強い遠心力に負けまいと何時もより深めに車体を倒し走行していた。
(真次!!今何時だ!!)
(三時くらいっす!)
(えっ!!聞こえねーよ!!何時だ!!)
「僕は先輩に正確に時刻を伝えようと、後方に回していた左手を離しました」
「あっ!見た!見ました!」
真次は、唐突にその瞬間を思い出した。
「赤いランニングウェアで競歩をする僕と同い年くらいの選手達、三人でした。そして、その後、競歩する選手は四人になっていました。一番後を走っているのは僕です・・・」
真次の言葉に、三上を除いた四人は言葉を失った。一方で、真次の表情は凍りついたかのようだった。
「真次君、信じられないだろうが、驚くほど君に不思議な現象が起きたんだ。オートバイから落ちた君は、その直後に頭を打ち、同時に深い眠りに入った。そして、現実から夢の世界へ移行する過程で、君の脳は、夢とは終わらせずに現実に行って来たものとして認識させた。しかし、新しく生み出されたストーリーは、本来から持つ僅かな君の競歩知識でしか構成されていない為、病院の散策道で競歩を再開しようと練習を試みて一歩も足を踏み出せなかった訳は、競歩競技の実態を知らない為の何ものでもない。それに関して言うならば、記憶障害でも何でもない。競歩競技をまったくやったことがないからなんだ」
「藤代、競歩というスポーツは、ただ歩くだけでない。正確なフォームを要求される。そして、このスポーツに携わる者は(走る)とは言わない。(歩く)と言う」
阿部は柔らかく、諭すように言った。
真次の表情に赤みが注してきた。恥ずかしさからなのか、それとも、未だ理解出来ず、混乱しているせいなのか。
「先生、今、はっきりと現実でなかったことに気付きました」
「えっ!?真次、思い出させたの?」
美佐子が泣き笑いの表情で言った。
「ああ、母さん、先生、思い出しました」
「ゆっくりでいいよ。聞かせて」
三上に促され、真次は話だした。
「頭を打った直後から、事故にあったという認識はありませんでした。先ほど言ったように、その瞬間から競歩選手三人の後方に着き、走りはじめて、いいえ、歩きはじめていました。しかし、歩きのフォームは曖昧でした。他の選手も同様です。しばらくし、学校へ着いた僕たちはグランドを数回歩き練習を終えました。翌日も、その翌日も同様の練習していました。練習で話をするのは、バイクから落ちる直前に見た三人だけです。顔は、はっきり覚えています。角刈りの身体の大きなキャプテンが江田さんと言い、もう一人の男性は中村さん、もう一人の女性は三浦さんと言いました。勿論、夢の中での話です」
真次は、はっきりと自覚した。
真次の症状を改善する為に、頭を打ったことで起きた夢の作用など、真次の自意識の覚醒が不可欠だと三上は思っていた。
真次の場合、複雑な脳の混乱はあったものの、稀な記憶障害と理解していた三上は、混乱をきたしたままの脳がON状態にあって、これをOFF状態に戻すことにより症状は改善するだろうと思った。
それを解決する方法、つまり、OFF状態に戻す為には、事故の直前から、オートバイから落ちて頭を打ち、眠りに入ってからの記憶を思い出させることが必要であると考えたのである。先に、三上は真次に、(一つ一つ、修正していけばいい。君の症状はそれが出来る)と言っている。
つまり、脳が作り出した誤った情報だと理解出来れば、その答えを埋めていく作業で改善出来ると思っていたからである。
この件をきっかけに、真次は、春を迎えて雪解けとなり勢いよく川を渡る水のように、事故以前のことも鮮明に思い出した。しかし、今の真次は、気恥かしさを覚えながらも、父である紀夫との関係や二年前までの生活を元に戻そうなどと一切思わなかった。
その日、皆が疲れているだろうとベッドで休むことを勧め真次を気遣かったが、真次は、二人の教師を病院の玄関まで送った。そして、真次は阿部を呼び止め言った。
「阿部先生、陸上部に入部の許可を頂けませんか?出来れば競歩をやってみたい」
9
「いい、みんな!昨日も言ったけど。自然に、自然にね!」
二年C組、クラス委員の鏑木悦子が、教室にいるクラスメイトに声を掛ける。
事故後、久しぶりに真次が復帰して来る教室は、若干の興奮と緊張に包まれていた。そして、生徒達は、その興奮を押さえるかのように、真次の登校前に早々に学校へ来ていた。
担任の布施は、今日の日を迎えるにあたり、クラス全員の生徒に真次の事故後の状態を伝えていた。
「先生が言っていたように、藤代君のペースに合わせるのよ。事故前の藤代君の印象は忘れましょ」
「なんか、落ち着かないな」
「大丈夫。平常心、平常心」
悦子は、一人の男子生徒の不安げな言葉に応じたが、それは、自分自身に言い聞かせている事でもあった。間もなくして始業のベルが高らかに鳴った。いつもの教室内であれば、これから始まる授業に抗うかのように、チャイムが鳴り終わった後も数人の生徒が輪を作り、尚も話続ける場面も見られたが、今は、チャイムが鳴り終わるまでに全員が席に着き、波を打つような静けさで藤代の到着を待っていた。
始業後の八時五十分。他のクラスでも、ホームルームや一時間目の授業がはじまり、廊下に人影はなく静かだった。
その時、廊下を歩く二人連れらしき足音と僅かに交わす話声が響き、数秒後、二年C組のドアは開かれた。
「おはよう」布施の声のトーンはいつもと変わらない。
布施が、教壇に向かって歩を進める。直ぐ後方を俯き加減で真次がつづく。
「おはよう」
教壇の前に立ち、布施は、あらためて挨拶した。
「みんな、久しぶりに藤代が帰って来ました。身体も完治し、二か月の入院生活で少し太ったかな?」
長身の藤代を下から覗きこむように、布施は冗談めかせて言った。布施の冴えないジョークながらクラスの空気がやや緩んだ。
「藤代、無事生還の挨拶を」
布施は、受けないジョークを連発した。
藤代が俯き加減だった顔を上げ、話はじめようとしたやさき、陸上部で百十メートルハードル選手の木村信夫が声を発した。
「お帰り。藤代」
「ありがとう」
真次は、はにかみながら信夫の言葉に応じた。クラスの何人かの生徒が、隣に座るクラスメイトと顔を合わせ、真次の(ありがとう)の言葉に反応した。
以前の真次からは、想像も出来ない言葉だったからである。
「みんな、ありがとう。そして、ただいま。布施先生からの話で、事故から今日までの一連の経過について、ある程度、僕に起ったことは知っていると思います。事故直後、頭を打ち、記憶障害を起こした僕ですが、記憶障害が僕自身に起っている事など、少しの自覚もありませんでした。
その理由は、周囲の人も分かるし、普通に生活も出来ている。最も、骨折などで、当初は不便ではあったけど。そして、事故前の記憶もあったから。僕の中で、何の不思議もなかった。脈々と途切れることなく、日々の記憶の積み重ねはあったから。でも、その記憶は、現実と仮想の中で作られたものでした」
真次は、もの思いに耽るように言った。
「二か月前の自分を思うと、正直、恥かしい。みんなの前で、こんな話をする奴ではなかった。周囲には性格が変わったと言う人もいます。僕自身、そうであるような、そうでないような。でも、今の自分に違和感はありません。みんなには不自然に映るかもしれないが・・・」
「藤代君、そんな他人行儀はやめて。みんな、クラスの仲間よ」
クラス委員の鏑木悦子が快活に言った。
「そうだよ、藤代。以前だって、別にクラスの誰かと喧嘩していた訳じゃなし、ある意味、お前は冷め、みんなから距離を置いていただけさ。これからは、いっしょにやっていこうぜ」
これから、陸上部のチームメイトとしても行動を共にする信夫が言った。
その日の放課後、真次は陸上部顧問の阿部を職員室に尋ねた。
職員室のドアをノックし、職員室に入ると、教職員の視線が一斉に真次に向けられ、職員室の奥に座る阿部のデスクに着くまでその視線は貼りついた。途中、英語教師の菅原が待っていたとばかり、卑屈に真次に声を掛けた。
「やあ、藤代、もう頭は大丈夫かい?」
真次は、菅原の声が聞こえなかったように、真っ直ぐに阿部の元へ向かった。
阿部は、真次を直立の体制で待っていた。
「阿部先生、先日はありがとうございました」
真次は深く頭を下げた。
「退院、おめでとう。今日から再スタートだな。焦らずやりなさい」
「はい。ありがとうございます。早速ですが、先生。陸上部への入部、許可して頂けますか?」
「本気か?藤代。この二年間、君は身体を動かしていない。辛いぞ」
「はい。覚悟しています。是非、やらせて下さい」
「君は、中学時代、野球をやっていて、けっこう、名を馳せた選手だったらしいな。下地は出来ていることだろう。よろしい。許可しよう。今頃は部室で部員が着替えの最中だ。これからみんなに紹介しよう」
「あ、ありがとうございます」
真次は、熱いものが込み上げるのを感じた。
阿部と真次は、プレハブ二階の部室へ向かう鉄製の階段を上った。
「階段を上がって二つ目のドアだ」
十月も半ばを迎え、時折吹く風は冷たく、部室のドアは閉められていた。
阿部は、部室のドアをノックした。
中から由樹の返事が聞こえた。
「ハーイ」
「由樹、私だ。みんないるのか?君も着替え終わったのか?」
阿部は、悪戯っぽく笑い、真次を見た。
真次は、阿部が笑い掛けた意味が分からなかった。
部室のドアが開き、髪を茶に染め、ショートヘアにした目のくっきりしたモデルのような女の子がトレーニングウェアに身を包み、まさに、ファッション雑誌から飛び出すように部室から出て来た。
「失礼するよ」
阿部は、促すように真次の肩に手を当て部室に入った。
真次は、先ほど阿部が笑った意味がまだ分からなかった。ただ、驚いたことに、この女の子は、事故でオートバイから落下する直前から、落下し、頭を打って、夢の世界へ導かれた後も競歩を練習した三人の中の一人で、名前を三浦さんといった。
「みんな、いるか?」
阿部の声に気付き、部員の話声がさざ波のように引いていった。
「みんな、長椅子に腰かけてくれ」
部員が腰掛ける伝統ある長椅子には、半ば消えかかっているオバケのQ太郎のイラストから、まだ新しいスラムダンクのイラストや、陸上部の先輩達が卒業時に残したサインなど、昭和から平成にかけて幾つも刻まれ、或いは描かれていた。
三本ある長椅子に、十六人の部員は多少窮屈ながら全員が座った。
「紹介しよう。新しいチームメイトだ。二年C組の藤代真次。皆も知っての通り、事故で怪我をし、今日から久しぶりの登校だ。藤代は、事故で頭を打つ直前にうちの競歩選手三名を見とめ、その直後、頭を打った。そして、意識を失った訳だが、不思議なことに藤代自身は、意識を失っているとの自覚はなく、昏睡状態で見た夢を現実のものとして、金又の競歩選手の一員となって活動していた。病院で意識を取り戻してからも、金又の競歩選手であることに何の疑いも持っていなかった。
勿論、今は、すべて理解している。その上で藤代は、陸上部に入りたいと言って来た。私は、その申し入れを受け入れた。さあ、藤代」
阿部は真次にコメントを求めた。
「はい。二年C組の藤代真次です。今日から陸上部にお世話になります。よろしくお願いします。
阿部先生が言ったように、事故後の僕は何の疑いも持たず金又の陸上部の一員でした。しかし、それはあまりにも鮮明な夢想の世界での出来事でした。だからと言って、特別な強迫観念に駆られて陸上部に入部したいと思った訳ではありません。意識がはっきりした後に、あらためて、形のある現実をしっかり自分の手で作りたいと思うようになりました。その手段は何がいいだろうと考えた時、行きついた答えは陸上、競歩競技だったのです。陸上種目には、様々な競技があって、個人の持つ能力、体力、性格など加味されて、種目を与えられるだろうことはよく分かっているつもりです。でも、生意気なようですが、他の競技では、心から願う納得した現実を引き戻せないような気がするんです」
「藤代、お前は元々、生意気だったよ」
同じクラスの信夫が、笑いながら言った。
「いいだろう、藤代。競歩を納得するまでやってみるがいい。そういう訳だ。守山」
「はい」
キャプテンの守山は、快活に返事した。
「今岡、ご苦労だが、今、少しの間、指導を頼む。嘉佑と由樹も藤代に夢の続きを見せてやれ」
「よ、よろしくお願いします」
「なんだ、藤代、狐に化かされたみたいな顔して」
「いえ、そ、そのう」
「そうか、そうだよな。藤代は、既に三人とは面識があったんだ」
阿部は面白そうに笑い、部員達は、そんな阿部を見てきょとんとしている。
「藤代、今岡はキャプテンではなく、副キャプテンを務める。君の知っている今岡は名をなんと言ったかな?」
「先生、そりゃ、無理ですよ。藤代に面識があるといったところで、頭を打つ直前と、あとは夢の中でしょ」
「まあ、待て、信夫」
阿部は笑いを引き摺り、尚も藤代に尋ねた。
「はい。今岡さんは、キャプテンで、江田さん、嘉佑さんは中村君、よ、由樹さんは、そのう、女性部員で三浦さんと言いました」
真次の声はだんだん細くなり、部員達は一斉に笑いだした。
中でも、当事者の今岡と由樹、嘉佑は、腹を抱えるように大声で笑っている。
「し、失敬、藤代。からかった訳ではないぞ」
阿部は、スラックスのポケットからハンカチを取り出し、笑い過ぎて、涙目になった目を拭きながら言った。
「あらためて今岡、嘉佑、由樹、自己紹介してくれ」
「はい。三年、副キャプテンの今岡五郎だ。藤代、無事でよかった。俺達三年生は、これから受験を控え、短い間の付き合いになるが仲良くやっていこう。精一杯頑張ってくれ」
「今岡さん、事故の際は、本当にありがとうございました。よろしくお願いします」
「二年の柴田嘉佑です。事故以来だな。なんか変な感じだ。倒れて意識を失くしている藤代を知っている
だけに。よろしくな」
「ありがとう。よろしく」
「では、次に由樹だが、藤代、うちの部員に女性はいない。先ほど、由樹を見た君の狼狽ぶりからすると、由樹の事情を君は知らないようだ」
「由樹さんは、女性ではないのですか?」
真次は遠慮勝ちに聞いた。
変わりに阿部が答えた。
「そう、由樹は女性ではない。男性だ。誰が見ても藤代のような反応をするだろう。かつての私もそうだった。ここにいる部員達も例外ではない。いや、学校中にいるすべての人々がそうした反応であったに違いない。しかし、ここに一人例外がいたがな」
「僕はそれほど、他人に無関心であった訳ですね・・・」
藤代は、いたたまれなかった。そして、過去の自分を恥じた。
「藤代、そう自分を責めるな」
「そう、先生が言うように、そんなに自分を責めないで」
由樹があらためて口を開いた。
「二年生の内田由樹です。ここにいる人達の中では由子で通っていいます。ほんと、事故の時はびっくりしたよ。藤代君って分かった時は、もっとびっくり。仲良くやっていきましょ」
真次は複雑な心境で、まともに由樹を見れなかった。
一方の由樹は、透通るような目で、一直線に真次を見ていた。
その後、残りの部員の紹介も終わり、十六名の選手達は、鉄製の階段を駆け下りグランドに散って行った。真次の姿も学生服のまま、その最後方にあった。
10
「一男、今日も学校に行くのかい?」
朝食のテーブルで、食パンを頬張る一男に母親の君子は伺うように聞いた。
「ああ、行くさ」
「ねえ、あんた、なんとか言っておくれよ」
「おっ、おお。一男、熱でもあるんじゃねえのか?身体の具合でも悪いんじゃねえのか?」
高校生のいる一般の家庭で、朝食時にあまり耳にしない親子のやり取りである。
「いや、何ともねーよ。健康だけが取り柄なのは、父ちゃんも母ちゃんも知ってるじゃねーか」
「ああ、まあ、そうだが」
「父ちゃん、母ちゃん、俺、今まで好き勝手やってきて、随分、親不幸を続けてきた」
一男は、口に頬張っていた食パンをコーヒーで胃に流し込み、背筋を伸ばし、父、母に向き直った。
「な、なんだ、あらたまって。気持ちわりい」
俺、やってみようと思う」
「な、何だ?あらたまって」
父親の幸助は、不安げに聞いた。
「俺は、頭も悪く、高校だって、やっと入れた。それだって、私立の稲山工業だ。こんな俺が、進学したいなんて言ったら驚くかもしれないが・・・」
「ま、待て、一男、進学したいって、大学へか?」
一男は、父を上目遣いに頷いた。
「ひえー!どうしちまっんだ一男!」
「父ちゃん、世の中終わりみてーな声出すなよ」
「だ、だってよ、おまえ、なあ、母ちゃん」
「そ、そうだよ、お、おまえ、本当に一男かい?」
「ちょっと、落ち着いてくれよ。俺は一男だし、真面目にそう考えているんだ」
「おまえ、真次君をあんなめに合わせたからって、おまえこそ、人格が変わったんじゃないのか?真次君の両親には、父ちゃんと母ちゃんが、ちゃんと詫びて、礼をつくしたつもりだぞ」
「ああ、分かってる。そういうこともある」
「そういうこともあるって、どういうことだ?」
「だからよ、聞いてくれ。今回の事故で、真次のことを怪我させたってことも理由の一つではあるけど、それだけじゃない。なんていうのかなあ。この数カ月、俺と違う環境の人達を見て、触発されたっていうか、考えさせられたというか、いつまでもバカをやってられないって感じたのさ」
「だからって。今まで机になんて向かったことのないお前が、いきなり大学なんて。お前の成績で受けられる大学なんてあるのかい?欠席や遅刻だって多いだろうし。まじめにやって行こうとする気持ちは嬉しいけど、父ちゃんの後を継ぐことだって出来るのだから。ねえ、父ちゃん」
「う、うん。一男、やっぱり、ペンキ屋は嫌か?」
「いや、父ちゃんの後を継いで、地道に働くことも考えた」
「えっ?!一男、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。そんなことを考えてくれていたとは。随分と大人になりやがった」
幸助は、時代劇の岡っ引きのように、掌の親指の付け根あたりで鼻をすすった。
「でも、父ちゃん。今の俺には、それが逃げ道の口実になる。逃げ道を作らずに、受験まで残り少ない時間だけど本気でやってみたいんだ。担任の先生にも話した。最初は、父ちゃんや母ちゃんみたいな反応だった。成績も儘ならず、遅刻、欠席も多い。今更なんだ、とも言われた。ましてや、評価の低い工業高校。毎年、進学するのはほんの数人だし、その中でも、成績が上の連中だ。厭きられるのは当たり前。俺は、そんな中で、下位の更に下位だ。でも、俺は言った。この三か月、夢中でやらせてほしいと。最後に、先生は笑いながら言ったよ。真剣なんだなって。そして、奇跡を起こしてみろ、とも言ってくれた」
柱の時計が午前八時を告げた。
「やば!行ってくる。続きは帰ってから話すよ」
その日の夕食時。真次は、紙袋に納まりきらぬほどの大学入試用の参考書を父と母に見せ、それとは別に、現金十五万円を母親の君子に手渡した。
これには、さすがに幸助も君子も驚き、一瞬、喜色番だが、一男は二年前にバイトで金を貯め、中古で購入した愛車のV-MAXを売り払い、その金で参考書を買い、残りを大学受験の費用ということで君子に手渡しのである。
参考書は、以前から短大を受験することを決めていた理紗に選んでもらい、大学受験に係る、学校選びから、受験費用に纏わる話を担任から聞いた真次は、ある程度の金は自分で準備しようとバイクを売ったのであった。
一男の起死回生の三か月が始まった。
季節は、秋から冬に変わり、街並みはクリスマスのデコレーションに彩られている。
長身の青年が息を切らし、時折、首に巻いたマフラーが落ちかけるのを気にしながら、こちらに走って来る。
「やあ、待った。少し、練習が長引いちゃって。ごめん」
青年の白い息が、明美の顔にかかる。
真次だった。
「私も今来たばかり。久しぶりだね。お腹空いてるでしょ?ラーメン食べに行こうか?」
二人は、クリスマスの時節柄を全く意識していないようなラーメン屋に入った。真次は、味噌ラーメンの大盛り、明美は中華そばをそれぞれ注文した。
「どう?順調にいってる?W大の教育学部でしょ?」
「うん、まあまあかな。やるべきことはちゃんとやっているつもりよ。真次君こそ部活は慣れた?」
「うん、技術はまだまだだけど、チームメイトがいろいろサポートしてくれているし、体力も日に日に向上していると実感出来ているんだ」
「一男君と、連絡はとっているの?」
「うん。以前は電話だったのに、最近はメールで来るよ。その内容は何時も同じようで。ほら、これを見て」
「うわー。随分、履歴があるわね。まるで、ストーカーみたい」
(真次、今、俺は、人生最大に燃えている。成功するよう祈ってくれ。受かったら、俺を抱きしめてくれ。それまでは、君との交流は封印する)
「ほんと、どれも同じような内容ね。一男君らしいわ。笑える」
「だから、僕も、先輩の意思を尊重したいと思うんだ。受験が終わるまで会わず、合格したら、思いっきり抱きしめたいと思う」
「気持ち悪うー。ばっかみたい」
二人は、同時に笑った。
「でも、二週間前に理紗に会った時に言ってたわ。それこそ、人が変わったようだって。あっ、ごめんなさい。そう言うつもりでは」
真次は、気にしないというように、ほほ笑んだ。
明美は、ぺこりと頭を下げ話を続けた。
「国公立や東京八大学はもちろん無理だけど、今のままで行けば、帝都大学の何処かに滑り込めるような実力は附いてくるかもしれないって。本当に驚いてたわ」
「それは凄い。先輩やるな」
その時、店員がラーメンをテーブルに運んで来た。
白い湯気が立ち上がり、二人の空間を更に温めた。
明美は、左手で髪を耳元に掻きあげ、割り箸とレンゲを交互に持ち替え、自由の効く右手で器用にラーメンをすすった。一方の真次は、腹を空かせていたのだろう。豪快に麺をすすり、あっと言う間にラーメンのスープも残すことなく綺麗にたいらげた。そんな光景を明美は、突然、クスクスと笑った。真次はキョトンとしている。
「家のお父さん、カラオケでよく歌う歌があるの。ニイヌマケンジって人の、(青春総譜)と言うんだけど、歌詞がね、ホントに昭和、昭和しててね。えっと、何て言うんだっけな。あっ、そうそう、(冬の屋台で二人で食べた君の奢りの中華そば、おつゆも全部吸うのよと、姉さんみたいな口を聞く・・・)こんななの。なんか、おかしくない?ハハハ。あっ、ごめんなさい。私だけよね。笑えるのは」
「明美さん、ここはワリカンだよ」
明美は、生真面目な真次の返事に高らかに笑った。
「ああ、お腹いっぱい。美味しかったね、ここのラーメン。真次君、まだ時間大丈夫?」
明美は、腕時計を見ながら言った。
「うん、大丈夫だよ。明美さんこそ時間いいの?予備校の授業、これからでしょ?」
「まだ一時間近くあるわ。少し、町を歩かない」
夜の六時を回り、陽が落ちた街並みのクリスマスのイルミネーションは一層際立って見えた。
明るいイルミネーションが二人の影を作り、時折、その影に光がこぼれ、七色の彩りが加わった。
「もうすぐ、今年も終るね。私は素敵な一年だったな。真次君と出会えたし。これで、来年の受験がうまく行けば言うことなし。自分勝手に聞こえる?」
「いや、僕もよかったよ。ここ数年で一番じゃないかな。多少、痛い思いはしたけど」
そう言って、真次は明美を見つめ笑った。
「明美さん、僕も来年は、W大を目指すよ」
「エッ!?本当に!」
明美にとって、これ以上ないクリスマスプレゼントだった。
「本当さ、だから、先に行って待っていてよ」
「よーし!俄然やる気になって来たわ。絶対、絶対、約束よ」
「うん。約束」
11
冬のなまり色の曇が、お揃いのスポーツウエアに身を包んだ三人の陸上選手を被さるように覆っている。海から吹く、凍てつく冷たい風が顔を刺す。
(はっ、はっ、はっ)それぞれの選手の吐く息が、まるで、綿菓子のようだ。
彼等は、さざ波立つ海を横目に海岸通りを同じ足並みで走っていた。いや?歩いている!?確かに、普通に歩く人の何倍かの速さで彼等は歩いていた。
先頭を行くのは、若く美しい女性だった。そして、その後を歩くのは、長身の今どきの若いハンサムな男性で、更に、その後を歩いているのは、前を行く男性よりも頭一つ背は低いが、筋肉質で均整のとれた体格のやはり若い男性だった。
「真次!地面を蹴る感じではなく、プッシュする感じだよ」
嘉佑は、真次の右に出て、並走するように歩いた。
「こんな感じかい?」
「そう、そう、前へ押し出す感じだよ。いいよ!腕振りの位置にも気をつけて。いつものように、このカーブを歩ききり、イトーヨーカードーを過ぎたら俺が先頭を行く。少しピッチを上げるから遅れないように着いて来て。いいよ、真次、その調子。由子、後方に回って、引き続き真次のフォーム、チェックして」
「ハーイ。副キャプテン!」
「止めろよ、由子」
嘉佑は、副キャプテンという呼称にまだ馴染めず、はにかんだ。
そして、嘉佑と由樹は、真次を挟みこむようにして先頭を入れ替わった。
そう、彼等は金又高校陸上部、競歩種目選手の内田由樹こと由子。そして、今年七月、おりしも同じ場所で事故に遭い、運命に導かれるかのように陸上部に入部した藤代真次。そして、先頭を歩く彼は、元主将の花形光男や副主将であった金又高校陸上部の歴史に輝やかしい足跡を残した今岡五郎等、三年生が退部した後、新しく副キャプテンに選任された柴田嘉佑だった。
「由樹、僕のフォームに乱れはないかい?」
「大丈夫。ちゃんとしているわ。本格的に競歩をはじめて、二ヶ月なんて、とても信じられない。真次はよほど運動神経が発達しているのね」
「いや、まだまだだよ。常にフォームを意識していないと直ぐに乱れるし、早く、正確なフォームを身体に覚えさせたいと必死だよ」
「焦るなよ、真次。競歩は習得に時間のかかるスポーツだと言われているんだ。そう簡単には身につかないよ」
先頭を行く嘉佑が、振り返って言った。
「分かっているよ。学校に帰ったら、さっそく腿上げだ」
「そう、感心、感心」
嘉佑は、笑顔で答えた。
三人が学校のグランドに帰り着いた頃、空から雪が舞って来た。
「うわー。寒いはずだぜ。軽くストレッチしたら今日は終わりにしょう」
嘉佑は、空を見上げながら真次と由樹に言った。他の陸上部員も練習を切り上げ、部室に戻りかけている。部員が戻った部室は、若者達の熱気それだけで温度が上がり、先ほどまで冷え冷えとしていた部屋は、窓ガラスまでも一気に曇らせた。
部員達は、トレーニングウェアから学生服に着替えはじめた。しかし、由樹は、全員の部員が着替え終わり部室から出て行くのを待っていた。
そこへ、顧問の阿部幸三がやって来た。
「寒いな。みんな、ご苦労さん。こうしてみると、随分、部室も広くなった感じがするな」
今岡等、三年生が在籍していた頃の陸上部の人数は十六名だったが、三年生が抜けた今、二年生と一年生を合わせ、丁度十名になっていた。
「来年の新入生には、沢山入部してもらわんといかんな。ところで、年明けのスケジュールだが、一月の末は競歩記録会。二月の中旬には、駅伝神奈川大会を控えている。部員も少なく、厳しい状況だが、敢えて参加しようと思う。どう思う?信夫、嘉佑」
阿部は、新キャプテンの木村信夫と副キャプテンの柴田嘉佑に意見を求めた。
「はい。金又は、例年、部員の数が少ないにも係らず、その中で、エントリーした種目で好成績を収めています。更に今年のように、大躍進を遂げることも出来ています。それは、先生が、日頃からおっしゃっている、適材適所の効果と同時に、部員と競技の相性を見極めている結果だと思います」
「おい、おい、信夫。キャプテンになったとたん、口もうまくなったか?」
「い、いえ、そんな」
信夫は、頭を掻き、照れた。
「それで、信夫?」
「はい。既に、先生は、メンバーも構成されていることと思います。おもいっきりやるだけです」
「うん。嘉佑はどうだ?」
「はい。特に競歩はタフさが求められる競技です。来年も記録会で実力を付け、本大会に臨みたいと思います」
「果してどうかな?嘉佑。君の希望に副えないないかもしれない」
阿部は、意味ありげに言った。そして、スラックスの尻ポケットからメモ紙を取り出した。
「来年一月の競歩記録会並びに、二月の駅伝出場メンバーを発表する。
まずは、二月の駅伝メンバーだが、一区、二年、守智樹。二区、一年、景山恵一。三区、二年、黒沢雅夫。四区、二年、柴田嘉佑。最終区、五区、梶原修。以上だ」
阿部から駅伝のメンバーが発表された部室は、何とも言えない空気感が漂った。
「せ、先生、間違いではないですか?」
嘉佑は、一瞬、真っ白になった頭の中が再び色付き終わるのを待って阿部に言った。
「間違いではないよ。嘉佑。先ほど私は、敢えて参加したいと言う表現を使ったが、やみくもにチーム編成をした訳ではない。勝利出来るメンバーを構成したつもりだ。勿論、今直ぐにではないだろうが。嘉佑、君は、競歩をやったこの二年間で、驚くほどの持久力を身につけた。それについては、退部した今岡も舌を巻いていた。入部当初、嘉佑は、中、長、距離を希望していたな?だが、私は、君を競歩競技に当てた。その理由は、当時の君の持久力では力不足と感じていたからだ。だが、君は、競歩を行うことによって、驚くほど体力を強化させ、同時に瞬発力も兼ね備えた。どうだろう、キャプテン?」
「あっ、はい。嘉佑は、先日の総体神奈川県予選での準決勝で、惜しくも残り一㌔の飛び出しで、他高校の選手を大きくリードしながら失格の判定をくだされました。その理由は、フォームの乱れが原因でした。しかし、あの段階でのラストスパートには目を見張るものがあります。失格がなければ、間違いなく決勝進出だったでしょう」
「うん。あの時、嘉佑は、ベントニーの反則を犯した。競歩は、緻密なスポーツだけに落とし穴がある。嘉佑は本来、おおらか性格だ。嘉佑、ラスト一年。走ることをおもいっきり楽しんではみないか?」
阿部の言葉は、嘉佑を気遣うようにも聞こえたが本心だった。
「しかし、競歩を中途半端に終えるような・・・」
「嘉佑、そんなことないよ。やりなさいよ。競歩が中途半端というより、走る為の布石だったと考えるべきよ」
由樹の一言が、嘉佑の背中を押した。
「由子・・・」
「なによ、その顔。走りたいんでしょ?素直になれ」
由樹は、笑顔で言った。
「よーし、決まりだな。頑張ってくれ、嘉佑」
「は、はい」
「さて、次は、後先、逆になったが、一月の競歩記録会だ。発表する。内田由樹、藤代真次。共に五〇〇〇メートルWに出場する」
「エーッ!」
一樹と真次は、同時に声を上げた。
「先生、僕はまだ」
「私だって」
「まあ、待て。真次の記録会の出場は決して早くはないし、由樹にいたっては、公式記録ではないものの、先ごろの練習では標準記録に近づいている。そろそろ、公の場所で評価されてもいい時期だと思うが?」
「男子、五〇〇〇メートルW・・・」
「勿論そうだよ。心中複雑なのは良く分かる。君が競歩を始めた理由も私は良く理解しているつもりだ。そして、競技会の出場も、あまり気乗りしないことも知っている。だが、一方で、君は、競歩と真摯に向き合い、その結果、どんどん、実力をつけて来た。由樹、ここは、男性部員だけの陸上部だ。そして、君は、間違いなく陸上部競歩の選手だ。今、ここにいる十名の中で、唯一、将来が変わって行くだろうことの明らかなのは君だけだ。だからこそ、金又高校陸上部に在籍していた事の痕跡を残してほしいと思う」
「先生、先生は素敵過ぎるよ」
由樹の瞳は緩み、他の生徒は阿部の言った意味が分からずに由樹と阿部の顔を交互に見ていた。
「よーし!今年はインターハイ優勝だ!真次君、がんばろう!」
真次は、はにかみながら右手を上げ、由樹にオーケーのサインを出した。
真次も嘉佑同様に、由樹に背中を押された格好になった。
その日のクラブ活動の帰り、由樹と真次の姿はハンバーガーショップにあった。
由樹と真次が店に入ってしばらく、他の客の視線が二人に注がれていた。いや、二人というより、特に由樹へ視線が集まっていた。しかし、その視線は、決して蔑視するようなものでなく誰もが羨望の眼差しだった。店の中には、何人もの若い女性客がいたが、明らかに由樹の方が美しく、目立っていた。
「驚いたね」
「確かに。でも、今は、不安より、楽しみの方が大きくなっている」
「へえー、感心だな。真次は」
「由樹もやる気になっているじゃないか?」
「うん。そうはそうなんだけど。やっぱり、複雑ではあるの。男子の部門でしょ」
「由樹、君はいったい・・・」
「真次、あなたには話すわ。この事は、阿部先生と一部の先生しか知らないの。変な話、私の容姿って、自分で言うのはなんだけど、女の子でしょ?」
「うん。間違いなく、君の姿は女の子だ。なんて言ったらいいのか、仕種、言葉づかいも。そして、何よりも自然だ。こんな言い方って、君に失礼になるかしれないが・・・」
「いいえ、私にとって、最高の褒め言葉だわ。真次、性同一性障害って聞いたことあるでしょ?驚かないで。正に、私はそれなの。真次みたいな普通の男性は、男性の容姿と男性の心を持つでしょ。性同一性障害の私は、男性の容姿を持ちながら、心は女性なの。もっと分かりやすく言うと、女性の心、つまり、脳を持ちながら、男性の身体を持っていることが堪らなく不快だし、嫌悪なの」
「い、今もかい?」
「勿論、今も。ただ、なかなか理解しづらいかもしれないけど、私の場合、一般的な障害者より、女性ホルモンの分泌がより普通の女性に近いこともあって、この状態がそれほど不快ではないの。同様の障害を持つほとんどの人は、もっと苦しんでいるわ。私は恵まれているほうなの。私の脳は、私は女よ!って、完全に信じきっているみたい」
そう言って、由樹は笑った。
「さっき、阿部先生が、君の将来を意味ありげに言っていたけど、どういうこと?よかったら聞かせてくれないか?」
「うん。生まれ変わるということよ。完全に女性になるということ。身体を変え、戸籍を変更するの」
「それって、簡単ではなさそうだ」
「うん。少し、強烈な話になるけどいい?」
「う、うん」
「戸籍の変更をするには、手術が絶対条件なの。一つ目は、生殖線のないこと、または、生殖線の機能を永続的に欠く状態であること。二つ目は、少しグロテスクに聞こえるでしょうけど、性別に係る部分が、近似する外観を備えていること」
「戸籍の変更要件として、手術を前提としている訳だ」
「そう。そして、二十才以上であって、結婚していないこと、或いは子供がいないことが要件に含まれているの」
「でも、君はそれをやるんだね」
「ええ、やるわ。両親も理解してくれているの」
「高校を卒業して、君はどうする?」
「ええ、卒業してから、二年の間に性転換手術をするわ。そして、同時に、進学の準備も始めるつもり。医学部に進むわ。出来たら、欧米の大学に行きたい」
「進学は、戸籍を変えてからと思っている訳だね」
「ええ、術後の身体の事もあるし、受験勉強は勿論、語学の勉強にも時間を割かれる。二年という月日は長いようで短い。あっという間に時間は過ぎると思うの。二十歳を境に私は生まれ変わる」
誰にも揺るがす事の出来ない、由樹の決意だった。
12
「ほらほら、一男、よそ見してないで!みんな、いくよ!はい、チーズ!」
理紗は、レンズの向こう側の五人を目指し、ボーリングのピンを倒すボールのように猛然とダッシュした。
六人の男女は、デジカメの小さな画面に顔を寄せ合うようにして、今、理紗が撮ったばかりの写真に見いった。
「あれ?まるでボーリングのピンが弾けたみたいに一男君、フレームの枠から飛び出しちゃってる」
「ほんとだ、先輩、顔半分しか写っていない」
「理紗がおもいっきり飛び込んで来たら、明美に小突かれた感じで身体が動いちゃったんだ。大学もはじき出されなきゃいいが・・・」
「ははは。上手いですね。一男さん」
嘉佑は思わず、一男の一言に笑った。
「おい、おい。初対面でそれはないだろ?」
一男は、睨むように嘉佑を見た。
嘉佑は、(すいません)としょげた。
「なーに、弱気になっているのよ、一男。嘉佑君に当たったってしょうがないでしょ」
嘉佑は、由樹と真次に初詣に誘われ、初対面の理紗、明美、そして、一男と合流する形になったのである。
「みんな、ちゃんとお願い事した?それぞれ目標を持って今年もがんばろうね」
明美がそう言うと、少し前までしょげていた一男が俄然大きな声で、「がんばるぞー!」と叫んだ。
今日、ここに集う六人は、理紗、明美、一男の他に真次。そして、新たに仲間に加わった金又高校陸上部で真次の同僚である柴田嘉佑。そして、もう一人、由子こと、内田由樹だった。
六人は、年の明けた正月三日、それぞれの想いを胸に鎌倉八幡宮に初詣に来ていたのである。
「由子、今日は俄然、この間と違うわねー。あまり私達と差をつけないでほしいわ」
「そう、どう見たって、売れっ子のモデルって感じよ」
理紗と明美に会うのは今回が四度目で、前回まではクラブ活動の帰りということもあって、ジャージ姿であった由樹だが、今日は、迷彩柄のスキニ―パンツに編み上げのブーツ。上はミリタリー風のモカグレーのシャーリングブルゾンで決めていた。
「そんなことないよ。二人だって凄く素敵だよ。ねえ、一男君、真次君」
由樹は、一男と真次を茶化すような目で見た。
「う、うん、良い感じだよ。理紗も明美も由子に引けをとらないよ」
一男は、顔を明らめ、ポツリと言った。
明美と真次は、顔を合わせて笑っていた。
理紗と明美が由樹に初めて会った時、誰もがそうであったように男性であるとはまったく思わなかった。
その時、真次から由樹を紹介された理紗と明美は、由樹に嫉妬心を懐かずにはいられなかった。いつも冷静な筈の明美までもが動揺した。その後、由樹自らが語った生い立ちで二人の誤解は解けたが、唖然といった様子で、夢を見ているかのように、しばらく由樹を見つめたままだった。
不思議なもので、今の由樹は、違和感なく、仲間達から普通の女の子のように受け入れられていた。
「ねえ、せっかくだから、海岸へ行ってみようよ」
六人は理紗に賛成し、海岸までそぞろ歩いた。
六人は、砂浜で見つけた板きれを敷き、波と会話するように砂に座った。
「ねえ、願いごとだけど、よかったら教えてくれない?」
明美は、みんなの顔を見廻し言った。
「いいよ。それじゃあ、私から。勿論、当面の目標は、F女子大の短期合格だけど・・・」
「だけど・・・」
理紗の顔を下から覗きこむように、明美が言った。
「うん。私、小学生からの夢でもあった、キャビンアテンダントを目指す事をあらためて決めたわ。そうなれるようにお願いしたの」
「あら、理紗、それは初耳」
「そう、しばらくはそんな夢も忘れ、一日、一日を流されるように生活して来たわ。でも、去年、私の中で何かが変わったの。上手く言えないけど」
「理紗は、俺に影響を受けたんじゃないか?」
「私、あんたと別れるかもしれない。それも、目標の一つ」
理紗は冷たく言った。
「えー!勘弁してくれよ。理紗」
何故か皆、笑えなかった。理紗は一瞬だが遠くを見つめていた。
「や、やだな。この雰囲気。つ、次、俺」
「あっ、はい、つ、次は一男君ね」
明美も、この空気感に少し戸惑った。
「お、俺の目標は、ズバリ、K大合格。成功をお願いして来た」
「先輩、合格したら、おもいっきり、抱きしめて上げますよ」
先ほどの理紗の発言で、尚も重い空気を引き摺っていると感じていた真次は努めて明るく言った。
「へへ、頼むよ。真次」
「ばっかみたい」
理紗はしらけた目で一男を見た。
「あっ、明美さん、次は、僕でいいかな?」
「どうぞ、真次君」
「最初に、お礼をしました」
「お礼?」
そう聞き返したのは、由樹だった。
「うん。昨年は、事故で辛い思いもしたけど、今はこうして元気にしている。そして、新しい仲間も増えた。お礼と言うか、素直に感謝の言葉が出たんだ」
「真次君らしいね。で、お願いごとは?」
「うん。次期に迫っている記録会で良い歩きが出来ることと、それから・・・」
「それから」
「明美さんのW大受験が上手く行きますようにって」
「へー、真次君、やさしいなあ。明美、嬉しいね」
明美は、頬を赤く染め、浅く頷き、あらためて真次に礼を言った。
「真次君に比べたら、一男は、ほんと、自己中なんだから」
「そんなことないよ。俺は常に、理紗のことを思っているんだぜ」
「どうだか」
「理紗、もうそれくらいにしてあげなよ。一男君、まいっちゃってるよ」
「理紗ぁ」
一男は、情けないくらいの声を出した。その顔を見て、さすがの理紗も思わず吹いた。
「じゃあ、次は明美」
「うん。私もズバリ、W大合格をお願いしたわ。将来のことを考るのはもう少し後でいいと思っているの。じっくり考えるわ」
「じゃあ、次は嘉佑君」
「あっ、はい。僕は今年、競歩から中距離ランに種目を変え、新たなチャレンジの年になります。二月には駅伝も控えていますので、当面の目標は、ここで、良い走りが出来ることです。正直、陸上を始めた理由は、中距離、長距離を走りたかったからで、是非、このチャンスをものに出来るようにしっかりお願いして来ました」
「よしっ、後輩、しっかり頑張れ!」
「はい。ありがとうございます」
「何、偉そうにしてるのよ。おまえこそ頑張れよ」
「もう、理紗ぁ」
いつもの調子に戻った二人に、全員が笑った。
「じゃあ、最後、由子」
「うん・・・」
「どした?由子」
「うん、お願いごとがたくさんあって。神様、聞き入れてくれるかな。私も、真次君といっしょで、まず、神様にお礼をしたの」
「お礼?どんな」
理紗をはじめ、皆が一斉に由樹を見た。
「私って、こんなでしょ。小学生から中学生まで、親しくしてくれる友達はほとんどいなかった。興味本位で近づく子はいたけど。いつもそこまで。それが、高校生になって、部活の人達と出会い、そして、今、素敵な五人に囲まれている。こんな出会いを私に授けてくれたことに感謝せずにはいられないわ。だから、お礼したの」
「ずーと、私達は友達よ。ねえ、みんな」
由樹を見て、ただ頷く者、声を出して理紗に同意する者、形は違うが思いは同じだった。
「ありがとう」
「さあ、由子はどんなお願いをしたの?」
「さっき、たくさんあるって言ったでしょ。だから、代表作を披露します。一つ目は、真次君と同じ。今月末の記録会で良い記録を出すこと。二つ目からは将来のことで、まずは、完全に女性に変わること。綺麗事じゃない。私も十分分かっている。手術、手術後のケア、そして、新しい戸籍の取得。高校卒業直後
からやって行くつもり。三つ目は、それから医者を目指すわ。その為に医学部を受験します。大学への入学は二十才で。勿論、女子学生として」
皆、海を見つめたまま由樹の話を聞いていた。
遠くの水平線から汽笛が聞こえる。
「正に船出ね、由子。これからは大海原へ大航海よ。でも、貴方なら、きっと、華やかな港に辿りつけるわよ」
「うん。明美さんの言う通りだ。君の目標は明確だからね。それだけに、ぶれようもないはずだ」
「そう、私も由子の未来が楽しみ。けっして、興味本位なんかじゃない。出来ることは応援して行きたい」
「ねえ、見て。海鳥が丁度六羽。南へ飛んで行くわ」
「私達より少し早目の旅立ちね」
六人は、しばらく、鳥の群れの行方を目で追っていた。
13
「第五組、第一レーン相模工業、矢本君。第二レーン、川崎技研高校、神部君。第三レーン、横須賀第一高校、新村君。第四レーン、武部高校、鈴木君。第五レーン、金又高校、藤代君、第六レーン、緑山高校、斎藤君」
場内放送の選手紹介が終わり、いよいよ、真次がスタートする。
これより先、第二組で、由樹は既にレースを終えていた。七名中、第三位の成績で、タイムは二六分二八秒。標準記録は突破したが、レース全体の総合成績からすると決勝進出は微妙な位置だ。ところで、当の由樹だが、その均整のとれたスタイルと女性と見紛う容姿も手伝って地元新聞の記者数名から取材攻勢を受けていた。
「もう、いいですよね!チームメイトがこれからスタートするんです!」
「もう少しだけ」
「それじゃあ!」
「きっ、君!内田君!」
由樹は、記者を振り切り、仲間の元へ走った。
「真次、頑張れよー!」
「藤代、楽に!」
金又高校、陸上部顧問の阿部幸三を筆頭に、陸上部の全員が真次に声援を送っている。そして、その声援を送っている輪の中に、前キャプテンの守山光男ともう一人、金又陸上部に多大な功績を残した前副キャプテン、今岡五郎の姿があった。
「今岡、どう見る、今日の藤代を」
「はい。落ち着いているようですし、緊張している様子もありません。ひょっとしたらひょっとしますよ。先生」
「さあ、スタートだ。がんばれ、真次!」
嘉佑が、スタート直前の真次に声援を送る。それに気付いた真次は、嘉佑に一瞬笑顔を見せ、その後、直ぐ、前方を見据えた。
不思議なことに、初めての対外的なレースにも係らず、まったく、真次に緊張はなかった。
真次は、レースの組み立てを考え、自分に言い聞かせた。
〈序盤はしっかりみんなに着いて行き、三千メートル付近で三番手選手の直ぐ後方へ貼り着こう。向かい風になりつつある。体力を温存しよう。持久力は、ここ数週間の練習で上がっている。ラストは自分の力を信じよう〉
「位置について。よーい」
係員がレースのスタートを告げる。
〈パン!〉タイヤがパンクするような破裂音の中、六人の選手はスタートした。レース序盤、真次は五番手、固まりの集団の中間にいた。周りの選手の足音と息づかいが鮮明に聞こえる。二、五〇〇メートルあたりから集団がばらけ出し真次は単独三位に上がっていた。上位の選手を抜いたというより、脱落していったという印象を懐いていた真次だが、実際はそうではなく、軽快に真次が抜き去って行ったものだった。三、五〇〇メートル付近で二位の選手に追いつき、しばらく、並走するように歩いたが、そのうち真次に置いていかれた。四、〇〇〇メートル付近で、前を歩く一位の選手との差は僅か二〇メートルに迫り、その背中はどんどん大きくなっていた。
「おい、おい、ひょっとして真次の奴・・・」
「嘉佑、タイムは!」
珍しく、阿部の怒鳴るような声が聞こえた。
「はっ、はい!」
嘉佑はストップウオッチを構えた。
そして、真次が四、〇〇〇メートルに到達したと同時にストップウオッチのスイッチを力強く押した。
「先生!十九分五七秒です!」
嘉佑が時計を読んだ瞬間、ウォーというどよめきが陸上部の全員から起った。
四、六〇〇メートル付近で、真次は先頭の選手に追い付き一気に抜き去った。抜かれた選手は、歯を食い縛って懸命に追い縋ったが、気持ちとは裏腹に真次との差は広くなる一方だった。真次の背中が急激に小さくなって行く。
〈大丈夫。まだ余力がある。ラストスパートだ〉
残り、四〇〇メートル。真次の足がまた伸びた。
「真次―!残り後一周!頑張れー!」
大声で声援する由樹の目は何故か涙で潤んでいた。
「嘉佑、しっかり、時計押さえろよ」
新キャプテンの木村信夫が固い表情で言った。
残り、五〇メートルを切った。スピードは衰えない。でも、さすがに疲れはあった。メインスタンド、ゴール前。チームメイトの応援する影が大きくなり、声援もはっきり聞こえる。次の瞬間、真次はゴールテープを切った。同時に、嘉佑もストップウオッチのスイッチを押した。
「せ、先生」
「どうだ、タイムは?」
「信じられません。こ、このタイム。二十二分十六秒です。間違いなく決勝進出ですが、何より、今まで歩いた選手の中で一番の成績です」
「ま、待て、嘉佑。信じない訳ではないが、公式記録を待とう」
その公式記録は数分後に出、正式タイムは二十二分十五秒一三だった。
次の朝、地元新聞の地方版に、ほんの数行だが、昨日行われた神奈川県高校陸上記録会の記事が掲載されていた。
言うまでもなく、初の公式レースの決勝で、二十一分五十七秒一三を記録し優勝した藤代真次と決勝進出には至らなかったが、女性と見紛うほどの美しさとスタイルを持った異例の競歩選手二人が金又高校には存在した。という内容の記事であった。
二月。
一男、理紗、明美の大学入試は一通り終了し、既に理紗と明美は志望校に合格していた。
「一男、随分と痩せたなあ。なあ、母ちゃん」
「ああ、ほんとだよ。そんなになるまで良くやったよ。私はいまだに信じられないよ。あんなに遊び呆けていたおまえが。ねえ、父ちゃん」
「ああ、そうだ。だがよ、今更何だが、そのK大学で良かったのか?父ちゃんでも知ってる、まあまあ、名の知れた学校だ。そのう、何て言うんだ、ランクってのか。もう一つ、二つ、落したほうがよくなかったのか?」
「良くやったか、そうじゃなかったか、今日の発表ですべて決まるさ。じゃあ、行って来る」
「一男、お味噌汁くらい飲んで行きなよぉ」
「ああ、帰ったら飲む」
「分かったら電話おくれよー」
一男は、母親の投げかけた愛情一杯の言葉を背中に感じ自宅を後にした。
大学の正門へ続く街路樹は、葉もまばらに、残った褐色の葉は、風に振り落されんとばかりに懸命に細い枝に張り付いている。しかし、時折吹く、強めの風に力つき、一枚、二枚とその場を離れて行く。
冷たい風が、お気に入りの黒のダウンジャケットの襟元から侵入して来る。一男は、ジャケットのファスナーを首元まで引き上げた。既に貼り出されているだろう合格発表に、受験生は一喜一憂し、一男の傍らを行き過ぎて行く。
満面の笑みで、友人と語り合いながら通り過ぎる受験生。また、ある受験生は、相手は母親なのであろうか、合格の一報を興奮気味に携帯電話で知らせている。
一方で、肩を落とし、疲れた表情で行き過ぎる受験生の姿もある。それらを横目に、一男の心臓も昂ぶっていた。
合格発表の掲示板前には、多くの受験生がいた。一男は、ジャケットのファスナーを胸まで降ろし、内ポケットから受験票を取り出した。その時、微かだが心臓の鼓動が手に触れた。一男は、受験票を、掲示板と重なるように目線に掲げた。
「四百番台、四百番台、四〇一・・・四〇五・・・四一〇・・・四二〇・・・四二一・・・四二二・・・四二三、四二三!あ、あっ!四二三番!あっ、あったー!」
一男の冬空を貫く歓喜の絶叫が、周囲に反響し木霊した。
一男は、周りにはばかりもせず、その場で男泣きに泣いた。
母親の君子に電話している最中も泣き続け、電話の向こうの君子も貰い泣いた。
母親との電話を終えた時、後から一男は肩を叩かれた。
「り、理紗」
「おめでとう、一男。良くがんばった。」
「来てたのかあ」
理紗は、後を振り返り、先を指差した。そこには、真次と明美の姿があった。
「あーあ。真次」
まるで、不合格だったかのように情けない声を出し、一男は真次の元へ駈け出した。
「先輩!」
真次は、大きく手を広げ、一男を待ち構え、そして、昨年の公言通り真次を抱きしめた。
「真次のおかげ、理紗のおかげ、みんなのおかげだ」
あらためて、一男は、真次の胸で泣きじゃくった。
「先輩の実力ですよ」
「いや、違う。きっかけを与えてれたのは真次だし、理紗と明美は勉強を教えてくれた。ほんとうに感謝しているんだ。真次の事故がきっかけで、何かが俺の中で芽生え、変化した」
「そうね。私も一男君と同意見だわ。真次君との出会いから、ちょっと違う時空を歩いて来た感じだわ」
「何はともあれ、先輩おめでとう」
「あめでとう、一男」
おめでとう、一男君」
14
一人の看護師が、エレベーターの到着を待ち切れず、足早に五階の入院病棟から二階、外科・脳神経外科のフロアーまで階段を駆け下りて来た。
看護師は、二の三と表示のある部屋の前で立ち止まり、息急く呼吸を整え、ドアをノックし、遠慮がちに声を掛けた。
「樹理先生、まだ、お帰りではありませんか?」
「ええ、まだいるわ。奈津美さんね、お入りなさい」
部屋の中の樹理と呼ばれた医師は、勤務上がりと知りつつ、声を掛けただろう奈津美という若い看護師に気を遣わせまいとやさしく答えた。
奈津美が部屋へ入ると、三〇才半ばくらいだろうか、まだ着替えをもせず、糊の効いた純白の白衣に身を包みタイトなグレーのスカートから伸びた均整のとれた長い脚を斜に重ね、パソコンに向き合い椅子に座る美しい医師がいた。
「あ、あの、樹理先生。健二君がたった今、目を醒ましました」
樹理は、パソコンのマウスの動きを止め、知的な整った顔を奈津美に見せ、迷わず言った。
「行きましょ」
二人は、連れだって部屋を出た。
颯爽と歩く樹理の姿は、一流のモデルのようでもあるが、どこか、アスリートのようでもあった。
患者は九才になる小学四年生の北川健二という少年で、四日前の下校途中、学校に近い横断歩道で乗用車に跳ねられ、意識不明のまま、樹理の勤務する慶東医大病院に緊急搬送されて来た。直ぐに行われた頭部の検査によって脳挫傷と判明。樹理の手によって緊急開頭手術が行われ、血腫の除去等、敏速に処置されたが、反して、健二の脳は、身体の体温が三十七度から三十八度を示すのに対して四十三度という高い値だった。
脳は、損傷を受けると、そのストレスで体温が上がり、その時、血圧が低いと脳内の血液を十分に押し流すことが出来ず、熱が脳内に溜まり異常なほどの高温となる。
樹理は、手術室の壁時計に目をやった。六時二十分。事故から三時間。樹理は、脳低温治療を決断した。急がなくてはならない。樹理は、全身麻酔薬、筋弛緩薬等の投薬をオペスタッフに指示し、水冷式ブランケットを使用するなどして患者の体温を下げることに専念した。
後になったが、脳内が高温になると、更に脳細胞が損傷を受けてしまうのだ。
「健二君、気分はどう?」
「ここはどこ?」
「病院よ。どこか、痛いところない?」
健二は、軽く枕の上で首を振った。
「僕、どうしたの?」
「事故にあって、怪我して、病院に運ばれたの」
「お母さんに会いたい」
「ええ、お母さんは直ぐに来るわ」
この間の健二との短いやり取りも、樹理は、集中治療室の脳波、血圧、脈等、あらゆる計器から目を離さなかった。
「健二君、お腹空いてない」
「大丈夫」
「健二君、お母さんが来るまで、少しだけ、先生とお話していてもいい?」
「うん」
「ありがと」
樹理は、ゆっくり、話をした。
「健二君、あらためて、名前を教えてくれますか?」
「北川健二」
「何年生?」
「小学四年生」
「ご兄弟はいますか?」
「いるよ。お姉さんが一人」
「何か、スポーツしてる?」
「うん。サッカー」
「へえ、かっこいいね」
健二は、戸惑うことなく樹理の質問に答えた。
会話の途中、健二の目線が集中治療室の入り口へ泳いだ。
「あっ、お母さん」
入り口に立つ健二の母親は、口にハンカチを当て、既に目を潤ませていた。母と子の三日ぶりの対面であった。
母親は、健二を抱き締め、咽び泣いた。
「先生・・・」
母親は、それでも、不安げに樹理に向き直った。
「もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございました」
母親の目から、留めなく涙が溢れた。
「樹理先生」
病院を出た所で、後から樹理は声を掛けられた。
先ほど、健二が目を醒ましたと伝えに来た看護師の奈津美だった。
樹理は立ち止り、小走りでやって来る看護師を待った。
「奈津美さんも、今、お帰り?」
「はい。今日は、昼の勤務でしたが、いろいろあって」
奈津美は腕時計に視線を落した。時刻は、九時半を少し回っていた。
「少しは慣れた?」
看護師となって、初めて務める職場が慶東医大病院だった。
「はい。この半年は、あっという間でした」
「婦長が、あなたのこと褒めていたわ。よくやっているって」
「いいえ、私なんか、まだまだです。樹理先生、私はここで。そこのコンビニに寄ってから寮へ帰ります」
奈津美が指差したコンビニエンスストアのサインポールには、沢山の夏虫がたかっていた。
樹理は、病院の最寄り駅である信濃町から総武線で一つ目の千駄ヶ谷のマンションに住んでいた。電車で二、三分の移動で帰宅出来る。医者というハードな職に就く者にとっては非常に有難い環境だ。
樹理は、昨日届いた手紙の内容を、揺れる車両の吊革に摑まりながら思い返した。車窓から見える夜の風景はいつもと何等変わらない。しかし、窓に映る映像は、高校時代の懐かしい風景だった。
〈盛夏の候、梅雨も明け、樹理様お変わりありませんか?高校を卒業してから二年後、貴方様が渡米するにあたって、成田でお見送りしてから、かれこれ、十五年が経過致しました。
渡米後の貴方様のご活躍は、頂いたお手紙から推察する事が出来、とても喜ばしく、又、感激もしておりました。
また、この間、私事ではありますが、六年前に結婚の報告を差し上げました時、貴方様は、ご自身のようにお慶び下さり、妻の明美共々、何よりも感動致しました。
さて、今回、貴方様が、一年前に帰国の途に着き、都内の病院に勤務したとのお知らせを頂き、大変、ご多忙のことと鑑みるも、是非一度、お会いしたいと筆を取らせて頂きました。
そこで、本年を以て退職致します、阿部幸三先生の労いの会を来月に開催予定で、貴方様のご出席も賜りたいと思います。
主催は、四十二期、四十三期、四十四期の金又高校陸上部卒業生です。
重ねて、誠にお忙しいこととは存じますが、ご出席の程よろしくお願い申し上げます。
左記に労いの会の日程をご報告致します。
敬具
・期日 二〇二八年 八月一七日 土曜日
・集合時間 十六時
・集合場所 金又高校 金又池
・労いの会 会場 グランドホテル 鳳凰の間 十七時より十九時
内田樹理 様
藤代真次〉
『懐かしい、真次君らしい文章だったわ。十五年ぶりか。真次君は、明美さんがW大へ進学した一年後、追い掛けるようにして入学し、大学生になってからも競歩を続けたのよね。そして、二人は卒業後、共に教師となり、結婚した。
一男君はと言うと、彼なりの努力をして大学に入り、ある程度の規模の食品会社に就職したらしいわ。だけど、四年後の名古屋勤務の時、上司と営業方針の違いだ。とか、何とか言って、会社を退職したの。その後、お父さんの後を継ぎ、性に合っていたのか、いいえ、彼の努力ね。一介のペンキ屋さんを塗装会社に変貌させたのよ。従業員十人を抱える立派な会社の社長さん。やっぱり、やる時はやるんだ、一男君。だけど、残念な事に、理紗さんとは高校卒業と同時にお別れしたわ。
その理紗さんは、目的を遂げ、キャビンアテンダントなって、今も、世界中の大空を飛びまわっているわ。彼女とは、三年前に一度会ったわ。私の務めるニューヨークの病院を訪ねて来てくれたの。
彼女、ますます、綺麗になっていたわ。自信がみなぎっているって感じ。バリバリのキャリアウーマンね。
陸上部で、後になって、副キャプテンを任された嘉佑は、ぶくぶく太ってしまって、昔の面影は全くないんですって。結婚して、二人のお子さんに恵まれ、幸せに暮らしているって。
当時、私達が二年生だった頃の守山キャプテンは、大学卒業後、旭テクノロジーに入社。陸上部に籍を置き、昨年まで現役を続けていたそうよ。現在は、コーチを務めているんですって。
あの、今岡五郎先輩は、とうとうオリンピックにまで出ちゃったの。大学に入ってからますます記録が伸びて。二〇二〇年の東京で、五十数年ぶりに開催された大会。感動したわ。それも、入賞したのよ。現在は、協会に残り、全日本クラスの有望な選手達の強化コーチとして頑張っているわ。
そして、阿部幸三先生。生徒達からとても信頼されていたわ。勿論、私は今でも尊敬している。
あれから五年後に金又高校を移動となり、赴任した川崎の高校で副校長として迎えられ、今学期を最後に教員生活を終えられる。とても理解ある、素敵な先生だった。
さて、最後は私自信の事。もう、お分かりですね。内田樹理こと、内田由樹です。新しい名前も父に決めてもらいました。
十二年前に女性として生まれ変わる事が出来たの。いいえ、本来あるべき姿に戻ったと言うべきかしら。
それは、大変だった。アメリカでの手術の後、日本へ一時帰国。戸籍の変更。それらに伴う様々な煩雑な手続き。術後の身体の変調も手伝い、苦しかった。しかし、そんな事も言っておられず、気が狂うほどの勉強もした。一年後、再び渡米、スタンフォード大の医学部を受験。大学は私を受け入れてくれた。
その後も私は、医者になる為に必死で勉強したわ。その結果、努力は報われ、ドクターとなり、職を得ることが出来たの。
一年前、久しぶりに日本に戻り、慶東医大病院で脳外科医として忙しい日々を送っているわ。今、私の周囲に、私の過去を知る人はほとんどいない。それから、これは余談だけど、この十年の間に三人の男性からプロポーズを受けたのよ。フフ
暑かったあの夏に再び帰り、みんなと再会出来るのがとても楽しみ』
15
午後三時半。真夏の太陽は、未だ陰ることを知らず、容赦ない日差しを一人グランドに立つ太り気味の男へ降り注いでいる。
「ウワー、あっついなぁ。立っているだけで汗が噴き出てくる。信じられない。こんな暑い時期にグランド走り回っていたなんて」
彼は、首筋から流れる出る汗をタオル地のハンカチで拭いながら、溜息混じりに言った。
グランドの端に鎮座するサッカーゴールが、時折、陽炎で歪んで見える。
彼は、その場から五メートルほど走ってみた。いや、歩いてみた。しかし、その動きは奇妙だった。尻が揺れ、踊りながら歩いているようでもあり、至極、滑稽に映った。
「おーとっと。いやーきつい。足が絡んじゃう」
転びそうになった重い身体を懸命に支え、体制を整えた彼は、あらためてグランドを見廻し高校時代を懐かしむように微笑んだ。
高校生の頃、幾分、小柄でありながら筋肉質で均整の取れていた身体だった。しかし、今は見る影もない。二重顎で腹の出た、中年に差しかかろうするこの男は誰であろう、柴田嘉佑だった。
嘉佑は、高校二年生の終わり、競歩から長距離ランに転向した。クラブ活動も残り一年と短い期間であったが、元々興味を持っていた種目ということもあり、競技会へ出場のおりには、今、持っている全てを出し切ると常に自分に言い聞かせ、一試合一試合を大切に臨んだ。そして、悔むことなく、高校陸上生活を終えたのである。
その後、大学に進学した嘉佑だが、陸上は続けなかった。その理由は、高校卒業時期に起った東北大地震の影響によるものだった。
当時、嘉佑は、連日流れるマスコミの悲惨な報道を見て、いてもたってもいられず、高校卒業の三日後にボランティアとして被災地に向かった。
被災地の現状は、口に出す事、書く事さえ憚られるような状況だった。初めて来た東北に、親戚、知人がいる訳でもない。それなのに、自然と涙が溢れ出た。
〈何から手を付ければいいのか?〉そんなことさえ考える余裕はなかった。勝手に身体が動いた。やることは山ほどあった。しかし、大学入学を控えていた時期だった事もあり、約二ヶ月間の滞在期間を経て、後ろ髪を引かれる思いで横浜に帰った。
間もなくして大学生となった嘉佑は、自ら大学構内でボランティアを募り、大地震の発生から約一年間、時間を見つけては被災地を巡った。
現在、彼は、緊急人道支援活動を行うピース・ジャパンという団体に所属し、紛争や自然災害で生命を脅かされる人々の為に国内のみならず海外でも活動を続けている。
嘉佑は腕時計を見た。そろそろ四時になる。金又池に集合する時間だった。
金又池に足を向け出した時、校門の入り口に三名の人影を見た。嘉佑が二年生時、キャプテンだった守山光男と現在も尚、金又の英雄として語り継がれる今岡五郎。そして、二人の間に挟まれるように阿部幸三先生の姿があった。
「先生!阿部先生!」
嘉佑は、思わず、大きな声で叫んだ。
「誰だろう?随分太った奴だ。今岡、陸上部にあんな奴いたか?」
「いいや?・・・」
今岡も首を傾げた。すると阿部が言った。
「嘉佑だよ。柴田嘉佑」
「ええっ!?」
守山と今岡は、同時に声を上げ驚いた。
嘉佑は、猛然とトラックの中央を砂埃を巻き上げながら走り校門に向かった。
「見ろ。手足は上がっていないものの、あのフォームは正しく嘉佑じゃないか」
「はい」
守山と今岡は、納得し笑顔で嘉佑の到着を待った。
「阿部先生、ご、御無沙汰していました」
嘉佑は息を切らし、阿部に挨拶した。顔からは滝のように汗が流れ出ていた。
嘉佑は、顔をタオル地のハンカチで拭きあげ、あらためて守山と今岡にも挨拶した。
「嘉佑、久し振り。元気だったか?十五年以上になるか?しかし、様子が随分変わったようだが・・・」
「ええ、体重は、当時の倍になりました。先輩達もお元気そうで」
嘉佑は、照れながら言った。
「ああ、まだ俺達は現役さ。俺も今岡も、まだ陸上に携わっている」
「はい。噂はかねがね。今岡さんは、オリンピックまで出られて。金又の誇りです」
「いや、運がよかったのさ」
「嘉佑、君だって立派じゃないか。人の為に役立つ仕事に就き、努力していると聞いているぞ」
「ありがとうございます、先生。しかし、努力はしているつもりですが、日々、自己満足で終わっていないか、自問自答を繰り返しています」
「嘉佑、その真面目さがあれば、人々には伝わるものだよ」
「さあ、時間だ。行こう、金又池へ」
金又池の周りは、十七年という歳月を経て大きく成長した木々に埋め尽くされ、密集した青葉が夏の陽を遮り避暑地にも似た涼しげな風を運んでいた。既に金又池の畔には、当時の卒業生の大半が集まっていた。
藤代真次は、懐かしく、元ハードル選手の木村信夫と談笑していた。
その時、金又池の方向に歩いて来る、男性複数の姿を信夫の肩越しから見た。
「信夫、先生と守山先輩と五郎先輩だ!」
「ほんとうだ!もう一人は?」
「嘉佑だよ」
「ええっ!?」
「先生!阿部先生!」
そこにいた全員が嘗ての恩師の名を呼び、阿部の周囲を取り囲んだ。
「やあ、久し振り。みんな、立派な大人になったなあ」
阿部は、感慨深げに言った。
「先生、お久しぶりです。お忙しいところ、今日はありがとうございます」
「いいや、私こそありがとう。藤代、君とは結婚式依頼だな。奥さんとお子さんは元気かね?」
「はい。お陰様で。娘は今年、二歳になります」
「藤代。久し振り」
「先輩、お久し振りです。」
「君の結婚式に出席出来なくて」
「いいえ、もう、五年も前のことです。お二人には、お祝いまで頂き、妻も恐縮していました」
「嘉佑、君は、本当に嘉佑なのか?」
信夫は、恐る恐る、嘉佑に尋ねた。
「信夫、俺は、正真正銘の柴田嘉佑だよ」
信夫はその瞬間、目を真っ赤にし、再会を喜び嘉佑を抱きしめた。
それぞれの卒業生が、思い思いに再会を喜びあっていた。
「藤代、幹事は君だったな。そろそろ四時になる。出席者の集まり具合はどうなんだ」
守山が、全体を見廻し言った。
「あっ、はい。あと二名。梶原と内田がまだのようです」
すると、信夫が声を上げた。
「あっ、誰か、走って校門に入って来ます」
出席者のほぼ全員が校門に目を向けた。皆が向けた目の先に、リュックを背負ったランニングウェア姿の男性がグランドの中央を走ってこちらに向かって来る。
「修、梶原修だ!」
「皆さん、御無沙汰しています。先生、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「変わらないな、君は。今も走っているのかね」
「ええ、午前中は、湘南シティマラソンの十五キロに参加し走って来ました。普段はフルマラソンも走ります」
「修、それじゃあ、ウェアのまま、電車に乗って来たのか?」
「はい。このまま、辻堂からJRに飛び乗って来ました」
「まあ、いい。それにしても、修、汗臭いぞ。久しぶりに部室前の洗い場で汗を流して来い」
守山は、しかめ顔で言った。
「はい!」
修は、当時の返事そのままに、軽快に水場へ走り出した。
「しっかし、彼は変わらんなあ」
皆、笑顔で、修の背中を目で追っていた。
「さあ、残るは内田一人だな」
阿部は、真次の耳元で囁くように言った。
「誰か知っている者はいるか?彼、いや、彼女の事を」
「はい。私と先生と嘉佑だけです。しかし、私も、先生、嘉佑同様に彼女が変わった後の姿は見た事はありません。長い間アメリカに滞在し、一昨年、久しぶりに日本に帰って来た訳ですから」
「うん。私もそうだが、皆がどのような反応をするのか、複雑ではあるな」
「ええ。でも、意識するのは我々だけで、彼女は平然と現れるでしょう。内田樹理として」
「藤代、四時を回った。由樹、いや、樹理は本当に来るだろうか?」
嘉佑は、樹理の気持ちを思い図るように言った。
「ああ、間違いなく来る。緊急の手術でもない限りは・・・」
その時、校門に一台の黒塗りのタクシーが停まった。
タクシーのドアが開き、あたかも、漆黒の花瓶に活けられた一本のゆりの花が開くように日傘が差された。
タクシーから降り立ったのは、ワンピースを着た女性だった。
女性は、既に西に傾いた陽を背に受け、シルエットの影だけを見せこちらに向かい歩いて来る。時折、柔らかな風が吹き、ワンピースの裾を踊らせている。
「誰だろう、あの女性は?」
「逆光でよく見えないが、ありゃ、そうとう美人だぞ」
水場で汗を流し、私服に着替えた修が誰となしに言った。
「教師か、事務員の女性だろうか」
「いいや、土曜日で、この時間から出勤もなかろう」
何やら、皆が騒然としだした。しかし、その中で、真次、阿部、嘉佑は、その女性が誰なのか見当はついていた。だが、徐徐に女性が近づくにつれ、三人の頭は混乱した。確かに内田であることに間違いないと思う半面、一方で、女性として、あまりにも洗練され美しくなった姿に内田であると断言するほどの自信が持てなくなっていた。声を掛けることも出来ず、ただ、唖然と、彼女を見つめることしか出来なかった。
ついに彼女は、皆の目の前に全貌を現した。しかし、次の瞬間、面白い現象が起きた。一人の女性の出現によって、金又池に集まっていた約三十名の男性は、気おくれするように後ずさり、最後方にいた男性は、あわや、池に落ちそうになった。
薄ベージュ色の日傘を差し、ボルドー色でベイズリー柄のワンピース。膝下の長い脚にはセンスの良いベージュ色のサンダルを履き、髪は、ラフなウェーブのセミロング。知的な笑みを満面に湛えた内田由樹こと、内田樹理がそこにいた。
「だ、誰?」
「誰だ?」
真次、嘉佑、阿部を除いた集団の中の誰もが、今、目の前にいる人物が誰であるのか分からず、隣にいる者どうし、何やら囁き、疑問の声は、波紋のように全体に広がった。
当の樹理は、困惑もせず、当然とばかりに笑顔を見せたままだ。すると、突然、阿部が当時のように掌を二回打ち、皆に言った。
「み、みんな、静粛に」
阿部は、先ほどの高揚が修まらぬまま、あらためて樹理に視線を送った。
「内田、こちらに来なさい」
その瞬間、地響きするほどの驚きの声が全員から湧き起こった。
「エーッ!う、内田、内田!?」
「よ、由樹!由樹!?」
「静粛に、静粛に」
阿部は今度、三回掌を鳴らした。
「先生、お久しぶりです。御無沙汰していました」
「うん。君も元気そうで。良く頑張ったね。何より、綺麗になった。私も六十を超えたが、君の美しさに気おくれしてしまうほどだ」
樹理は、嫌みなく、阿部に頬笑み返した。
先ほど、久しぶりに樹理と対面した皆は思わず後ずさったが、今は、胸中複雑ながら、樹理を取り囲むようにゆっくりとした足取りで近づいて来ている。
「真次、嘉佑、守山先輩、五郎先輩、修、信夫、お久しぶりです。皆さん、お久しぶりです」
樹理は、一人一人に目線を合わせ、挨拶し、久しぶりの再会を喜んだ。
「良く見れば、本当に由樹だ」
「そうよ。修、本物よ」
修は、樹理に見つめられ、水浴びしたばかりのさっぱりした筈の身体にまた汗をかいた。
「内田、き、君は、やはり女性だったのか?」
今岡五郎は、遠い目をして言った。
樹理は、曖昧な笑みを浮かべ言った。
「今岡先輩。皆さん、日本へ戻って約一年。そして、今日というこの日に、あらためて私の話を聞いて頂けますか?私、現在の名を内田樹理と言います。二十才の時に女性として生まれ変わりました。勿論、戸籍上も」
またも、皆がざわついた。樹理は、ざわつきが治まるのを少し待って話を続けた。
「高校生の頃、ここにいる、ほとんどの皆さんは、由子、由子と言って、接してくれていました。変な話、そう、呼び名されて、まったく、違和感はありませんでした。これは、私の憶測ですが、一方で、そう呼んだ皆さんも、自然に呼んでくれていたのではありませんか?」
みんな、当時を思い出し、なんとなく頷いている。
「私は、生まれた時から男性の身体を持ち、女性の心を持った、所謂、性同一性障害者だったのです。私は、両親こそ恨みはしませんでしたが自分自身を怨みました。しかし、今思えば、いろいろあった出来事は、神が与えてくれた試練のようにも思えます。生意気なようだけど、随分高いハードルを乗り越えて来たように思えます。今、日本で、私の立場を知るのは、両親と僅かな身内、そして、皆さんだけです。私は、今日、皆さんにお会いしたい一心で、阿部先生の労いの会に参加させて頂きました。当然、今の自分、いいえ、本来の自分の姿で来る事に少しの迷いもありませんでした」
すると、樹理の話の合間を縫って、当時のキャプテン、守山光男がこう言った。
「先日、高校時代の陸上部のスナップ写真を見ていて、いっしょに見ていた妻がこう言ったよ」
〈あら、あなた、金又の陸上部に女性がいたの?随分、綺麗な子ねって〉
「だから、こう言ってやった。彼女、俺と付き合っていたってね。そしたら、かみさん、プイっと、怒って。しばらく、口聞いてもらえなかった」
守山のこの発言で、少し強張っていた空気が和んで笑いが起きた。
樹理は、守山の優しさに触れ、泣き笑いの表情になった。
既に時刻は、夕方の五時を過ぎ、夏の強烈な日差しはなりを潜めはじめていた。
今日、集っている人々は、高校生ではなく、誰もが分別を持ち、臨機応変に対応出来る大人に成長していた。素直な分、時に残酷だった時代はとっくに終わっていた。
夏には珍しく、西の空に茜雲が広がっていた。
その中を、一名の女性を取り囲むように、三十名前後の男性が笑いながら歩いていた。