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【短編028】珊瑚礁の下:住むことと、好きなことは、少し違う。

作者: macchao
掲載日:2026/07/19

沖縄の海が好きで、気づいたら移住していました。

理想と現実のギャップをゆるく書いた短編です。

猫が出てきます。オリオンビールも出てきます。

最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 那覇空港に降り立った瞬間、葵は確信した。


 空気が違う。光が違う。風の重さが違う。


 六月の湿気は東京のそれとは別の生き物で、まとわりつくというより包んでくる感じがした。タクシーの窓から見えるハイビスカスが、ありえないほど赤かった。


 正しい選択をした。絶対に。


 そう思った。


---


 葵が沖縄に初めて来たのは二十六歳の夏だった。


 友人の結婚式のついでに一泊延ばして、那覇の国際通りをぶらついて、翌朝に渡嘉敷島へ渡った。

 船を降りたその瞬間のことを、葵は今でも思い出せる。

 水の色が、この世のものじゃなかった。

 エメラルドとも言えない、青とも言えない。名前のない色だった。


 それから三年で五回来た。

 慶良間、石垣、宮古。

 毎回帰りの飛行機が嫌だった。

 ベルトのサインが消えるたびに小さく死んだ。


 そして四年前に転職の機会が来た。

 フルリモートのSE職。どこに住んでいても構わないという会社。

 上司に報告したのは三週間後だった。


「沖縄に移住します」


 上司はしばらく黙ってから言った。


「……いや待って、退職じゃなくて移住の話が先なの?」


 正確にはその三日後に転職が決まって、一ヶ月後に移住した。


---


 最初の一週間は、夢だった。


 家賃が東京の半分で、近所のスーパーに沖縄そばが売っていた。

 海まで車で二十分。

 それだけで、十分だった。


 ハルは段ボールの解体作業中に現れた。


 どこから来たのか今も分からない。気づいたら窓の外の手すりに乗っていた。白地に薄い縞、目がやけに澄んでいる。

 葵がドアを開けたら入ってきて、ソファの下に消えた。

 鳴き声一つなかった。


 翌朝も、その翌朝もいた。

 ご飯を出したら食べた。

 名前を「ハル」にした理由は、六月に来たのに涼しい顔をしていたからだった。


 ハルは毎朝、葵より先に窓際の定位置につく。

 光が部屋に入ってくる方向を、うっすら目を開けて見ている。

 葵はその後ろで、コーヒーを飲んだ。

 BEGINをかけた。

 東京にいた頃も好きだったが、ここで聴くと別の曲に聞こえた。

 歌詞の中の風景が、窓の外と地続きだった。

 これが生活というものだと思った。


---


 問題が出てきたのは、二ヶ月目からだった。


 まず、虫。


 最初にゴキブリを見た時、一瞬、猫かと思った。それくらい大きかった。

 ハルは見上げて、あくびをした。


 笑えた。でもその夜、わかっていることと、実際に向き合うことは少し違うのだと思った。


 続いて台風。


 停電三時間、ベランダのプランターが消えた。

 仕事のオンライン会議中に回線が落ちた。

 東京の同僚がチャットで「大丈夫ですか?」と送ってきた。

 葵は「大丈夫です! 沖縄の洗礼ですね笑」と返した。

 送信してから、少し止まった。

 大丈夫だった。でも、大丈夫と言いたかっただけかもしれなかった。


 ハルは台風の間中、押し入れの奥から出てこなかった。

 嵐が去ってから普通の顔で現れて、ご飯を要求した。


 葵は冷蔵庫からオリオンビールを出して、ベランダに出た。

 プランターは消えていた。

 空は、嘘みたいに青かった。

 気づいたら缶が空になっていた。

 これがオリオンビールの正しい飲み方なのかもしれない、と思った。


---


 三ヶ月目、葵は「うちなータイム」の洗礼を受けた。


 水道の蛇口を交換してもらう約束が、三時間待っても来なかった。

 電話したら「今向かってます」と言われた。

 さらに一時間後に来た。

 業者のおじさんの腕時計は、三十分ほど遅れていた。

 気にしている様子はなかった。


 後で近所の人に話したら笑われた。


「早い方ですよ。来ただけよかった」


 来ただけよかった。

 時計の刻みではなく、満ちるか満ちないかで動いている。

 潮のようなものだと、後になって葵は思った。


---


 地域との付き合いが始まったのも、その頃だった。


 アパートの隣に、七十代くらいのおばあが住んでいた。

 引っ越した翌日、玄関先でばったり会って、ゴーヤを一本もらった。


 おばあはその後も、何かと声をかけてきた。

 サトウキビのかけら、もずく、名前の知らない野草。

 葵はそのたびにお礼を言って受け取ったが、何かを渡し返すタイミングが毎回わからなかった。


 三ヶ月が過ぎた頃、おばあが言った。


「あなた、遠慮してるね」


 葵は固まった。


---


 もっと複雑だったのは、同じマンションの住民会だった。


 回覧板が回ってきた時、葵はすぐにサインして翌日渡した。それだけでいいと思っていた。

 どうも違うらしかった。


 隣のブロックの若い女性——咲と名乗った、三十代前半、沖縄生まれの本土育ちという少し特殊な立場の人——に廊下で捕まった。


「住民会、出てみませんか。月一回なんで」


 断る理由もなかったので行った。


 公民館の小部屋に、十数人。

 議題はゴミ置き場の清掃当番と、夏の祭りの準備と、あと何かよくわからない話が長かった。

 方言が混じると、半分くらい聞き取れなかった。


 終わった後、咲が声をかけてきた。


「どうでした」


「わからないことが多くて」


「最初はそうですよ。私も本土から戻ってきた時、三年かかりました」


「三年」


「沖縄の人付き合いって、言葉より前に時間が必要なんです。顔を出してるかどうか、ここにいるかどうか。それが積み重なってから、やっと少し中に入れる感じで」


 葵はその言葉を、少し時間をかけて受け取った。


 顔を出してるかどうか、ここにいるかどうか。


 旅行者はそれができない。来て、帰るから。

 住んでいても、そこに根が下りているかどうかは、また別の話だった。


---


 その後しばらく、葵は住民会に顔を出し続けた。

 わからない話も、半分しか聞き取れない方言も、そのまま座って聞いた。

 おばあへの返しも、少しずつ覚えた。

 もらいっぱなしでいい時と、返す時と、向こうが欲しいものを渡す時と、それぞれ違った。


 ある日、おばあが葵の部屋に入ってきた。

 呼んでいない。ドアが開いていたから来た、という感じだった。


 東京の感覚では少し驚いた。

 でも何も言えなかった。

 おばあはハルを見つけて、「かわいいねえ」と言って、帰った。


 それだけだった。

 でもその日から、おばあが少し変わった気がした。

 いや、おばあは変わっていなかった。

 葵の方が、何かを受け入れた、という感じだった。

 次にゴーヤをもらった時、葵は庭のシークワーサーを一つ渡した。

 おばあは何も言わずに受け取った。


---


 住民会に通い始めて三ヶ月が経った頃、咲から声がかかった。


「知り合いの家で小さい集まりがあるんですが、よかったら」


 葵は行った。


 民家の庭に、十人ほどが集まっていた。

 バーベキューではなく、もっとくだけた感じ。

 折り畳み椅子と、クーラーボックスと、誰かが持ってきた惣菜がテーブルに並んでいた。

 オリオンビールが最初から人数分あった。


 最初の三十分は、悪くなかった。

 咲が隣にいて、ところどころ補足してくれた。

 葵も笑えた。


 途中から、会話が方言に切り替わった。


 全員が、切り替わった。

 意図があったわけじゃないと思う。

 仲のいい人間が集まれば、自然にそうなる。ただそれだけのことだった。


 葵には、三割くらいしか聞き取れなかった。

 笑い声が起きるたびに、少し遅れて笑った。

 何が面白かったのかわからないまま笑った。

 その笑い方を、自分でしていることが、一番きつかった。


 咲が時々、葵の方を見た。

 通訳しようとしてくれているのはわかった。

 でもそれをされるたびに、少し違う場所に置かれているような気がした。

 帰り際、咲が小さく言った。

「私も最初の二年は、ずっとそっち側でした」

 慰めではなかった。

 ただの事実だった。

 それが、慰めより少し、痛かった。


 誰も悪くなかった。

 歓迎されていた。

 それでも、透明な壁が、確かにあった。


 帰りの車の中で、葵はしばらく何も考えなかった。

 楽しかったか、と問われれば楽しかったと答えると思う。

 でも何かが、静かに沈んでいた。


 帰宅すると、ハルが玄関で待っていた。

 鳴かなかった。

 ただ、そこにいた。

 葵はしゃがんで、しばらくハルの背中を撫でた。

 ハルは逃げなかった。


 翌朝、東京から連絡が来た。


---


 四ヶ月目に、仕事で失敗した。


 リモート会議が増える中で、東京本社との時差感覚がずれていった。

 彼方の社内は「急ぎ」で動いていた。

 葵の窓の外は、今日もゆっくり雲が流れていた。

 その速度の差が、徐々にメール返信の遅さになり、タスクの優先順位の甘さになっていた。


 午前中、おばあと縁側で三十分話した。

 もずくの旬のこと、昔の台風のこと、他愛もない話だった。

 会話に結論はなかった。必要なかった。

 午後、東京からバグ報告が来た。

 本番環境で発生している。至急確認を。

 葵はコードを開いた。

 ログを読んだ。原因を特定した。

 修正して、テストして、デプロイした。

 一時間かかった。

 東京からは三十分を超えた時点でリマインドが来ていた。


 午前と午後が、別の惑星だった。

 おばあの時間には目盛りがなかった。

 東京の時間には、分どころか秒に近い何かがあった。

 どちらが正しいかという話ではなかった。

 ただ葵は、一日の中で両方に住んでいた。


 上司——新しい会社の、東京在住の上司——から連絡が来た。


「葵さん、少し話せますか」


 丁寧な声だったが、内容は明快だった。

 細かいことを言うつもりはないが、レスポンスの速度について。

 東京のチームは常に動いている。沖縄にいることは関係ない。


 葵は「わかりました」と言った。

 通話を切って、画面を伏せた。

 しばらく、伏せたままにしていた。


 葵はその日の夜、久しぶりにハルを抱き上げた。

 ハルは大人しくされるがままになっていたが、しばらくして静かに足元に降りた。

 背中を向けた。


 逃げるでもなく、離れるでもなく。

 ただ、少し距離を置いた。


 翌朝、葵は車に乗った。


 行き先を決めずに走って、気づいたら海沿いの道に出ていた。

 駐車場に車を停めて、砂浜に降りた。

 平日の昼間、人はほとんどいなかった。


 波打ち際から少し離れて立つと、海が三つの色に分かれているのが見えた。


 手前は浅瀬の白に近い透明。

 その先がターコイズブルー。珊瑚礁のある深さだった。

 さらに沖が、深い藍色。


 三段に重なって、境目がなだらかで、どこからどこまでが次の色なのか指で示せない。

 名前のない色、と最初に思ったのは間違いだった。

 名前が三つ足りなかった。


 葵はしばらく、それだけを見ていた。

 いつもと同じ色だった。

 いつもと同じ三段で、いつもと同じ境目で、何も変わっていなかった。

 でも今日は、それが遠かった。

 海が遠いのではなかった。

 自分が、届かなくなっていた。


 一時間ほどいて、車に戻った。

 何も解決していなかった。

 シートに座って、ハンドルに額をつけた。

 このまま続けられるのか、と初めてはっきり思った。

 思ってから、少し驚いた。

 ここまで一度も、そう思わなかったことに。

 でも、車を出した。


---


 冬になった。


 沖縄の冬は温かいが、暖かくはなかった。

 建物が夏のために設計されていて、隙間から風が入った。

 足元が、じわじわと冷えた。


 夜、葵はひざ掛けにくるまってコードを書いた。

 正しければ動く。間違えれば止まる。

 デプロイは、間違えても戻せる。

 生活は、戻せない。そういうものだと、この冬に初めて思った。


 ハルは毛布の上を離れなくなった。

 葵も同じ気持ちだった。

 部屋が静かすぎる夜は、東京の雑踏を少し思い出した。

 思い出したからといって、恋しいわけではなかった。

 ただ、思い出した。

 人の声がある場所のことを。

 通知が鳴り、誰かが急いでいる場所のことを。

 沖縄に来て、それが騒がしいと思っていた。

 でも静かすぎると、騒がしさにも輪郭があったのだと気づいた。


---


 移住して一年目の秋。


 虫のこと、台風のこと、おばあとの距離感、住民会の方言、仕事の速度のずれ。

 そういうものが積み重なった時、葵は気づくと呼吸が浅くなっていた。

 そういう時、とにかく車を出した。

 行くと決めてから行くのではなく、走り出してから海に向かっていた。


 砂の上に立って、三段の色を見ると、いつも少し同じことを思った。

 これが好きで来た。

 これはまだ、ここにある。


 それだけだった。

 それだけで、もう少し続けられた。


 いつもの海沿いの道を走っていて、理由もなく車を停めた。

 エンジンを切ると、波の音だけが残った。

 ダッシュボードに、砂が薄く積もっていた。

 いつからあるのか、もうわからなかった。

 助手席を見た。

 ハルが乗っていたことは一度もない。

 それでも、見た。

 初めて来た日のことを思い出した。

 三年前の夏。あの高揚感。ここに住みたいと思った瞬間。


 今も好きだった。

 確かに好きだった。


 でも好きなことと、住むことは、少し違う。


 島が好きだ、と言うのは簡単だ。

 島の不便を、全部丸ごと好きになれるかどうかは、別の話だった。


 葵は、自分が沖縄を「旅行者の目」で見続けようとしていたことに気づいた。

 光の角度、海の色、空気の重さ。

 それを毎日探していた。

 毎日それがあるわけじゃなかった。


 普通の日があった。

 雨の日。ゴミ出しの日。台風で仕事が止まる日。

 そういう日に、ここにいる意味を考えた。


 ハルは、そういう日もいつもと同じ顔をしていた。

 特に喜んでいるわけでも、落胆しているわけでもない。

 ただ窓際にいた。


---


 移住して一年半が経った、翌春。

 沖縄の春は、東京より早く来る。

 それにも、もう慣れていた。


 東京の先輩から連絡が来た。


 新しいプロジェクト。チームリーダーを探している。フルリモート不可。

 週三は東京オフィスに来られる人が条件。


 葵は三日間、考えた。


 沖縄の速度に馴染みながら、東京の速度を懐かしいと思っている自分がいた。

 役に立っている感覚が、ここでは少し、遠かった。

 自分の速度で動ける場所に、戻りたかった。


 窓の外を見た。

 ハルが窓際から葵を見た。

 目が合った。

 ハルはゆっくりまばたきをして、また外を向いた。


 葵は東京に戻ることにした。


 咲にLINEで伝えると、少し間があってから「そっか」と返ってきた。

 既読がついてから返信まで、二時間あった。

 それだけだった。

 でもその「そっか」の重さが、咲が沖縄と本土の間で何度も測ってきたものと、同じ重さな気がした。


---


 引っ越しの日、業者が来るまでの間、葵は空の部屋に座っていた。


 ハルがどこに行くか、少し迷った。

 連れて帰るつもりだった。

 でも引っ越し前日、葵は少し立ち止まった。

 ハルは隣の家の縁側にいた。

 こちらを見なかった。

 おばあが縁側から葵を見て、小さく頷いた。

 葵も頷いた。

 言葉はなかった。


 玄関を閉める時、ハルは来なかった。

 ドアの向こうで、鳴き声も聞こえなかった。

 最初に現れた日も、鳴き声はなかった。

 ここにいた一年半、ずっと鳴かなかった。

 それに今、気づいた。


 タクシーの中で、空港までの道をぼんやり見ていた。

 ハイビスカスが赤かった。

 あの日と同じ赤さだった。


 飛行機が離陸して、窓の外に海が見えた。

 例の色だった。

 名前のない色。


 葵は少し笑った。


 三年前、この色を見て住みたいと思った。

 今は、また来たいと思っている。


 その違いが何なのか、うまく言葉にできなかった。

 でも何かが変わっていて、何かは変わっていなかった。


 雲が、窓の外で形を変えながら流れていった。


---


 東京に戻って最初の冬、駅のホームでイヤホンをしていたら、BEGINが流れた。


 シャッフルで、たまたま。


 乾いた風が来た。

 アスファルトと排気の匂いがした。

 沖縄の風とは全然違う、乾いた冷たい風だった。

 なのに、一瞬だけ、あの湿気の重さを思い出した。

 朝の光と、窓際のハルを思い出した。

 そして、あの三段の色を思い出した。

 手前の白でも、沖の藍でもなく——今の自分は、真ん中のターコイズにいる気がした。

 どこにも属していないのではなく、その間にいる。

 珊瑚礁は、そういう深さでしか育たないものだと、ふと思い出した。


 電車が来た。

 葵は乗った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

先日初めて沖縄を訪れて、あの海の色に心を奪われました。この話はそこから始まっています。一度行っただけで「住んだらどうなるだろう」と想像してしまうくらいには、沖縄はそういう場所でした。

好きな場所と、住む場所は、少し違う。

でもその違いを知ることも、悪くないのかもしれない——と書きながら思いました。

葵がいつかまた沖縄に来る日のことを、少し信じています。

ハルは、たぶんまだあの縁側にいます。

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