【短編028】珊瑚礁の下:住むことと、好きなことは、少し違う。
沖縄の海が好きで、気づいたら移住していました。
理想と現実のギャップをゆるく書いた短編です。
猫が出てきます。オリオンビールも出てきます。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
那覇空港に降り立った瞬間、葵は確信した。
空気が違う。光が違う。風の重さが違う。
六月の湿気は東京のそれとは別の生き物で、まとわりつくというより包んでくる感じがした。タクシーの窓から見えるハイビスカスが、ありえないほど赤かった。
正しい選択をした。絶対に。
そう思った。
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葵が沖縄に初めて来たのは二十六歳の夏だった。
友人の結婚式のついでに一泊延ばして、那覇の国際通りをぶらついて、翌朝に渡嘉敷島へ渡った。
船を降りたその瞬間のことを、葵は今でも思い出せる。
水の色が、この世のものじゃなかった。
エメラルドとも言えない、青とも言えない。名前のない色だった。
それから三年で五回来た。
慶良間、石垣、宮古。
毎回帰りの飛行機が嫌だった。
ベルトのサインが消えるたびに小さく死んだ。
そして四年前に転職の機会が来た。
フルリモートのSE職。どこに住んでいても構わないという会社。
上司に報告したのは三週間後だった。
「沖縄に移住します」
上司はしばらく黙ってから言った。
「……いや待って、退職じゃなくて移住の話が先なの?」
正確にはその三日後に転職が決まって、一ヶ月後に移住した。
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最初の一週間は、夢だった。
家賃が東京の半分で、近所のスーパーに沖縄そばが売っていた。
海まで車で二十分。
それだけで、十分だった。
ハルは段ボールの解体作業中に現れた。
どこから来たのか今も分からない。気づいたら窓の外の手すりに乗っていた。白地に薄い縞、目がやけに澄んでいる。
葵がドアを開けたら入ってきて、ソファの下に消えた。
鳴き声一つなかった。
翌朝も、その翌朝もいた。
ご飯を出したら食べた。
名前を「ハル」にした理由は、六月に来たのに涼しい顔をしていたからだった。
ハルは毎朝、葵より先に窓際の定位置につく。
光が部屋に入ってくる方向を、うっすら目を開けて見ている。
葵はその後ろで、コーヒーを飲んだ。
BEGINをかけた。
東京にいた頃も好きだったが、ここで聴くと別の曲に聞こえた。
歌詞の中の風景が、窓の外と地続きだった。
これが生活というものだと思った。
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問題が出てきたのは、二ヶ月目からだった。
まず、虫。
最初にゴキブリを見た時、一瞬、猫かと思った。それくらい大きかった。
ハルは見上げて、あくびをした。
笑えた。でもその夜、わかっていることと、実際に向き合うことは少し違うのだと思った。
続いて台風。
停電三時間、ベランダのプランターが消えた。
仕事のオンライン会議中に回線が落ちた。
東京の同僚がチャットで「大丈夫ですか?」と送ってきた。
葵は「大丈夫です! 沖縄の洗礼ですね笑」と返した。
送信してから、少し止まった。
大丈夫だった。でも、大丈夫と言いたかっただけかもしれなかった。
ハルは台風の間中、押し入れの奥から出てこなかった。
嵐が去ってから普通の顔で現れて、ご飯を要求した。
葵は冷蔵庫からオリオンビールを出して、ベランダに出た。
プランターは消えていた。
空は、嘘みたいに青かった。
気づいたら缶が空になっていた。
これがオリオンビールの正しい飲み方なのかもしれない、と思った。
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三ヶ月目、葵は「うちなータイム」の洗礼を受けた。
水道の蛇口を交換してもらう約束が、三時間待っても来なかった。
電話したら「今向かってます」と言われた。
さらに一時間後に来た。
業者のおじさんの腕時計は、三十分ほど遅れていた。
気にしている様子はなかった。
後で近所の人に話したら笑われた。
「早い方ですよ。来ただけよかった」
来ただけよかった。
時計の刻みではなく、満ちるか満ちないかで動いている。
潮のようなものだと、後になって葵は思った。
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地域との付き合いが始まったのも、その頃だった。
アパートの隣に、七十代くらいのおばあが住んでいた。
引っ越した翌日、玄関先でばったり会って、ゴーヤを一本もらった。
おばあはその後も、何かと声をかけてきた。
サトウキビのかけら、もずく、名前の知らない野草。
葵はそのたびにお礼を言って受け取ったが、何かを渡し返すタイミングが毎回わからなかった。
三ヶ月が過ぎた頃、おばあが言った。
「あなた、遠慮してるね」
葵は固まった。
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もっと複雑だったのは、同じマンションの住民会だった。
回覧板が回ってきた時、葵はすぐにサインして翌日渡した。それだけでいいと思っていた。
どうも違うらしかった。
隣のブロックの若い女性——咲と名乗った、三十代前半、沖縄生まれの本土育ちという少し特殊な立場の人——に廊下で捕まった。
「住民会、出てみませんか。月一回なんで」
断る理由もなかったので行った。
公民館の小部屋に、十数人。
議題はゴミ置き場の清掃当番と、夏の祭りの準備と、あと何かよくわからない話が長かった。
方言が混じると、半分くらい聞き取れなかった。
終わった後、咲が声をかけてきた。
「どうでした」
「わからないことが多くて」
「最初はそうですよ。私も本土から戻ってきた時、三年かかりました」
「三年」
「沖縄の人付き合いって、言葉より前に時間が必要なんです。顔を出してるかどうか、ここにいるかどうか。それが積み重なってから、やっと少し中に入れる感じで」
葵はその言葉を、少し時間をかけて受け取った。
顔を出してるかどうか、ここにいるかどうか。
旅行者はそれができない。来て、帰るから。
住んでいても、そこに根が下りているかどうかは、また別の話だった。
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その後しばらく、葵は住民会に顔を出し続けた。
わからない話も、半分しか聞き取れない方言も、そのまま座って聞いた。
おばあへの返しも、少しずつ覚えた。
もらいっぱなしでいい時と、返す時と、向こうが欲しいものを渡す時と、それぞれ違った。
ある日、おばあが葵の部屋に入ってきた。
呼んでいない。ドアが開いていたから来た、という感じだった。
東京の感覚では少し驚いた。
でも何も言えなかった。
おばあはハルを見つけて、「かわいいねえ」と言って、帰った。
それだけだった。
でもその日から、おばあが少し変わった気がした。
いや、おばあは変わっていなかった。
葵の方が、何かを受け入れた、という感じだった。
次にゴーヤをもらった時、葵は庭のシークワーサーを一つ渡した。
おばあは何も言わずに受け取った。
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住民会に通い始めて三ヶ月が経った頃、咲から声がかかった。
「知り合いの家で小さい集まりがあるんですが、よかったら」
葵は行った。
民家の庭に、十人ほどが集まっていた。
バーベキューではなく、もっとくだけた感じ。
折り畳み椅子と、クーラーボックスと、誰かが持ってきた惣菜がテーブルに並んでいた。
オリオンビールが最初から人数分あった。
最初の三十分は、悪くなかった。
咲が隣にいて、ところどころ補足してくれた。
葵も笑えた。
途中から、会話が方言に切り替わった。
全員が、切り替わった。
意図があったわけじゃないと思う。
仲のいい人間が集まれば、自然にそうなる。ただそれだけのことだった。
葵には、三割くらいしか聞き取れなかった。
笑い声が起きるたびに、少し遅れて笑った。
何が面白かったのかわからないまま笑った。
その笑い方を、自分でしていることが、一番きつかった。
咲が時々、葵の方を見た。
通訳しようとしてくれているのはわかった。
でもそれをされるたびに、少し違う場所に置かれているような気がした。
帰り際、咲が小さく言った。
「私も最初の二年は、ずっとそっち側でした」
慰めではなかった。
ただの事実だった。
それが、慰めより少し、痛かった。
誰も悪くなかった。
歓迎されていた。
それでも、透明な壁が、確かにあった。
帰りの車の中で、葵はしばらく何も考えなかった。
楽しかったか、と問われれば楽しかったと答えると思う。
でも何かが、静かに沈んでいた。
帰宅すると、ハルが玄関で待っていた。
鳴かなかった。
ただ、そこにいた。
葵はしゃがんで、しばらくハルの背中を撫でた。
ハルは逃げなかった。
翌朝、東京から連絡が来た。
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四ヶ月目に、仕事で失敗した。
リモート会議が増える中で、東京本社との時差感覚がずれていった。
彼方の社内は「急ぎ」で動いていた。
葵の窓の外は、今日もゆっくり雲が流れていた。
その速度の差が、徐々にメール返信の遅さになり、タスクの優先順位の甘さになっていた。
午前中、おばあと縁側で三十分話した。
もずくの旬のこと、昔の台風のこと、他愛もない話だった。
会話に結論はなかった。必要なかった。
午後、東京からバグ報告が来た。
本番環境で発生している。至急確認を。
葵はコードを開いた。
ログを読んだ。原因を特定した。
修正して、テストして、デプロイした。
一時間かかった。
東京からは三十分を超えた時点でリマインドが来ていた。
午前と午後が、別の惑星だった。
おばあの時間には目盛りがなかった。
東京の時間には、分どころか秒に近い何かがあった。
どちらが正しいかという話ではなかった。
ただ葵は、一日の中で両方に住んでいた。
上司——新しい会社の、東京在住の上司——から連絡が来た。
「葵さん、少し話せますか」
丁寧な声だったが、内容は明快だった。
細かいことを言うつもりはないが、レスポンスの速度について。
東京のチームは常に動いている。沖縄にいることは関係ない。
葵は「わかりました」と言った。
通話を切って、画面を伏せた。
しばらく、伏せたままにしていた。
葵はその日の夜、久しぶりにハルを抱き上げた。
ハルは大人しくされるがままになっていたが、しばらくして静かに足元に降りた。
背中を向けた。
逃げるでもなく、離れるでもなく。
ただ、少し距離を置いた。
翌朝、葵は車に乗った。
行き先を決めずに走って、気づいたら海沿いの道に出ていた。
駐車場に車を停めて、砂浜に降りた。
平日の昼間、人はほとんどいなかった。
波打ち際から少し離れて立つと、海が三つの色に分かれているのが見えた。
手前は浅瀬の白に近い透明。
その先がターコイズブルー。珊瑚礁のある深さだった。
さらに沖が、深い藍色。
三段に重なって、境目がなだらかで、どこからどこまでが次の色なのか指で示せない。
名前のない色、と最初に思ったのは間違いだった。
名前が三つ足りなかった。
葵はしばらく、それだけを見ていた。
いつもと同じ色だった。
いつもと同じ三段で、いつもと同じ境目で、何も変わっていなかった。
でも今日は、それが遠かった。
海が遠いのではなかった。
自分が、届かなくなっていた。
一時間ほどいて、車に戻った。
何も解決していなかった。
シートに座って、ハンドルに額をつけた。
このまま続けられるのか、と初めてはっきり思った。
思ってから、少し驚いた。
ここまで一度も、そう思わなかったことに。
でも、車を出した。
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冬になった。
沖縄の冬は温かいが、暖かくはなかった。
建物が夏のために設計されていて、隙間から風が入った。
足元が、じわじわと冷えた。
夜、葵はひざ掛けにくるまってコードを書いた。
正しければ動く。間違えれば止まる。
デプロイは、間違えても戻せる。
生活は、戻せない。そういうものだと、この冬に初めて思った。
ハルは毛布の上を離れなくなった。
葵も同じ気持ちだった。
部屋が静かすぎる夜は、東京の雑踏を少し思い出した。
思い出したからといって、恋しいわけではなかった。
ただ、思い出した。
人の声がある場所のことを。
通知が鳴り、誰かが急いでいる場所のことを。
沖縄に来て、それが騒がしいと思っていた。
でも静かすぎると、騒がしさにも輪郭があったのだと気づいた。
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移住して一年目の秋。
虫のこと、台風のこと、おばあとの距離感、住民会の方言、仕事の速度のずれ。
そういうものが積み重なった時、葵は気づくと呼吸が浅くなっていた。
そういう時、とにかく車を出した。
行くと決めてから行くのではなく、走り出してから海に向かっていた。
砂の上に立って、三段の色を見ると、いつも少し同じことを思った。
これが好きで来た。
これはまだ、ここにある。
それだけだった。
それだけで、もう少し続けられた。
いつもの海沿いの道を走っていて、理由もなく車を停めた。
エンジンを切ると、波の音だけが残った。
ダッシュボードに、砂が薄く積もっていた。
いつからあるのか、もうわからなかった。
助手席を見た。
ハルが乗っていたことは一度もない。
それでも、見た。
初めて来た日のことを思い出した。
三年前の夏。あの高揚感。ここに住みたいと思った瞬間。
今も好きだった。
確かに好きだった。
でも好きなことと、住むことは、少し違う。
島が好きだ、と言うのは簡単だ。
島の不便を、全部丸ごと好きになれるかどうかは、別の話だった。
葵は、自分が沖縄を「旅行者の目」で見続けようとしていたことに気づいた。
光の角度、海の色、空気の重さ。
それを毎日探していた。
毎日それがあるわけじゃなかった。
普通の日があった。
雨の日。ゴミ出しの日。台風で仕事が止まる日。
そういう日に、ここにいる意味を考えた。
ハルは、そういう日もいつもと同じ顔をしていた。
特に喜んでいるわけでも、落胆しているわけでもない。
ただ窓際にいた。
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移住して一年半が経った、翌春。
沖縄の春は、東京より早く来る。
それにも、もう慣れていた。
東京の先輩から連絡が来た。
新しいプロジェクト。チームリーダーを探している。フルリモート不可。
週三は東京オフィスに来られる人が条件。
葵は三日間、考えた。
沖縄の速度に馴染みながら、東京の速度を懐かしいと思っている自分がいた。
役に立っている感覚が、ここでは少し、遠かった。
自分の速度で動ける場所に、戻りたかった。
窓の外を見た。
ハルが窓際から葵を見た。
目が合った。
ハルはゆっくりまばたきをして、また外を向いた。
葵は東京に戻ることにした。
咲にLINEで伝えると、少し間があってから「そっか」と返ってきた。
既読がついてから返信まで、二時間あった。
それだけだった。
でもその「そっか」の重さが、咲が沖縄と本土の間で何度も測ってきたものと、同じ重さな気がした。
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引っ越しの日、業者が来るまでの間、葵は空の部屋に座っていた。
ハルがどこに行くか、少し迷った。
連れて帰るつもりだった。
でも引っ越し前日、葵は少し立ち止まった。
ハルは隣の家の縁側にいた。
こちらを見なかった。
おばあが縁側から葵を見て、小さく頷いた。
葵も頷いた。
言葉はなかった。
玄関を閉める時、ハルは来なかった。
ドアの向こうで、鳴き声も聞こえなかった。
最初に現れた日も、鳴き声はなかった。
ここにいた一年半、ずっと鳴かなかった。
それに今、気づいた。
タクシーの中で、空港までの道をぼんやり見ていた。
ハイビスカスが赤かった。
あの日と同じ赤さだった。
飛行機が離陸して、窓の外に海が見えた。
例の色だった。
名前のない色。
葵は少し笑った。
三年前、この色を見て住みたいと思った。
今は、また来たいと思っている。
その違いが何なのか、うまく言葉にできなかった。
でも何かが変わっていて、何かは変わっていなかった。
雲が、窓の外で形を変えながら流れていった。
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東京に戻って最初の冬、駅のホームでイヤホンをしていたら、BEGINが流れた。
シャッフルで、たまたま。
乾いた風が来た。
アスファルトと排気の匂いがした。
沖縄の風とは全然違う、乾いた冷たい風だった。
なのに、一瞬だけ、あの湿気の重さを思い出した。
朝の光と、窓際のハルを思い出した。
そして、あの三段の色を思い出した。
手前の白でも、沖の藍でもなく——今の自分は、真ん中のターコイズにいる気がした。
どこにも属していないのではなく、その間にいる。
珊瑚礁は、そういう深さでしか育たないものだと、ふと思い出した。
電車が来た。
葵は乗った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
先日初めて沖縄を訪れて、あの海の色に心を奪われました。この話はそこから始まっています。一度行っただけで「住んだらどうなるだろう」と想像してしまうくらいには、沖縄はそういう場所でした。
好きな場所と、住む場所は、少し違う。
でもその違いを知ることも、悪くないのかもしれない——と書きながら思いました。
葵がいつかまた沖縄に来る日のことを、少し信じています。
ハルは、たぶんまだあの縁側にいます。




