第8話 『夜の刃』の降臨と絶対支配
血と脂の混ざった不快な臭いが漂う魔具修理店から、三人のチンピラたちは這いつくばるようにして逃げ出していった。
右手を貫かれたリーダー格の男は、自らの血で王都の裏路地に点々と赤い染みを作りながら、振り返ることもできずに暗がりへと消えていく。膝を砕かれた男は、仲間に引きずられながら泣き喚いていた。
残されたスレイ・セクタムは、ひび割れた作業台にこびりついた血痕を、古びた布で無造作に拭き取っていた。
(……やはり、この肉体はまだ脆すぎる)
スレイは血濡れの布を放り投げ、自身の右手をじっと見つめた。
指先が、微かに痙攣している。恐怖や高揚からくる震えではない。極限まで圧縮した魔力を用いた歩法『フェイク・ブリンク』を、この未成熟な十五年前の肉体で強引に発動させたことによる、筋繊維と魔力回路のオーバーヒートだ。
たった一度、ほんの数メートルの距離を滑っただけで、足の筋肉は悲鳴を上げ、体内を巡る魔力は枯渇寸前にまで落ち込んでいる。もし相手が素人のチンピラではなく、まともな訓練を受けた騎士や凄腕の傭兵であったなら、二発目の『フェイク・ブリンク』を強制された時点で、スレイの身体は内部から自壊していただろう。
(圧倒的な暴力で恐怖を植え付けることはできた。だが、あの豚どもが自分の頭である『隻眼のガロ』に泣きつけば、今夜中に数十人のゴロツキがこの店を報復のために包囲するはずだ。持久戦になれば、今の俺に勝ち目はない)
スレイは冷ややかな瞳で、窓の外の薄暗い路地を見据えた。
盤面を支配する鉄則。それは、相手に考える隙を与えず、恐怖が怒りに変わる前に、さらに巨大な絶望で叩き潰すことだ。
スレイは作業台の下から、黒い染料で塗り潰した不気味な鉄の仮面と、闇に溶け込むような漆黒の外套を取り出した。
それは、彼が王都の裏社会を支配する、顔のない暗殺者『ナイト・ブレード』として振る舞うための、専用の舞台衣装だった。
(報復を待つ必要はない。俺の方から出向いて、この区画の裏社会を今夜中に根こそぎ刈り取る)
外套を羽織り、鉄の仮面で顔の上半分を覆い隠す。
鏡に映ったその姿は、かつての清廉潔白な英雄の面影など微塵も残していない、完全な闇の住人であった。
スレイは音もなく店を出ると、完全に陽が落ち、深い泥の底のような暗闇に沈んだ貧民街へと足を踏み入れた。
***
王都の裏路地は、夜になるとその真の姿を現す。
違法な薬物の甘ったるい煙が漂い、娼婦たちの嬌声と、賭博で身を持ち崩した者たちの怒号が入り混じる。法も秩序も届かない、欲望の掃き溜めだ。
スレイはその暗がりを、まるで影そのもののように滑るように歩いていた。
胸元に下げた『トゥルーアイのペンダント』が、微かな熱を帯びてスレイの視界を拡張している。彼の眼には、先ほど逃げ帰ったリーダー格の男が流した血の痕跡だけでなく、彼らがまき散らした『恐怖』という感情の残滓が、どぎつい青緑色の光の帯となって、迷路のような路地の奥へと続いているのがはっきりと見えていた。
(ご丁寧に、自分たちのボスの寝首を掻いてくれと言わんばかりの道標だ)
光の帯が途切れた先は、貧民街の中心にそびえ立つ、周囲の掘っ立て小屋とは不釣り合いなほど頑丈な石造りの廃教会だった。
窓という窓は分厚い木の板で塞がれ、入り口には武装した見張りが四人も立っている。その内部からは、下品な歓声と、金貨がぶつかり合う音が漏れ聞こえていた。ここが、『赤サソリ』の拠点であり、違法な賭博場兼娼館として機能している根城に違いなかった。
スレイは正面突破などという愚かな選択はしない。
彼は建物の死角へと回り込むと、ペンダントの力で外壁の構造と、内部の人間たちの配置を完全に透視した。
(一階の賭博場には三十人ほど。だが、二階の奥の部屋……ここだけは魔力の波長が違う。警護が二人と、部屋の中央に、微弱だが魔道具の反応を持った男が一人)
それが頭である『隻眼のガロ』だろう。
スレイは音もなく石壁をよじ登り、二階のバルコニーへと飛び移った。
そこには見張りの男が一人、退屈そうに欠伸をしながら立っていた。
スレイは闇に紛れたまま、男の背後へと忍び寄る。
彼の視界には、男の首筋に走る致命的な『デッド・ライン』が赤い線として浮かび上がっている。スレイは一切の躊躇なく、その赤い線に沿って、両手で男の頭部を挟み込んだ。
――ゴキリ。
鈍い骨の砕ける音がわずかに響き、見張りの男は悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちた。
スレイは男の死体を静かに床に横たえると、鍵のかかっていない窓を押し開け、音もなく建物の中枢へと侵入した。
廊下を抜け、最も豪華な装飾が施された両開きの扉の前に立つ。
扉の向こうからは、激しい怒声が聞こえていた。
「てめェら、たかが一人のガキにやられて帰ってきただと!? 俺のシマでそんなふざけた真似をする奴を生かしておけるか! 今すぐ全員集めろ、その修理店ごと火を放って皆殺しにしてやる!」
「が、ガロの旦那ァ! あいつはただのガキじゃねえ、本物の化け物だ! 瞬きする間に俺の手を……ッ!」
(手遅れだ。俺はすでに、お前たちの喉元に立っている)
スレイは鉄の仮面の下で冷酷に嗤うと、両開きの扉を思い切り蹴り開けた。
鼓膜を劈くような破壊音と共に扉が吹き飛び、部屋の中にいた者たちの視線が一斉にスレイへと突き刺さる。
そこは、悪趣味な赤い絨毯が敷き詰められた豪奢な執務室だった。
部屋の中央にあるマホガニーの巨大な机。その奥に座っていたのは、左目に黒い眼帯をした、筋骨隆々の大男――『隻眼のガロ』だった。
彼の足元には、先ほどスレイの店から逃げ帰ったチンピラたちが、血まみれの包帯を巻きながら土下座をしている。
突如として現れた、黒い外套と鉄の仮面を被った不気味な侵入者。
その異様な姿と、全身から放たれる圧倒的な死の気配に、部屋の空気は一瞬にして凍りついた。
「なっ……貴様、何者だ!?」
ガロが腰の剣を引き抜きながら怒鳴る。部屋にいた二人の護衛も、慌てて武器を構えた。
だが、スレイは一歩も立ち止まらず、ゆっくりとした足取りでガロの机へと歩を進めた。
「俺の名は、ナイト・ブレード。先ほど、俺の店で散々喚き散らしてくれたお前の部下たちに、伝言を頼んだはずだが?」
スレイの低く、地を這うような声が部屋に響く。
その声を聞いた瞬間、土下座していたチンピラたちが「ヒィッ!?」と情けない悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように部屋の隅へと逃げ惑った。
「て、てめェがその生意気なガキか! 舐めやがって、殺せ!!」
ガロの怒号を合図に、二人の護衛がスレイに向かって斬りかかってきた。
右からは長剣、左からは重量のあるメイス。
狭い室内での完璧な連携攻撃。素人であれば、回避する間もなく肉塊に変えられていただろう。
だが、スレイの『トゥルーアイ』は、彼らの筋肉の収縮から攻撃の軌道を完全に予測し、視界に赤い死線を引いていた。
(遅すぎる。止まって見える)
スレイは身体を低く沈み込ませ、二人の攻撃が交差するほんのわずかな隙間――死角のポケットへと滑り込んだ。
右の男が剣を振り下ろした反動で体勢を崩したその瞬間、スレイは隠し持っていた千枚通しを、男の鎧の隙間、脇の下の動脈へと深々と突き立てた。
鮮血が噴き出し、男が崩れ落ちるのを盾にするようにして、左の男へと反転する。
驚愕に見開かれた左の男の眼球めがけて、スレイは靴の爪先を正確に蹴り込んだ。
骨が砕ける音と絶叫。
戦闘開始から、わずか三秒。
ガロの自慢の護衛たちは、床に血溜まりを作って完全に沈黙した。
「ば、化け物……ッ!」
ガロの顔から血の気が引き、額から滝のような汗が流れ落ちる。
一瞬にして護衛を葬り去られた彼は、己の剣術ではスレイに敵わないと悟り、机の引き出しから慌てて『ある物』を取り出した。
それは、赤い宝石が嵌め込まれた、粗悪な金細工の指輪だった。
(魔力の発火装置。ファイアー・ボールの使い捨て魔具か)
スレイの真実の眼は、その指輪の内部で急速に魔力が圧縮され、数千度の熱量を持った炎が放たれようとしているプロセスを、視覚情報として完全に捉えていた。
直撃すれば、この部屋ごとスレイを黒焦げにする威力が秘められている。
ガロは狂ったような笑みを浮かべ、指輪をスレイへと向けた。
「死ねェッ! このゴミ虫がァ!!」
だが、その指輪から炎が吹き上がることは、永遠になかった。
スレイの左手から投擲された短剣が、空気を裂き、ガロの手首を正確に貫いていたからだ。
「ギャァァアアアッ!?」
手首を短剣で机に縫い留められ、ガロは指輪を取り落として絶叫した。
魔力供給を絶たれた指輪は、ただのガラクタとなって床を転がる。
スレイは悠然と机の上に乗り上げ、激痛にのたうち回るガロの髪を掴んで、その巨体を強引に引き起こした。
鉄の仮面の奥で光る、スレイの極寒の瞳と、ガロの怯え切った隻眼が至近距離で交差する。
「な、なんだ、てめェは……! 何が目的だ! 金か!? 女か!? なんだってくれてやる、だから命だけは……!」
「黙れ、三流。俺はお前のような小悪党の命にも、その端金にも興味はない」
スレイはガロの首筋に、血に濡れた千枚通しの先端を押し当てた。
鋭い殺気が、ガロの魂を直接凍らせる。
「今日から、この区画の裏社会は俺が支配する。お前が握っている全ての裏帳簿、貴族や教団との癒着の証拠、そして、この泥の底の全てのゴロツキの命は、俺の手の中にある。俺の命令には絶対服従だ。一度でも逆らえば、お前をこの手首と同じように、王都の城壁に生きたまま縫い付けてやる」
「ひ、ひぃぃっ……! わ、わかった! 従う、あんたに従う! だから……!」
(恐怖による支配は完了した。これで、表の世界で俺が『清廉潔白な英雄』を演じるための、強固な土台が完成した)
スレイはガロの髪から手を離し、彼を机の上に乱暴に突き飛ばした。
震える手で血止めの布を探すガロを一瞥もせず、スレイは机の上に置かれていた分厚い革張りの裏帳簿を手に取った。
そこには、王都の貴族たちの汚職の記録や、教団の不正な資金洗浄の証拠がびっしりと書き込まれていた。
スレイはペンダントの力を使い、膨大なページの中から、彼が最も必要としている『情報』に関する項目だけを高速で読み取っていく。
やがて、スレイの指先が、ある一文でピタリと止まった。
(……見つけたぞ。王宮の機密情報すらも裏で売り捌く、王都最強の情報屋)
その名は、『影の針』アザレア。
前世において、王室諜報部を裏切り、裏社会で暗躍していた老練な女スパイ。
リゼットを完全に孤立させ、彼女が頼ろうとする勢力を全て先回りして潰すためには、王都中の情報を筒抜けにする『眼と耳』が必要不可欠だった。
このアザレアという女を、暴力ではなく、逃れられない『弱み』で縛り付け、完全な手駒とする。それが、スレイの次なる一手だった。
「ガロ。明日までに、この『アザレア』という情報屋の現在の居場所と、彼女の周囲の人間関係を全て洗い出しておけ。少しでも遅れれば、お前の残りの目玉を抉り出す」
スレイは帳簿を懐にしまい込み、背を向けたまま冷酷に言い放った。
ガロは血の気を失った顔で、何度も何度も首を縦に振るしかなかった。
王都の裏路地に、新たな絶対的支配者『ナイト・ブレード』が誕生した瞬間だった。
スレイの復讐の盤面は、泥の底から確かな根を張り、光の当たる表の世界へと、その毒牙を伸ばそうとしていた。
全ては、あの白銀の髪を持つ聖女を、絶望の鳥籠に叩き落とすために。




