第7話 泥濘の蹂躙と死線の視覚化
「おい、聞いてんのかツラ汚し。耳が遠いなら、削ぎ落としてやろうか?」
リーダー格の男が、黄ばんだ歯を剥き出しにして下品な嘲笑を漏らした。
男の右手には、刃こぼれだらけの無骨なマチェットが握られている。刃には黒ずんだ血の跡がこびりついており、これまで何人もの無抵抗な人間を脅し、傷つけてきた凶器であることが一目でわかった。
背後に立つ二人の男も、それぞれ錆びた鉄パイプと、先端に釘を打ち込んだ木棍を手にして、逃げ道を塞ぐようにじりじりと距離を詰めてくる。
薄暗い魔具修理店の店内に、暴力と血の匂いが充満していく。
スレイ・セクタムは、作業台の隅に追い詰められた哀れな獲物を演じ続けながら、小刻みに肩を震わせていた。両手で頭を庇うようにうずくまり、声を出せずに怯えている青年の姿は、彼らチンピラたちの嗜虐心をこの上なく刺激したのだろう。
「ヒヒッ、なんだこいつ。図体ばかりで、中身はただの臆病なネズミじゃねえか。なあ、あり金全部出せよ。それから、この店にある金目の魔具も全部俺たちが預かってやる。その代わり、命だけは助けてやるよ」
男が作業台にドカッと腰掛け、スレイの頭をマチェットの平でペチペチと叩く。
その屈辱的な振る舞いを受けながらも、スレイは決して顔を上げなかった。
(……愚鈍な連中だ。俺の首の動脈からわずか数センチの距離に刃を置きながら、自身の重心は完全に左足に偏っている。右膝の古傷を無意識に庇っている証拠だ。背後の二人に至っては、武器の持ち方が素人以下。ただ力任せに振り回すことしか考えていない)
スレイの網膜の裏側に焼き付けられた『トゥルーアイのペンダント』の力が、熱を帯びて静かに稼働していた。
彼の視界では、三人の男たちの筋肉の収縮、血流の速さ、そして体内に宿る微弱な魔力の流れが、赤と青の極彩色となって手に取るように可視化されていた。
そして、それらの情報を統合したスレイの脳内には、前世で培った絶技『デッド・ライン』の雛形とも言える、死に至るまでの「赤い軌跡」がはっきりと浮かび上がっていた。
相手がどのように動き、どのタイミングで刃を振り下ろすか。その全てが、コンマ一秒先の未来としてスレイの眼前に提示されている。
(俺の今の肉体は、十五年前の脆弱なままだ。前世のように、圧倒的な魔力で空間ごと吹き飛ばすような真似はできない。だが……人体という脆い構造物を破壊するのに、過剰な力など必要ない)
スレイは、頭を庇うように組んでいた両手の内側で、作業台の裏に隠しておいた鋭利な千枚通しを指の間に挟み込んだ。
そして、恐怖に引き攣ったような声を作って、男に命乞いをするふりをした。
「お、お金なら……引き出しの中に、銀貨が少しだけ……だから、命だけは……!」
「あァ? 銀貨ぁ? ふざけんな、そんな端金で許されると思ってんのか!」
リーダー格の男が激昂し、スレイの胸ぐらを掴み上げようと右手を伸ばした。
その瞬間だった。
怯えて縮こまっていたはずの青年の姿が、男の視界からフッと掻き消えた。
いや、消えたのではない。スレイの動きが、素人の動体視力を完全に置き去りにするほど、無駄のない極限の最短距離を滑ったのだ。
空間魔術『ブリンク』の物理的な応用、『フェイク・ブリンク』。魔力による瞬間移動ではなく、相手の瞬きと呼吸の隙を突き、視覚の死角へと入り込む神速の歩法。
男が「消えた」と認識した時には、スレイは既に男の懐深くへと潜り込んでいた。
「なっ――!?」
男の驚愕の叫びが喉から発せられるより早く、スレイの冷酷な反撃が開始された。
スレイは指に挟んだ千枚通しを、胸ぐらを掴もうと伸びてきた男の右腕の腱――手首の内側にある急所へと、一切の躊躇なく突き立てた。
ブチリ、という肉と腱が断裂する嫌な音が店内に響く。
「ギャァァァッ!?」
激痛に男が悲鳴を上げ、持っていたマチェットを取り落とす。
だが、スレイの動きは止まらない。彼は男の右腕を掴んだまま、その勢いを利用して男の身体を強引に前へと引き倒し、作業台の上に顔面から激突させた。
ゴツン、と鼻骨が砕ける鈍い音が鳴る。
スレイは空いた左手で、落下していくマチェットの柄を空中で正確に掴み取った。そして、作業台の上でのたうち回ろうとする男の右手の甲に、そのマチェットの刃を真っ直ぐに突き立て、分厚い木の板ごと深々と縫い留めた。
「ギ、ギィィイイイッ!! 手が、俺の手がァッ!!」
串刺しにされた自らの手を見て、リーダー格の男が豚のような絶叫を上げる。
全ては、瞬きを一度する間に行われた出来事だった。
背後にいた二人の男は、自分たちのリーダーが何故いきなり泣き叫びながら机に縫い付けられているのか、全く理解できずに呆然と立ち尽くしていた。
(これで一人。次は、右の木棍を持った男。大振りな分、隙だらけだ)
スレイの視界には、次に動くべき「赤い線」がはっきりと描かれている。
彼は血だらけの千枚通しを握り直し、床を蹴った。
十五年前の細い脚力でも、体重移動と力学の理を完璧に理解していれば、爆発的な初速を生み出すことができる。
二番目の男が、ようやく事態を飲み込み、怒りに顔を歪めて木棍を振り上げようとした瞬間には、スレイはその懐に到達していた。
「この野郎ォッ!」
男が怒声と共に木棍を振り下ろす。
だが、その軌道はスレイの『トゥルーアイ』によって完全に予測されていた。スレイはわずかに首を傾けるだけでその一撃を紙一重で回避すると、男の無防備な右膝の関節側面に向けて、革靴の踵を容赦なく叩き込んだ。
人間の膝は、横からの衝撃には極端に脆い。
バキッ、という乾いた音と共に、男の膝関節が不自然な方向へとへし折れる。
「アッ……あ、ガァァアアアッ!?」
男は自身の足がどうなったのかを理解する前に、激痛によって白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
残るは一人。鉄パイプを持った三番目の男だ。
仲間二人が一瞬にして無力化され、血の海に沈む光景を目の当たりにしたその男は、極度の恐怖で完全に顔面を蒼白にしていた。
手にした鉄パイプが、カタカタと情けない音を立てて震えている。
(こいつの感情のオーラは、先ほどのどぎつい赤黒色から、怯えを示す薄暗い青緑色へと完全に変色している。戦意は既に喪失している
が……恐怖から来る無軌道な反撃は、時に計算を狂わせる。確実に仕留める)
スレイは、膝を砕かれてうずくまる二番目の男の襟首を左手で掴み上げ、それを盾にするようにして三番目の男へと歩み寄った。
「ヒィッ! く、来るなァッ!!」
恐怖に狂った三番目の男が、デタラメに鉄パイプを振り回す。
スレイは盾にした男の身体を壁に放り投げ、その隙に三番目の男の死角――背後へと回り込んだ。
男が振り向こうとした瞬間、スレイの左手が蛇のように伸び、男の後頭部の髪を力強く鷲掴みにした。そのまま強引に頭を後ろへとのけぞらせ、無防備になった喉仏に、冷たい千枚通しの先端をピタリと押し当てる。
チクリと皮膚が破れ、一筋の血が男の首筋を伝った。
その冷たい死の感触に、男の全身は石のように硬直し、喉の奥からヒュウ、ヒュウという痙攣したような呼吸音だけが漏れ出した。
「動くなよ。お前の頸動脈まで、あと数ミリだ。俺の手元が少しでも狂えば、お前は自分の血の海で溺れて死ぬことになる」
スレイの口から紡がれたのは、先ほどまでの怯えた青年の声ではなかった。
それは、地獄の底から這い上がってきた悪鬼のような、低く、冷たく、そして絶対的な死を宣告する声だった。
店内に響き渡っていたリーダー格の絶叫も、膝を砕かれた男の呻き声も、その声の恐ろしいほどの冷徹さに圧され、いつの間にかヒステリックな嗚咽へと変わっていた。
「ひっ、ひぃぃ……た、助け……」
「黙れ。質問にだけ答えろ。俺の作業台に無様な血を垂れ流しているあの豚が、お前たち『赤サソリ』の頭か?」
スレイが千枚通しの先端をさらに1ミリ押し込むと、男は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、首だけを必死に横に振った。
「ち、違う! あいつはただの下っ端のまとめ役だ! 本当の頭は、裏街の奥で娼館を取り仕切ってる『隻眼のガロ』って男だ! 俺たちは、ただショバ代を集めるように言われて……!」
(『トゥルーアイ』の反応……魔力の波長に乱れはない。嘘は吐いていないな)
スレイの真実の眼は、極度の恐怖状態にある男の脈拍と魔力の揺らぎを正確に読み取り、その言葉が真実であることを裏付けていた。
スレイは男の髪を掴んでいた手を離し、その背中を軽く蹴り飛ばした。男は無様に床に転がり、そのまま店の隅へと逃げ込んでガタガタと震え始めた。
スレイは血だらけの千枚通しを持ったまま、作業台の上で自らの手に刺さったマチェットを見つめ、過呼吸を起こしているリーダー格の男へと視線を向けた。
男の顔は脂汗にまみれ、スレイを見るその瞳には、先ほどまでの傲慢さは微塵もなく、純粋な恐怖と絶望だけが張り付いていた。
つい数分前まで、自分たちが完全に支配していると信じていた空間が、一瞬にして凄惨な処刑場へと変貌したのだ。目の前に立つ青年が、ただの素人などではなく、息をするように命を刈り取ることができる本物の化物であることに、彼はようやく気づいたのだった。
「さて、赤サソリの幹部殿。ずいぶんと威勢が良かったが、その口の利き方はママに教わったのか?」
スレイは冷ややかな声でそう言うと、作業台の上のマチェットの柄にそっと手を添え、それをゆっくりと、傷口を広げるように捻った。
「ギ、ギァァァアアアッ!! や、やめろォッ! 許してくれ、俺が悪かった、俺が……ッ!」
男が泡を吹いて気絶しそうになるのを、スレイは冷酷な瞳で見下ろした。
彼の心の中に、哀れみや同情といった感情は一片たりとも存在しなかった。
この程度の痛みと恐怖など、彼が前世でリゼットから受けた、あの存在の全てを否定されるような絶望と裏切りに比べれば、児戯にも等しい。
むしろ、自らの手を血で汚し、他者を暴力と恐怖で支配するこの感覚が、今のスレイにとっては復讐への準備を進めているという確かな実感を与えてくれていた。
(リゼット……お前を永遠の鳥籠に閉じ込めるためなら、俺はどれだけでも悪魔に落ちてやる。この泥の底で、お前を絡め取るための巨大な蜘蛛の巣を、俺自身の手で編み上げてやる)
「よく聞け、豚。俺はお前たちの命には興味がない。だが、この店に足を踏み入れ、俺の仕事の邪魔をしたことへの『対価』は払ってもらう」
スレイはマチェットから手を離し、男の耳元に顔を近づけて、呪いのような低い声で囁いた。
「お前たちの頭である『隻眼のガロ』に伝えておけ。これからは、この区画の裏の仕事は全て、この『魔具修理店』が仕切る。逆らう奴は、全員この豚と同じ目に遭わせてやると。……ああ、それから」
スレイは、震える男の顔を覗き込み、極寒の笑みを浮かべた。
「俺の名前は、スレイだ。だが、裏の世界で俺を呼ぶ時は、そうだな……夜の刃、『ナイト・ブレード』とでも呼んでおけ。これから嫌というほど、その名前を血の海の中で聞くことになるだろうからな」
それは、ただのハッタリではなかった。
これからこの王都の裏社会を完全に掌握し、貴族社会から教団の暗部に至るまで、全ての情報を裏から操る存在としての、絶対的な宣戦布告だった。
スレイは男の手からマチェットを引き抜き、血塗れの刃を男の服で無造作に拭うと、それを再び作業台の下へと放り投げた。
店内に残されたのは、血の匂いと、三人の男たちの恐怖に満ちた呻き声だけだった。
十五年前の脆弱な肉体でありながら、スレイは圧倒的な暴力と、真実を見通す眼、そして冷徹な頭脳によって、王都の裏社会という巨大な盤面に、確かな『第一手』を打ち下ろしたのだ。
復讐の刃は、泥の底で静かに、そして鋭く研ぎ澄まされていく。




