第5話 深淵の視座と復讐の軍資金
地響きを立てて左右に開いた黄金の扉の向こう側には、途方もない時を越えて封印されていた古代魔法帝国の栄華が、そのままの姿で眠っていた。
無酸素状態の結界内に保存されていた空気が、外界と触れ合うことで微かな風を生む。それを合図とするように、石室の壁面に等間隔で設置されていた常夜の魔力灯が、次々と青白い光を灯し始めた。
スレイ・セクタムは、血に塗れた左手を握りしめながら、その光景を静かに見渡した。
広大な空間を埋め尽くすのは、文字通りの『金銀財宝』の山だった。
足の踏み場もないほどに敷き詰められた黄金の硬貨。闇の中でも自ら光を放つ、拳ほどもある極大の魔石の数々。意匠を凝らした白銀の杯や、王族が身につけていたであろう絢爛な宝飾品の山が、青白い光を反射して暴力的なまでの輝きを放っている。
部屋の奥には、ミスリルやオリハルコンといった神代の金属で鍛え上げられた武具が、武器掛けに整然と並べられていた。どれか一本でも地上に持ち出せば、小国が一つ買えるほどの国宝級の代物ばかりだ。
前世において、王室の特級魔術師団がこの宝物庫の扉をこじ開けた際、あまりの富の奔流に発狂し、仲間同士で殺し合いを始めた者すら出たという記録が残っている。それほどまでに、ここに眠る財力と権力の残滓は、人間の脆弱な精神を容易く狂わせる毒性を秘めていた。
だが、スレイの冷ややかな瞳には、強欲の光など微塵も浮かんでいなかった。
彼は黄金の山を踏み越え、眩い輝きを放つ宝飾品には一切目もくれず、迷いのない足取りで宝物庫の最深部へと向かって歩を進めた。
(ただの金塊や派手な武器など、今の俺には何の価値もない)
重い長剣や魔力消費の激しい古代の杖など、十五年前の脆弱な肉体で振るえば、自らの筋繊維と魔力回路を破壊して自滅するだけだ。それに、このような出所の知れない古代の黄金をそのまま市場に流せば、王都の衛兵や裏社会の権力者たちに即座に目をつけられ、不必要な警戒を招く。
スレイが求めているのは、もっと根源的で、かつ隠密性に優れた『力』だった。
部屋の中央。ひと際高く設えられた黒曜石の台座の上に、それは静かに鎮座していた。
銀の細工で形作られた華奢なチェーンの先に、雫の形をした深い青色の宝石が一つだけ嵌め込まれている。
一見すれば、少し上等なだけの古びた装飾品にしか見えない。だが、スレイはそのペンダントから発せられる、空間そのものを歪めるような高密度の魔力の波動を確信していた。
「……見つけたぞ」
スレイは台座の前に立ち、震える右手を伸ばした。
『トゥルーアイのペンダント』。
前世において、王室の宝物庫の奥深くに死蔵されていたこの魔具の真の価値に気づいたのは、魔王討伐の旅の最終盤になってからだった。
このペンダントは、所有者の視覚を拡張し、世界に満ちる『魔力の流れ』や『隠された真実』、さらには『他者の感情の揺らぎ』すらも、色彩を伴った情報として視覚化する能力を持つ。
リゼットの完璧な嘘と演技に騙され、致命的な裏切りを見抜けなかったスレイにとって、この「世界の裏側を見通す眼」は、二度と同じ過ちを繰り返さないための絶対的な命綱だった。
(前世の俺は、盲目だった。ただ目の前の光だけを信じ、足元に広がる深い闇に気づけなかった。だが、もう二度と騙されはしない。お前がどんなに美しい仮面を被ろうとも、俺のこの眼が、お前の内側にある醜い真実を全て暴き出してみせる)
スレイは台座からペンダントを手に取ると、躊躇うことなく自身の首にかけた。
冷たい銀のチェーンが首筋に触れた瞬間、青い宝石が脈打つように強烈な光を放った。
「ぐっ、がぁぁッ……!!」
スレイは両手で自らの目を覆い、床に膝をついて絶叫した。
眼球の裏側に、焼け火箸を直接突き立てられたような劇痛が走る。ペンダントの強大な魔力が、スレイの未発達な視神経と魔力回路に強制的に接続され、脳の処理能力を遥かに超える情報量を強引に流し込んできたのだ。
血管が切れ、両目から一筋の血の涙が頬を伝い落ちる。
激痛にのたうち回りながらも、スレイは決してペンダントを外そうとはしなかった。歯を食いしばり、自らの意志の力だけで、侵入してくる膨大な魔力と情報の奔流を強引に制御下に置いていく。
(馴染め……! 俺の眼球に、俺の脳に、このシステムを焼き付けろッ!!)
数分にも及ぶ、永遠にすら感じられる激痛の拷問。
やがて、ペンダントの光が徐々に落ち着きを取り戻し、スレイの視界を焼いていた激痛が、鋭い熱を帯びた微かな疼きへと変わっていった。
スレイは、覆っていた両手をゆっくりと離し、血に濡れた瞼を開いた。
「……あ、あぁ」
感嘆の、あるいは畏怖の入り混じった吐息が漏れた。
スレイの視界に広がる世界は、先ほどまでの薄暗い石室とは完全に変貌していた。
空気中に漂う微小な魔力の粒子が、淡い光の帯となって可視化されている。石の壁の奥に張り巡らされた古代帝国の防衛術式の回路が、まるで人間の血管のように複雑に絡み合いながら、青白い光脈として脈打っているのがはっきりと見て取れた。
スレイは自らの両手を見下ろした。
彼自身の体内を巡る、細く貧弱な魔力の流れも、赤みがかった光の線として手に取るように理解できる。どこに魔力を込めれば最も効率が良いか、今の肉体の限界がどこにあるのかが、直感的な数値や色彩として脳内に直接入力されてくる。
さらに、スレイは視線を床に向け、石室の底、王都の遥か深層の地下深くへと意識を集中させた。
視界の奥底、分厚い岩盤のさらに下。
そこには、ドス黒い、吐き気を催すような紫色の魔力の塊が、巨大な心臓のように不気味な脈動を繰り返しているのが見えた。
(なんだ、あれは……。王都の地下深くに、これほど巨大で醜悪な魔力の淀みが隠されていたというのか)
前世では全く気づかなかった、世界を根底から蝕むような強大な悪意の塊。
スレイは直感した。リゼットは、この得体の知れない化け物のような力を利用し、あるいは契約して、スレイの命を代償に時を逆行させるという神業を成し遂げたのだと。
肉眼では決して捉えることのできない世界の深淵の真実を目の当たりにし、スレイの口角が歪に吊り上がった。
強烈な嫌悪感と共に、底知れぬ全能感が彼の胸を満たしていく。
この眼さえあれば、誰の嘘も、どんな緻密な罠も、もはやスレイの歩みを阻むことはできない。
「さて。眼は手に入れた。あとは、盤面を動かすための軍資金だ」
スレイは立ち上がり、ペンダントの力で視界のモードを切り替えた。
莫大な財宝の山の中から、換金率が最も高く、かつ足のつかない小ぶりな宝石だけを視覚的にフィルタリングして浮かび上がらせる。
大粒の無色透明なダイヤモンド、希少な魔力を内包した未加工の精霊石、そして、古代の技術で圧縮された純度百パーセントのミスリル硬貨。
スレイは腰の粗末な麻袋を開き、それらの高密度の資産だけを的確に選び出し、放り込んでいった。袋が破れないギリギリの重量、おおよそ王都の一等地をまるごと買い取れるだけの莫大な資産を、たった数分で的確に回収する。
これで、準備は整った。
(表の世界で『清廉潔白な英雄』を演じるためには、裏で泥を被り、非合法な工作を請け負うもう一つの『顔』と、それを支える強固な組織が必要だ)
あの女の計画を根底から破壊し、孤立させるためには、貴族社会から裏の貧民街に至るまで、王都のあらゆる情報網と暴力を支配しなければならない。
スレイは袋の口を固く縛り、背中に背負い直した。
ズシリとした重みが、復讐という名の事業の始まりを告げているようだった。
スレイは一度だけ、主を失い沈黙した古代の宝物庫を振り返った。
いつか、この強大な古代の兵器や神代の武具を振るえるだけの肉体と魔力を取り戻した時、再びここへ戻ってくることになるだろう。それまでは、この場所は彼だけの秘密の金庫だ。
踵を返し、来た時と同じ螺旋階段を上っていく。
行きに感じたカビと腐敗の匂いは、もはや気にならなかった。彼の心の中には、それよりも遥かに暗く、腐臭を放つ憎悪が渦巻いているのだから。
錆びついたレリーフの扉を抜け、枯れ草の生い茂る神殿の敷地へと出た時、外はすっかり明るい朝の光に包まれていた。
高く澄み切った秋の空。鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。
だが、その美しい光景も、スレイの瞳に宿る暗い炎を消すことはできなかった。
「次に行く場所は、決まっている」
スレイは外套のフードを深く被り直し、明るい大通りを避けるようにして、王都のさらに深い影――無法者と暴力が支配する、裏路地の最深部へと向かって歩き出した。
真実を見通す眼と、莫大な軍資金。
『偽りの英雄』を創り上げるための、そして『鳥籠の聖女』を永遠の絶望に閉じ込めるための、緻密で冷酷な盤面作りが、今、王都の暗闇の中で静かに幕を開けようとしていた。




