第4話 忘却の迷宮と死の遊戯
光の届かない螺旋階段を、スレイ・セクタムはどこまでも深く潜っていく。
頼りになる光源は、道中の露店でなけなしの銅貨を叩いて買った、親指ほどの安物の光り石だけだった。青白い、幽鬼のような微弱な光が、湿った石壁にスレイの歪んだ影を長く引き伸ばしては揺らしている。
地下へと降りるにつれて、空気は次第に粘度を増し、肺を満たすたびにむせ返るようなカビと腐敗の臭いが鼻腔を突いた。数百年間、完全に密閉されていた空間に澱む、古代の瘴気だ。
(……身体が重い。呼吸をするだけで、肺の奥が焼けるように痛む)
スレイは、自身の貧弱な肉体が上げる悲鳴を冷静に分析していた。
前世で鍛え抜かれた英雄の肉体であれば、この程度の瘴気は自然治癒力と強靭な魔力膜で完全に無効化できた。だが、今の十五年前の脆弱な身体では、ただ呼吸をするだけでも微量の毒素が血流に混ざり、手足の末端から徐々に体温を奪っていくのがわかる。
頭の芯が痺れ、視界がわずかに揺らいだ。
普通なら、ここで恐怖に駆られて引き返すだろう。未知の古代遺跡が放つ圧倒的な「死」の気配は、人間が本能的に避けるべき捕食者のそれに似ていた。
だが、スレイの歩みは一度たりとも止まらない。
彼の心を支配しているのは、未知への恐怖などという安い感情ではない。リゼットという女に全てを搾取され、無残に殺されたという、腸が煮えくり返るほどの屈辱と憎悪だ。
この程度の瘴気で立ち止まっていては、あの女を絶望の底に突き落とすことなど到底不可能だった。
(死ねない。俺がここで死ねば、あの女は何も知らぬ顔で聖女として崇められ、別の誰かを『都合の良い英雄』に仕立て上げるだけだ。そんなこと、絶対に許さない……!)
暗い執念を燃料にして、スレイは震える膝を強引に前へと進める。
やがて、螺旋階段が終わりを告げた。
光り石を前にかざすと、そこには継ぎ目のない純白の石材で造られた、長く一直線の回廊が伸びていた。
幅は十メートル、長さは五十メートルほどだろうか。一見すると、ただの美しい地下通路にしか見えない。
だが、スレイの冷や汗に濡れた額に、更なる緊張が走った。
(ここだ。前世の記録で、王室直属の特級魔術師団が五十二名もの死者を出した悪夢の入り口。『断頭の白廊』)
この回廊の床、壁、天井には、目に見えない極細の魔法陣が無数に刻み込まれている。
侵入者が正しい手順を踏まずに一歩でも足を踏み入れれば、不可視の魔力刃が空間そのものを格子状に切断し、同時に摂氏数千度の白炎が回廊全体を灼き尽くす。物理的な鎧も、生半可な魔法障壁も、紙切れのように無効化される絶対殺戮の罠だ。
スレイは目を閉じ、前世の記憶――王室魔術師団が多大な犠牲の果てに解明した、この罠の『安全地帯』のパターンを脳裏に展開した。
どの床石を踏み、どのタイミングで屈み、どこを跳躍すべきか。
完璧なルートは頭に入っている。だが、問題はこの脆弱な肉体で、その手順をコンマ一秒の狂いもなく実行できるかどうかだった。
「……行くぞ」
低い声で自身に発破をかけ、スレイは純白の回廊へと最初の一歩を踏み出した。
右から三番目の石版。踵から音を立てずに着地する。
瞬間、スレイの鼻先わずか数ミリの空間を、ヒュッ、という鋭い風切り音と共に『何か』が通過した。
見えない魔力刃だ。前髪の先端がふわりと切り裂かれ、ハラリと床に落ちる。
心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が粟立った。
(立ち止まるな。次は左斜め前へ二歩。そして、しゃがみ込む!)
スレイは自身の貧弱な筋肉に鞭を打ち、流れるような動作で左へ踏み込み、直後に床に這いつくばるように身を屈めた。
直上を、鼓膜が破れそうなほどの轟音と共に、目に見えない巨大な刃が通過していく。巻き起こった突風で、背中の外套が激しく煽られた。
休む間もない。
スレイは這った状態から強引に足の筋肉をバネにして立ち上がり、前方へ向かって大きく跳躍した。
空中にいる間、彼の眼下を一陣の白炎が走り抜け、純白の床石を真っ赤に炙り上げた。熱波が足の裏を焦がし、革靴の底がチリチリと嫌な音を立てて溶け始める。
着地と同時に前転し、衝撃を殺す。
しかし、基礎体力の欠如は残酷だった。前転から起き上がろうとした瞬間、足首がガクンと崩れ、体勢が大きく右へ傾いてしまった。
(しまっ……!)
右側は、不可視の刃が常時展開されている死地だ。
このまま倒れ込めば、スレイの身体は瞬時に数十個の肉塊へと変わる。
絶体絶命の瞬間。スレイの脳裏に、リゼットのあの歓喜に満ちた笑顔がフラッシュバックした。
――さようなら、スレイ。
その声が脳内に響いた瞬間、スレイの全身から信じられないほどの闘争心と魔力が爆発した。
「ふ、ざけるなァッ!!」
スレイは傾きかけた自らの右肩に、左手で腰の鉄の剣を鞘ごと叩きつけた。
その反動を利用して、強引に重心を左へと引き戻す。同時に、微弱な魔力を足裏に集中させ、無理やり地面を蹴り飛ばした。
ミシミシと、右足の筋肉が断裂する嫌な音が響く。
だが、その強引な軌道修正によって、スレイの身体は間一髪で魔力刃の網目をすり抜け、回廊の終わりにある安全な黒い石の床へと転がり込んだ。
「……がっ、はぁっ、あぁっ……!」
安全地帯に辿り着いた瞬間、スレイは激しい息切れと共に床に仰向けに倒れ込んだ。
全身が汗で水没したように濡れそぼり、右足のふくらはぎからは痙攣が止まらない。筋肉が悲鳴を上げ、心臓は破裂しそうなほどに脈打っていた。
鉄の剣を握る手は、白く鬱血するほどに震えている。
(……突破、した。なんという無様な動きだ。前世なら、欠伸をしながらでも抜けられた罠だぞ)
自らの肉体の限界に苛立ちを覚えながらも、スレイの唇には、どこか歪んだ、暗い愉悦の笑みが浮かんでいた。
死の淵を歩くこの感覚。これこそが、彼が生きているという確かな証明だった。
誰かに与えられた作られた平穏ではなく、自らの手で運命を切り拓き、力ずくで未来を奪い取るための痛み。
スレイは震える右足をさすり、痛みを意志の力で封じ込めると、再び立ち上がった。
回廊を抜けた先には、円形の巨大な石室が広がっていた。
「……ここが、最後の関門か」
スレイは青白い光り石を掲げ、石室の中央を見据えた。
そこには、天井に届くほどの巨大な青銅のゴーレムが、腕を組んで鎮座していた。
三つの顔と六本の腕を持つ、悪夢のような造形の守護者。その全身には、古代の呪詛と防御のルーンがびっしりと刻み込まれており、今は休眠状態にあるのか、石のように微動だにしない。
だが、その奥には、目的の宝物庫へと続く重厚な黄金の扉が閉ざされていた。
あの扉を開けるためには、この青銅の巨像の足元に描かれた複雑な魔法陣のロックを解除しなければならない。そして、解除の手順を一つでも間違えれば、この巨像は即座に目を覚まし、侵入者を跡形もなく粉砕するだろう。
前世の記録によれば、特級魔術師団はこのロックの解除を諦め、数十人がかりの結界魔法と攻城兵器級の破壊魔法を用いて、三日三晩かけてこの巨像を強引に破壊したという。
当然、今のスレイにそんな火力はない。彼が持っているのは、なまくらな鉄の剣と、枯渇寸前の微弱な魔力だけだ。
巨像が目覚めれば、一秒も経たずに肉塊に変えられるだろう。
(だが、戦う必要など最初からない。力でこじ開けられないのなら、システムの裏を突けばいいだけのことだ)
スレイは息を殺し、足音一つ立てずに巨像の足元へと忍び寄った。
見上げるほどの威圧感。青銅の巨体から放たれる圧倒的な魔力の残滓が、スレイの肌をヒリヒリと焼く。
スレイは巨像の足元にある魔法陣の前に跪いた。
そして、躊躇うことなく、持っていた鉄の剣の刃を自らの左手のひらに押し当て、一気に引き裂いた。
「ツ……ッ!」
鋭い痛みが走り、赤黒い鮮血が手のひらから溢れ出す。
スレイはその血を自らの微弱な魔力と混ぜ合わせ、魔法陣の特定の結節点へと指で素早くルーンを描き込んでいった。
古代魔法帝国のシステムにおいて、純度の高い魔力を持った人間の「血」は、最も強力な管理者権限として機能する。
前世の特級魔術師団は、外側からの魔力解析に固執したためこの裏技に気づけなかった。だが、世界中のあらゆる遺跡と魔術の深淵を覗き込んできた前世のスレイにとって、この程度のセキュリティの抜け穴など、初歩的な知識に過ぎなかった。
(第一の結節点、承認。第二、第三……よし、魔力の逆流を防ぎつつ、制御術式を書き換える……)
スレイの指先が、まるで熟練の職人のように迷いなく血の紋様を紡いでいく。
失血により意識が遠のきそうになるのを、彼は奥歯を噛み砕くほどの力で耐え抜いた。ここで気を失えば、未完成の術式が暴走し、巨像が目覚める。
最後のルーンを、巨像のつま先にある魔力炉の直上に描き込んだ、その瞬間。
――ギィンッ!
青銅の巨像の三つの顔にある、合計九つの眼球が、一斉に不気味な赤色の光を放った。
休眠モードから、排除モードへの移行。
巨大な青銅の腕が、微かに動き始める。空気が震え、圧倒的な殺意がスレイの全身を押し潰した。
(しまっ……波長が、ずれたか……!?)
スレイの心臓が、恐怖で氷のように冷たくなった。
十五年前の未熟な魔力コントロールのせいで、術式の書き換えにコンマ数秒のラグが生じたのだ。
巨像の巨大な拳が、スレイの頭上高く振り上げられる。それが振り下ろされれば、スレイの頭蓋骨などトマトのように弾け飛ぶだろう。
逃げる時間は、ない。
スレイは自らの死を直感した。だが、彼は目を逸らさなかった。
彼は血に染まった左手を魔法陣に押し付けたまま、残された全ての魔力を、最後の一滴まで術式へと叩き込んだ。
(動くな。俺の復讐は、こんなところで終わらせるわけにはいかない……っ! 鎮まれ、ガラクタがァッ!!)
スレイの魂から放たれた、英雄としての絶対的な意志の叫び。
それが、未熟な魔力を強引に補い、血のルーンを強制的に完成させた。
振り下ろされる寸前だった青銅の巨像の拳が、空中でピタリと静止した。
赤く発光していた九つの眼球が、何度か激しく点滅した後、プツンと音を立てて光を失う。
そして、巨像は再び元の休眠状態へと戻り、深い沈黙の中へと沈んでいった。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
スレイは床に崩れ落ち、荒い息を繰り返した。
全身の力が抜け、指先一つ動かせない。あまりの恐怖と緊張に、額からの汗が目に入って視界を滲ませていた。
(危なかった……。だが、これで)
ズズズズズッ……!!
スレイの荒い呼吸を掻き消すように、巨像の背後にある重厚な黄金の扉が、地響きを立てながら左右にゆっくりと開いていく。
何百年もの間、誰一人として到達することのなかった、古代魔法帝国の隠し宝物庫。
その隙間から、目も眩むような金銀財宝の輝きと、強力なアーティファクトが放つ濃密な魔力の光が、スレイの顔を照らし出した。
スレイは血に濡れた手で床を掴み、立ち上がった。
疲労困憊の極みにありながらも、その口元には、狂気に満ちた凄惨な笑みが深く刻まれていた。
復讐を遂げるための、莫大な力と財産。
そして、世界の全てを見通す真実の眼が、今、彼の手の中に入ろうとしていた。




