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Timeless End【タイムレス・エンド】  作者: 葦原 蒼紫


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第3話 貧弱な器と見捨てられた旧跡


 白み始めたばかりの空から、冷たい秋の光が王都の裏路地に差し込んでいた。

 霜月特有の底冷えする空気が、ひび割れた窓枠の隙間から安宿の狭い部屋へと容赦なく忍び込んでくる。

 スレイ・セクタムは、軋む木製のベッドから音もなく立ち上がった。昨夜、絶望と狂気の底で復讐を誓い、一睡もせぬまま迎えた朝だった。

 部屋の隅に置かれた木張りの水盆へと向かい、表面に薄く氷の張った冷水を両手ですくい上げる。一切の躊躇なく、その氷水を顔に叩きつけた。

 刺すような冷たさが皮膚を打ち、強張っていた顔の筋肉を引き締める。手ぬぐいで乱暴に顔を拭い、再び手鏡を覗き込んだ。

 そこに映る十五年前のひ弱な青年の顔に、もはや昨夜のような取り乱した色は微塵もなかった。あるのは、極寒の湖面のように静まり返った、底知れぬ冷徹さだけだ。

 瞳の奥に宿る暗い炎は、決して消えることなく、ただ静かに、そして確実に燃え続けていた。


(まずは、現状の把握だ。感情に任せて動けば、あの女の掌の上に戻るだけだ)


 スレイは部屋の隅に放り出されていた自分の荷物――粗末な麻袋を無造作に探った。

 中から出てきたのは、数枚の薄汚れた銅貨と、黒ずんだ銀貨がたったの三枚。それに、石のようにカチカチに硬くなった黒パンの欠片と、塩辛いだけの干し肉が少々。

 装備はといえば、使い古されて所々がほつれた薄い革鎧に、刃こぼれこそないものの、業物とは到底呼べない凡庸な鉄の長剣が一本。

 これが、十五年前の『ただの冒険者志望の村人』であるスレイの全財産だった。


(ひどい有様だな。前世では、よくこんな装備で王都まで辿り着けたものだ)


 スレイは鉄の剣を鞘から抜き、その刀身を指で弾いた。鈍く、頼りない音が狭い部屋に響く。

 前世で彼が振るっていた、魔王の強固な鱗すら容易く断ち切る神聖な輝きを帯びた『聖剣』と比べれば、まるでおもちゃのような代物だった。魔力を通す伝導率も最悪で、少しでも無理な負荷をかければ、一撃で木端微塵に砕け散るだろう。

 肉体も同様だ。十五年前のこの身体は、まだ過酷な修練を経ていない。筋肉の繊維は細く、関節の可動域も狭い。

 何より、体内を巡る魔力回路が未発達で、細い糸のように頼りなかった。今の魔力量では、初級の魔術を数発撃てば、すぐに魔力枯渇による昏倒を引き起こす。


(こんな脆弱な肉体と装備で、いきなりリゼットに挑むのは、復讐どころかただの自殺行為だ。完璧な復讐を遂げ、あの女の全てを奪うためには、圧倒的な『力』と、それを隠れ蓑にする莫大な『資金』、そして世界の裏側を見通す『眼』が必要になる)


 スレイは鉄の剣を鞘に納め、腰に帯びた。

 彼には、前世で培った途方もない戦闘経験と、魔術の理論、そして未来に起こる出来事や、世界中に眠るアイテムの『知識』がある。

 それさえあれば、この貧弱なスタートラインからでも、最短距離で絶対的な強者へと這い上がることができるはずだった。

 最初の目的地は、昨夜の内に既に決まっていた。

 スレイは擦り切れた黒い外套を羽織り、カビ臭い安宿の部屋を後にした。


 ***


 早朝の王都は、すでに活気に満ちていた。

 石畳が敷き詰められた大通りには、近隣の農村から新鮮な野菜や肉を運んできた荷馬車が列をなし、車輪の音がけたたましく響き渡っている。

 通りに面したパン屋からは、焼きたての小麦とバターの甘い香りが漂い、早起きの職人たちが店先で立ち話に花を咲かせていた。路地裏からは、寒空の下でも元気よく無邪気に追いかけっこをする子供たちの笑い声が聞こえてくる。

 どこを見渡しても、平和で、希望に満ちた、美しい人間の営みがあった。

 前世のスレイであれば、この光景を見るたびに「自分がこの平和な日常を守るのだ」と決意を新たにしていたはずだ。この人々の笑顔を守るために、彼は魔王という絶対悪に立ち向かい、自らの血を流し続けてきたのだから。

 だが、今のスレイがこの眩しい光景に向けている視線は、凍りつくほどに冷め切っていた。


(滑稽だな。何も知らずに、明日が来ると信じている)


 外套のフードを目深に被り、人混みを縫うように歩きながら、スレイは内心で毒づいた。

 この平和な光景の裏側で、世界を狂わせようと企むカルト教団の暗躍や、人々の平穏を脅かす見えざる悪意は、すでに王都のあちこちで密かに根を張り始めているのだ。

 そして何より、前世で彼が血を流してこの世界を救い、平和をもたらしたという結果すらも、リゼットという一人の女の恐るべき計画を成就させるための、仕組まれた茶番に過ぎなかった。

 すれ違う人々は、誰もスレイのことなど気に留めない。田舎から出てきたばかりの、うらぶれた若者。それが彼らから見たスレイの評価であり、揺るぎない事実だった。


(それでいい。今はまだ、誰の記憶にも残らない『背景』で十分だ。英雄という光り輝く看板は、あの女を絶望の底に突き落とすための舞台装置として、後で嫌というほど使ってやる)


 スレイは群衆に紛れながら、大通りを東へと進んでいく。

 歩を進めながら、彼の思考は遠く離れた辺境の村へと飛んでいた。


(リゼット……お前は今頃、あの辺境の村で、純朴で可憐な薬師の見習いを演じている頃だな) 


 前世において、スレイとリゼットが運命的な出会いを果たしたのは、彼が冒険者としてギルドに登録し、初めての遠征で辺境の村を訪れた時だった。

 森の奥深くで凶悪な魔物に襲われていた彼女を、駆け出しだったスレイが身を挺して助け出した。それが、全ての始まりだった。

 今思えば、あの魔物の襲撃すらも、彼女が「自分を守ってくれる都合の良い英雄候補」を見極め、吊り橋効果で絆を深めるために緻密に仕組んだ罠だったのだろう。

 あの時、スレイは彼女の涙と感謝の言葉に完全に心を奪われ、生涯を懸けて彼女を守り抜くと誓ってしまった。自らの魂が、彼女の計画のための生贄として捧げられる運命にあるとも知らずに。


(今度はどう弄んでやろうか。お前が仕組んだ三文芝居の舞台に上がり、お前の予想を遥かに超える暴力と恐怖で、その計画を粉砕してやる。だが、そのためには……まずは『軍資金』と『眼』だ)


 スレイは思考を切り替え、目前に迫ってきた目的地へと意識を集中させた。 


 王都の東区画。


 貴族街の華やかさや商業区の喧騒から完全に切り離された、忘れられた外れにある貧民区のさらに奥地。

 そこに、スレイの目指す『第三神殿』はあった。

 高い鉄格子に囲まれたその広大な敷地は、王都の人間であれば誰もが避けて通る忌み地だった。

 かつて、数百年前の古代魔法帝国時代に建立されたとされるその神殿は、旧教会の派閥争いによって「異端の温床」というレッテルを貼られ、徹底的に弾圧され、閉鎖された。

 現在では、大理石で造られた壮麗な屋根は崩れ落ち、太い柱には無数のひびが入り、その大部分が枯れた蔦や不気味な黒苔に覆い尽くされている。周囲には重苦しい静寂が漂い、浮浪者すらも気味悪がって寄り付かない、完全な廃墟と化していた。

 スレイは周囲に人目がないことを慎重に確認すると、錆びついた鉄格子の門を軽々と飛び越え、枯れ草の生い茂る敷地内へと足を踏み入れた。

 踏みしめる落ち葉の音が、異様に大きく響く。

 神殿の正面玄関は、数十年前に意図的に引き起こされた落石によって完全に塞がれていた。だが、スレイはそこには目もくれず、神殿の裏手、崩れかけた回廊の跡地へと迷いなく歩を進めた。


(前世において、この神殿の地下に古代魔法帝国の隠し宝物庫が存在し、手付かずのまま眠っていることが発覚したのは、俺が魔王を討伐するわずか一年前のことだった) 


 当時の王室直属の特級魔術師団が、何ヶ月もかけて複雑な結界を解呪し、多大な犠牲を払いながらようやく内部の莫大な財宝と強力な魔具を発見したのだ。


 だが、今はまだアストレア歴987年。 


 この足元の地下にどれほどの富と力が眠っているか、王宮の連中はおろか、『王』を崇拝するカルト教団の幹部たちですら、まだ誰も気づいていない。

 スレイは回廊の突き当たり、苔むした巨大なレリーフの前に立った。

 そこには、三つの目を持つ異形の神の姿が深く彫り込まれている。

 スレイは目を閉じ、前世の記憶を鮮明に呼び覚ました。王室魔術師団の報告書に記されていた、隠し扉の解除手順。

 彼はレリーフに右手を這わせ、特定の順序で彫刻の窪みを押していった。

 神の右目、左足の爪、そして、胸の中央にある太陽の紋章。

 最後に、胸の紋章に右手を押し当てたまま、スレイは自身の体内から微弱な魔力を極細の糸のように練り上げ、レリーフの内部に張り巡らされている古代の魔力回路へと正確に流し込んでいった。

 少しでも魔力の波長がずれたり、量が多すぎたりすれば、侵入者を消し炭にするための防衛魔法が即座に起動する。十五年前の未熟な魔力量と制御力では、本来ならば絶対に不可能な神業だった。

 だが、スレイの「魂」は、魔王との死闘を制した英雄のものだ。

 彼は額に脂汗を滲ませながらも、呼吸を極限まで薄くし、震えようとする肉体を強靭な精神力で強引に押さえ込みながら、複雑極まりない魔力のパスワードを寸分の狂いもなく紡ぎ出していった。 


 ――カチリ。


 数分に及ぶ沈黙の後。石の奥深くで、重厚な歯車が噛み合うような、小さな音が鳴った。

 それを合図に、苔むしたレリーフの壁面全体が、低い地鳴りのような音を立ててズズズッと後方へ沈み込み、やがて横へとスライドしていく。

 冷たく、何百年も淀んでいたであろう湿った空気が、開かれた暗闇の奥から吹き出してきた。カビと、古い土の匂い、そして微かな血の匂いが混ざり合っている。


「……開いたか」


 スレイは大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。

 目の前に現れたのは、地下へと続く螺旋状の石段だった。光の全く届かない、完全な暗黒が口を開けている。

 ここから先は、単なる隠し通路ではない。古代の魔術師たちが己の財宝を守るために仕掛けた、悪意と殺意に満ちた死の迷宮だ。

 一歩でも足を踏み外せば、今の貧弱な肉体では即死は免れない。

 だが、スレイの瞳に怯えの色はなかった。

 彼は腰の鉄の剣の柄にそっと手を添えると、迷うことなく、その暗黒の地下階段へと静かに足を踏み入れた。

 リゼットを絶望の鳥籠へと閉じ込めるための、絶対的な力を手に入れるために。


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