第2話 十五年前の目覚め
――ガァァァッ!
深い泥の底から水面へと無理やり引きずり出されたかのように、スレイ・セクタムは大きく上体を跳ね起こした。
同時に、肺の奥底から絞り出すような、ひしゃげた悲鳴が口を突いて出る。
全身を包み込んでいたのは、致死量の毒を盛られたかのような強烈な吐き気と、心臓を素手で握り潰され、何度も刃で抉られるような生々しい幻の痛みだった。
スレイは反射的に、自らの胸元――リゼットの短剣が突き立てられたはずの場所を、両手で強く鷲掴みにした。
(血が……血が止まらない……! 息が……っ)
酸素を求めて金魚のように口をパクパクと開閉させ、必死に胸の傷口を押さえ込もうとする。しかし、彼の手のひらに触れたのは、生温かい鮮血でも、裂けた肉の感触でもなかった。
安っぽい麻布で作られた、汗まみれのシャツの感触があるだけだ。
激しい動悸を打ちながらも、心臓は確かにスレイの胸郭の中で、力強い鼓動を刻んでいる。致命傷となるような大穴など、どこにも開いてはいなかった。
「……は、ぁ……つ、はぁっ……!」
震える手で何度も胸をさすりながら、スレイは焦点の定まらない目で周囲を見渡した。
そこに広がっていたのは、大理石で造られた魔王城の壮麗な玉座の間ではない。血の匂いも、空気が焦げたような匂いもない。
薄暗く、カビと埃の匂いが立ち込める四角い空間。
天井には雨漏りの跡のような薄汚れた染みが広がり、あちこちの木材がひび割れている。隙間風が吹き込み、階下からは安酒場特有の喧騒と、酸いエールの匂いが微かに漂ってきていた。
それは、王都の裏路地にひっそりと佇む、冒険者崩れや貧民が寝泊まりする安宿の、見覚えのある一室だった。英雄の寝所にふさわしい絢爛な天蓋や、柔らかな絹のシーツなど、当然ながらどこにもない。
スレイの身体は、ひどく冷え切っていた。全身から滝のように噴き出した冷や汗が、麻のシャツをぐっしょりと濡らしている。
彼はベッドから這い出るようにして立ち上がった。足元が覚束ず、腐りかけた床板の上に膝をつく。
身体に痛みはない。
魔王との死闘で負ったはずの無数の傷痕も、全身の骨が軋むような極度の疲労感も、何一つ残っていなかった。それどころか、長年の過酷な戦いによって鍛え上げられた鋼のような筋肉すらも、ひどく萎縮して薄くなっているように感じられた。
スレイは這うようにして部屋の隅にある小さな木箱へと向かい、その中から手のひらサイズの手鏡を探し当てた。
月明かりが差し込む窓辺へと移動し、震える両手で鏡を顔の高さまで持ち上げる。
そこに映っていたのは、魔王の血と自らの絶望に歪み、歴戦の凄みを持った「英雄スレイ・セクタム」の最期の顔ではなかった。
(これは……俺、なのか……?)
鏡の中にいたのは、十年、いや、十五年ほど若返った、経験の乏しさを色濃く残す、かつての自分の姿だった。
頬の輪郭は線の細い少年の面影を残し、瞳には戦場の過酷さを知らない純朴な光が宿っている。まだ何者でもない、ただ強さに憧れて故郷の村を飛び出してきたばかりの、冒険者志望の青年の顔だ。魔王軍の幹部と戦った際に額に負ったはずの、決して消えないはずの深い一文字の傷痕も、そこには存在しなかった。
スレイは鏡を取り落としそうになるのを必死に堪え、空いた右手で自らの頬を強くつねった。
痛い。当然の生理反応が、彼に現実を突きつける。
肉体が若返っている。幻覚でも、死後の世界でもない。確かな質量と熱を持った現実として、彼はこの場所に存在していた。
スレイは目を閉じ、自身の体内を巡る魔力の状態を慎重に探った。
英雄時代の、海のように深く、研ぎ澄まされた重厚な魔力の奔流はない。代わりにそこにあったのは、荒削りでひ弱な、前世で英雄として覚醒する前の微弱な魔力だ。
だが、完全に昔に戻ったわけではない。彼の魂のさらに奥底には、世界の理から外れたような、巨大な「時空の歪み」の残滓がこびりついていた。それは、彼が途方もない時間を逆行してきたことを証明する、絶対的な痕跡だった。
「タイムリープ……だと?」
かすれた声が、静寂の部屋に落ちる。
スレイは床に転がっていた手荷物の袋から、くしゃくしゃになった羊皮紙の暦を引っぱり出した。
インクで記された現在の日付。
【アストレア歴987年 霜月八日】
スレイは、雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。
息が止まり、全身の血の気が一気に引いていく。
全てが巻き戻っていたのだ。
あの魔王討伐の栄光も、民衆の熱狂的な歓呼も、仲間たちと交わした勝利の杯も。そして、何よりも深く信じていたリゼットとの愛も、胸を貫かれたあの理解不能な裏切りと死すらも、全てが無かったことになり、十五年という途方もない時間を遡って過去へ送られていた。
リゼットが、彼を殺した。その結果、彼は過去に戻された。
なぜ、こんな超常的な現象が起こったのか。偶然の産物か。それとも、神の悪戯か。
いや、違う。
スレイはカビ臭いベッドの縁に力なく座り込み、頭を抱えた。脳裏にこびりついて離れない、リゼットのあの狂気を孕んだ歓喜の笑顔。そして、彼女が最後に口にした、祝福にも似た感謝の言葉。
『さようなら、スレイ。あなたのおかげで、私は幸せになれたわ』
『本当に、本当にありがとう』
あの時、彼女の足元に展開された白銀の魔法陣。あれは、単なる殺傷用の魔法などではなかった。時空そのものを歪め、因果をねじ曲げる、神の領域に属する古代の大魔術の類だ。
点と点が繋がり、スレイの優秀な頭脳が、一つの残酷でおぞましい推論を組み上げていく。
(俺の死が……お前の目的達成のための、何らかのトリガーだった……ということか)
リゼットは、スレイの人生の全てを知っていたかのように振る舞い、彼を導いていた。
彼を英雄に仕立て上げ、魔王を倒すだけの力をつけさせ、そして用済みになった絶頂の瞬間に殺す。魔王を打倒した直後の、最も強大な魔力と運命の力が集束した英雄の命を「生贄」にすることで、彼女は自らの目的――おそらくはこの『時間逆行』のシステムを起動させ、悲願を達成したのだ。
その上で、彼女は「ありがとう」と、心からの感謝を捧げたのだ。
彼女のあの慈愛に満ちた笑顔は、愛する男に向けられたものではない。自らの計画を完璧に遂行してくれた、優秀な「道具」に対する、冷酷な労いだった。
スレイが彼女に捧げた無償の愛、血反吐を吐くような努力、仲間たちが流した血と涙、そして、スレイ自身の命。
その全てが、彼女にとって都合の良い「燃料」であり、理想の未来へ到達するための「踏み台」に過ぎなかったのだ。
そして、このタイムリープ後の世界こそが、彼女が望んだ結果そのもの。スレイという生贄を消費して手に入れた、彼女だけの都合の良い世界。
「……あ、ぁ……」
スレイの口から、獣の呻き声のような音が漏れた。
直後、胃袋の底から強烈な吐き気が込み上げ、スレイは床に四つん這いになって、何も入っていない胃液を激しく嘔吐した。
喉が焼け、涙と鼻水が顔を汚す。
怒りという生易しい言葉では到底表現しきれない、存在の根底を破壊されるような強烈な屈辱と絶望が、スレイの意識を滅多打ちにしていた。
心から愛していた。自分の命に代えても守り抜くと誓った女だった。
その女に、存在の全てを否定され、一片の価値もない道具として使い捨てられたのだ。スレイの命と引き換えに、彼女は何らかの「幸せ」を手に入れた。彼のいない世界で。彼の犠牲の上に成り立った、美しい未来で。
(俺の人生が……俺の愛が、お前の欲望のために、弄ばれた……ッ!)
床に伏せたまま、スレイの肩が激しく震え始めた。
悲しみから来る嗚咽ではない。
それは、行き場を失った極限の感情が限界点を超え、どす黒い狂気へと反転していく際の、震動だった。
「……ふ、ふふ。あははははっ! あーはははははっ!!」
暗い部屋の中に、乾いた笑い声が響き渡った。
笑い声は次第に大きくなり、狭い安宿の一室に、狂気じみた響きとなって反響する。
スレイは顔を上げ、再び鏡を見た。
そこに映る青年の顔は、先ほどまでの純朴な面影を完全に失っていた。瞳の奥には、氷のように冷たく、地獄の底で燃え盛るような、昏い憎悪の炎が宿っている。
純粋で、正義感に溢れ、世界を救おうとした「英雄スレイ」は、この瞬間、完全に死んだ。
(俺の幸せ? 世界の平和? 魔王の脅威? そんなものは、もうどうでもいい)
アストレア大陸の民がどれだけ苦しもうが、今のスレイにとっては路傍の石以下の価値しかない。
残されたこの二度目の人生は、ただ一つの目的のためだけに消費される。
それは、最愛の裏切り者、リゼット・アウローラへの完璧な復讐だ。
だが、ただ彼女を力任せに殺すだけでは、生温いにも程がある。彼女がスレイの命を対価にして望んだ「俺のいない幸福な未来」など、絶対にくれてやるものか。
(待っていろ、リゼット。俺はお前の思い通りにはならない)
スレイは、鏡の中の自分に向かって冷酷な笑みを浮かべた。
(もう一度、力をつける。前世の圧倒的な知識と経験、そして、このタイムリープによって得た未来の知識、経験。その全てを使って、再び世界最強の座に返り咲く)
裏切られた絶望はどす黒い怨念へと変わり、彼の心に修羅となる覚悟を刻み込む。
(そして、あの女がなぜ俺を殺したのか、その真意を暴き出す)
彼女がこれから「聖女」として崇められ、光の道を歩むためのシナリオを全て先回りして叩き潰し、その足場を完全に崩壊させてやる。
世界から彼女を孤立させ、彼女が頼ろうとする者、信じようとする者を全て奪い、その白銀の翼を根元からもぎ取るのだ。
(俺がいなければ息をするのさえ苦痛なほどに、徹底的に堕としてやる)
絶望を、裏切りの痛みを、そして二度と立ち上がれないほどの絶対的な恐怖を教え込む。
その上で、スレイは再び「完璧な英雄」の仮面を被り、絶望の淵に立つ彼女に優しく手を差し伸べるのだ。外の世界は危険で、お前を憎んでいる。俺だけがお前を守れるのだと、そう信じ込ませる。
物理的な鎖ではなく、精神的な依存という、決して断ち切ることのできない鎖で彼女を縛り付ける。
永遠に、スレイの手の届く、光の差さない鳥籠の中で囀らせてやるのだ。
(それが、俺がお前に与える『幸せ』だ、リゼット)
窓の外では、夜が明けようとしていた。
何も知らない王都の喧騒が、少しずつ始まりの音を立てている。朝日が安宿の隙間から差し込み、行き交う人々の声が微かに響く。
全てが新しく、希望に満ちた、十五年前の世界。
だが、窓辺に立つ青年の心は、世界で最も深い絶望と、リゼットの血で描かれた復讐の暗い炎だけを宿していた。
英雄という仮面を被った、世界で最も冷酷な怪物が、今ここに誕生した。
全てを奪い、全てを支配する。
狂気に満ちた二度目の人生の幕が、静かに上がった。




