第10話 蜘蛛の巣の主と絶対的な天秤
重厚なオーク材の扉が、凄まじい破壊音と共に吹き飛んだ。
地下に隠されたその空間は、表向きの店舗である高級アンティークショップの延長線にあるような、豪奢で、しかしどこか退廃的な空気を纏うサロンだった。
壁一面を覆う巨大な本棚には、王国中の暗部を記したであろう分厚いファイルや魔術書が隙間なく並べられ、床には毛足の長い真紅の絨毯が敷き詰められている。部屋の隅には高価な香炉が置かれ、甘ったるい、だが微かに毒を孕んだような香煙がゆらゆらと立ち上っていた。
その部屋の中央、書類の山が積まれたマホガニーの執務机の向こう側に、一人の老女が座っていた。
白髪を隙なくタイトにまとめ上げ、喪服のような漆黒のドレスに身を包んだ女。顔には深いシワが刻まれているが、その背筋は鋼のように真っ直ぐに伸び、何よりもその双眸には、猛禽類を思わせる鋭く冷酷な光が宿っている。
元王宮諜報部員にして、王都の裏社会を牛耳る最高峰の情報屋、『影の針』アザレア。
彼女は、血濡れの短剣を下げ、鉄の仮面を被った異様な侵入者――スレイ・セクタムを前にしても、眉一つ動かさなかった。ただ、細長い煙管をゆっくりと燻らせ、紫色の煙を細く吐き出している。
「……随分と、派手なノックだね。あたしの可愛い番犬たちを、たった一人で、それも無音で片付けたにしては、随分と行儀が悪いじゃないか」
老婆の口から紡がれたのは、掠れているが、腹の底に響くような威圧感を持った声だった。
恐怖も動揺もない。彼女はすでに、スレイというイレギュラーな存在を、自身の盤面における「どの程度の脅威か」と値踏みし始めていた。
(さすがは、かつて王国の暗部を一人で支えた女だ。三人の精鋭を殺されても、自身のテリトリーに対する絶対的な自信が揺らいでいない)
スレイは鉄の仮面の奥で、冷ややかに目を細めた。
彼が部屋に足を踏み入れようとした、その瞬間である。
胸元に下げた『トゥルーアイのペンダント』が、視神経を焼くような熱を帯びて警告を発した。
(見え透いた罠だ。床の絨毯の下、壁の装飾の隙間、そして……空中の至る所に、極細の魔力糸が張り巡らされている)
スレイの青白く反転した視界には、サロンの空間そのものを細切れにするように張り巡らされた、無数の赤い糸がはっきりと可視化されていた。
それは、ただの警報装置ではない。侵入者が不用意に一歩でも踏み込めば、アザレアの手元の操作一つで、その糸が一瞬にして鋼を断ち切る不可視の刃となり、侵入者を文字通りサイコロ状の肉塊へと変える、凶悪な殺戮結界だった。
「どうしたんだい? そこから先へは進まないのかい? 威勢が良かったのは扉を蹴り開けるまでかね」
アザレアが煙管を置き、机の上に組んだ両手の指先を微かに動かした。
いつでも結界を起動できる、という無言の脅し。
だが、スレイは微塵も怯むことなく、再びゆっくりと歩みを進めた。
「――っ!?」
アザレアの鋭い双眸が、初めて驚愕に見開かれた。
スレイは、目に見えないはずの魔力糸の網目を、まるで初めから全て知っていたかのように、寸分の狂いもなくすり抜けて歩いてくるのだ。
右へ半歩ずれ、上体をわずかに反らし、足首の角度を変えて絨毯の上のセンサーを避ける。
その動きは、極限まで洗練された死の舞踏のようだった。もしミリ単位でも動きがずれれば、スレイの脆弱な肉体は即座に切断される。だが、彼の足取りには迷いがなく、ただ真っ直ぐにアザレアの座る机へと向かってくる。
(俺の眼から逃れられる結界など、この世界には存在しない。お前が何十日もかけて構築した死の蜘蛛の巣も、俺にとってはただの煩わしい飾りでしかない)
「な、何者だい、あんた……」
アザレアの声から、先ほどまでの余裕が完全に消え去った。
彼女は隠し持っていた魔力起爆のスイッチを押し込もうとしたが、スレイの動きの方が圧倒的に早かった。
スレイは懐から、先ほど扉の鍵を破壊するのに使った鉄の針を取り出し、空中の一点――複雑に絡み合う魔力糸の『結節点』へと正確に投げつけた。
――キィンッ!
甲高いガラスが割れるような音と共に、部屋中に張り巡らされていた赤い魔力糸のネットワークが、連鎖的に光を失って霧散していく。
完璧だったはずの絶対防衛陣が、たった一本の鉄の針によって、完全に無力化されたのだ。
「馬鹿な……あたしの『不可視の断頭台』を、外部から物理的に干渉して解呪しただと……!?」
「随分と古臭い術式だ。王宮の書庫に眠っている数百年も前の防衛魔法を引っ張り出してきたようだが、結節点の魔力供給が偏りすぎている。素人の泥棒なら殺せても、俺の眼は誤魔化せない」
スレイはアザレアの机の真ん前に立ち、見下ろすようにして言った。
鉄の仮面の奥から放たれる、絶対零度の殺気と、底知れぬ魔力の深淵。アザレアは、自分がこれまで相対してきたどんな暗殺者や裏社会の顔役よりも、目の前に立つこの青年が、決定的に異質な『化物』であることを悟った。
「……降参だよ。見事な腕前だ。あたしの負けだ」
アザレアはゆっくりと両手を挙げ、机の上に置いた。
だが、彼女の瞳の奥には、まだ屈服の色はない。長年の諜報員としての経験から、即座に命乞いをするのではなく、交渉のテーブルへと相手を引きずり込むための冷静な計算が働いていた。
「これだけの手垂れが、あたしのような老いぼれの命をわざわざ取りに来るとは思えない。誰の差し金だい? 教団の連中か? それとも、第一王子の派閥か? ……金ならある。あんたが望むだけの額を払おう。それとも、誰かの弱みが知りたいのかい?」
「金にも、お前が溜め込んだチンケな情報にも興味はない」
スレイは低く、冷たい声で即答した。
「俺は、お前自身を買いに来た。『影の針』アザレア」
その異名を呼ばれた瞬間、アザレアの肩が微かに跳ねた。
彼女が『影の針』というコードネームで王宮の諜報部を率いていたのは、もう十年以上も前のことだ。現在の裏社会では、彼女はただの『情報屋の老婆』としてしか知られていない。その過去を正確に言い当てたスレイに対して、彼女の警戒心は最高潮に達した。
「……あたしを買う、だと? 笑わせないでくれよ。あたしは誰の首輪もつけない。それが、この泥の底で長く生き残るための唯一のルールだからね」
「そうか。では、お前のそのちっぽけなプライドのせいで、あのベッドで苦しんでいる『ミリア』の命が明日消え去ることになっても、後悔はしないというのだな」
ピタリと。
部屋の空気が、文字通り凍りついた。
アザレアの顔から、全ての表情が抜け落ちた。
次の瞬間、彼女の全身から、先ほどの番犬たちとは比較にならない、凄まじいまでの濃密な殺気が爆発した。
「……てめェ、今、なんと言った?」
アザレアの右手が、机の裏に隠されていた短筒――圧縮された魔力弾を放つ凶悪な魔具へと伸びていた。
銃口が、真っ直ぐにスレイの眉間を捉える。
彼女の目は血走り、猛禽の威厳は消え失せ、ただ孫娘を守るためだけに狂乱する、一匹の老いた獣へと変貌していた。
「ミリアの名を、その汚い口で呼ぶんじゃない……ッ! あの子に指一本でも触れてみろ、あんたの肉を削ぎ落として、王都の犬どもに食わせてやる!」
(やはりな。冷静沈着な元スパイも、血を分けた家族のこととなれば、容易く感情を暴走させる。これこそが、人間という生物の最も脆い急所だ)
スレイは、眉間に突きつけられた銃口から一歩も引くことなく、冷酷な笑みを深めた。
前世の記憶。
アザレアが王宮の諜報部を裏切り、地下へと潜った最大の理由。
それは、権力闘争の巻き添えで息子夫婦を暗殺され、唯一生き残った孫娘のミリアが、不治の奇病である『魔力結晶病』に侵されたからだ。
体内の魔力が徐々にガラスのような結晶へと変異し、最終的には内臓を突き破って死に至る絶望の病。
アザレアは裏社会で莫大な富を築き上げ、あらゆる違法な薬や闇医者を手配したが、ミリアの病の進行をわずかに遅らせることしかできず、完治させることは叶わなかった。前世では、スレイが魔王を討伐する数年前にミリアは息を引き取り、その後を追うようにアザレアも毒を煽って自害したという記録が残っている。
「撃てばいい。だが、俺を殺せば、ミリアの病を治す唯一の希望は、永遠に失われることになるぞ」
「嘘をつくんじゃないよッ! 魔力結晶病に治療法なんてない! あたしは王国中の医者と魔術師を当たった! どんな薬も効かないんだ!」
アザレアの銃口を持つ手が、カタカタと震えていた。
絶望と、ほんのわずかな、すがりつきたいという願望が、彼女の精神を引き裂いている。
スレイはゆっくりと懐に手を入れ、一つの小さなガラス小瓶を取り出した。
暗いサロンの中で、その小瓶の中を満たす黄金色の液体が、まるで自ら発光しているかのように神秘的な輝きを放っていた。
「それは、現代のガラクタのような薬ではない。古代魔法帝国が残した、完全なる奇跡の体現――神代の『エリクサー』だ」
アザレアの息が止まった。
彼女の諜報員としての眼力が、その小瓶から放たれる規格外の魔力と生命の波動が、決して偽物ではないことを本能で理解してしまったのだ。
第三神殿の地下宝物庫。そこに眠っていた数ある財宝の中でも、最も希少で、最も価値のあるアイテム。あらゆる傷を癒やし、どんな不治の呪いすらも浄化する、究極の回復薬。
スレイはそれを、ただアザレアという情報屋を奴隷にするためだけに、惜しげもなく持ち出してきたのである。
「な……エリ、クサー……そんなものが、現存しているはずが……」
「信じるか信じないかは、お前の自由だ。だが、お前にはもう時間が残されていないはずだ。ミリアの右腕の結晶化は、すでに肩口まで達しているだろう?」
スレイの言葉に、アザレアは完全に崩れ落ちた。
短筒を取り落とし、机に突っ伏すようにして、老婆は震える両手で顔を覆った。
彼女の全てを見透かされている。圧倒的な暴力の前に屈し、唯一の希望である孫娘の命すらも、目の前の悪魔の掌の上で弄ばれている。
彼女の誇りも、情報屋としての絶対的な立場も、この瞬間、完全に粉砕されたのだ。
「……何が、望みだい」
絞り出すような、涙声だった。
スレイは小瓶を机の上にコトリと置き、アザレアを見下ろした。
「俺の眼と耳になれ、アザレア。王都の貴族の汚職、教団の裏金、騎士団の動向、全てを俺に献上しろ。そして、俺が命じた人間を、社会的に完全に抹殺するための情報操作を行え」
(リゼット。お前を孤立させるための、完璧な包囲網だ。お前がどんなに善人を演じようとも、周囲の人間全てが俺の息のかかった者たちで埋め尽くされる。お前は、俺という鳥籠の中でしか、呼吸をすることすら許されなくなる)
「……いいだろう。悪魔に魂を売ってでも、あの子が助かるなら……あたしの全てを、あんたに捧げるよ」
アザレアは床に崩れ落ちたまま、スレイの足元に深く額を擦り付けた。
それは、王都の裏社会を牛耳る『影の針』が、完全に一人の青年の軍門に下った瞬間だった。
スレイは冷酷な瞳でその老婆のつむじを見下ろしながら、復讐の盤面がまた一つ、思い通りに噛み合ったことに対する暗い歓喜に酔いしれていた。
圧倒的な恐怖と、唯一の救済。
この悪魔のような飴と鞭の契約こそが、他者を永遠に縛り付ける最も確実な鎖なのだ。
スレイ・セクタムの復讐の根は、王都の最深部において、もはや誰にも抜くことのできないほどの深さまで到達していた。




