第0話 プロローグ:英雄の死と歪んだ愛の目覚め
俺の愛した女は、嗤っていた。
灰色の空から、冷たい雨が降り注いでいた。
かつてアストレア大陸を恐怖に陥れた魔王ゼノスの居城。その玉座の間は、今や見る影もなく崩壊し、瓦礫の山と化している。濃密な血の匂いと、焦げた肉の悪臭、そして魔力が霧散していく際の独特なオゾン臭が立ち込める中、俺は冷たい石の床に這いつくばっていた。
心臓を貫く刃の冷たさよりも。
肉が裂け、熱い生命がドクドクと溢れ出る感覚よりも。
何よりも俺の意識を灼き尽くしたのは――その剣の柄を握る女、リゼット・アウローラの瞳に宿る、狂気にも似た歓喜の輝きだ。
そして、俺の存在の全てを否定するかのような、残酷なほどに安らかな笑み。
「さようなら、スレイ。あなたのおかげで、私は幸せになれたわ」
最愛の女性、リゼット・アウローラ。
透き通るような白銀の髪は、今、俺の心臓から噴き出した鮮血に濡れて、鈍く、艶かしく光っている。
星屑を閉じ込めたような紫の瞳は、まるで俺の死の先にある遠い未来を見通すかのように澄み切っていた。
俺の人生の全てだったその女が、俺を、この上なく甘美な裏切りと、そして祝福にも似た言葉と共に、殺したのだ。
俺――スレイ・セクタムは、世界を救った英雄だ。
血反吐を吐くような努力の末に魔王ゼノスを討ち、このアストレア大陸の誰もが俺を讃え、聖女リゼットとの結婚を祝福していた。長きにわたる戦乱の世を終わらせ、ようやく手に入れた平穏。富も、名声も、そして何より代えがたい愛も。人生の絶頂期、全てを手に入れたと信じた、その瞬間に。
魔王が息絶え、安堵の息を吐きながら振り返った俺を待っていたのは、彼女の抱擁ではなく、無数の魔法陣による絶対的な拘束と、俺の胸元に深々と突き立てられた刃だった。
「リゼット……な、ぜ……」
口から血の泡が漏れる。肺が機能不全を起こし、空気を求めるたびに激しい痛みが走る。
身体は何重もの拘束魔術によって縫い留められ、指一本動かすことすら許されない。数多の死線を共に潜り抜けてきた愛剣は無惨に折られ、少し離れた瓦礫の上に転がっている。
愛する者に殺されるという、この理解不能な結末を、ただ受け入れるしかなかった。抵抗する意志すら、目の前の美しくも冒涜的な光景に凍りついていた。
リゼットは剣をさらに深く、抉るように差し込みながら、その冷たい指先で俺の頬に触れた。熱を持った血が、彼女の白い指を伝って落ちる。まるで赤子をあやすかのような、慈愛に満ちた手つきだった。
だが、その肌の冷たさが、この出来事が悪夢や幻ではない、厳然たる事実であることを俺に突きつけていた。
「スレイ。本当にありがとう」
その一言。感謝の言葉。
裏切りの極致にあるはずの女が口にした、純粋な、まるで長い苦役から解放されたかのような深い感謝の念。
(ふざ、けるな……俺は、お前のために……!)
叫びは声にならず、喉の奥でどす黒い血塊となって詰まる。
俺はお前を愛していた。お前を守り抜くためだけに、地獄のような戦場を駆け抜け、幾度も死にかけ、それでも立ち上がってきたのだ。お前と共に生きる未来だけを夢見て。
なのに、なぜ。どうしてそんなに嬉しそうに嗤うんだ。
その瞬間、俺の視界は鮮やかな赤に染まり、リゼットの美しい笑顔が、最後の光景として網膜に焼き付いた。
世界が反転する。
意識は、深い、底のない闇へと沈んでいった。
***
目覚め。
全身を包むのは、強烈な吐き気と、心臓が握り潰されるような幻の痛み。反射的に胸元を強く鷲掴みにしたが、服は濡れていない。布地の感触があるだけだ。心臓には、穴など開いていない。
「……は、ぁ……つ、ぐ……ッ!」
肺に空気を強引に送り込み、荒い息を吐きながら、スレイは跳ね起きるようにベッドから身体を起こした。冷や汗が全身から噴き出している。
見慣れた、だが懐かしすぎる天井。
薄汚れた染み。あちこちがひび割れ、隙間風が吹き込む、王都の裏路地にある安宿の、安普請な木造の天井だ。英雄の寝所にふさわしい絢爛な天蓋や、柔らかな絹のシーツなど、どこにもない。
身体に痛みはない。魔王との戦いで負ったはずの無数の傷痕も、何一つ残っていない。
慌てて枕元の木箱を探り、小さな手鏡を探し当て、覗き込む。そこに映っていたのは、血と絶望に歪み、歴戦の凄みを持った最期の顔ではない。
十年、いや、十五年ほど若返った、経験の乏しさを残す、かつての自分。線の細い、まだ何者でもない、ただの冒険者志望の青年の顔だ。
「タイムリープ……だと?」
掌を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込む確かな痛み。肉体が若返っていることを、幻覚ではない現実として肌で確信する。
体内を巡る魔力を確認する。英雄時代の、海のように深く洗練された重厚なそれとは違う。荒削りでひ弱な、前世で英雄になる前の微弱な魔力。
ベッドから滑り降り、震える手で、ガタつくテーブルの上に置かれた羊皮紙の暦を手に取る。
【アストレア歴987年 霜月八日】
息が止まった。
全てが巻き戻っていた。あの魔王討伐の栄光も、民衆の歓呼も、愛も、そして胸を貫かれた裏切りと死すらも無かったことになり、過去へ。
リゼットが俺を殺した。その結果、俺は十五年という途方もない時間を遡り、過去に送られたのだ。
なぜ、こんな現象が起こった? 偶然か? いや、違う。
スレイはカビ臭いベッドの上に力なく座り込み、荒い息を繰り返した。脳裏にこびりついて離れない、リゼットのあの歓喜の笑顔。そして、直後に起こった、この不可解な時間逆行。
「俺の死が……お前の目的達成のための、何らかのトリガーだった……ということか」
点と点が繋がり、おぞましい推論が組み上がる。
リゼットは、俺の人生の全てを知っていたかのように振る舞っていた。俺を英雄に仕立て上げ、魔王を倒させ、そして用済みになった瞬間に俺を殺すことで、自分の目的――おそらくはこの『時間逆行』を発動させ、達成した。
その上で、彼女は「ありがとう」と感謝したのだ。
俺の愛、俺の努力、俺が流した血と汗、俺の命。
その全てが、彼女にとって都合の良い「燃料」であり「踏み台」だった。
そして、このタイムリープ後の世界こそが、彼女が望んだ結果なのだ。俺の死を代償にして手に入れた、彼女だけの都合の良い世界。
「俺の人生が、お前の個人的な欲望や、秘密の計画のために、弄ばれた……ッ」
怒りという生易しい言葉では到底表現しきれない、強烈な屈辱がスレイの意識を打ちのめす。
心から愛していた女に、存在の根底から否定され、使い捨てられた。俺の命と引き換えに、彼女は何らかの「幸せ」を手に入れたのだ。俺のいない世界で。俺という犠牲の上に成り立った未来で。
「……ふ、ふふ。あははははっ!」
乾いた笑いが漏れる。それは次第に大きくなり、狭い部屋に狂気じみた響きとなって反響した。
俺の幸せ? 世界の平和?
そんなものは、もうどうでもいい。魔王の脅威も、民の苦しみも、今の俺にとっては路傍の石以下の価値しかない。
俺の人生は、これからはお前への復讐のためだけにある。
だが、ただ殺すだけでは生温い。お前が望んだ「俺のいない幸福な未来」など、絶対にくれてやるものか。
「待っていろ、リゼット」
俺は、もう一度力をつける。前世の知識と経験、そして魂に刻まれたこのタイムリープの残滓、執念の全てを使って。
あの女がなぜ俺を殺したのか、その真意を暴く。
そして、彼女がこれから聖女として崇められるための計画を全て叩き潰し、その足場を崩す。世界から完全に孤立させ、頼るべき者を全て奪い、その白銀の翼をもぎ取る。
俺がいなければ息をするのさえ苦痛なほどに、徹底的に堕としてやる。
絶望を、裏切りの痛みを、そして二度と立ち上がれないほどの絶対的な依存を。
「外の世界は危険だと、俺だけがお前を守れるのだと、そう信じ込ませてやる。永遠に、俺の手の届く鳥籠の中で囀らせてやる」
それが、俺、スレイ・セクタムの二度目の人生の、唯一の目的だ。
窓の外では、何も知らない王都の喧騒が聞こえる。朝日が差し込み、行き交う人々の声が響く。全てが新しく、希望に満ちた世界。
だが、俺の心は、リゼットの血で描かれた復讐の暗い炎だけを宿していた。
俺は必ず、お前を「幸せ」という名の地獄へ引きずり落とす。
俺という檻からは、死んでも逃がさない。




