EP5 闘うか、座するか
だが、排水路は、逃げ込む場所ではなく、袋小路と変わりがなかった。
湿った空気が肌に張りつき、腐った油膜の匂いが喉の奥を焼く。天井の配管から落ちる水滴が、一定の間隔で黒い水面を叩いた。高橋カスミは、その小さく細く弱い身体で、膝と肘でドロをかき分けながら進む。幼い身体は、想像以上に脆い。たった数分で息が上がり、視界の端がちらつく。
(まだだ。まだ逃げないと……)
それでも、止まれない。
ドローンは撒いたはずだし、こんな排水溝に大人は入ってこられない。しかし、まだ〝追いかけられている〟という錯覚、いや確信めいた感覚が脳を支配してくる。
(アイツらが〝損失〟を、そう簡単に許すわけない。まずは逃げる。逃げるしかない)
回収部隊は損失を嫌う。まして、今カスミの左耳についている〝リフレクト〟は、損失どころか禁忌だ。彼らの上司は、なにがなんでもカスミを消してリフレクトの回収を進めるだろう。それほどに、重大なギアなのだ。リフレクトは。
「はぁ、はぁ……!!」
カスミは排水路の分岐を右に進み、区画L‐9──スラム街に戻ってくる。正直、ここは原作でも出てこない分岐なので、L‐9のどこへ繋がっているのかは未知数だ。
「──ッ」
排水路の先が、わずかに明るくなった。
闇の底に押し込められていたカスミの視界へ、縦に裂けた光が差し込む。格子の隙間から漏れるネオンの色だ。地上の喧噪が、水越しのように歪んで聞こえる。怒鳴り声、笑い声、金属を叩く乾いた音。L-9の夜は眠らない。眠れない。
カスミは息を殺し、格子の手前で止まった。
(地上に出れば……目立つ)
幼女の身体、左耳の青いイヤリング、そして企業の回収員に追われた直後。いま地上へ出れば、スラムの人間にすら嗅ぎつけられる。スラムの住民は善人ではない。更に賢い。危険な匂いを嗅ぎ分け、危険そのものを売り物にする。
カスミはここでふたつの案を考える。
ひとつ、格子をリフレクトで無理やり破り、走ってL-9区画を逃げ出す。
もうひとつ、連中の騒ぎが収まるまで、排水路の近くで息をひそめる。
どちらにしても、危険極まりない。格子を破ることは、正直リフレクトを使えば容易い。表面を殴るように触れて、吹き飛ばせば良い。
しかし、このクタクタの足でL-9区画を抜け出せるか、という問題に直結してしまう。近くには密告を企むスラムの住民、回収部隊、応援部隊……考えるだけで、身震いするような敵性で溢れている。
では、騒ぎが大人しくなるまで待機するか? 当然、こちらも現実的とは思えない。
食料は? 飲み物は? 騒乱が収まった確証はどこで得る? それまでに見つからない可能性は、どれくらいある?
(……あがいて死ぬか、座して死ぬか)
カスミは決めかね、その場から動けない。息を潜め、残り少ない体力を消耗しないためにへたり込む始末だった。
「クソッ……」
これがCPAの世界。この世界での現実とは、無惨で無情なのである。
(……ッ!)
そんな中、格子に足音が一歩ずつ向かってくる感覚に苛まれた。もはや幻聴なのかも分からず、それでもカスミは戦闘態勢に入るべく、膝に手を当てながら無理やり立ち上がる。
(無抵抗で死ぬなんて……ごめんだ!!)
そして、
音もなく、ただし煙が吹き出て、格子が破壊された。
跡を見ると、刀や剣で斬られたように精巧な切り口が刻まれている。
「夜遊びする年齢でもねェだろう」
スマートフォンの光で、カスミの目がチカチカと点滅する。その者は、スマホに映っている子どもと、今目の前にいる子どもが同一人物だと確認し、ボイスチェンジャーつきの声で言う。
「オマエは喰い物か? それとも戦士か?」




