EP1 サイバーパンク・アンゲルス──CPA
夕暮れの歩道は、奇妙なほどやさしかった。
校門を出ると、冬の空気が頬に薄く刺さる。吐く息は白いのに、胸の奥だけが熱い。高橋霞海は、隣を歩く少女の横顔を盗み見て、すぐに視線を逸らした。笑われるのが怖いわけではない。現実が壊れそうで、目を合わせるのが怖かった。
今日、カスミには初めて彼女ができた。
なにかを始める、と決めただけで、世界は音まで変わる。部活帰りの自転車のチェーン音が軽い。遠くの踏切が鳴る。信号待ちの人波が、いつもより穏やかに見える。カスミは、ずっと画面の向こうでしか知らなかった「充実」を、ようやく手に入れた気がしていた。
「……ねえ、カスミくん。これから、どこか――」
少女が言いかけた言葉を、エンジンの咆哮が噛み砕いた。
交差点の向こうから、白い車が滑ってくる。ブレーキは遅すぎた。横断歩道の手前で一瞬だけタイヤが鳴り、次の瞬間には金属の塊が歩道へ突っ込んできていた。
カスミの体は考えるより先に動いた。腕が彼女の肩を掴み、引き寄せる。足がもつれ、視界がぐるりと回る。世界が持ち上がり、落ちる。
衝撃。
音が、遠ざかった。
まるで水底に沈んだように、色も、温度も、言葉も薄れていく。カスミは最後に、彼女の目だけを見た。驚きと恐怖と、何か言いたいことが混じった目だった。
次にカスミが「見る」ことを許されたのは、闇の中だった。
——暗い。だが、目を閉じているのではない。目を開けたまま、闇に沈んでいる。
その闇の中心に、赤が灯った。
ひとつ、ふたつ、3つ。数えられない赤い目。目はまるで、夜の街で点滅するネオンのように規則正しく瞬いている。やがてそれらは翼の形を取り、翼の根元には女がいた。
女は美しい、とカスミは思った。だがその美しさは、人体を解体して並べ替えた標本のような冷たさを含んでいた。
「提案をしましょう、高橋カスミ」
名を呼ばれた瞬間、カスミは自分が〝認識されている〟ことに気づいた。事故の痛みも、喉の渇きも消えている。それでも恐怖だけが残っていた。
「ここに留まるなら、貴方は死ぬ。拒否権はありません」
女の背の翼──いや、無数の赤い目の集合体がゆるく波打つ。目の一つ一つが、カスミの思考を覗き込んでいるようだった。
「戻りたいなら条件があります。貴方が愛読している《サイバーパンク・アンゲルス》の世界に一旦転生し、10年間生き残りなさい。あるいは、その世界の根底をひっくり返す《パクス・マギア》を手に入れなさい」
「……サイバーパンク・アンゲルス?」
カスミの口から、間抜けな確認が漏れた。好きな作品の名が、自分の死後に飛び出すとは思わない。
女は頷く。
「《PAX-MAGIA》——アンゲルスと世界運用機構が交わした停戦条約。世界を動かす〝上位規則〟の原本です。手に入れれば、制度も治安も、天使兵器の運用も、貴方の手で書き換えられる」
条約。プロトコル。世界運用の上位規則。
カスミの脳裏に、原作の断片が連鎖する。メガコーポが支配し、スラムが踏み潰され、天使兵器が空を飛び、誰もが「規則」に殺されるあの世界。そこにある〝根っこ〟が、条約と呼ばれる一枚の原本で縛られているのだとしたら──。
「成功すれば、もうひとつの世界で得た力を、この世界へ持ち帰らせましょう」
女の声音は甘い。だが甘さは餌であり、罠の香りでもあった。
「……断ったら?」
「今、ここで死が確定します」
カスミは目を閉じた。閉じても、闇は変わらない。
彼女の手の温度が思い出せない。言いかけた言葉の続きを聞けない。それが“確定”するのなら、カスミにとって断る理由はなかった。
「……分かった」
女の赤い目が、一斉に細くなる。笑っているのだ、とカスミは直感した。
「良い返事。では転生を開始します」
闇が落ちた。




