夏が終わる
夏が終わる。
男はそう思った。
古く朽ちたベンチに座り、体中を照りつける日射から左手で顔のみを守り、右手で扇子を仰ぎながらのことだった。
森から吹き抜ける風は葉擦れを伴い公園全体を駆け抜け、空を飛ぶのはトンビとカモメ、蝉の声にツクツクボウシが混ざり始めている。
年を食った足腰のために座ってみたはいいが、日陰に入らねば暑さのせいで景色を観ることもままならない。
男は腰を上げて、もうしばらく先の木陰を目指す。
この公園は男が生まれ育った地方では名を馳せた名所だった。
公園といっても、都市部でみられるような児童公園ではなく、国が指定するような自然公園で、すぐ隣にある町よりも広い。
男が子供の頃は毎年夏になると、老若男女問わず多くの人が公園を訪れたものだった。
男自身も子供の頃、よく親に連れられて訪れていた。かく言う幼き頃の男は、本当のところ街に繰り出して映画を見たかったのだが。
しかし、駐車場の敷地で開かれた露店でかき氷を買い与えられると、ぱたりと不満もなくなってしまう辺り、いやはや子供というのは単純でいいなと今思い出せば笑えてくる。
かき氷をつつきながら、あの時見た光景。
それは男にとっての夏の象徴だ。
生命を燃え滾らせて盛んに鳴き、飛び、動く虫たち。セミは四方八方でその声を大にして、トンボは宙を縦横無尽に飛び巡り、蚊は鬱陶しい程に自分の周りを周った。
緑が生い茂る中、切り開かれた広場に集まる人々。彼らの表情には穏やかな笑みを含まれている。露天商は張り切った声を上げ、ベンチには老人が座り、子供はカブトムシ一つで騒ぎ立てる。
向こうに見えるのは海岸線、純で青い海が水平線の向こうまで続いている。そこの崖にはまだ若い男女がゆっくりとその歩を進めていた。
これこそ男にとっての夏。目に焼き付いた夏の記憶。
それから時は経ち、男は街に出て働くようになり、昇進して本社勤務になると生まれ育った地方から遠く離れた都に栄転した。
毎日毎日、降って湧く仕事に帰省の時間も忙殺されたが、この度定年となりようやく余裕をもって地元に帰れる運びとなった。
新幹線の車窓を除きながらふと男はあの公園にも寄って行こうと考えた。
だいぶ年月を重ね、世の中は様変わりしてしまった。
移動手段にしたって、昔は汽車に何時間も揺られ都に行ったものだった。それが今や新幹線。少し転寝している内にもう地元に着く。昔の常識では考えられない(もっとも男が小学校の頃には新幹線は東海道で走り始めたが)
しかし、あの公園はまだ昔の風景を残しているのではないかと、まだ夏が残されているのでないかと思い立ったわけだ。
そうして今に至る。
男の考えは半分的中し半分外れた。
生命を燃え滾らせて盛んに鳴き飛び動く虫たちがいた。セミは四方八方で変わらず鳴き、トンボは相手を探して宙を飛び、蚊の羽音も耳元でうるさく聞こえた。
相変わらずである。蚊だけは子供のころよりも刺されないようになった気はしたが。
割れたアスファルトを渡り、公園を巡る。
切り開かれた広場はもう雑草が生い茂り、その中では一足早く秋の虫たちによるコンサートが開催されていた。
ベンチは木の部分はだいぶ痛みシロアリか何かに食われている。石でできた台座部分だけは変わらずだった。
かつて、露天商がいた場所には代わりに自動販売機が置かれていた。かき氷は当然取り扱っておらず、コーラを男は買って一気飲みした。
そしてもう一度辺りを見渡す。
人がいなくなり公園はもう寂れていた。
そして男はもう一度思った。
夏が終わる。
夏が早く終わればいいのになんて言葉を最近はよく聞きますね。でもやっぱり夏が終わってしまうのは寂しいです。