第5幕 『 ちいさな前進 』
「先生、わたし、恐くて...」
涙が出そうになるのをぐっと耐え、言葉をしぼり出した。
石津先生も、わたしの異常を察していたようだった。
「何が恐い?」
落ち着いた声。
「なんだか、卵巣が出にくくて、縛りにくそうで、それで、いろんなこと考えてたら、急に...」
「普通、はじめの頃ってそんなに恐怖心が出ないはずだけどなぁ」
「すみません。代わって下さい。大事になる前に、代わって下さい」
情けないな。でも仕方ないよ。この子のために、その方がいい。
「まぁ、代わるのはいいけど、イヌのSpayはこんなもんだぞ。毎回、おなか開けたところで交代するのか?」
う、なんだかいじわるな言い方。
あふれそうな涙をぐっと堪える。
泣くな...。
泣くな!
う...。
涙を我慢してたら鼻水出てきたぞ。
でも、涙流すよりは、鼻水出してた方がいいや。
マスクしてるから分からないし。
鼻水、出るなら出ろ。
恐怖心め!鼻水と一緒に出てけ!
震える手にぐっと力を込めた。
「鉗子、かけれるでしょ」
石津先生が術野を覗き込む。
「は、はい...」
わたしは震える手で鉗子を持つと、ぎこちなく卵巣の下にかけた。
カチカチ...とロックする。
でも、鉗子をかけても結紮するところは見えないよ。
鉗子と一緒に腹腔内に埋もれる卵巣。状況に変わりはない。
「鉗子の先を皮膚にひっかけたまま、こっち側にひねって裏返してみて」
裏返す?
言われるように鉗子をひねる。
あ、結紮する場所が出てきた。
視線を上げる。石津先生のちょっと自慢げな顔が見えた。
そうか、先生はいつもこうしてたんだ。
単に鉗子かけてるだけかと思ってた。
そうだったんだ...。
見てたようで、見てなかったんだ。
これなら出来るかも。
糸を通し、脂肪を巻き込まないように結紮する。
出来る...。
「2度目は、反対側にひねると結び目が重ならなくていいよ」
そうか、こうすればいいんだ。
いつしか、手の震えはなくなっていた。
反対側の卵巣も同様に結紮する。
左の方が少し出やすい。
さっきまで出来ずに悩んでたのがウソみたい。
最後に頚管の結紮、切断。
断端を縫合し、さらに間膜の一部を縫い付け蓋をする。
癒着を防ぐためのおまじないみたいなものって言ってたっけ。
腹腔内に出血がないことを確認して、おなかを閉じる。
この頃になって、やっとモニターの音が分かるようになってきた。
皮下を寄せ、皮膚を縫合する。
そして、最後の糸を切る。
ああ、終わった...。
「はい、おつかれさん」
「ありがとうございました」
わたしは石津先生に大きく頭を下げた。
「じゃぁ、あとはいいね」
そう言って石津先生が手術室を出ると、代わりに上田さんが「お疲れ様でした」と言いながら入ってきた。
よかった、無事に終わって。
それに、自分でやれてよかった。
もしも代わってもらっていたら、今頃、すごい恐怖心と後悔の気持ちが残っていたはず。
もうマスクの裏の鼻水は乾いていた。
その時、ふと昔の出来事が頭に浮かんだ。
ああ、そうだ。
これって、あの時とよく似てる。
学生の時、免許をとってもすぐには車が買えなかったので、しばらくバイクに乗っていた。
CRM80。オフロードバイク。
バイトに行くためとか普段の足に使ってたんだけど(つんつんでよく立ちゴケしたぞ)、途中でエンデューロがやってみたくなって、友達と一緒にちょっとしたレースに出たり、オフロードバイクのスクールに入ったりした。
あるオフロードスクールの時のこと。
自分の身長の倍以上もある壁のような坂を登れといわれた。
『立ったまま助走付けて、ギアは1速のまま。壁にあたる時、ちょっとハンドルを引いてね』
先生のそんなアドバイスを受けて、ひとりひとり壁を登ってゆく。
そしていよいよわたしの順番。
先生のGoのサイン。
ニュートラルからギアを落とし1速に入れる。
アクセルを開けると同時にクラッチを一気に放し加速する。
目の前に壁が迫る。
壁にぶつかる寸前にハンドルを引き、アクセル全開。
ドンとショックが伝わりベクトルが上を向く。
壁を登る!
目の前の壁が流れ、そして視界が開けた。
登った!
そう思った瞬間、急にエンジンの音が大きくなり、体が空中で止まった。
あ、落ちる...。
その直後、重力に負けた。
わけが分からず、わたしは地面に転がっていた。
ああ、生きてる...。
先生が笑いながらやってきた。
「もうちょっとだったけど、ギアが抜けちゃったね。ほら、エンジンまだかかってる」
先生の視線の方向を見ると、わたしのバイクが横になったままエンジンを回していた。
わたしは立ち上がり、体に痛いところがないのを確認すると、バイクを起こした。
「はい、じゃぁ、もう一度」
え?!
てっきり順番の最後に回されると思ったのに...、
どうやって落ちたか考える間もなくそのまますぐに再チャレンジしろってか...。
急いで位置に着き...。
発進、加速。
衝撃とともに、壁を駆け上がる。
登りきる直前でアクセルを戻す。
ふわりと体が浮いた。
着地。
ああ、出来た。
そうだ、あの時だって、もしも順番をあとに回されてたら、きっとその間に恐怖心を感じてしまい、もう登る勇気が出なかったかもしれない。
だって今考えると、後ろ向きに落ちるって、すっごく恐いもの。
逃げるのは簡単だ。
でも、簡単に逃げてしまうと、次もきっと逃げたくなる。
恐怖心が頭出しても、巣食う前ならまだ何とかなるんだね。
その日も、いつものように夜の診察が終わった。
松原さんと上田さんは、医局でしばらくおしゃべりを楽しんだあと、「お疲れ様でした」と帰っていった。
石津先生は院長室だ。
わたしはいつものようにカルテの確認をする。
春の忙しい時期と比べると、カルテの数はかなり少なくなっていた。
全て見終わってカルテを棚に戻す。
戻し終わっても、院長室に入った石津先生は出てこない。
最近、よく話してるなぁ...。
昼間のお礼がもう一度言いたかったけど、わたしはあきらめて病院を出た。
秋の虫の鳴き声がする。
夜はちょっと冷えるようになってきたな。
車に乗り、エンジンをかける。
そして、エンジンが温まるのを待った。
昼間の手術を思い出す。
また一つ先に進めたような気がした。
石津先生がいるんだから、わたしは慌てなくていいよね。
下っ端は下っ端らしく、無理に背伸びする必要なんてないもの。
そんなふうに考えるようになってから、少し気が楽になった。
水温計の針が動きだした。
ライトを点ける。
クラッチを踏み、ギアを1速に入れる。
サイドブレーキを戻す。
ふと横を向くと、相変わらずドアのない車が、ご主人の帰りを待っていた。
「ありがとうございました」
そう言って、わたしはゆっくり走り出した。
見習い編 完
『見習い編』を最後まで読んでいただきありがとうございます。
次は『開業準備編』の予定です。引き続き読んで頂けるとうれしいです。 Kei