第4幕 『 ほんとの恐怖 』
忙しい日々が続く春、そして夏が過ぎ、季節は秋になった。
その頃までに、イヌとネコのCast(去勢手術)は任せてもらえるようになった。
さらにネコのSpay(避妊手術)も出来るようになった。
さぁ、次はイヌのSpayだ。
これが出来るようになれば、手術の基礎編卒業だ。
「まぁ、イヌもネコもやることは一緒だから、深く考えずにね」
石津先生は、そう言いながらイソゾールをゆっくりと注射しはじめた。
少しして、保定していた上田さんが力を抜くとイヌが横たわった。
15キロのMix。初回発情前。
わたしが初めてSpayをさせてもらうイヌ。
上田さんがイヌの頭を固定して、わたしが挿管する。
「よし、あとやるから、手洗って」
「はい」
わたしは白衣を脱ぎスクラブになると、手術室に行き、そして帽子とマスクを着けた。
次にシンクで手を洗う。
しばらくして、毛刈りのすんだイヌが手術台にのせられた。
モニターの音がしはじめる。
消毒のスプレーの音がする。
手洗いを終えたわたしは、滅菌されたタオルで手を拭き、そして術衣を着る。
上田さんが術衣の後ろを留めてくれた。
さらにグローブを着ける。
手術台の上のイヌの腹部は消毒を終え、無影灯の光に白く浮かんで見えた。
ドレープを取り1枚ずつかけていく。
4枚かけ終わると、見えるのは術野だけとなった。
タオル鉗子でドレープを皮膚に固定する。
上田さんが電気メス、そしてメスの刃を器具の台の上に落としてくれる。
メスの刃を取り、ホルダーに着ける。
次に電気メスのコードを伸ばすとコネクターを上田さんに渡し、コードの途中を鉗子でドレープに固定した。
これで、準備完了。
「じゃあ、あとは見てるからいいよ」
石津先生が上田さんに言った。
上田さんは、「はい」と返事をすると手術室から出ていった。
「はじめます。お願いします」
そう言って、わたしは石津先生を見た。
先生が軽くうなずいた。
わたしは、ひとつ深呼吸をする。
そしてメスを持ち、お臍の下に当てると、下腹部に向かって走らせた。
皮膚にわずかな筋が付く。
ありゃ?
全然切れてなかった。
ネコと比べると皮膚が分厚いんだ。もっと力入れなきゃ。
力を入れ、もう一度メスを動かす。
メスの通過したあとに、少し遅れて血液がにじみ出した。
ガーゼを当て出血部位を確認しながら電気メスで止血していく。
メッツェンを持ち皮下を剥離、白線を出す。
ネコでは何度もやったけど、イヌだとずいぶん感触が違うな。
白線の左右にアリス鉗子をかけ持ち上げると、メスで腹壁に穴をあけた。
あけた穴にメッツェンを入れ前後に切開を広げる。
ネコと比べると、かなり固い。
ふと不安になりモニターを見る。
「大丈夫、ちゃんと見てるから、手術に集中してればいい」
「はい」
わたしは術野に目を戻した。
広げた腹腔に手を入れ、大網と腸管をどけると奥に子宮が見えた。
指で引っ掛けるようにして外に出す。
思ったよりおなかの中の脂肪が多い。
イヌは迫力が違うな。
そして、卵巣を確認するために前方にたぐってゆく。
手が止まる。
突然、胃の辺りが重くなった。
ああ...、出ない。
初回発情前の子宮は硬く、卵巣が出にくい。
かなり引っ張って、さらに腹壁を押さえても、やっと卵巣が顔を出すくらいだった。
手を緩めると、すぐに脂肪が卵巣を覆う。
卵巣の奥で血管を結紮しなくてはいけない。
これじゃぁ、結紮する場所が見えない。
もっと切開を広げた方がいいのかな。
でも、深い場所にあるんだから広げても意味ないかも。
もっと引っ張ってもいいのかな。
どれくらいの力ならいいんだろ?
万が一、引っ張りすぎて血管が切れちゃったら...。
それにしても、見づらいな。
こんな見えにくい状態で結紮してもいいのかな?
無理に結紮して、もし糸が外れたら...。
どちらにしても、そうなったらかなりの出血になるぞ...。
血管見つけられるかな?
うまく止血できなければ、どうなるだろ。
死んじゃうかな...。
頭の中に色々なことが浮かんでくる。
あれ、どこからか出血してる。
どこだろ?
わずかな出血も気になり出す。
皮膚を切ったところからの出血だから、気にするほどのものでもないのに...。
止めなきゃ...。
わたしの気持ちは、少しずつ術野に広がる赤色に吸い込まれる。
すると、急に恐くなってきた。
その恐さは一気に全身を汚染する。
卵巣を持つ左手が震え出した。
先に進まなきゃ...、そう思えば思うほど、手の震えが強くなる。
さらに腕が、体が動かなくなる。
あれ、なんだぁ、これ...。
この感じ、なんなんだ。
得体の知れない生き物がからだの中に入り込み、からだ中を侵食し全ての力を吸い取っていくような感じ。
力が抜ける。
力が入らない。
何かが重くのしかかる。
これが、ほんとの『恐怖』という重み。
だめだ、出来ない...。