第2幕 『 奈落の底へ 』
次の日。
午前の診察が終わる頃、横山さんが面会にやってきた。
昨日、交通事故で運ばれてきたダックスのプリンちゃんの飼い主さんだ。
プリンちゃんは一命を取り留めたものの未だ状況はきびしく、入院室のケージの中で横たわり時折深い呼吸をしていた。
プリンちゃんは横山さんがやって来たのが分かると、しっぽを振って一生懸命に立ち上がろうとした。けど、不自由な肢のせいなのか、衰弱してからだに十分力が入らないからなのか、すぐにそれをあきらめなくてはいけなかった。
事故で潰れて循環の断たれた後肢は、いずれ腐ってくるだろう。
出来れば腐敗する前に断脚したほうがいい。
しかし、事故の出血からの貧血がひどく、今の状況では負担が大きい。
まずはからだの状態を良くしないと。
石津先生が、横山さんにそんな内容の説明をしていた。
横山さんが帰ったあと、石津先生が院長と何やら話をする。
しばらくして話が終わると石津先生がやって来た。
「プリンちゃんに輸血するから、まずケンタに鎮静かけて。体重は、確か35キロだったかな」
「アセプロでいいですか?」
「うん、量分かるね」
「はい」
昨日の午後の手術で使ったので、さすがにすぐに記憶から引き出すことができた。
病院犬であるゴールデンレトリバーの健太郎は、時々こうして供血犬になるらしい。
とっても友好的な健太郎は、採血如きで噛み付くようなことはないけれど、若さ故に落ち着きがなく、たくさんの血液を採る場合には麻酔が必要なのだ。
わたしはアセプロの置いてある処置室の棚に行くと、胸のポケットから小さな手帳を取り出し、体重あたりのアセプロの量を確認した。
「上田さーん、クロスマッチやって」
診察室から石津先生の声が聞こえる。
クロスマッチか...、わたしにはまだ出来ないや。
慣れない手つきで、アセプロのバイアルから必要な量をディスポに吸い取る。そして消毒用のアル綿を持つと、健太郎のいるケージに向かった。
ケージから出た健太郎は、大喜びで入院室の中を走り回る。
「ちょっとじっとして」といっても聞いてくれるわけがない。
わたしはアセプロの入った注射器を口にくわえ、左手で健太郎の首輪を持つと右手のアル綿で首の毛を分けた。
「動かないで」
アル綿から注射器に持ち替え、毛を分けたところに刺す...と同時に健太郎が動き針が抜けた。
「もう!」
もう一度刺す。
「痛ぁ!」
針を刺そうとしたところで健太郎が動き、自分の指に刺してしまった。
「お願いだから、動かないで...」
涙目になり懇願する。
わたしの悲痛な思いが通じたのか、なんとか注射が終わった。
15分ほどして、健太郎の鎮静が効いてきた。
よろけながら歩く健太郎を処置室に連れていき、上田さんに手伝ってもらって処置台に上げる。
「高原先生、留置してみて」
石津先生はにこっと笑いながらそう言うと、健太郎を保定した。
わたしは引きつった顔がばれないように、ややうつむき加減で健太郎の腕の毛をバリカンで刈る。
石津先生が駆血し、毛を刈ったところを消毒すると太い血管が浮かび上がった。
留置針の何十倍もの太さの血管。これは入らない方がおかしい。
留置針のキャップを取り、狙いを定める。
少し手が震える。
穿刺。
針を進めると、血液が留置針の中に逆流してきた。
入った...。
さらに進める。
あれ?
逆流が止まった?
少し戻して、外套を押す。
あ、進まない...。
そこで石津先生が駆血をしていた手の力を抜いた。
「抜いて、押さえて」
さっきまでの血管の浮き出ていた面影はすでになく、皮膚は内出血で徐々に大きく膨らんでゆく。
慌てて留置針を抜くと、すぐに抜いたところを指で押さえた。
「血管、突き抜けたな」
「すみません...」
上田さんが新しい留置針を用意した。
「今日はゆっくりしてられないから、また今度ね」
「はい」
わたしは処置台から一歩さがった。
石津先生が健太郎の前に回ると、すぐに上田さんが保定に入る。
「腫れたちょっと上を使おう。刺す時だけ駆血して」
石津先生がそう言ったかと思ったら、一瞬のうちに留置が完了した。
なんて速いの...。
すぐにテープで固定する。
「じゃぁ、麻酔いくよ」
石津先生はイソゾールの入った注射器を持つとプラグに刺し、ゆっくりと液を入れはじめた。
すぐに健太郎が倒れ込む。
「挿管して」
注射器を健太郎の腕に固定したまま石津先生がわたしに向かって言う。
「はい」
今度は失敗できない。
わたしは開口器を取ると、健太郎の犬歯にあて口を開いた。
上田さんが健太郎の頭を固定する。
舌を引っ張り、喉頭鏡を差し込む。
「ちゃんと見えるね」
「はい」
きっと上田さんの頚の伸ばし方が上手いのだろう。目的の場所がすぐそこに見えるような気がした。
「入りました」
上田さんが、包帯、バイトブロックと、気管チューブを固定するものを次々と渡してくれる。
最後に注射器でカフを膨らませる。
上田さんが麻酔器につなぐ。
「酸素だけでいいや」
石津先生はイソゾールの注射器を抜き取ると、ヘパリンの入った生食の注射器に持ち替えプラグに刺し注入した。
上田さんが石津先生にバリカンを渡す。
健太郎の頚の毛が刈られていく。
次にイソジンで消毒。
石津先生に必要なものが次々と上田さんから渡される。
上田さんは、次に何をやるのか全部分かってるんだ...。
すごいな。
「バッグの中、抜いてある?」
「はい、半分にしてあります」
上田さんが採血バッグにつながる針を渡し、石津先生が頚静脈に刺した。
すぐに血液が逆流してくる。
「高原先生、バッグを下にさげて、ゆっくりと混ぜて」
わたしは処置台に置かれた採血バッグを持つと、そのまましゃがみ込んだ。
すると、バッグの中にチューブを通った血液がゆっくりと落ちてきた。
血球が壊れないように、優しくバッグを動かしCPD(血液保存液)と混和する。
ああ、あったかい...。
健太郎の体温がそのまま流れ込んできているようだった。
「100cc採るからね。そこの秤で時々計って、100グラム越えたら教えて」
健太郎の頚部に刺した針を固定しながら石津先生が言った。
しばらくして必要な量の血液がバッグに採れた。
針を抜き、チューブに残った血液もバッグの中に流し込むと、チューブを縛って閉鎖した。
「じゃぁ、輸血セット刺して入院室で準備しておいて。こっちが終わったら行くから」
わたしは血液の入ったバッグと輸血セットを手に持ち、プリンちゃんのいる入院室へ向かった。
ケージの扉にバッグを掛け、輸血セットの袋を開ける。
次にバッグのシールを剥がし、輸血セットを差し込む。
すると、セットのフィルターに勢い良く血液が流れ込んだ。
ふとケージの中を見ると、プリンちゃんと目が合った。
軽くしっぽを振ってくれる。
後肢に大きく巻かれた包帯には薄い血液がにじみ、痛々しかった。
早く元気になるといいね...。
「何してるの!」
急な大きな声に驚いて振り返ると、上田さんがすごい勢いでこちらに走ってきた。
そしてわたしを押しのけるようにして手を伸ばし、輸血バッグに手を掛けた。
わたしは何が起きているのか全く分からなかった。
「クランプしてない! ったく、もう!」
はっとして床を見ると、そこに大量の血液が貯まっていた。
輸液セットにしてもそうだけど、チューブの流れを止めるクランプはパックから出した状態ではオープンになっている。バッグに刺す前に必ず閉めないと、刺したとたんにチューブを通過した液が流れ出してしまうのだ。
わたしはこれをしなかった。
「ごめんなさい」
上田さんが慌ててクランプしたものの、バッグの血液の大半は流れ出してしまっていた。
「どーした?」
石津先生がやってきた。
そしてすぐに状況を理解した。
「すみません」
頭を下げるしかなかった。
恐る恐る視線を上げると、石津先生と目が合った。
先生の目。
ああ、こんな目は初めてだ。
きつい目。
怒らせてしまった。
ほんとに怒らせてしまった。
当然だ...。
ごめんなさい。
どんなに怒鳴られても、仕方ない...。
けど、石津先生は何も言わなかった。
何も言わない...。
そして、視線を外す。
「今ならまだ採れるだろ」
上田さんに言うと、二人はそのまま入院室を出ていった。
これって、きついな。
何か言って欲しかった。
何でもいいから...、
罵声を浴びせられた方が、まだまし...。