第1幕 『 現実はきびしいね 』
大学を卒業して、新しい生活が始まった。
わたしは獣医師免許を手にし、自分の目指す理想の獣医師に向かって気合いを入れて走り出した...、つもりだったんだけど...。
いっこく橋動物病院で働きはじめて約2ヶ月が過ぎようとしても、わたしはなんとも情けない日々を送っていた...。
爪を切ると...、
深爪をして出血...。
イヌは暴れて、飼い主さんには嫌みを言われる。
皮下補液では...、
ただチューブを持っているだけなんだけど、ネコが動いた隙に針がはずれ、飼い主さんにリンゲルを浴びせてしまう。
薬をつくろうとして...、
目的の薬がどこにあるか分かんなくて迷っているうちに、『遅い!』と AHT(動物看護師)の上田さんに怒られる。
採血の時の駆血では...、
針を刺したとたんにイヌが腕を引いて失敗。保定がへたくそだと院長に怒られる。
かといって自分で採血してみると...、
上田さんが上手く保定してくれているのに...、
血管がこれでもかと言うくらいはっきり見えているのに...、
ただ腕を腫らすだけ...。
とにかく、大学で自分は何をしてきたんだろうと思うほど、実際の臨床の現場では勝手が違った。
そんなで、いつしかはじめの気合いはなりを潜め、病院にいる時はいつもなんだかわけの分からない恐怖におびえながら、ビクビクと無駄に緊張している状態だった。
毎日毎日、そんな日が続き、まるで出口のない暗く狭いトンネルの中にいるようだった。
「まぁね、そんなものよ。最初は」
午後の手術の後片付けの後、疲労困憊して医局の椅子に座り込んだわたしに、松原さんが言った。
松原さんは主に受付の担当をしている。
いっこく橋で結構長く働いてるんだけど、寿退社が決まっていた。
「はい、どうぞ」
松原さんがコーヒーの入ったカップをわたしの前に置いた。
「あ、ありがとうございます」
ああ、いいにおい。
「はじめっから全部出来ちゃう方がおかしいものね。そんなこと誰も期待してないよ」
わたしは松原さんの話を聞きながらカップを持ち、コーヒーを一口飲んだ。
「何年かしたらさ、どーしてあんなことが出来なかったんだろう...って思えるようになるよ」
そう言って松原さんはにこっと笑った。
ああ、何年かしたら...、か...。
まだまだ、先は長いんだ。
でも、ほんとにそんなふうに思える日がくるのかな?
松原さんに分からないように、わたしは小さくため息をついた。
夜の診察が始まる。
春から夏の時期の動物病院は忙しい。2つの診察台がフル稼働していても、いつまでたってもたまったカルテはなくならない。
わたしは院長に付いて診療の助手をし、隣の診察台では上田さんが先輩獣医の石津先生に付いていた。
ベテランの松原さんは混雑する受付をひとりでこなす。
見かけ上は理想的なシフト。でも、実際は違う。
わたしは動けない。
毎回異なる病気、異なる処置。
一体、病気ってどれだけあるの?
いまだに仕事の流れが分からない。
次に何をしたらいいのか分からない。
何かしなければと、必死になって考えるんだけど。
でも、答えは出ない。
そんなだから、さらに動きが止まる。
これがみんなのペースを乱す結果となり、苛立を与える。
そのうち、呆れた上田さんが院長のアシストもこなすようになる。
さらに松原さんまでもが診察室の手伝いをし始めた。
結局、わたしは何も出来ない。
みんな、自分の仕事だけでも手一杯のはずなのに...、どーしてそんなに動けるのだろう...。
みんなの流れに、ただ単に流されることさえも出来ない自分が情けなくて、泣きたくなった。
「交通事故!」
松原さんが診察を終えたばかりの石津先生に向かって言った。
上田さんが走る。待合室へのドアを開けると同時にダックスを抱えた男性が入ってきた。
「そちらの診察台へ!」
上田さんが石津先生の待つ診察台を指す。
どこからなのか、ひどい出血。
診察台までの床に、落ちた血のあとが続いた。
「向こう手伝って」
マルチーズの耳掃除をしている院長がわたしに言った。
このマルチーズは飼い主さんの保定で大人しく処置をさせていた。わたしがここにいる意味はない。
わたしは緊張しながら隣の診察台に向かった。
「首輪が外れちゃって。道路に飛び出して。タイヤに巻き込まれて。もうダメかと思ったんですが」
男性の緊迫した断片的な会話が聞こえた。
診察台にぐったりと横たわるミニチュアダックス。
「とりあえず止血しないと。吹き出てる」
石津先生がダックスの後足に厚く折り畳んだガーゼを当て、上田さんが粘着包帯を差し出す。
石津先生がこちらを見た。
「留置の準備して」
「あ、はい」
わたしはとっさに返事をしたものの、その意味を理解したわけではなかった。
留置...、留置...。
頭の中で石津先生に言われた言葉を繰り返す。
過度の緊張は、思考回路を鈍らせる。
そうだ、処置室に行かなきゃ。
やっとわたしの中で次にすべき動作が浮かんだ。
「呼吸止まった」
石津先生の声がした。
「処置室へ運ぼう」
さらに石津先生の声が続く。
上田さんが先に処置室に走る。
「呼吸が止まりました。挿管して呼吸をさせてみます。落ち着いたところでお呼びしますので待合室で待っていて下さい」
石津先生は早口で男性にそう説明すると、ダックスを抱きかかえ処置室へ消えた。
ふたたび傍観者のようにみんなの動きをただ追うだけのわたし。
わたしは、何をしたらいいの?
そうだ、処置室に行かなきゃ。
処置室の扉を開けると、すでにダックスは処置台の上で挿管され、上田さんが酸素をつないでいるところだった。
「肺出血が心配だから、やさしくバッグして」
聴診器をダックスの胸にあてる石津先生は、片方のイヤーピースをずらして上田さんに言った。
バッグする合間に、上田さんが心電計を付ける。
「胸は大丈夫そうだな」
「あ、自発出ました」
「バッグはもういいや」
よかった、呼吸が戻ったんだ。
これでほっとできると思ったら、まだ先は続く。
すぐに上田さんが処置台の横の引出しから留置針をとり出した。
さらにプラグ、シリンジ、テープなど留置に必要なものを素早くそろえる。
ああ、それ、わたしがやらなきゃいけなかったのに...。
怒りが込み上げるほどの情けなさ。
わたしにはそれをする時間は十分すぎるほどあったのだ。
でも、もうすでに、わたしが手を出す隙はない。
留置に必要なものがそろってしまったそのあと、何をしたらいいのかやっぱりすぐには浮かんでこなかった。
上田さんがテープを切り、処置台の端につぎつぎと留めていく。
わたしにはこんな簡単なことすらも出来ない。
その間に石津先生はダックスの腕の毛をバリカンで刈り、血管を確認する。
「血管出ないな。切皮するから」
その声にあわせて、上田さんがすぐに反応して切皮のための器具をそろえる。
「よし、持って」
上田さんが駆血する。
石津先生がダックスの腕を消毒し、21Gの針先で皮膚をわずかに切開した。そして眼科用の先の細いハサミを持つと皮下を剥離し、静脈を分離する。
次に先生は左手でダックスの腕を固定したまま、右手で留置針を取り、口にくわえてカバーを外すと、狙いを定め、そして一瞬で血管に針を進めた。
内筒を抜きプラグをはめる。さらに、処置台の端に留めてあったテープで固定する。
そこで上田さんは処置台を離れると奥の棚に行き、輸液バッグをとり出した。
チューブを取り付け、液を流す。
「よし、急速で」
「はい」
瞬く間に、ダックスの腕に輸液が開始された。
すごいな...。
何かドラマを見てるようだった。
「もう、こっちはいいだろ」
背後でした声に、わたしは現実に戻された。
びっくりして振り返ると、院長が立っていた。
「あ、はい、すみません」
それでもまだその場に立ち尽くすわたしに、院長はカルテを持った手で診察室を指した。
「拭いて」
カルテで示す先の床には、たくさんの血液が落ちていた。
「はい。すみません」
わたしはそう言うと、ぞうきんを取るために慌てて入院室に走った。