「私は内側が蛙で、外側が王子様だ。逆にしてくれ」
私の嫌いなあの人は麻婆豆腐がやたら好きだった。今でも麻婆豆腐って聞くと胸糞が悪くなる。だから近所にある評判の中華料理屋。何を食べても美味しいってみんないうけど、あそこになんかはどんなに旦那や子供が食べたがっても絶対に行かない。行きたきゃ私抜きで行ってもらう。看板にはでっかく本格麻婆豆腐の写真が載ってて、それが売りなのは明らかだ、行きたいわけない。だって嫌じゃない、もしあいつと鉢合わせしたりなんかしたら。たとえ家族が一緒でも、いいえ却ってそんな状況で遭うのは絶対ごめんだわ。あいつは酔うと上機嫌で話したっけ、自分の理想の麻婆豆腐について。まるで、誰もが好意的に受け取ってくれる話題だと疑いもしないみたいに、無邪気にさ。あれが嫌だ。自分に何も負い目が無くて、そして他人にも負い目なんか無いんだって教えるみたいなあの態度。今思い出してもこめかみのあたりが痛くなってくる。
別に、彼と前に付き合っていたとか、或いはストーカーされてたとか言うんじゃない。ただ彼は…よくわかんないんだけど、私の事が好きだ、とか言った。それだけ。それ以来私は、なんとなく彼が苦手になり、段々と「嫌い」へと変わっていった。以前は普通に聞けていた話も、何だか女として気を引こうとしている様な、生臭い様な感じに聞こえてきてしまって、もうそう感じ始めると駄目だった。話が矛盾する様だけど、同情もあったのよ?古くからの知り合いだし、好意を素直に受け入れてやれないかと、何度か考え込みさえした。でも駄目だった。私は人並に譲歩したと思う。…けどね「好きだ」で相手の感情や、肉体や、将来を縛る事は出来ない、って事は主張したいのよ。まあねえ、「一回ヤらせてやる位の情があってもいいじゃないか」という意見もあるとは思うわよ。一理あるのかも知れない。でも私は嫌だった。特に、子供の頃からの付き合いだという事を担保にした駆け引きに対して、肉体の譲歩をしてやるというのは、物凄く嫌だった。そう私は感じた。もしかして、今までの常識的な友人関係の全時間をベットして、一夜の性器突っ込みごっこの権利を獲得しようと、一生懸命愛情や人格についてのプレゼンを私にしてんのか、と彼の言動全てに穿って見る様になってしまって、もうとにかく駄目だった。もしかしたら、内面がクズな(それは認めるわ)私の、マジで度を越した思い上がりだったのかも知れないわね、全部。だけど彼は、確かに「好きだ」と言ってきた。これは事実であり、性の駆け引きという俗なものをそこから排除出来てしまえるのは聖人君子だけだろう、と思う。私が聖人じゃないだけでなく、彼も客観的事実から言っても聖人じゃないはずだと思う。最近の流行り言葉に「蛙化現象」とかってのがあるらしいけど、これの一事例を説明しようと、私はしてんのかもね。こんな話をするのは段々苦痛になってきた。
他人から好かれる事。そう、別にそれ自体悪い事なんじゃないわ。ある意味では好かれる事は必要でさえある。この社会で。ある局面、ある程度までであればね。人に好かれるって事は一般的にはありがたい事。それは私だって分かっている。でも、一般的にありがたい事だから煩わしく感じてもいけない訳じゃないでしょ?そんな法律ないでしょ?そりゃ私だって、「彼の好意は煩わしい。あんた存在するのをやめてくれ。むしろかつてあんたが私の傍に存在したという現実自体を取り消してくれ」なんて事は、言わないわ。思ってしまったとしても口に出したりはしないわよ。でもね、感じる事を制御なんか出来ない。感じた事について思う事も、完全には制御できない。そしてまるで必要としてない強い感情なんていうのは、向けられれば大抵迷惑なものよ。どんなものでも。それが好意でも。いや、好意であればこそ。何故なら、それはもっとも甚だしい事が実感として分かってしまうものだから。性別を持って、それで増える私達にとって、もっとも目を逸らしがたい、責任を想起させる感情、それが好意だから。各々の心に眠っている嫌な、感情の高ぶりを要する思い出を、思い出させてしまうから。その事について考えるよう迫って来るから…私は彼が嫌い。どうしても嫌い。それを言わないというだけで、最低限の良識は守っている筈だと、私は自負してる。
そんな嫌な彼と遭ってしまった。夕方のスーパー。私は総菜売り場の通りから、彼はカップ麺売り場の路地から、その交差点でばっちり顔を合わせてしまったから、無視するタイミングを逸してしまっていた。同じ街に住んでいる(らしいとは聞いていた。一時は飲み会もした同級生の仲だから嫌でも耳に入る)のだから、充分有り得る話だとは覚悟してはいたけど。私はついとっさに「きゃー、○○、久しぶりー!元気だったぁ?」なんて、奇妙に快活な挨拶を発してしまう。彼が嫌いなのは、私が嫌いな私を彼が引き出してしまうからだ。それをその瞬間、苦虫を嚙み潰すみたいに思い出した。何故私は私の感情と裏腹の、そんな嫌な反応をしてしまうのだろうか?一つには、感情を抜きにすれば関係は拗れてはいないという客観的条件であろう、という常識感から。もう一つには、普段から感情を隠す事を要求されるこの暮らしの中では、感情と対極の態度を示すという言動の経済に往々にして到達し易いという機械的な理由から。つまり考え無しにでた日常的な反応だ。排泄みたいな、日常的反応。それに対する彼の応答は、この上もなく癪に障る態度だった。「…久しぶり…あの…元気そうで良かった…」とかボソボソ言い、しつこく会釈しながらすれ違ってしまおうとした。…だからこの人が嫌いなんだ。後ろで夫が「あれ、友達じゃないの?」とか、子供が「ママーだれー?」とか、間抜けた事を言うのも、全てが気に入らない。ちくしょう、なんなんだこいつら。お前らだって私と大差なく、クズの筈だろう?分かれよ、他人の心の機微をよ。分かって離れていけ。違う、そうじゃない、初めから、そもそもの初めから私に近付いて来るな。全員だ。お前ら全員がだ。私の人生に、なんでづけづけと皆、靴跡を残しながら通り抜けて行くんだ。みんな、好きじゃない。お願い、もう一人にして欲しい。
タイトルは、ジャン・コクトーの詩『放列』の一部をもじったもの。