彼女が、彼女であってほしい
田舎の小さな小学校は、息苦しいところだった。中学校に進学すると、同級生が突然増えたが、級友が変わっても、私の人との関わり方が変わる事はなかった。あまり趣味の合わないクラスメイトと、当たり障りのない会話をして、なんとなく群れて、暇をつぶすように年月を過ごした。「親友」という言葉は、私にとって憧れであるとともに、ひどく胡散臭いものに感じられた。
二年になったある日の放課後、何故そんなことをしていたのか思い出せないが、私は家に帰りもせずに一人で校舎をぶらついていた。美術室の前を通ったのも、たぶん偶然だった。開け放された美術室のドアから吹き込んできた風に驚いて振り向くと、開け放たれた窓から、爽やかな初夏の風が吹き込んで、彼女が一人きりで座っていた。その時、ちょうど彼女も振り返って、私たちは自然、見つめ合う形になった。彼女は、肩の上あたりで切り揃えたまっすぐな髪をなびかせて、切れ長の大きな目でこちらを見ていた。彼女が、隣のクラスであること、名前は篠崎沙也加であることくらいは、私も知っていた。私たちは少し見つめ合ったあと、何か当然のように、私はその部屋に足を踏み入れた。彼女の方も全く驚いた風もなく、私が入ってくるのをただ見つめていた。彼女の側まで来て立ち止まり、そこでやっと彼女が向き合って座っていたキャンパスの油絵に視線を移した。美しい乙女が、今にも水に沈もうとしている。
「オフィーリア」
私は呟いた。すると彼女がこちらを振り向いて「知ってるの」と言った。
「知ってる。ハムレット、読んだから」
「へぇ」
そう言って、彼女は今更不思議そうにこちらを見上げた。
その日から、私は彼女と少しずつ仲良くなった。クラスが違うから、日中一緒にいることはできなかったが、放課後には美術室に遊びに行ったり、一緒に帰ったりした。そのまま誘われて美術部に入部したけれど、私には絵の才能が全くなく、毎日やってくるのに活動はしないという、不思議な幽霊部員となっていた。彼女とは、よく本の話をした。彼女は海外の古典に詳しくて、同じ趣味を持つ私にとって、こんなに楽しい話し相手はいなかった。彼女はオーボエの音色のような優しくて少し低い声で、理路整然と話した。それがとても心地よかった。それに、案外皮肉屋なところがあって、そういうところも好もしく感じられた。こういうのを親友というのかもしれない、と、私はとても嬉しかった。
しかししばらく経つと、日中の校舎で彼女を見かけないことに気が付いた。移動教室のために隣のクラスの前を通っても、いつも彼女はいなかった。しかし、放課後の美術室で「いなかったじゃない」と言うと、いたよ、と彼女はとぼけた。教科書を借りようとしたときも妙だった。教室の入口近くに居た女子生徒に彼女の所在を尋ねると、笑ったような、蔑んだような表情で「知らない」と言われた。その様子に面食らった日から数日して、私は彼女がいじめられていることを知った。
「体育着を隠されてたり、教科書を破られたりしてるらしいよ」
同じクラスでいつも一緒に行動していた友人がそう教えてくれた。
「どうして?」
「私もよく知らないけど、始めは別の子がからかわれてて、それに『そういうのやめなよ』みたいなこと言っちゃったらしいよ。勉強もできるし、結構優等生みたいなところあるから、そういうのも気に障ったんじゃない? 可哀想だよね。悪くないのに」
友人は気の毒そうな、しかし仕方ないというような言い方をした。彼女がそんな風に扱われていたことに衝撃を受けるとともに、私は自分の鈍感さを恥じた。そして、彼女が私に何も言わなかったことについて考えた。彼女は、きっと私に知られたくないのに違いなかった。彼女はそういう人だった。私は、気づかないふりをすることに決めた。
それからも、私はなるべく今まで通り彼女に接した。放課後、一緒に絵を描いて、本の話をした。ふざけながら一緒に帰って、禁止されている買い食いもした。そういう時間は私にとってなにより楽しかったし、彼女もよく笑った。しかし、日を追うにつれ彼女の表情には暗い影が付き纏うようになった。日中も教室にはいかず、保健室で自主学習をしているという噂だった。絵を描いているときも、ぼうっと考え込む時間が増え、だんだん口数も少なくなった。
そんなある放課後、いくら待っても彼女が美術室に来ないので、退屈した私が廊下をぶらついていると、サッと目の前を人影が通り過ぎた。
「沙也加、どこ行くの」
私が呼び止めると、彼女はビクリと身を震わせて立ち止まった。彼女は全身ずぶ濡れだった。
「間違えて、水浴びちゃってさ。今日は帰るね」
「ねぇ沙也加、クラスの人にされたんでしょ、それ」
私は耐えきれなくなって、彼女の背中にそう言った。
「先生に言おう。言ったからって良くなるかは分からないけど、黙ってたら、向こうはこのままずっと普通に暮らしていくんだよ。悔しいじゃん」
彼女は何も答えずに俯いていたが急にキュッと上履きを鳴らして走り去った。「何で気が付かないふり、してくれなかったの」という言葉を残して。
彼女は学校に来なくなった。何度か家を訪ねたけれど彼女は会ってくれなくて、ある日行ってみると、家にはもう誰も住んでいなかった。彼女とはそれきり連絡すら取れなくなった。
それから私は高校・大学と進学して、会社勤めをするようになった。時々、彼女のことを思い出すことがあった。彼女ほど気の合う友人は見つからなかったし、もう一度彼女に会いたかった。それに、もっと何か彼女にしてあげられることがあったのではないかと悔いた。私がもう少し賢かったら、彼女を無駄に傷つけずに済んだのかもしれない。そう思うと遣る瀬無かった。
私は、出張帰りで知らない都会の地下で、電車を待っていた。ドアが空いて、次々と人が降りてくる。その中に、畳んだベビーカーを降ろした女性がいた。重たそうな素振りをする彼女の隣には、一歳くらいの乳児を抱いた背の高い男性がいて、彼女が安全にホームに降りるよう気遣う素振りを見せた。女性の方も振り返って男性に微笑みを投げかける。何とも心の温まる光景だった。その時、向き直った女性の顔をとまともに見て、私はどきりとした。切れ長の大きな目が、彼女とそっくりだった。彼女は長い髪をカールさせて、爽やかな水色のワンピースに身を包んでいた。三人連れはあっという間に私の横を通り過ぎていく。人の波に流されて電車に乗り込みながら、私は彼女の後ろ姿を探した。もう一度顔を見たかった。ほんの少しだけでも振り向いてくれたら、そう思ったが、彼女は振り返ることはなく、そのまま人混みの中に消えていった。
電車が動き出す。私は彼女と過ごした短い春を思い出していた。風の吹き込む美術室、絵具の匂い、そして振り向いた彼女の目の美しさ。凛と伸びた背筋。そして、先ほど見た女性の、幸せそうな様子をもう一度思い浮かべる。私の知らない街でもいい。どこかで幸せでいてほしい。彼女が、彼女であって欲しい。私は、そう祈らずにはいられなかった。