表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

上京

作者: N

 高校2年の夏休み、僕は上京をしようと考えていた。

 卒業を待たず、親にも言わず、身一つで東京に今すぐにでも行ってしまおうと考えていた。

実際、東京である必要は無かった。新潟でも山形でも沖縄でも、どこでもよかった。

 この曇りがちで死んだような街から出ていきたかった。そのためにおあつらえ向きなのが「上京」という言葉だっただけだ。

 別に東京に夢を持ち込む気は無い。僕にとってそれはそういう類のものでは無かった。僕にとって、その行動が全てだった。

「ぼうっとしないでよ。ちゃんと聞いてる?」

「聞いてるよ」

「だからさ、スマホのロック外してって」

「なんで」

「浮気チェック」

「なるほどね」

 受け取った自分のスマホに0を4つ打って返す。

「つまんない暗証番号」

友紀が呟いた。そのまませっせと人のSNSをチェックしている。

 僕は今、彼女の自室のベッドに2人で潜り込みながら、背中合わせに横たわっている。

 ピンクのカーテンや、本棚に綺麗に収まる少女漫画。

 女らしい部屋の中で、僕は最初からそこにあるインテリアのような顔して横たわっている。

 最初に彼女の部屋に来た時はそわそわしたりしたものだが、人間慣れるのは早いもので、もう何も感じない。

いつ親が帰ってくるのか怯えながら行うセックスも、終わった後に何となく眺める子供用勉強机に置かれたクマのぬいぐるみも、刺激的なのは最初だけだった。

「大丈夫そうだね」

 投げられたスマホを拾って電源を点ける。0を4つ打ってもロックが解除されない。

「勝手にパス変えるなよ」

「当ててみ」

 適当に4つの数字を打ち込んでいく。

 0401、3020、5576、9268、1987。

 どれも違う。

 諦めて0824と打つ。すんなりロックが解除された。

 友紀の誕生日。最悪だ。

 セックスを終えて上機嫌な友紀は、笑いながらベッドの上で膝を抱えながらゆらゆらと揺れている。

「俺、上京するつもりなんだよね」

 その言葉は、間違いなく友紀への復讐だったと思う。

「ホントに?」

「うん」

 友紀は暫く目を丸くしたまま揺れ続けていた。やがて揺れが収まるのに合わせて僕の顔に焦点を合わせると真剣な顔になった。

「その時は私も連れてってね」

「当然」

 当然嘘だ。でも、友紀の言葉も嘘だろう。僕の言葉を真剣に受け止めてはいないような感じがした。

「あ、やば」

 不意に友紀が呟いた。

「そろそろだとは思ってたんだけど」

 ベッドに目をやると、彼女が座っていた場所に赤茶色い血が付いていた。

 友紀が慌てて隠そうと手の平で擦ると伸びて更に大きな染みになった。彼女は諦めて取り敢えず笑った。

 赤いそれは、彼女の膨らんだ白い胸や行為中の耳にこびり付く動物的な嬌声よりも、色濃く彼女の女性性を僕に思い起こさせた。

 この人は女なんだ。それを痛感して胸の中を冷めた風が通るようだった。

 染みになったその血液だけで、僕達が分かり合えない理由には十分すぎる気さえした。

「帰るよ。それ落ちるといいね」

 場を取り繕う言葉も出せないまま、僕はベッドから立ち上がった。

 ベッドの上から彼女が僕を睨んでいた。

「ねえ、本当に、本当に東京に行くんなら、絶対に連れてってよ。勝手に一人で行ったら許さないから」

 彼女の言葉は真剣で、あまりに真剣すぎて、不自然な演技臭い響きがした。僕は何も言わず、部屋を出た。

 友紀の家を出ると、外はもう日暮れだった。低く垂れ込んだ雲の隙間から、夕日がはみ出すように顔を出している。雲の腹が陽に照らされグロテスクな橙色に染まっている。

 伸びをしながら目を瞑ると、瞼の裏を透かした赤い色が見えた。それはすぐにあの赤茶色に結びつき、僕は唾を飲み込んだ。

 

 家のドアを開けると、夕飯の匂いがした。

 リビングで、父は何をするでもなくただ呆然とソファに座っていた。

 誤解を恐れずに言えば、父は小説家なのだろう。

 実際、父は一介のサラリーマンであり、一般的な社会人でしかない。それでも気質という点で、父は紛うこと無き小説家なのだと思う。

 空想に耽り、過敏な神経で無駄なことをいつまでも自問している。そんな人だった。

 僕に物心がついた頃には、既に父は僕との距離を掴みあぐねていたように思う。彼はいつでも精神的に弱者で、誰かを守るということに不得手だった。自分が守るべき存在に対して何をすればいいのか分からず、彼が取った手段は沈黙することだった。

 父の性格が分かってきたのは高校生になった辺りからで、中学生までは自分や母に無関心に見える父に怒りを覚えていた。その怒りは、父とは正反対に生活に完全に根を下ろしたような、あまりにも現実的な母親への怒りも混じっていたのかもしれないが。

 高校生になり父を理解しても、未だに彼への憤りのようなものは凝りのように残り、僕の口を重くしている。

「ただいま」

 僕の言葉に父は絞り出すように

「ああ」

 とだけ答えた。

「あ、帰ってきたの。ちょうど良かった。お兄ちゃん呼んできて!」

 母が台所から声を張り上げる。

 リビングから引き返して階段を上る。兄の部屋のドアを叩く。

「ご飯だってよ」

 沈黙。

「兄ちゃん。ご飯だって」

「……うるせえな。聞こえてるよ」

 開いたドアの向こうの闇から、兄が出てきた。また電気も点けずに漫画でも読んでいたらしい。暗がりの向こうに積まれた漫画が崩れていた。

 食卓に着けば聞こえる音は、食器が当たる音とつまらないワイドショーと、母が1人で話す世間話だけ。父は伏し目がちに箸を運び、兄は何かに苛立つように荒く箸を動かす。僕達の日常だった。

 兄は大学進学を期に一度東京に出ていた。その後地元に就職し、この家に戻ってきた。

 元々さして溌剌でもない兄は、東京から戻ってきた日いつもよりも暗い目をしていた。そして飲めもしない酒を無理矢理流し込んで酔った。泣くでも、暴れるでもない。心の中で黙って叫んでいるようだった。

 何となくリビングでテレビを眺めていた僕の隣で、赤い顔で一言だけ呟いた。

「あそこには何も無かった」

 それならあんたは、ここに何かが一つでもあると思って戻ってきたのか?

 その言葉を飲み込んで、僕はテレビの液晶を凝視していた。

 今、兄は叔父のコネで就職し、働いている。それでも彼の父親譲りの神経症的な精神は彼を突き動かすらしく、時たま会社を飛び出し、当てもなく街をさまよっては帰ってくる。

「あんた、今日も会社から逃げてきたんだってね」

 母が兄を睨みながら言った。

「義兄さんから聞いたわ。あんた、いつまでもそんな風にしているつもりなの。ヒロだって来年は受験なのよ。お兄ちゃんがそんなことでどうするの」

「うるさい!」

 癇癪を起こして兄が机を両手で叩いた。ぶるぶると手が震えている。

 父の細く鋭い神経の先端はいつでも自分自身に向いていたが、兄はそれが外に向いている。

「俺は間違っていなかった! 間違っていたのは、お前達とあの街の連中と、この国と! とにかく俺は間違ってなどいなかったのに! お前たちが!お前達のせいで俺は……」

 水を打ったように静まり返った食卓にワイドショーのコメンテーター達の笑い声がこだました。

 母は恐れていなかった。冷ややかな表情だけが張り付いている。明るく、人情もある程度解するが、最後の所で合理的で冷静な母は、実の子供に既に失敗作の烙印を押しているらしい。

 兄は「やってしまった」という様な顔にさっと変わり、リビングを飛び出してドタドタと自室に上がっていった。結局兄は父に似ているのだ。自分の臆病に対する対処が違うだけだ。

 臆病な父は黙って箸を動かし始めた。母も食事を再開する。食器の当たる音とテレビの声。これもまた日常だった。

 仕方ないとは分かっていても、父のその振る舞いは僕を苛立たせた。


 次の日、僕は駅前のCDショップにいた。試聴機に詰め込まれた新譜を何となく聴いていた。

 音楽は嫌いではなかった。寧ろ好きだ。本も読まず特に運動も好きではない僕にとって、音楽を聴くことが唯一の趣味と言っていいものなのかもしれない。気分が落ち込んだ時は夜通し音楽を聴いていれば、大体治っていた。僕はどちらかと言えば母に似ているのだろう。自分の精神の宥め方を何となく知っている。

 東京に行けば、好きなバンドのライブを見に行くこともできるだろう。

 それはあまりいい気分ではなかった。

 自分が想定する感動を上回る気がしないからだ。こうして音源を聴いている時と何も変わらない気がした。唯一の趣味すら潰えてしまうような気がするのだった。

 ヘッドホンを外して試聴機に戻す。店内に流れるアイドルグループの曲が取って代わる。この曲と僕の好きなバンドの曲、その明確な違いすら説明できそうにない。不快だった。

 気がつけば待ち合わせの時間を過ぎていた。スマホに友紀からの着信が溜まっている。

 集合場所には友紀があからさまに不機嫌な顔をして立っていた。

「ごめん、遅れた」

「遅いよ」

「だからごめんって」

「もういい」

 そう言って映画館の方へ一人で歩き、少し立ち止まって、とぼとぼと歩く僕を睨んで、また歩き出した。

 上映にはまだ時間がある。僕達はポップコーンを買って椅子に座り、ぼうっとしていた。友紀はさっきまでの不機嫌が嘘のようにキャラメル味のポップコーンを頬張っている。

「梨紗、学校辞めるんだって」

 友紀がスマホをイジりながら言った。梨沙は僕らのクラスメイトだ。夏休みの直前から学校を休んでいた。

「なんで」

「なんか、妊娠したらしい」

「堕ろさないの」

「もう無理なんだってさ」

「へえ」

「名前どうするんだろうね」

「どうなんだろう」

「いい名前つけてあげてほしいよね」

 血の重さなどは何も考えていないような声だった。羨望の響きすらあった。僕は頷くことすら出来なかった。

 映画の上映を告げるアナウンスが流れ、僕は逃げるように腰を上げた。


 映画は恐ろしくつまらなかった。よくあるお涙頂戴物で、僕は何度も船を漕いだ。有名なアイドルの主演俳優が、ヒロインとの別れを悔やんで泣いているのが、ボヤけた視界に映っている。

 ヒロインなんて他にいくらでもいるだろ。他の女と付き合えばいい。

 くだらない文句を頭の中で垂れながらあくびをしたら、涙が頬を伝った。

 照明が点いて、目が覚めた。いつの間にか映画は終わっていたらしい。横を見ると友紀が大泣きしていた。

「そんなによかった?」

「いい話だった……」

 潤んだ声で言って鼻をすする。袖が濡れてるのが見えて、笑ってしまった。その姿を、僕は素直に綺麗だと思えた。

 外に出ると、夕立があったらしい。濡れた地面が夕陽を反射して何色にも輝いている。空には夕焼けのグラデーションがよく見えた。

「いやあ、いい映画だったあ」

 満足そうに笑っている。美しかった。

 僕がこのままこの街に残れば、いつかこの人と結婚するのかもしれない。悪くない想像だった。優しい匂いがした。

 それでもそれは僕を生温い絶望に触れさせる。結局それは血の重さだった。凝固した赤黒い血の重さだった。

 どうしようもなくなってしまって、僕は美しい彼女に合わせて薄く笑った。


 彼女を家まで送った帰り道、河川敷の土手の所に宇宙爺が立っていた。

 宇宙爺とはいわゆる頭が少しおかしいただのジジイだ。いつか宇宙から侵略者が現れ、人類を滅ぼすと信じているらしい。毎日街をうろついては少年少女を捕まえて説教をすることから宇宙爺と呼ばれている。

「少年!」

 宇宙爺が僕を見つけて歩いてきた。

「いいか、あと数年もすればこの星に天からの遣いが現れるだろう。その時不浄なる者は、これ一つ残らず地獄の業火に焼かれるのだ! それが分かるのだ!私には分かるのだ! お前も気をつけなさい! 彼らは私達を既に見つけている!」

白いボロきれのタンクトップと汚れたサンダルの預言者は、唾を飛ばし飛ばし叫んだ。

「大丈夫だよ。宇宙爺。俺、この街を出ようと思うから」

何の関わりも無い人間に自分のことを話すのは容易いことなのだと分かった。

「どこに行くつもりだ?」

「東京」

 それを聞くと宇宙爺は血相を変えて地団駄を踏んだ。両腕をぶるんぶるんと振り回している。飛んでいってしまいそうだった。

「それは、いかん。いかんぞ! トーキョーはいかん! オーサカも、リューキューもいかん! ここだけが安全なのだ! なぜそれが分からん! ああ、ラッパが鳴らされるぞ!」

叫びながら僕の周りを走り回っていたが、勢い余って土手を駆け下りてそのまま川に飛び込んだ。

「ガンジス川だ。これはガンジス川! 身を清めろ! 後悔してからでは遅い! 早く清めるのだ! ああ、何も知り得ぬ者は幸いかな! 身を清めよ!」

その必死な顔は喜劇と悲劇の中間のようだった。人間の理性の隅の方にある本能に手足をつければ、丁度こんな感じになるのだろう。

 気がつけば僕も一緒に川に飛び込んでいた。

ドブ臭く淀んだ川の水は、確かにガンジス川に似ている。

「宇宙人、こないね」

僕の言葉に宇宙爺はきっと振り返って僕を睨みながら叫んだ。

「直に来る! 全ての星が十字架に並ぶ時にだ!」


 その日、家に帰ると兄はいなかった。机の上には遺書があったらしい。それは今リビングのテーブルに無造作に置かれている。いつもの事だった。

 度々兄は自殺をすると息巻いて家を飛び出す。そして死にきれず帰ってくる。

 その度兄は遺書を書いて自室の机の上に置いていく。もう何度目なのか数えるのも馬鹿らしい。

 僕は遺書を無視して、先にドブ臭い体をシャワーで流した。その間に兄を心配することは無かった。

 リビングに戻って遺書を手に取って読んでみれば、今回も書いてあることはいつもと同じだった。

 不甲斐ない自分に関する懺悔と両親への謝罪。弟の手本になれなかった謝罪。仕事を見つけてくれた叔父への謝罪。友人へ先立つことの謝罪。謝罪。謝罪。謝罪。謝罪。

 兄はボールペンで書き殴られた文章の中で平身低頭。いつもの周りを見下すような態度は影も形も無かった。しかし、兄の本質はこの遺書の方が近いのだろう。

 哀れに思った。自殺という皮を被らなければ人に対して正直になれない兄がかわいそうだった。狼少年よろしく、兄の狂言に慌てることを止めた両親の姿が輪にかけて兄の不憫さを感じさせた。

「兄ちゃんのこと、探してこようか?」

 僕の言葉に母は

「いいのよ。どうせ帰ってくるんだから。夕飯出来てるから、食べましょう」

 と平坦に返した。

 テーブルには既に唐揚げを乗せた皿があった。兄の好物なのにもったいない。

 父はまるで何事も無いかのような顔で席に着いていた。僕も座った。

 また、いつもの音が部屋を支配していた。

 兄の不在は、日常を破壊することさえ出来ていないように見えた。しかし、父親がふと、口を開いた。

 僕が唐揚げを取って一口食べた時だった。

「うまいか?」

 一言だけだった。

 それは父の細い針金のような神経を感じさせた。薄氷を踏むような脆さが、僕の手の動きを止めた。父の精一杯だった。

 兄の不在が影響を与えたのかは分からない。なぜこんなことを聞こうと思ったのか分からない。それでもその言葉は父親の言葉だった。

「うまいよ」

 僕は、それだけ返した。僕にもこれが精一杯だった。息子という立場に慣れていなかった。

「そうか」

 父はまた元のように黙って食事を再開した。

 長年の父への苛立ちが消えていた。僕の中で一つの反抗期とでも呼べるものが終わったのが分かった。

 今夜この街を出よう。もう残したものは無い。そう思った。

 

 深夜、両親が寝静まった頃、僕はボストンバッグに衣類を詰め込んでいた。財布の中には、アルバイトで稼いだなけなしの金が入っている。東京に向かう高速バスに乗るには、そろそろ家を出ないといけない。

 元々殺風景な僕の部屋は、持っていくものもほとんど無い。変わらない部屋に、感慨も何も感じなかった。

 ボストンバッグを抱えて家を出る時、一瞬だけ両親のことが頭をよぎった。書置きでも残して置こうかと思ったが、やめた。そんなことは演技派の人間のすることだろう。僕には性にあわない。

 人通りの絶えた夜の街は門出と言うにはあまりにも陰鬱で、さながら夜逃げだった。

 名前を知らないあのドブ川に沿って歩いていく。月明かりを鈍く反射して輝き、無理をして着飾っている。

 川の反対側の道路の向こうに眠る公園のベンチに、兄が座っていた。

 何もせず、ただ空を眺めていた。やっぱり今回もダメだったようだ。

「兄ちゃん」

 ベンチの後ろに立ち、何となく呼びかけていた。

 兄は首だけを回して僕の顔を見た。一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにまた呆けたような顔に戻ってしまった。

「ヒロか……」

「帰らないの?」

「俺を探しに来た、訳じゃ、ないんだろうな。その荷物は、どうしたんだ」

 兄は息切れでもしているかのように苦しそうに一語一語を発音した。

「東京に行く」

 兄は僕から顔を逸らし、項垂れた。

「そうか。お前も……。かわいそうに。お前も、同じなんだな。すまない。悲しいことなんだ。お前のその気持ちだって、感覚だって、全て悲しいんだよ。俺達は、なんて、どうしようもないんだ」

 ぶつぶつと呟き続けている。

 僕は公園の中で唯一仄暗く光っている自販機からコーラを一本買って、兄に手渡した。

「兄ちゃん、ちゃんと家に帰れよ。皆心配してるから」

 兄はコーラを飲まずに、握りしめていた。

「ああ、分かったよ。帰るよ。お前は、ヒロ。お前は……。いや、もうどうしようもないのか……」

 夜空を写したような虚ろな目が、地面を見つめていた。

 僕は兄を残してその場を去った。僕等らしい決別だった。

 

 夜行バスは、すんなりと駅前のバス停にやってきた。ここから乗るのは僕だけだった。この街に別れの挨拶をしようにも空虚な感じがして、僕はずっとイヤホンを刺して音楽を聴いて、バスを待っていた。

 バスの運転手に金を払って座席に着く。全てがあっけなく、拍子抜けの感じがする。

 バスが発車した。眠る街から抜け出す。

 0824。

 友紀の誕生日でスマホのロックを解除して、友紀の連絡先を消した。

 彼女の誕生日まであと少しだった。ただそれだけの罪悪感が胸の底に流れた。彼女は僕を恨むだろうか。きっと恨むだろう。しかし、その恨みは長く続かないに違いない。また新しい男を見つけるはずだ。その想像は爽快で、僕の罪悪感を少し薄めた。

 ため息を一つして座席を倒すと、後ろから舌打ちが聞こえてきた。

 無視してイヤホンを刺すと、売れないバンドの売れない曲が流れ始める。僕はこのバンドのライブを見にいくのだろうか。

 友紀の顔や、父親の言葉、兄の目などを思い出していた。しかしそれらは連続する街灯の灯りに削ぎ取られていき、いつの間にか僕の中から剥がれ落ちていった。

 最後に残ったのはあのドブ川の風景。

 夕陽を受け止めようと待ち構える水面や、赤く燃える芝生。鼻を突く臭いと、あの浮浪者の声。

 きっとあそこは僕にとって聖地になったのだろう。それだけが分かった。

 東京で暮らせば金はすぐに無くなるだろう。その時は日雇いでも繰り返して生きていけばいい。まだ僕には可能性が残っていた。

 もしも東京が気に入らなければ、別の街に行こう。どこでもいい。日本中を回って、生きていけばいい。血の重さに耐えられない僕にはそういう生き方がいいような気さえする。

 僕は、敗北した兄でもなく、生まれた場所で死ぬと決めている女でもなく、内向的な父親でもない。僕はまだ何者でなかった。

 そして、この方向を見失った自分だけが、生活を突き動かすエネルギーなのだと悟った。

 夜行バスは、高速に入り急速にあの街を置き去りにしていく。

 僕はもうあの街のことを忘れ、深い眠りに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ