柳津陽斗と夏休み
七月下旬。夏休み真っただ中。
シャーシャーとクマゼミが、このクソ暑い中元気よく鳴いている。
閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声
思わず芭蕉の一句を口ずさむ。それくらいセミの声が聞こえていた。
これはどこかで聞いた話だが、セミの鳴き声は求愛行動の一種なのだという。セミの寿命はおおよそ一か月。限られた時間の中で次の生命を残すために、オスはメスを一生懸命呼んでいるのだとか。
毎日暑い中必死に鳴いてパートナーを探す……。いやぁ涙ぐましい。
一種のナンパみたいなもんだろう。夏になると海で女の子に声をかけまくる陽キャが大量発生するが、アレと凡そ変わらないんじゃないだろうか。いや全然違うか。違うね。
セミですら頑張って求愛行動してんのに、一方の俺はというと……。クーラーがガンガンに効いた自室のベッドで横になって、スマホでネットサーフィン中である。
いやまあこれはね。別に頑張ってないとかそういうのじゃなくて、単純に夏休みを満喫しようというかね。せっかくの休みなんだから心行くまでゴロゴロしようという一種の休息行動なわけで。
決して俺が自堕落なわけではないのだ。もちろんやることがないわけでも友達が少ないわけでも彼女がいないわけでも無いことは、誤解の無いようはっきりここに宣言しておこう。……最後の二つ本当かなぁ?
まあ実際、やるべきことは大いにある。
例えば学校の課題。机の上には大量のプリントやら問題集やらが文字通り山積みとなっていた。
これらの課題をこなす事こそ、学校が俺に求めている「やるべきこと」なわけだ。
だが、あの課題の山を消化しようという気概が、俺にはロクに備わっていなかった。
別に勉強が嫌いだとか他にやりたいことがあるだとか、あるいは学校に対する反抗精神があるだとか、そういうのではない。ただ普通に、やる気が出ないだけの話だ。
だからこうして、ベッドに横たわりつつ不毛な時間を過ごし……机の方を見てため息をこぼしている。
「…………はぁ」
――さて、あの課題の山をどうしたものか。
俺が通う忠節高校は、自称とはいえそこそこの進学校である。文武両道を掲げているが故に部活動が盛んなことで有名だが、勉強が厳しいことでもその名を知られている。
前期と後期それぞれで実施される定期考査はもちろん、年内二回ないしは三回行われる実力試験に、受験必須の外部模試。そして、長期休暇明けの課題試験が生徒には課せられている。
まあ試験が多いことについては何ら文句はない。実力試験や校外模試は成績評価の対象ではないし、試験が行われた日はその種類にかかわらず早帰りとなるため、時間的拘束はかえって少なくなる。事前の対策が不要な試験であれば歓迎したいくらいだし、むしろ毎日やってほしいまである。それはさすがに言い過ぎかもしれないが……。
――ただし定期考査と課題試験、てめーらはダメだ。
もちろんこれらの試験結果はすべてデータとして纏められ、三者懇談という名の地☆獄でお披露目される。……中学時代はよく母親を怒らせたものだ。空気がぴりつくたびに針の山を歩いてるんじゃねえかってくらい沈黙が肌に刺さるし、教室から出てすぐに母親が般若みたいな形相で俺に迫ってくるし、一瞬本当に地獄に来ちゃったのかと思うくらいには地獄だった。
まあそういうわけで、課題試験はそこそこの成績を出さなければまた痛い目を見ることになる。故に、課題をマジメにこなすことは俺にとって重要だ。
体を起こし、時計を見る。午後一時を過ぎたところ。
机の上にある一冊に手を伸ばし、パラパラと繰る。とても一日で終わる量じゃない……。そりゃそうか。夏休みの課題なんだし。
アホなことを考えつつ、俺が次に手に取ったのはプリントではなく、ドアノブ。
え? いや、だってね……? この部屋にいるとなんか憂鬱な気分になるし……。
大量の課題と一緒の部屋にいられるか! 俺はリビングにいかせてもらう! とかビンビンに死亡フラグを立てつつ、本当にリビングへ。ちなみにこのフラグは後でちゃんと回収されます。
階段を下りてリビングの扉を開けると、そこにはいつもの顔があった。
「よう」
「……兄ちゃん。いま何時だと思ってんの?」
眉間にしわを寄せ、まるでゴミを見るかのような目で俺を睨む少女。我が妹、柳津遥香である。
「別にいいだろ、夏休みなんだし」
「だからって怠惰にも限度があるんだけど。よくこんな時間まで寝てられるよね?」
「そりゃ俺には何の予定もないからな……。もしかして友達も彼女も満足にいない俺への遠回しな悪口か!?」
「…………何言ってんの。きしょ」
遥香は呆れた顔で視線を逸らしてしまう。最後に割とガチ目のトーンで「死ねよ」とか言われていた。そうでした。こいつはむしろ悪口とか直球で言うタイプの人間でした。
お察しの通り、遥香はどちらかというと言いたいことは言うタイプの性格だ。隠し事をしない、とまでは言わないが、基本的に思っていることは言わないと気が済まない方だろう。
その性格を良いか悪いかで捉えるのは人それぞれだが、少なくとも俺にとっては弊害でしかない。……たまには「お兄ちゃんかっこいい!」とか言えねえのかな、こいつ。言いたい放題思ったこと喋りやがって。お世辞もマトモに言えないようじゃ世の中渡っていけねえぞ? お世辞なのかよ。
妹の罵詈にちょっぴり傷つきながら、俺はキッチンの方へと向かう。
「あれ。俺の昼飯は?」
いつもならこの辺に用意されているはずなんだが。
「はぁ? ご飯なんて無いけど」
「…………無い? なんで?」
「なんで、って……。今日ママもパパも仕事だし」
「仕事……って。あ、ああ。そっか。そういえば社会人って夏休み無いんだっけ」
忘れていた。夏休みがあるのは大学生までだということを……。幼少のころから夏には夏休みがあると英才教育を受けているので、ちゃんと意識しておかないと社会人になってからもうっかり休んでしまいそうである。気を付けないと……。
「じゃあ俺の飯は? まさか、お前が作ってくれてたり、なんて――」
「――作るわけないでしょそんなの。買いに行けば?」
なんか知らんが怒られてしまった。いやでもお前。一週間くらい前に料理(をしている振り)の勉強するとか言ってなかったっけ?
しかし遥香が俺のために飯を作ってくれるなんて微塵も思っていなかったのでこの返答は想定内だ。
「それならいっそ飯でも食いに行くか……。お前はどうする? 一緒に来るか?」
俺がそう言うと、遥香がハッとした様子でこちらを見た。今となっては仲の悪い俺たちだが、昔はよく一緒に近くのコンビニまで行って、暑い中アイスを分け合いっこしたりしたもんだ。たまにならこいつと外食するのも悪くないだろう。飯くらいならおごってやらないこともない。
……とか、昔の思い出に浸っていると。
「――いい。兄ちゃんとご飯行くくらいなら友達と行くし」
「あそうですか」
ものすごい低いトーンの声で、俺の提案は却下された。
ほんと可愛くねえな、こいつ。妹としてどうなんだこれ。もしここが二次元の世界だったらお前妹失格だぞ。マジで。
「外行くならついでにアイスも買ってきて。よろしくー」
ついでに三次元的にも失格にしてやりたい、この女……。
でも普通に考えて一番の失格者は俺だよね……。主に人間的な意味で。
――夏休み十日目。これといって俺の夏休みに予定はない。あるのは一切手を付けていない課題だけである。