夏の夜風に惑う
雲行きはさらに怪しく――
「お呼び立てして申し訳ないっす……」
――力のない声だ。
そこにいたのは紛れもなく過去の相談者である犬山創太。だが悄然とした様子の彼からは一切の覇気を感じない。
憔悴しきっているかのような、呆然としているかのような……まるで魂が抜けているみたいに、彼は足元を見つめている。いずれにせよ、そこで待っていたのは俺の知っている犬山創太とは違う姿だった。
思わず、声を掛ける。
「んん、ええと……どうした」
もう少し気の利いた言葉があったかもしれないが仕方ない。いきなりこんな状況の中に連れてこられた俺も戸惑う他ないのだ。犬山が待っていることさえ知らなかったし、未だに状況の全容を把握しきれていない。
続けて何か言葉を探してみるが上手い台詞は思いつかなかった。俺と犬山が互いに無言を決め込んでいると、横から助け船が入った。
「――私から説明するわ」
そう口を切る加納の表情は真剣そのものだ。犬山の手前、表モードということもあって声こそ普段よりかは明るいが、それにしても言葉に重みがあるようで身構えてしまう。鳴海も口を噤んだまま神妙な面持ちで加納の方を見ている。こいつら二人は既に何か聞いているのだろう。
にしたって何があったというのか。未だに見当がつかない。
やけに空気が張り詰めていた。頬に冷や汗が伝う。
なんだろう。このタイミングで「やーい、ひっかかった、ひっかかった! 残念っ! これはシリアスドッキリでしたー」みたいな展開が起きたら思わず脱帽しちゃうくらいにはシリアスな雰囲気だった。シリアスドッキリってなんだよ。
――風が吹く。
夏の夜に吹く風は妙に生暖かい。土の匂いと草木の匂いに、湿っぽさが絡まって決して離れることはないみたいだった。
少しだけ強く吹いた夜の風は、加納の髪を無造作に靡かせる。
たぶん、その姿を全員が見ていた。
「――別れたのよ。犬山君と小牧さんが」
「…………は?」
声が漏れた。
口を衝いた。
加納の言ったその言葉の意味を理解するのに、そう時間はかからない。
けれど、その言葉の意味を呑み込むことができなかった。
――犬山と小牧が、別れた?
「は? え?」
驚きは隠せていなかったと思う。隠そうとも思わなかった。
「なんで、そんなことに……」
心の底から溢れ出てしまったかのように、そんな言葉が出る。
だが、その問いに答える者はいない。
「…………」
加納はじっと俺の方を見ている。その視線に気付くや否や、加納は首をくいっと動かして見せた。……直接本人に聞け、ということらしい。
犬山の方に向き直って、相対する。
妙な緊張感が、凍り付くような空気感が、その場に佇んでいる。
また風が吹き抜けた。
けれど、押し潰されそうな重たい空気をどこかへ飛ばしてくれるわけではない。
返事が返ってきたのは、しばらく経ってからだった。
「……俺も分からないんだ。突然だったから。今日、別れてほしいって」
「そんなことって……」
ほとんど反射的に声が漏れる。……いや、だって。そんなことがあるのだろうか。水族館の時は、あれだけ仲睦まじく一緒に居たというのに、だ。
あまりにも突然すぎる話だった。
「てか、お前は……。その、小牧の提案を、受け入れたのか……?」
「もちろん最初は反対したよ……」
弱々しく紡がれる犬山の声と、力いっぱい握られた犬山の拳。
「でも、陽菜はすげえ真剣そうな目で、言うんだよっ……」
犬山は顔を真っ赤にして、絞り出すようにして、言葉を継ぐ。
「…………『別れてください』って」
ほとんど掠れた声。犬山は言い終えると唇をぐっと噛んで俯く。
切歯扼腕する彼の姿は、犬山の悔しさの具現に違いなくて。
もちろん犬山の気持ち全てが俺に分かるわけではないが……。
でも、彼の計り知れぬやるせなさの表れなんじゃないかと、思わずにはいられなくて。
「…………」
だからだろうか。
犬山の言葉を聞いたその瞬間から、もどかしさのような苛立ちのような。
心の中でいろいろな感情がぶつかって、せめぎ合って。
犬山の気持ちを分かりたいと。
分かってやらねばならまいと。
そう思えて……。
「…………」
――分からないのは小牧の方だ。
俺がこれまでに見てきた犬山と小牧、二人の関係。
そこに綻びや障壁は無いように思えた。
仲睦まじく、初々しく恋を語り、新しい未来に思いを馳せている、誰もが羨ましがる恋人同士だと、そう思っていた。
偽りも、欺きも、暗鬱も隠蔽も、何も無いと思っていたのだ。
二人の関係を否定するようなことも無ければ、その要因となり得ることさえないものだと、どこかでそう勘違いしていた。
――果たして、現実は違ったのだろうか。
小牧は犬山に別れを申し込んだという。
これが事実だとしたら、二人の関係は途中から……、いや、もしかしたら最初から何か大事なものを欠いたままだったということになる。
二人の関係を脅かす何かがあった。あるいはどうしても譲れないものがあった。
それが何なのか、外的要因なのか、避けられない運命なのか、積み重なった小さな綻びの結果なのか、あるいは理解しがたい思想や信念なのか。
分からない。
分からないが。
小牧に何か守りたいものがあったのだとしたら。
恋人という関係を壊してまで、壊したくないものがあったとしたら。
それを見落としているのだとしたら。
俺は――
「…………あ」
漏れ出た声。
視界の端に映る暗澹。
それは一瞬の気付きだった。
――ふと、思った。
今までに、こういうことが何度かあった。
違和感だ。
これまでに何度か抱いてきた、違和感。その違和感が向かう先を。違和感の正体を。
その答えを、彼女は知っているのだろうか。
「鳴海」
俯いていて、まるで何かを堪えるようにして、その場に立つ少女が一人。
視線が、合う。
「…………え」
小さく驚いた様子の彼女に、俺はゆっくりと声を掛けた。
「――お前、何か隠してるんじゃないか」




