柳津遥香は悩まない
恋愛は必ずしも素晴らしいものでしょうか。
「あ、あーね。失恋ね。そっかー。失恋か……」
思いがけぬ相談内容にさすがの俺も顔が引きつってしまった。……おいマジかよ。よりにもよって恋愛相談だったよ? しかも失恋しちゃったとか、一番重めのやつだ。どうすんのこれ。俺てっきり痩せたいだとかお金欲しいだとかそういうしょうもねえ悩みだと思ってたんだけど!?
まさか妹から恋愛相談が来るだなんて思いもしなかった。いやどう考えてもこれは手に負えないでしょ。なんだよ、彼氏と別れたって。何も言うことねえよ?
ここは戦略的撤退が吉と見た。
「そ、そっかー。まぁ誰しも失恋は経験するもんだよな。うんうん。……そろそろ風呂に入ってくる」
「――待って」
「な、なんすか……」
立ち上がってリビングを後にしようとする俺だったが、遥香が服の裾を引っ張ってこれを制止する。
「もう打ち明けたんだから、話の続き聞いてよ」
「い、いやでもお前、それを俺に相談するか普通?」
「なんでよ。兄ちゃんが解決してやるって言ったから、相談したんだけど」
――まあ確かに。
いやでもねぇ……。さすがに妹の失恋相談って。どうなのこれ。なんだか恥ずかしいというかむず痒いというか。聞いてるだけで蕁麻疹が出そうだった。
「だからってお前――」
「――私だって兄ちゃんに頼るなんてホントは嫌だよ? ……ホントは嫌なんだけど、でも、兄ちゃんがどうしても相談乗りたいって言うから、仕方なく、しょうがなく、最大限譲歩して、反吐を吐いたの」
「おい間違ってる。目的語が間違ってるから。本音が出ちゃってるから。……反吐を吐くな。悩みを吐き出せ」
こいつ俺を頼りたいのかバカにしたいのかどっちなんだよ……。
俺は反吐やら毒やらを吐く遥香の方をキッと睨みつけるが、当の本人は俺のことを歯牙にもかけない様子だった。
少しの間を置いてから、遥香は相談の続きを話し始める。
「……すごい好きな人だった。でも彼氏とはよく喧嘩もして、口を利かない日もたくさんあった。そういう日の積み重ねが溜まってたんだろうね……。私たちは大げんかして、仲直りすることも無くて、そのまま別れちゃった」
遥香はそう言い終えると小さく笑った。
ソファに深く腰掛けて膝を両手で抱えると、ふーっと乾いたため息をこぼして、それから俺の様子を窺うようにしてこちらを一瞥する。
「だから別に相談って程じゃないよ。むしろ相談することなんて何もないんだから」
まるで自重するかのような笑みを浮かべた遥香は、「あーあ」とわざとらしい声を上げてみせる。
「こういう相談ってさ、何か悩むことがあればそれはそれで救われると思うんだよね。だってその悩みを解決するために模索すればいいんだから。……でも、終わっちゃったこと、取り返しのつかないことはどうしようもないんだよね。それが、本当にもどかしくて、じれったい」
――その声はどこか弱々しい。
「兄ちゃんに、私の悩みが解決できる?」
まるで試すかのように、挑発するかのように。
遥香は何かを諦めたかのような声音で俺にそう尋ねる。
終わってしまったこと――というのはつまり、遥香の恋愛を指しているのだろう。
彼氏と別れてしまった今、遥香は悩むことすら出来なくなってしまったのだという。
恋愛の悩みは人それぞれだ。彼氏へのプレゼントの内容、ラインの返事の文面、告白するタイミングに、円満に収まる上手な別れ文句……。そのどれもが、すべて等しく悩みという煩いに区分される。
感情の揺れ動きを何かのせいにすることはとても楽だから……、誰もが悩みを抱えて嘆いているのは、きっと自分は悩んでいるから、なんていうフレーズで救われることを知っているからなのだろう。
――でも、遥香は違う。
彼女には悩むべきことが存在しない。自分の感情のやり場が存在しない。何のせいにもできないし、何かを嘆くこともできない。
それはとても、苦しいことなのだと思う。
「お前は、その彼氏のことが今でも好きなのか?」
「……さぁね。たぶん好きじゃない……、と思う。もう別れちゃったし、あの人とはしばらく会う気も起こらないかな」
遥香の間延びした声を横で聞きながら、俺は小さく息を吐く。
「お前は彼氏に未練があるわけでもない。その彼氏との別れに一応納得もしている」
「そうだね」
「だからお前は悩みを抱えられない……ってことか」
「んん……まあそういうこと? よく分かんないけど」
俺の解釈を聞いた遥香がいつもの適当な声で笑った。いや、俺も喋ってて何を言ってるのかよく分かってないんだけど……。
つまりなんだ、こいつは悩みが無いことに悩んでいるというか、失恋したことに実は傷ついているんだけど別れたことに納得もしているから傷つくための悪役が用意できないというか……。うーん。つたわれ。
「まあつまりだな……。お前は何も悩めないんだろ。悩めないことに悩んでいる。彼氏と別れた悲痛な気持ちをただ享受することは簡単でも、その気持ちが向かうべき行き場は用意できないってことなんじゃねえの」
「うーん、なんかよく分かんないけど、そういうことなのかなぁ……」
納得しているのかしていないのか……。退屈そうに生返事をした遥香はかぁっと大きなあくびを漏らして二の句を継ぐ。
「なんかさ、今は心にぽっかり穴が開いてるみたいなんだよね。それを埋めようとしても絶対に埋まることは無いし、かえって開いてた穴が目立っちゃう気もする」
それは言葉で表すなら、空虚だとか虚しさだとか、そういうものなんだろうが、遥香の言う心の穴というのは彼女曰く、埋められないのだという。
心に空いた穴を埋めてくれるのは何だろうか。きっと楽しい事とか充実感溢れる毎日だとか、そういうもので埋められるのだろう。
でも、遥香の心は埋められない。
「ああそうか……。お前はつまり――」
出かけた言葉を飲み込む。
これを答えというかは分からない。だが、きっと遥香の本当の願いを表しているような気がしてならなかった。
でも、それが叶わないことを、きっと遥香は承知しているのだろう。
言葉を飲み込んだのは、きっと俺もそれが叶わないことに気付いたからだと思う。
「お前は、『元に戻りたい』のか?」
何をもって、『元に戻る』というのか。俺には分からない。
遥香の歩んできた恋愛事情を一片も知らない俺にとって、もはやそこは推測の域を出ることはない。
遥香の願いは、何も彼氏との復縁でも、彼氏への復讐でも、あるいは負わされた悲しみを取り払ってもらうことでもない。
心の穴を埋めるには、心の穴が開く前に戻ることでしか埋められないのだとしたら。
彼女の願いは、
ただ、元に戻ること――
「……ははっ」
乾いた笑いが部屋に響く。
ソファから立ち上がった遥香が、苦々しい笑みを浮かべて俺の方を見る。
遥香の眼差しを感じている間は、時間が停滞しているように思えた。
「元に戻る、か……」
それだけ呟いて、遥香はリビングの扉の方へと歩みを進める。
重々しく、けれど確かに一歩一歩は前へと進んでいく。
「おかしいよね。恋愛ってすごく素敵なことだってみんなは言うけど、別れちゃった後は絶対に治らない傷が残るんだからさ。そんな残酷なことをそれでも素敵だって言えるなら、どんなに私は救われるんだろうね……?」
また自嘲するような笑い声を上げて、遥香は扉を開いた。
「戻れないよ……。私たちは」
知っている。俺も遥香も。
恋が実ったその先は、ただ落ちていくだけだということを。
二人の間に生まれた軋轢がどうしようもなく治らないことを。
「――もう、別れたんだから」
だから柳津遥香は、悩めない。




